第三章 開かずの本

図書委員集結

「――それじゃあ、これで図書委員会議は終了。以上、解散」

 図書委員長、青野あおの大輝だいきさんが椅子に座ったまま宣言した。元々大して張り詰めていなかった空気がさらに緩み、周囲から脱力感が溢れ始める。

 六月の中旬。梅雨に突入したこともあり、今日を含めてここ最近、毎日のように雨が降っている。みんな心の方までジメジメしているのか、はたまた単なる受験ノイローゼなのか、やる気のない三年生たちの気力が余計枯れ果てているように感じる。

 今日は月一回行われる図書委員会議。僕が参加した過去二回の会議と比べても、みんなの気の抜けっぷりは顕著だった。

 図書委員は全十人。三年生は青野大輝、月崎夏凛、鷹野春風、纐纈こうけつ美空みそら丹羽にわ透子とうこ志津しづ桜香おうかの六人。二年生は夜坂斬鴉、秋富士瞬の二人。一年生は僕、古町光太郎と枯木かれきくれはの二人だ。……三年生の、それも女子がやたら多い。

 図書委員のみんなは、会議で配られた資料をバッグから取り出したクリアファイルにしまい込んでいく。一人、枯木さんだけがパンパンに膨れ上がったバッグからクリアファイルを取り出すのに四苦八苦していた。

「さっきから思っていたが、どうしてそんなに荷物が多いんだ?」

 彼女の隣に座る斬鴉さんが、僕に向けては絶対に発さない優しげな声音で尋ねた。

「昨日、体調不良で早退したんですけど、そのときに荷物をほとんど置いて帰っちゃって……。今日の分の荷物と合わせて、こんなに」

 枯木さんは華奢かつ色白で、いかにも病弱そうな容姿をしているが、本当に病弱なのかもしれない。彼女は諦めたのか右手をバッグから引き抜くと、資料を折ってポケットにしまった。

「そうだ、夜坂先輩。さっき話していたこと、憶えていますか?」

「小説のタイトル当てゲームのことか? お互いタイトルを付箋か何かで隠した小説を貸して、読了した上でタイトルを当てる。読めばタイトルを推測できる作品なら、面白そうだろ?」

 また変なことしようとしてるよ、この人。

「それです。今度、やりましょうよ。私、夜坂先輩が読んでなさそうな本、何冊か持ってきますから」

「あたしの道楽に付き合ってくれるのはお前が初めてかもしれない」

 枯木さんは斬鴉さんレベルとはいかないまでも、かなりの読書家だ。だから話が合うのは当然なのである。僕は彼女を妬んだりしない。断じて!

「あ、そうだ」

 扉へ向かっていた青野さんが立ち止まって振り向いた。自然と、他の上級生たちの足もとまる。

 青野さんはポケットに右手を突っ込むと、間抜けな顔をした人型のウサギのストラップを取り出した。

「これ、図書室に落ちてたストラップだが、一ヶ月経っても落とし主が現れなかった。今日から図書室で預かることになった。憶えておいてくれ」

「え、何ですか? そのシステム」

 僕は首を傾げ、枯木さんもきょとんとしていた。

「ああ、一年生は知らないか。図書室の落とし物は、最初は職員室に届けられるんだが、一ヶ月落とし主が現れないと図書室が管理することになるんだ。色々と、変なものがあるぞ」

「ポエミーなラブレターは流石に笑ったよね」

 鷹野さんが薄い笑みを浮かべて呟いた。続いて、眼鏡をかけたクールな雰囲気の長髪の女子――志津さんが思い出したように、

「二〇〇二年眼鏡とかあったよね、確か。それから、ブックカバーのボタンが錆びて開かなくなった本とか」

 少し興味が湧いてきた。この話題が盛り上がるのを期待したが、丹羽さんがボブカットを揺らし、右手でスマホを弄りながら図書室を出ていってしまう。

「あ、透子ちゃん、待って!」

 彼女と幼なじみらしい枯木さんも、斬鴉さんに挨拶をして去り、他の上級生たちもそれに続いていく。

 青野さんが僕にストラップを手渡ししてくる。

「これ、資料庫のダンボールに入れておいてくれ」

「あ、はい」

 青野さんも図書室をあとにし、

「二人とも、よろしくねー」

 夏凛さんも僕らに手を振って出ていった。そして、

「斬鴉さん、ちょっとトイレいってきます。実はずっと我慢してまして」

「さっさといけ」

 僕もそそくさとトイレへ向かった。


 トイレは図書室と職員室のちょうど間にある。男子トイレに駆け込もうとしたところで、女子トイレから毛先が緩くカールしたセミロングの髪が特徴的な女子――纐纈さんが現れた。

 軽く会釈して横を抜けようとしたところで、

「前から訊きたかったんだけど」

 話しかけられた。予想外の展開につんのめって転びかける。

 この人と話したこと、ほとんどないのだが……。

「何ですか?」

「古町君って、どうして図書委員になったの? 枯木さんと違って本が好きそうでもないのに」

「静かなところが好きだからです」

「夜坂さんが好きなの?」

 一秒の間もなく無視された。僕は照れくさくなって目を逸らす。

「いやまあ女性としても非常に魅力的だと思いますけど人間性に惹かれている部分が大きいですねはい」

 纐纈さんは右手で前髪を摘まんで、そっぽを向いた。

「やっぱり、そんなような理由よね」

 彼女は挨拶もせず去っていった。……何なのあの人。

 男子トイレに入ると、個室から水が流れる音が響いた。扉が開き、青野さんが出てくる。

「今、纐纈と何話してたんだ?」

 トイレには扉がないため、どうやら廊下での会話はある程度聞こえていたらしい。

「なんか、変なこと訊かれましたよ」

 先ほどのことを青野さんに話す。彼は腕を組んで苦笑した。

「それはな、たぶん、真面目そうな人間が言うほど真面目じゃないと知って安心したかったんだろうな。自分の理由があれだから」

 僕はよく真面目そうだと言われるが、同じくらい真面目じゃないなとも言われている。まあこれはどうでもよく、

「纐纈さんはどんな理由……というか、三年生女子たちは、一体どうして図書委員になったんですか?」

 明らかに妙だ。みんな本が好きそうでもなければ、仕事に対して熱心ではない。受験生と言われればそれまでだが、それにしても不自然だ。夏凛さん以外全員が図書委員に興味なさげなのはどうかしている。

 青野さんの表情から逡巡が感じ取れた。それでも右手で頭を掻き、

「……ま、いいか。三年生の女子が多いのはな、去年の九月――文化祭のちょっと前に転校した図書委員、天海あまみ連介れんすけがイケメンだったからだな」

 あまりにもしょうもない秘密にぽかんとしてしまう。

「俺たちの同級生だったんだが、顔も性格もよかったんだ」

「秋富士さんみたいな?」

「俺目線では秋富士よりも、だな。三年生の女子は大半があいつ目当てで図書委員になったと言っても過言じゃない。かくいう俺も、男子一人で気まずいから入ってくれって連介に頼まれて図書委員になった。卓球部があるから、あんま当番になれなかったけど」

 先ほどの纐纈さんの言葉はそういうことか。僕が同じような理由で図書委員になっていて安心したのだ。

 青野さんは苦々しい顔つきになる。

「連介が在籍してたときは、みんなあいつ狙いだからかなりギスギスしてたんだよなあ。去年の新入生はそういうのを気にしない夜坂以外に誰も入らなかったくらいだ。ま、その夜坂が入ってきてからが特にヤバかったんだが」

「どうして斬鴉さんが?」

 性格上、ロマンスとは無縁そうだが。

「連介も夜坂に勝るとも劣らない本の虫だったからだ。話が合うのなんの。逆に、話に付いていけない他の女子は面白くない。相当妬んだと思うぞ。当時の図書委員の三年生は女子二人だったんだが、どちらも大人しい文学少女だったから、びびって一切干渉してこなかったくらいだ」

 そんなことが……。斬鴉さんが修羅場の一角を担っていたとは、意外だ。いや、そうでもないか。むしろ彼女自体が修羅のようなものだし。

「連介もそのことは気づいてたみたいで、夜坂と本を貸し借りするのにも苦心してたな」

 僕はやや俯いてしまう。

「そんなの、全然知りませんでした。斬鴉さんと仲の良い相手は、夏凛さんしかいないと思っていましたよ」

「自分に好意を抱いてる古町に気を遣って黙っていたんだろ」

 何故に誰も彼も僕が斬鴉さんに恋愛的な好意を向けている前提で話を進めるのか。……そんなものではないのだ。僕の斬鴉さんに対する思いは。好きという言葉程度では収まらないというのに。

 青野さんが顎を撫でる。

「……そういや、月崎は月崎で、いつの間にか夜坂と仲良くなってたな。みんな驚いていた。初めのうちは夜坂のことを恐れていたのに」

 それは、本人が言っていたな。

「まあ、あいつは連介が目当てじゃなさそうだったから、他の奴らと違って仲良くなれたんだろうが」

 一年前の図書委員……怖いもの見たさの感情が芽生え始めていた。


       ◇◆◇


 図書室へ戻ると、案の定利用者は一人もいなかった。斬鴉さんはカウンターに座って長い脚を組み、四六判の単行本を読んでいる。藍色の布製ブックカバーのせいで、どんな本なのかはわからない。

 本格的な梅雨に突入したからか、斬鴉さんの寝癖が以前と比べても規模が大きい。長い髪の所々が跳ねている様は、普段は静かな海原に巨大な渦潮が発現しているかのようだ。しかしそれでも、何ならこの方が素敵なのが斬鴉さん。寝癖が似合ってしまうので、美容院で時間をかけて髪をセットする必要もなさそうだ。手入れをしているのかしていないのか、僕は知らないけれど、寝癖は酷いのに髪質は端から見ても感心するくらいには美しい。艶やかでサラサラしているのがよくわかる。寝癖と髪質が奇跡的なバランスで均衡を保っているとしか思えない。

「お前今、気持ち悪いこと考えてるだろ」

「いいえ。褒め称えていましたけど」

「絶対気持ち悪い」

 言うほど気持ち悪くはない……はず。

 天海さんとやらについて尋ねてみたい衝動もあったが、見たこともない人物に対して謎の対抗心もあってか、訊いたら負けな気がした。

「古町。さっきのストラップはどうした?」

 斬鴉さんが単行本から顔を上げてくる。僕はポケットからウサギのストラップを取り出した。

「ここにあります。置いてきますね」

 資料庫はカウンターの横にある扉から入れる。中は薄暗く埃臭い。大きなスチールラックと書類が格納された棚が向かい合っていた。一応、掃除用具入れもある。

 あまり入ったことがないので色々と観察してしまう。棚の中に各年度の『図書委員当番記録』というタイトルのファイルがあった。司書の常木先生の豆さに驚く。

 五段あるスチールラックの最下段にダンボール箱があった。これか。中を開けると、なるほど。ガラクタがたくさん入っていた。

 ストラップを入れると、中にあったひと際目立つものが気になった。黒い革製のブックカバーだ。四六判の単行本を包んでいる。目を引くのは裏表紙から伸びるボタン付きのベルトだ。小口を通って表紙で留められているのだが、金属製のスナップボタンが錆びて茶色く変色していた。

 これが志津さんの言っていた、ブックカバーのボタンが錆びて開かなくなった本か。確かに、全体的に年期が入っている気がする。

 手にしてみると思ったよりも固かった。何となくボタンを外してみようと試みるも、どれだけ力を入れても外れる気がしない。むしろ、ボタン凹側のブックカバーとの縫い目の方がもげる気がする。

 ならばと、本の背を左手で掴み、右手の親指で本の地――天かもしれないが――を軽く押し出してみた。が、まったく動かない。見れば、本のカバーが折り返す箇所――いわゆるそでが、それぞれブックカバーに付けられた二本の黄色いゴムバンドを通っている。表紙と裏表紙、カバーがバンドによって留められている状態なのだ。本が上下にずれないよう工夫されていた。これでは押し出すのも無意味だ。バンドは薄く平たいきし麵のようなゴムで、見るからに伸びて張り詰めている。軽く摘まんでみた。多少は伸びたが、既に限界が近いようである。

 側面から僅かに見える表紙の厚さからして、ハードカバーではない。ソフトカバーだな。装丁が描かれている本のカバーは白地なのが辛うじてわかる。……それにしても、黄色いバンドはブックカバーと色があまりにもミスマッチで目立つ。

 一体、どんな本なのだろう。ボタンのベルトは伸びきっている。つまり、この本には少しも開く余裕がないのだ。ボタンを外さなければ中はまったくわからない。無理を承知で開こうとしたが、やはりびくともしなかった。

 この本を見ていて、思ったことがある。これはまるで……。

 本を持って資料庫を出る。ストラップをダンボールにしまうだけの作業に時間がかかったこともあって、斬鴉さんがこちらを見てきた。彼女は顔をしかめる。

「どうした? なんか持って」

「あ、この本、そういう渾名があるんですね」

「夏凛はそう呼んでいたな」

「これ、一体何なんですか?」

「あたしも知らない。さして興味もない。……あたしにわかるのは、ページ数は目測で四百ちょいで、少なくとも図書館や図書室の本ではないってことくらいだな」

「え、どうしてそんなことわかるんですか?」

「天地に蔵書印がないだろ」

 あ、なるほど。どこもそうだろうが、図書室や図書館の本には、天地にどこの組織の本かが記された蔵書印が押されている。それがないということは、これは個人の私物ということか。

「いつからここにあるんですかね」

「さあな。それも知らない」

 僕は斬鴉さんに開かずの本を差し出す。

「斬鴉さん、ボタン外せます?」

 酷く面倒くさそうな目を向けられた。これはなかなか、レアな目つきかもしれない。

 斬鴉さんはどこかの出版社の栞を単行本に挿むと、開かずの本を受け取った。組んでいた脚を解く。そして、思い切りボタンを引っ張ったが、

「無理だな。びくともしない」

「斬鴉さんならいけると思ったんだけどなあ。僕より絶対パワーあるでしょうし」

 斬鴉さんの表情が冷たくなった。

「古町。それ褒めてるのか? 貶してるのか?」

「え? いや、自虐してるんですけど……」

 くだらなさそうにため息を吐いた斬鴉さんは読書を再開した。

 僕は開かずの本を見つめながら神妙に呟く。

「これはまるで、小さな密室ですね」

 文庫本の文字をなぞっていた斬鴉さんの目がとまり、再びこちらを向いた。

「結構な頻度でわけわからないこと言うよな、お前」

 ……うん。何を言っているんだろう、僕。斬鴉さんから目を逸らす。

「今のは、忘れてください」

「その台詞が言いたかったから持ってきたのか?」

 最近、夏凛さんから斬鴉さんと親しくなる切欠となったらしい推理小説を借りて読んでいる。全編が密室殺人という作品故に、僕自身、密室に飢えてしまっているのかもしれない。

 羞恥心を抱えながら資料庫に引っ込み、開かずの本をダンボール箱に戻しておいた。


       ◇◆◇


 五時半が近づいてきた。斬鴉さんは先の本を読み終えたようで、本棚から一冊のハードカバーを持ってきて自分で貸出手続きを行っていた。

 斬鴉さんは布製ブックカバーを私物と思しき単行本から取り外すと、今しがた借りたハードカバーに取り付けようと表紙を開いた。

「む」

 彼女が声を上げた理由は、表紙を捲っての最初のページにあたる見返しに茶色い染みがあったからだろう。

「どうします? 前に借りた人、調べますか?」

 僕は恐る恐る尋ねた。

「個人的には調べて犯人に小一時間説教してやりたいが、図書委員的にはセーフ判定だろうからやめておく。貸出履歴はそう見るものじゃないからな。それに、この目立たない染みじゃ、最後に借りた奴が犯人とも限らない」

 斬鴉さんはどこか肩を落として布製ブックカバーをハードカバーに装着していく。その間、ブックカバーのそでにあたる場所の下部に白い刺繡が施されているのが見えた。斬鴉さんの手が被さって全容は見えない。少し気になったが、あまりじろじろ見たらまた気持ち悪いと言われかねないので自重しておいた。代わりに別のことを訊こう。

「そんなに楽しみだったんですか、その小説?」

「人から勧められた本だからな。まあ、染みが本編に付いてなくてラッキーと思うことにするよ。……付いてないよな」

 斬鴉さんは血眼になってページを捲っていく。どうやらなさそうだった。安心する斬鴉さん。僕も安心しました。

 犯人に、汚したのが見返しで運がよかったねと言いたい。これが数ページずれて本編に差し掛かっていたら、きっと斬鴉さんはあらゆる知略の限りを尽くして犯人を特定していたことだろう。先日の長谷川良太さんは斬鴉さんに問い詰められて酸欠に陥っていた。

「誰から勧められたんですか?」

 まさか天海連介さんじゃないよな……。

 ドキドキしたが、

「長谷川が台無しにした本を借りようとしていた子からだ。あれからちょっと話すようになってな」

 ああ……。確かに彼女、図書室に来る度に斬鴉さんと二、三言葉を交わしていたか。枯木さんほど仲良しという風でもないが、お互いに好感は抱いていそうな関係性だ。

 僕はどこかほっとしながら後片付けを開始した。カウンターの返却コーナーに置かれていた本をチェックしていると斬鴉さんも参戦してきた。今日は普段より幾分か本が多く、得した気分が得られた。

 全ての作業を終えたときには五時半を回っていた。斬鴉さんと図書室を出ると、僕は図書室の鍵を職員室に返した。

 そしてすぐさま昇降口へと向かう。この学校は一年生と上級生の昇降口が異なる。一年生の昇降口は校舎北側、上級生の昇降口は校舎西側に位置している。図書室からは上級生の昇降口が近く、一年生の昇降口は遠い。

 斬鴉さんにいち早く追いつくべく、僕は超特急で靴を履き替えた。雨が降っているので傘をさして外へ出る。アスファルトに跳ねる雨水を無視して小走りで校門まで向かうと、斬鴉さんは校門の前で紺の傘をさして待っていてくれた。

 達川高校には、丘の上にある学校という触れ込みがある。僕に言わせれば丘というかただの坂であり、実際、校門を抜ければ下り坂が待っている。それを丘と呼ぶのだろうが。

 互いの傘がぶつからない程度に距離を取って斬鴉さんと並んで歩く。坂の西側はちょっとした崖を挟んで道路が通っている。ちょっとした崖からは竹が生えており、晴れていても西日はシャットアウトされる。晴れの日も雨の日も、どちらも非常に薄暗い。

 坂は途中から車道、歩道、歩道橋に分岐する。坂の下に通っている車道の幅は狭く、交通量も多いわけではないので、隙を見れば二秒で渡れる。歩道橋は大半の人間が使っていないのだが、真面目な斬鴉さんはちゃんと利用していた。僕的には、一分一秒でも長く斬鴉さんといられるので、オールオーケーである。

「古町。また気持ち悪いこと考えてるな?」

「いえ。別に普通のことですけど……」

「お前の普通は信用できないからな」

「えぇ……」

 どこにでもいる普通の高校生というアイデンティティから普通が消えたら、どこにでもいる高校生になってしまう。なんかゴキブリみたいで嫌だ。

 歩道橋からは西側にある町が一望できる。大型スーパーこそ目立つけれど、遠くには山、山、山。

 何の気なしに話題を振る。

「そういえば、『ギリシャ神話大全』のこと、教えてくださいよ。犯人は誰なんですか?」

「だから自分で考えろ」

 斬鴉さん的にはいつか犯人と決着をつけるようなので、その際にご一緒させてもらおう。……こんな、はなっから考える気もないことを言うと、斬鴉さん怒るだろうなあ。

 図書室では沈黙の時間帯の方が圧倒的に多いが、下校途中の沈黙はなんか気まずく感じてしまう。さらなる話題を探す。

「そういえば文芸部の友達があまりにもまともに活動しないせいで部長さんから三千文字の読書感想文を書けと言い渡されたらしいんですけど、何かおすすめの本ってありますか?」

 悩めるソーイチ君のために斬鴉さんからの鋭いアドバイスを期待したのだが、彼女はきょとんと首を傾げた。

「どんな本でも、読めば三千文字以上の感想くらい出てくるだろ」

「それは……たぶん斬鴉さんだけだと思いますよ」

 斬鴉さん、本絡みの謎を解くときには頼りになるけれど、読書関係の相談事にはてんで役に立たない。自分を基準にしてしまいがちなのだ。

 歩道橋の階段を下る。スロープが通っていることもあって勾配が緩いので、一段一段が低く面積が広い。

 友達の話題となったことで、先ほどは妙な意地で訊けなかったことが気になってきた。

「友達というと、斬鴉さんって、これまでに夏凛さん以外に親しかった人とか、いなかったんですか?」

 心の中では意を決していたものの、口調はなんてことない風を装った。

 やや後ろを歩いていた斬鴉さんの足がとまる。振り返って見上げると、無表情で黙り込む彼女の姿があった。

「いない」

 簡潔に答え、僕の脇を通り過ぎていく。……今の逡巡は何なのだろう。そして今の答え。

 天海さんと、何らかの確執でもあったのか? 触れてはいけない部分に触れてしまった気がした。

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