第18話 過去 十六 下男の律之

 明継は宮廷の仕事部屋に戻った。

 個室でグラグラする頭を整理する。しかし、整理されない侭紅の顔が頭を掠める。

 落ち着こうとして文机の椅子に座りながら、息をした。心の臓から大量の血液を循環させるべく、脈打っている。


「伊藤殿、いらっしゃりますか。」


 扉の前から声がする。

 彼はゆっくりと立ち上がり、息を整えるように吐き出した。其して、扉を開く。


 洋服姿の律之りつのが、立っていた。


「中に入っても、宜しいですか……。」


 明継は無言で扉の開閉を広くし、招き入れた。律之が音もなく、部屋へ滑り込んでくる。


「逃げてくれませんか……。」

 

 明継は言葉の意味が分からず、無反応になった。

 其の姿を見た律之は明継の腕をひっぱり、部屋の角へと移動した侭立ち話をした。


 明継は首を傾げた。

 話の脈略が分からず、困惑してしまう。恐る恐る聞き返した。


「どう云う意味だい……。」


 律之は文を差し出し、明継の目の前に差し出す。

 表には、墨で 『紅へ』と書いてある。


「|此方をこうに。」


 律之は明継の背広のかくしに、文を無理やり入れた。彼は拒むことなく、背広を正した。

 律之の必死な眼差しに困惑よりも、紅に伝えなくては……と云う気持ちになった。


「説明出来ませんが、慶吾隊が動いています。一人で逃げてくれませんか……。」


 律之は、只、明継に意見も聞かず、話を進めた。


「|何処へ……。」


 明継の率直な疑問だった。宮廷で既に、噂が広まっている。彼は、又頭がグラグラするのを覚えた。


「姿を隠すだけでもいい。天都てんとから出て、遠くへ行って下さい。」


 明継は、視線を泳がせた。

 紅の顔が浮かび、其の表情は、儚げで、淡い。笑ってくれている。


「嫌、駄目だ。独りでは、逃げられない……。」


 律之は、明継のかくしを背広の上から、手を当てた。

 紅宛の文を、背広の上から擦る。


「……佐波さわ様からの命令です。」


 聞き慣れた単語だった。

 位の高い人物の意図が解らない。佐波の使いで、律之が遣わされたのだろうか……と明継は思った。


「佐波様の……。律之さん…貴方は…。」


 『律之さんは何者ですか。』と明継は問いただしたかった。


「此れをお使いください。独りなら貨物船に、今日でも乗れるでしょう。」


 律之は、又明継のかくしに、袋を押し込んだ。


「待ってくれ。佐波様の命令でも聞けないよ。独りで逃げる訳にはいかない。」


 かくしに入ってるのは、其れなりのお金だろう。紙の金なら尚の事だ。

 見えない内の其れは、物で一杯になった。


「紅の事を気に掛けているなら、大丈夫です。」


 明継の顔を、真正面から、律之が見詰めた。

 |其所には、嘘を着いていない律之の瞳があった。


「律之さんは、紅の事を知ってるのかい……。では何故、今まで黙っていたのですか。」


 律之が、下唇を|噛み締めた。

 表情が幾分、曇っている。


「佐波様からの命令です。…………自然に振る舞うように命令されていました。」


「監視ですか……。」


 明継の端的な会話に、律之が驚いて要るようだった。必死な表情をしている。


「違います。二人を守るためです。紅からの文だけでは、分からない真実を知るためです。」


 明継の瞳が曇った。

 律之は明継の何を見ていて、其の用な言葉を発したのか疑問に思った。


「真実……とは……。何の事だい……。」


 律之が下唇を噛み締めている。少し傷付いた様な、辛そうな表情をしている。


「御二人が幸せかどうかです。」


 律之の表情が困惑している。

 先程発した言葉が適切か、どうかを考えているようだった。


「えっ。どう云う意味ですか。」


 明継は予想外の言葉に、首を捻った。


「……。」


 律之は伏し目がちに、視線を泳がせる。

 其の言葉の意味を正しく伝えるのは難しい……と、律之が唇を噛み締めた。


 だが、明継は直ぐに理解出来た。微笑みなから、紅の顔を思い出す。


「私は十分、幸せでした。」


 律之の顔色が、蒼白になる。

 明継が発した言葉の意味を的確に理解した。


「しかし、其れでは駄目です。生きなくては……、佐波様が全て、後は何とかします。信じて下さい。必ず悪いようにはしません。」


 律之が明継の手を握った。

 包帯を見詰め、明継の顔色を伺った。


「何故怪我をしているのですか……。」


 明継は自分を冷笑した。経緯まで話すつもりもないが、馬鹿な事をした。もう一人逃げられる訳がない……と嘲りの表情をした。


「紅を失いたく無くて自分で自分を傷付けました。紅の存在は其れ程、大きいのです。佐波様の気持ちは有難いです。でも、其では紅と離ればなれになる。意味がありません。」


 律之はぶんぶんと首を振り、悲痛な声に変わる。


「一時的な物です。信じて下さい。悪いようにはしません。」


 律之の手から痛い程の想いが伝わる。佐波の命令の指示だけではなく、個人の感情も入れてるようだった。




 扉のノックがしてから、明継が声を発する間もなく直ぐに開く。

 部屋の返答を待たずして、男が入って来た。


 明継は其の顔に見覚えがある。

 佐波が、一度、家に文を渡しに来た男だった。

 佐波の成人の儀が、早まった事を知らせる文。


「|其処らで宜しいかと……。」


 男は律之の肩に手を当てると、明継から遠ざけた。

 まるで、汚い物から遠ざけるように。


「伊藤殿。半田 一郎はんだ いちろうと申します。此の事は、内密に御願いします。」


 律之は半田を前に、明継に話掛けようとした。


 半田は、律之を静止するように明継の前に立ち塞がる。

 半田は踵を返し律之を連れて行く。

 何かを云いたげな律之を無視して、部屋を出るか、出ないかの所へで、首だけを此方に向ける。


「紅に……。律之が伝えたと、知らせ下さい。」と律之は必死で伝えた。


 扉が、音を立てて閉まる。

 二人が居なくなった部屋が静まり返った。

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