考察 その二

 斬鴉さんは目を瞑ってしきり頭を捻っている。ただでさえ記憶喪失だというのに、そこに残った無数の本の記憶から、タイトルや内容すら定かではない「読んだはず」という漠然とした一冊を探るのだ。彼女の頭の中がどうなっているのか、想像すらできない。

 急に斬鴉さんが糸の切れたマリオネットのようにカウンターに突っ伏した。鈍く大きな音が非常に痛そうだ。

「だ、大丈夫ですか……?」

「『乱世らんせ怪盗団かいとうだん』だ」

「え?」

 まさかの名前が出てきて上擦った声が漏れた。

「『乱世の怪盗団』。内容はまったく憶えてないが、読んだ気がする」

 斬鴉さんはスマホを取り出してタイトルを検索した。

「ヒットしない……同人作品か?」

 僕は自分のスマホに目を落とし、ソーイチ君とのやり取りを見る。この前、ソーイチ君の文芸部の先輩が去年の文化祭前に斬鴉さんに短編小説を読んでもらったことを聞いた。その先輩は斬鴉さんが読んでる途中で、怖くなって小説を取り上げたらしい。だから、その作品のタイトルをソーイチ君に尋ねたのだ。

 画面には『乱世の怪盗団』という文字が並んでいる。今し方、斬鴉さんの口から放たれた名前だ。

 僕はこれらの事実を斬鴉さんに伝えた。

「あたしは『乱世の怪盗団』については、タイトルと読んだはずって事実を憶えているだけだな」

 事情を知った斬鴉さんは腕を組みながら不思議そうに言った。

「謎の文庫本と違ってタイトルも憶えているわけですか。それに、読んでる際の具体的な映像が思い浮かばないとなると……。やっぱり僕の推理は間違っていたみたいです」

 謎の文庫本と異なり、『乱世の怪盗団』は明確に途中下車した本というのがわかっている。正確なサンプルと照らし合わせると、記憶の残り方の違いは明らかだ。

 しかし、斬鴉さんは僕の考えに懐疑的なようだった。

「そうとも言えないぞ」

「どうしてですか?」

「記憶喪失にならなくとも、記憶は失われるってことだ」

 頭に疑問符を浮かべると、斬鴉さんは小さくため息を吐き、

「さっき教科書云々のときにも言ったろ。あたしが『乱世の怪盗団』を途中まで読んだのは文化祭前――九月上旬くらいのはずだ。記憶喪失になったのが十一月九日。二ヶ月も前の読書の情景を脳内で克明に上映できるか?」

 はっとなる。……そうか。『乱世の怪盗団』を読む情景を記憶喪失になる前に、単純に忘れてしまったのだとすれば説明がつくのか。

 ということはつまり、

「それって逆に言えば、謎の文庫本の記憶は直近のものってことになりません? それこそ記憶喪失になる直前とか……」

「可能性は高い。十一月九日は月曜日だった。あたしが謎の文庫本を読んだのはこの図書室だから、土日じゃない。金曜日も、当時も同じバイトをしていたから除外。木曜日以前となると……流石にここまで詳細に記憶を映像で保持できていたとは思えない」

 四日前の読書の、何てことのない一幕を記憶の中に留めておけるだろうか。僕には無理だ。斬鴉さんも、唯一残った記憶でなければとっくに忘れていただろうと言っていた。

 当日に読んだはずとされる『死と鮮血』の前後――たぶん後――に謎の文庫本を読んだとして、不自然な点がいくつも出てくる。まず、タイトルを忘れているというのはどういうことなのか。また、当時の斬鴉さんの所持品には謎の文庫本はない。図書室の本ならば借りているだろう。

「図書室の本を、借りずにその場で読み終えた……いや、途中で読むのをやめたのが僕の推理か」

「そもそも、いくらあたしでも三百ページ近くを一時間半ちょっとで読むことなんてできないぞ」

 自分の表情がぐにゃりと歪んでいくのがわかる。

「やっぱり見当違いだったんでしょうか」

「そうでもない」

 斬鴉さんは顎に手を添えて呟いた。

「あたしは割と納得している。それに、状況の整理はできた。謎の文庫本を読む光景は、記憶喪失になる直前の記憶と考えてよさそうだ」

 ……他でもない斬鴉さんが納得している。それならば、引き返す必要もない。

 謎の文庫本は一体何なのか。果たしてどこに消えたのだろう。何故、斬鴉さんはタイトルを憶えていないのか。考えるべきことはまだいくつもある。

「とりあえず、図書館の本ではないですよね?」

「謎の文庫本を直前まで読んでいたとしたら、そうなるな。当時、あたしは図書館で本を借りていなかった」

 とりあえず、条件から一つ外れた。問題なのは、私物か、この図書室の本か……。

 私物ならば文庫本はどこへ消えたのか。図書室の本ならば、それに加えて何故借りなかったのかという問題が出てくる。

「謎の文庫本を所持していなかったのは、途中で人に貸した……とかでしょうか」

「読んでいる本を途中で貸したりしないぞ」

「既読の作品で、かつ図書室の本だったんですよ。斬鴉さんはまだ借りていなかったので、利用者に譲ったんです」

「残念ながら、十一月九日の放課後に文庫本を借りた人間はいないな」

 いつの間にか、パソコンの貸出履歴を去年の十一月にまで遡らせていた斬鴉さんに否定されてしまう。

「文庫本が私物だったとしても、貸したら返しにくるはずだ」

「借りパク決め込んでるとか……は、ないか。斬鴉さん相手に。記憶喪失のことを知っているならまだしも」

「この学校であたしの記憶喪失のことを知っているのは生徒では夏凛だけで、後は一部の教師だな。いつ記憶が戻るかもわからないのに、大の教師が生徒から本を借りたことを黙するか? あたしに記憶が戻ったとき恥どころじゃないぞ。そもそも、あたしは自分の認めた人間としか本を貸し借りしない。逆にあたしが本を借りていて返した場合も、同じことだ。よく知りもしない相手から本を借りたりしない」

 斬鴉さんは以前、本を貸し借りするのには信頼関係が必要だと言っていた。そのくらいの関係性の人間がいれば、記憶喪失後にも接触がありそうだ。現に斬鴉さんが除籍した本の埋め合わせとして本を貸した女子生徒は、何度か話しかけてきているし。やはりこれは、あまり現実的ではない、か……。

 他の可能性を模索する。

「謎の文庫本はこの図書室のもので、斬鴉さんが既に上限の二冊を借りていたから借りられなかった……とかはどうです?」

「図書館と同様、あたしは図書室の本も借りてなかった」

「何らかの事情で、除籍本にしたとかはどうでしょう」

「探してみるか」

 斬鴉さんがパソコンを操作した。除籍した本は検索しても出てこなくなるが、除籍本は除籍本でデータがあるのだ。そのデータを見る限り、去年の十一月九日付近で除籍された本は存在しなかった。

 斬鴉さんが隠蔽した……というのは、僕の信ずる彼女に限って有り得ない。考察する必要すらない。

 しかし、参ったな。僕の脳みそはもうまったく回転しなくなってきている。甘いものを食べたい気分だがそんなものは持っていないし、図書室は飲食禁止だ。

 斬鴉さんはおもむろに目を瞑って大きく息を吐いた。記憶を追想しているようだ。長い髪の毛を人差し指でくるくると弄りながら、

「あたしは、謎の文庫本を開いた。そしてそのページを迷うことなく読み進めていった。目当ての箇所だったんだろうな。開いたページは文字が等間隔で並んでいた。章の始まりでも、節が入ったりもしていない……目印のない、中途半端なページだ。どうしてあたしはこのページを正確に開くことができた?」

 斬鴉さんからのクエッション。彼女に何の目印もないページを開くことができたのは何故か。ページに折り目を付けておくなんて、斬鴉さんがするはずがない。というか、こんなこと考えるまでもないのだ。

「栞が挿まっていたんですね」

「記憶には登場しないが、そう考えるのが妥当だろう」

 斬鴉さんが思い出せる映像が全てではない、という話だった。表紙や文章と同じく、栞も欠落していたのかもしれない。

「『死と鮮血』は休み時間のうちに消化した。間髪入れずに謎の文庫本にも手を出したが、読んでいる途中で休み時間が終わった。だから栞を挿んだ。そして放課後、図書室にて謎の文庫本を開き、読んでいる最中に四時を告げるチャイムが鳴った」

 まあ、全然ありそうな情景ではあるが、

「図書室の本を読んでいるときに諸事情で席を離れる必要があって、とりあえず栞を挿んだ。その後、戻ってきた際に本を開いた……ということもあるのでは?」

「過去のあたしが現在のあたしと同じなら、そんなことはしない」

 斬鴉さんは断言した。……そうか。そうだったな。

「借りてもいない本に栞を挿んで、自分のもののように誇示したりはしないんでしたっけ?」

「ああ。あたしが本から離れている間にその本に用のある人間が現れないとも限らない。席を離れるなら本ももとの本棚に戻す」

「斬鴉さんが栞を挿んでいて、おまけに記録上でも借りていないとくれば、謎の文庫本は図書室のものじゃなさそうですね」

 その推理が最初からできていれば、これまでの考察いらなかったんじゃないかと思わないでもないけれど、きっと無駄にはならないだろう。おかげですんなりとその推理を飲み込めた。

 果たしてこれは、真実に近づいているのだろうか?

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