倫敦 時折、春 〜君に辿りつくための物語〜

木村空。

第2話 過去一

 窓の外には、文明開化の象徴の二十三階が見える。

 の美しい風貌フウボウとは裏腹に今にも泣き出さんばかりの空が、心を憂鬱にした。

 気持ちを晴らす為視線を下に降ろす。多くの人々の心は浮き足立っている空気で大地をハイズっているのだった。


 洋風の外観を持つ煉瓦レンガ造りの街並みにモダンな瓦斯灯ガストウが夜でもないのに薄暗くなった鉄道馬車テツドウバシャなどを照らしていた。

 早足で立ち去って行く人の群れを、タダ考える事のなく見詰めていた。


「何か、珍しい物でも……。」


 の男の声に返事をせず硝子窓ガラスマドに張付く様に近づいていた為、外気の冷たさが伝わって腕の皮膚を擦る。

 声を掛けた男を確認してこうは、真後ろにある椅子に腰を下ろし読み欠けの小説をヒザに乗せた。そうして、重たく口を開いた。


イイエ何時イツもの通りです。」


 近頃出来た家の上を行き交う電気を運ぶ電線が、とてもミニクく見えて、でも其れを口に出すのはハバカられた。


「先生。何時もよりお早いのですね。」


 紅は手の上で遊ばせた枝折シオリをもう一度本に挟んだ。


「ええ……。」


 言葉少なに黒のフロックコートと山高帽ヤマタカボウを上着掛けに掛け、黒光りしたドアの横の蓄音機チクオンキイジっている。

 心地よく流行歌が流れて来た。の男は歩みを進める。白のワイシャツが凛々しい。


 紳士的にこうの正面にある肘掛け座椅子ヒジカケイスに深々と座った。


「では、今日何をしていたのですか。」


 何時もの日課の話題を振った男。

 キッチリと首周りを締め付けていたネクタイを、脱ぎ捨てて背凭れセモタレに引っ掛けた。


「其れでは、シワが寄りますよ。先生。えもん掛けに掛けて置きますから……。」


 紅はすみませんと面目なさそうに会釈エシャクする男からネクタイを受け取り、場所にしまいにいった。


 蓄音機の音の所為セイか、先生と呼ばれた明継あきつぐが居る部屋と、こうが居る部屋が違えているように覗き込んだ。



 窓の前の定位置の席に戻ると紅は、伏せてあった椅子イスの上の本を拾いあげ再び腰を落ち着けた。

 

 紅の帰りを待っていたかの様に目をツムって、胸元で手を組んでいた明継が、溜息タメイキを吐いてから目を開ける。


「話を戻しますが……。今日は何をしていたのですか。」


 明継は日本人に似つかわしくない腫持ハレモノモのない白肌が育ちの良さを物語っていた。

 キリリと持ち上がった凛々リリしいマユや、長いマツゲは西洋人と退けを取らない。

 の上背丈セタケも高く、指の長さは極めて美しい。優美な振る舞いと二十六歳と云う中途半端な年齢、ユエ大雑把オオザッパな性格が愛敬アイキョウになっていた。


木蓮もくれんの花が咲き乱れているのを見ました。もう春なのだなと実感しました。」


 紅は明継の言葉の問に、今日一番印象が残った事を話した。明継に伝えようと思って今まで忘れまいとしていたのに、今思い付いたように勿体モッタエぶってった。


「専攻が自然ではないので良く分からないが……。何処ドコの窓から見かけたのです。」


 この二人のいる部屋は大通りに面しているので等身大の窓が三つほどある。日当たりも良く居間として利用している。

 紅はとても部屋が気に入りで、明継の書斎ショサイから本を数冊持ち出して貰っては、読みフケっているのが日課だった。


「左横の小さな硝子窓ガラスマドから……。御隣の庭先に咲いていました。今日は薄暗かったので、の白さを一層引き立てていました。でもナガめていると……。」


 紅は其れ以上言葉をハッしなかった。りズボンの肩紐カタヒモを憂鬱そうに触る紅。


「日本建築といっても此処ココら一帯は西洋風になっていますし……。大通りを挟んでいる分、住宅が密集している為、自然が見え難い。隙間に咲いた花々では味気アジケないでしょう……。」


 紅は味気ないの言葉に首を横に振った。


イヤ此処ココからは人力車ジンリキシャや人の往来が激しいので、露台ろだいに出なくても人の表情が見えます。花は『美しい』で終ってしまいますが、人を見ていると飽きません。其れに、先生の本や音楽、楽しい事も沢山あります。」


 一生懸命に紅は明継にツタえ様としていた。しかし、明継は憂かない顔で紅を見詰めていた。


 紅は大きな瞳を一層見開イッソウミヒラキき、先生を不快フカイにさせてはいけないと必死になって食い下がった。

 だが、明継には余計ヨケイの違和感のある動きが心苦しくさせた。


「先生の語る御話もとても楽しいです。先生とる時間の全てが勉強になります。」


「しかし、其れでは……。」


 苦味ニガミを持った笑みを作る明継。


「先生は良く昔、おっしゃりましたよね。此処コチラでは君も自由だと……。」


「えぇ……。」


 煉瓦造レンガヅクりの洋風建築は事の他、気まずくなると声を反響させた。


「其れに私は、此処ココに居とう御座います。」


 紅は、強い口調で云って退けた。

 余りの真剣さに可笑しくなった明継。

溜息を吐く様に微笑する。小馬鹿コバカにした訳ではなく紅に対する愛おしさがアフレれた。


「少し、暗い……。ランプでも付けますか……。」


 明継の雰囲気が元に戻って、紅は肩をナデろした。


 丁度二人の間にある机上の瓦斯洋灯ガスヨウトウに手を伸ばす。背広のかくしから燐寸マッチを取り出し、瓦斯ガスの付いた布に引火する。藍碧の炎が暖かく灯った。


「帰りの途中に葛餅くずもちを売っていたので買いました。どうです。」


 紅が頷くと、燐寸マッチを出した背広セビロから土産袋オミヤゲが登場した。


 食べ物をそんな所から出すのかと驚いたが、口に出す気も起きない紅。

 明継がランプの横に置くと、頑丈ガンジョウに包れた袋から背広はまだ綺麗であると分かった。どこも紙に汁が染み出した形跡ケイセキもない。


「昔、母が良く作ってくれました……。」


 言葉をパッしながら包みのヒモを解く。取り外して皿には取り分けず、見かねた紅が小皿と箸を持って来た。

 明継は手渡された小皿に葛餅クズモチを取り分けると、黒蜜ときな粉をマブして紅に戻した。

 二人はただ黙々と箸を進めた。気まずかった為か、美味しかったが食は進まなかった。


「先生の御国は、確か九州でしたか。」


 この感覚を打破ダハしようと紅は策を振り絞ったが、考え付くのは下手な会話文句でしかなかった。紅の気遣いを察してか、明継は笑みを発した。


「そうだね。紅に余り自分の話はしていなかったね。」


 体格の良い明継には、肘掛ヒジカけが肉体の一部に当たり窮屈キュウクツそうに伸びをした。紅を気遣キヅカっての事だった。


「確か、先生は士族上がりの伯爵の四男でしたよね。」


「あぁ。母は私の事をとても可愛がってね……。」


 しみじみと望郷の念にヒタる明継。


 母や故郷の自然は昨日の事の様に思い出せる。だが、父親の顔だけが鉛筆で塗り潰されている。記憶の中に埋もれていた。

 其れを、紅に伝えるべくもなく平然とした。


「歳の離れた兄達とは遊ばず、よく下働きの子供や侍女とかと遊んだよ。木登りや川遊びで一日クタクタだった……。」


 故郷の大自然が素晴らしく輝いたが、の反面、家庭は、堅物な一回りも離れた兄達と、どうやって仲良くなれると云うのだろう。

 どうやって恥じかきっ子とサゲスンんだ奴等と……明継の脳裏に過ぎって打ち消した。


「倫敦に留学したのですよね。」


 明継は帝学にも行かず、離別状態で家を飛び出した。


「えぇ。九州は幼少期しか過していなかったけれど、山も空も素晴らしかった。懐かしき日本でしたね。」


 静かな瞳を紅に向けた。


「この天都てんとでは見かけなくなった風景ですか。」


 素朴な疑問を云っただけなのに、明継の表情は硬くなった。


天都てんとの周りは西洋風の街並みですが、人力車ジンリキシャで少し天都を離れれば、舗装された道すらない。都心だけが西洋被れを、起しているのですよ。」


「すみません。」


 自分の無知さを恥じる紅。

 世間知らずな彼に罪悪感を持たせまいとして、明継は大人の威厳イゲンを保って優しく慰めた。


 明継の微量ビリョウの感情を、紅が敏感に感じたような気がした。


「謝る事はない。紅は本や話の知識が豊富だが、経験がトモナっていないだけ……。君は若い。これから色々な事を見て聞いて触れて実感して行けるよ。」


 今度は紅が口を噤んでしまい。今までとは逆の立場になってしまった。しかし、明継はそんな空気を気にも止めず小皿をテーブルに置いた。


 今頃、時として気まずい空気に陥り易かった。だが、其れの原因が何故なのか二人とも理解していた。


 問題は事の他大きい。


「其れは此処ココを出て行けと云う事ですか。」


 細い声で震わせながら明継に云った紅。


「其んな事は……。」


 思ってもいなかった言葉にシドロモドロしていた明継。本人が何時か出て行く日が来ると思っていた。


「誰も出て行けとは云えません、………其うだ。良い機会だからこれを渡しておきます。」


 紅の目の前から立ち上がり、書斎から何かを持って来た。


 明継の行動を只、見詰めた紅。


 洋灯ヨウトウの灯かりしか、部屋を照らし出す物がなかった為、紅一人が気分的に残された状態になった。


「あの……。先生。」


 心細くなる紅に、明継が暗闇の中から顔を出した。ユックリと登場すると其の表情は優しかった。


「私は長い事、倫敦で生活していましたから、文化の違いで良く分かりませんが……、男は一般的に十八歳になると大人として自覚を持つそうです。」


 言葉と同時に明継から手渡されたのは鍵だった。


 意味が分からずマバタきをしている紅に、話を続けた。


「紅も十四歳になったのだから、自由に行動をして下さいね。」


 明継は笑みを称えたママ、紅の手の上を見詰めた。


 洋館に似つかわしい面持ちの鍵で、幼い紅の掌には少し大きい。


「でも……。先生。其れでは、私が此処ココにいるのが分かってしまいます。」


「えぇ。其れも良いかもしれない。」


「先生……。」


「私の我侭ワガママの為に君の人生を、此の侭にしておくわけにもいかないよ。」


 明継は表情を変える事なく、紅を見詰めている。

 其の裏腹に、紅の今にも泣きそうに鍵を握っている腕が少し震えている。しかし、明継は其れ以上、話を続ける気配はなく、椅子の上で目を瞑った。


 大きく息を吸い込むと、思いは昔へと溯って行った。

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