第二章 アクノハナ

図書委員のお仕事

 この学校の委員会には二種類のタイプがある。一つは各学年、各クラスから一名ないし二名強制選出されるタイプ。もう一つは学年に一人以上いれば何人でもいいタイプ。図書委員は後者だ。つまりは学年で一人強制ということ。図書委員は拘束時間が長いため不人気なのだとか。

 尤も、入学したての僕はそんなことなど露ほども知らなかった。ただ何となく入った図書室に、文化祭で出会った彼女……僕にこの学校へ進学することを決意させた斬鴉さん――このときは下の名前知らなかったけど――がいたので、図書委員に志願したのだ。

 既に別の一年生が一人、図書委員に入っていたので、僕は学校の規則的には必要のない存在だった。おまけに斬鴉さんとの二度目の対面はこんなである。

「お久しぶりです。あのときはありがとうございました」

 斬鴉さんはぽかんと、彼女にしてはとても稀有な表情を浮かべていた。

「はあ……あのとき?」

 ……あれ? なんか、思ってた反応と違う。君この学校に進学したのか、的な、今にして思えば絶対有り得ない会話を夢想していたのだが。

「い、いや、文化祭のときの……」

 僕がおずおずと告げると、斬鴉さんが顔をしかめて僕の顔をじっと見つめてくる。

「ああ、お前か。元気だったか?」

 めちゃくちゃ興味なさそうだった。


       ◇◆◇


「光ちゃん、今日も図書委員の仕事をするの?」

 ソーイチ君の無駄に鋭いサーブが飛んできた。卓上を跳ねるピンポン球を弱めに打ち返す。

「そのつもりだよ」

 ソーイチ君が上手いのはサーブだけなので、あとは普通に初心者同士のラリーとなる。

 現在、体育の授業中だ。あちこちで鳴るピンポン球の小気味いい快音が体育館に反響し、謎のリラクゼーション効果を生み出している。これに心地よさを感じているのは僕だけの可能性はあるけれど。

「そんなに気に入ってるんだ。夜坂先輩のこと」

「それはもう。ぞっこんだけど」

 僕たちのラリーを目で追っていた真壁が顔をしかめる。

「確かに美人でスタイルいいのは認めるが、おっかないぞ、あの人」

「あれは真壁たちが悪いでしょ」

 もう中間テストが終わった六月の上旬。真壁は五月の一件を未だに引きずっている。トラウマになっているようだ。

「野上さんから聞いた話だと、去年の今くらい……まあちょい前の時期か。図書室で友達とテスト勉強していたとき、図書室の本にジュース零して、あの人に威圧感で窒息させられかけたらしい」

「いや、それも野上さんが悪いじゃん。飲食禁止だよ、図書室」

 そんなことがあったんだ。だから野上さんはあんなにびくびくしていたのか。

「あ、僕も夜坂先輩のエピソード知ってるよ。うわっ」

 ソーイチ君が思い出したよう呟いたのと同時に、僕の打った球が偶然エッジボールとなって体育館の床に落下した。

 ソーイチ君は床に転がった球を拾い上げる。

「文芸部の先輩、去年の文化祭に向けて短編小説書いたらしいんだけど、それを夜坂先輩に真面目に講評してもらおうとしたんだ」

 ソーイチ君の謎に曲がるサーブをどうにか返した。

「けど、読んでもらっている途中で怖くなって小説を返してもらったみたい」

「それ、斬鴉さんの恐ろしさを強調するエピソードではないよね」

 別に斬鴉さんは、本に舐めたことしなければ何もしないのに……。見た目が怖いのは否定できないが。そこがいいんだけど。

「そもそも、古町も本読まないよな。夜坂先輩と話合うのか?」

 真壁が首を傾げながら訊いてきた。肩をすくめながら返す。ついでに球も。

「合うわけもない。一応、最近はいくつか小説読んでいるけど、僕、読むのが遅いからなあ。たぶん、文芸部のソーイチ君の方が話は合うと思うよ」

「いやいや。僕は文芸部の部長が面白い人だから入部しただけで、読書の方はさっぱりだから何とも言えないよ――シュッ!」

 ソーイチ君が勢いよく放ったスマッシュは、どうやら本当に勢いだけだったようで、卓上を跳ねることなく猛スピードで僕の脇を通過していった。防球フェンスにぶつかってとまる。……取りにいくのが大変面倒くさい。

 肩をすくめて球を拾いにいく途中に思う。まあ、斬鴉さんも僕に話し相手というジョブは求めていないだろう。


       ◇◆◇


 放課後のこと。僕と斬鴉さんは図書室にいた。利用者は女子生徒が一人だけ。大体いつもこんなもんである。達川高校は図書室の利用者が少ない。この学校だけが特別なのか、高校の図書室はどこもこんなもんなのか、僕にはわからない。別に興味もなかった。

 斬鴉さんはいつものように読書をしている。図書室の本で、開かれている本の右側が厚くなっていた。

 かくいう僕は暇だった。唯一の利用者である女子生徒は一向に本を借りる様子を見せず、眠いため本を読む気にもならず、勉強は論外。そのため僕は頬杖を着きながら、斬鴉さんの組まれた脚を眺めていた。長くて黒いストッキングが僅かに発生させる光沢が美しい。

 別に他の女性が脚を組んでいても何とも思わないのに、どうしてこう斬鴉さんの脚組みは気になるのだろう。彼女の脚が長いからか、はたまた僕が斬鴉さんという存在を特別視しているためか。後者な気がするなあ。

 そのままじっと見つめていると、不意に斬鴉さんが椅子に座ったままこちらに身を乗り出し、僕の左脇腹を思い切り摘まんできた。

「いだだだだだだだだ!」

「図書室で大声を出すな」

「す、すみませ――」

 いだだだだだだだだ!

 唯一の利用者が奇異な目を向けてくる。

 斬鴉さんが手を離し、僕がカウンターに突っ伏してダウンすると、彼女の手にする文庫本が目に入った。ページ数が少なめの小説のようだが、問題はそこではなく、本の右側が先ほどと比べて薄くなっている。

「その本、そんなに伏線が凄いんですか?」

 痛む脇腹をさすりながら尋ねると、斬鴉さんは怪訝そうに眉をひそめた。

「どうした、急に?」

「だって、さっきよりページが前に戻ってません?」

 斬鴉さんは手にしていた本に目を落とすと、謎の苦笑いを浮かべる。

「妙なところで目敏いな、古町は。これは別に伏線が見所の作品じゃない。単に、あたしが最終章から読んでいるだけだ」

 意味不明過ぎて顔をしかめてしまう。

「どうしてそんなことを?」

「普通に読むのもマンネリだからな。変わった読み方をしてみた。新しい発見があって面白いぞ」

 読書のし過ぎで、本ではなく読み方を工夫し始めちゃったよこの人……。酔狂だなあ。

 感心を通り越して呆れていると、斬鴉さんはむっとした表情になる。

「一応言っておくが、未読の作品ではやらないぞ? こんな読み方するのは既読済みの作品だけだ。心配するな」

「そんな心配まったくしていませんよ」

 ちょっと会話が盛り上がったのも束の間、女子生徒が一冊の本を手にこちらに歩いてくるのがわかった。随分とびくびくしているように見えるが、先ほどの僕の絶叫のせいではないと信じたい。

「あ、あの、この本のことなんですけど……」

 彼女は申しわけなさそうに本をカウンターに置いた。

「借りようと思ったら、こうなってて……」

 提示された見開きには、コーヒーか何かを零したのか、大きな黒い染みができていた。

 怖いもの見たさに斬鴉さんの方をちらりと伺うと、怒気に溢れた表情で目を見開いていた。それでも尚、国宝級に鋭い双眸に見惚れてしまう。

 斬鴉さんが手を伸ばして染みに触れる。とっくに乾いた後だったようだ。そのページの前後のページにも染みがあり、なかなか被害が大きい。まとも文字も読めないぞ。

 斬鴉さんは舌打ちし、そして嘆きのため息を吐いた。本を持ってきた彼女に小さく頭を下げる。

「すまないな。家にも同じ作品があるから、どうしても読みたいなら明日また図書室に来てくれ。貸すから」

 まさかの提案に、女子生徒は面食らったようだった。瞳を何度かぱちくりさせ、

「あ、ありがとうございます。明日、また来ます」

 斬鴉さんの言葉に女子生徒は頷くと、頭を下げて図書室から去っていった。

 ……この人のこういうところが、好きなんだよなあ。

「古町。お前今、気持ち悪いこと考えてるな?」

 これが気持ち悪いことだったら、僕はもう恋はおろか誰かのファンにもなれないのだが。

 まあそれはともかくとして、

「斬鴉さん、ああいうことよくするんですか? 利用者に私物の本を貸すなんて」

 隣に座る彼女はかぶりを振った。

「まさか。彼女はよく図書室を利用してくれる常連だからな。顔も名前もクラスも把握している。本の利用も丁寧なのは知っていたから、安心して貸すと言えた。本の貸し借りには、相手との信頼関係が必須なんだ」

 斬鴉さんなりの美学、拘り……と言ったところか。

「それに、これは図書委員の落ち度でもあるだろ。穴を埋めるのは当然だ」

 斬鴉さんが僕の手元に残った染み塗れの本を見つめながら呟いた。

 本の染みを撫でると、カサカサした感触が指に伝わって来た。僕は斬鴉さんほど本好きではないが、流石に憐れみを感じてしまう。

「この本、どうしますか?」

「除籍するしかないだろうな。可哀想だが、読めないんじゃ仕方がない」

 除籍……。要するに本を処分するということか。

「古町。この本を最後に借りた奴を調べてくれ」

 有無を言わさぬ口調だったので、パソコンの貸出履歴を開いて本のタイトルを検索した。

「二年前の十月に、長谷川はせがわ良太りょうたって人が借りたようです」

「長谷川良太……確か、今もたまに借りに来る三年生だな。犯人と決めつけるのは早計だが、その筆頭候補には違いない。今度訪ねてきたら、事実確認が必要だな。返答次第じゃ……」

 斬鴉さんからドス黒いオーラが見えた。長谷川さんとやらが心配だ。返答次第で、どうなってしまうのだろうか。

 そういえば、野上さんも同じようなことをやらかしたんだったか。でも、それにしては……。

 唐突にがらりと扉が開いた。

「お疲れさーん! お二人さーん!」

 およそ図書室には似つかわしくない元気で大きな声が響く。斬鴉さんがそちらを険しく睨んだ。

「わざとやってるだろ、夏凛かりん

「どうせ誰もいない読みだよ。実際誰もいなかったじゃん」

「そういう問題じゃない」

「ルールは利用者のためにあるのですよ、キリちゃん」

 現れた小柄な女子生徒――月崎つきざき夏凛さんは悪びれる様子もなく笑った。韻を踏んで入ってきたが、彼女は別にラッパーではない。達川高校三年生にして図書委員の一人だ。そして、僕が認識しうる限りでは斬鴉さん唯一の友達でもある。

 小柄で童顔。フリスビーを投げたら追いかけて拾って来てくれそうな雰囲気の可愛らしい方だ。

 夏凛さんはポニーテールを揺らして扉を閉めた。

「どうしたの? 二人して、なーんか辛気くさい顔してたけど」

 近くに寄ってきた彼女に、斬鴉さんは件の本を指差す。

「これをスルーして本棚に返したの、三年生だな?」

 本の染みを視認した夏凛さんはバツが悪そうに顔をしかめた。

「あー……私ではないけど、たぶんそうかも」

「三年生は仕事がテキトーな人、多いですよね」

「事実だけど、光太郎くんって顔に似合わず結構辛辣だよね。いやさ、除籍本にするには司書の常木つねき先生に報告しなきゃでしょ? それが面倒でみんなやりたがらないんだよ。常木先生、真面目だからお小言言われるもん」

「それはお前たちが不真面目だから言われるんだろ」

 この反論に返す言葉がなかったのか、夏凛さんは目を逸らした。彼女は斬鴉さんが手にする本に気づく。

「キリちゃん、どんな本読んでるの?」

 一気に話を変えられて、斬鴉さんは反射的に文句を言おうと口を開きかけたが、慣れているからかため息で済ませた。

「簡単に言うと、バラバラだった家族が一つに戻っていく話だな」

「え、バラバラ死体が出るんだ」

「出てこない。小説を全部ミステリだと思うな」

 夏凛さんは、なあんだ、とでも言いたげに肩をすくめた。彼女はうちの図書委員にしては珍しく読書を嗜むが、推理小説しか読まないのだ。

 家族というと……、

「そういえば、斬鴉さんのご家族は何をされているんですか? 兄弟とか姉妹はいます?」

 斬鴉さんのプライベートなことは聞いたことがなかった。

「いずれ挨拶することもあるかもしれませんし、聞いておきたいです」

「お前本当に気持ち悪いな」

 蔑みの眼差しが痛い……。でも、悪くない。

「一人っ子で母親は看護士。父親は八年前に事故で他界した」

 ……訊くんじゃなかった。気まずくなっただけだ、これ。

「す、すみませんでした。変なこと聞いて」

「理由が変なだけで質問自体は別に変じゃないぞ」

 これは斬鴉さんなりのフォローだろうか。

「……僕の家族の話とか、聞きます?」

「別に興味ないからいい」

 でしょうね……。ラーメン好きの姉が、名古屋にあるラーメン屋に弟子入りしたという、とっておきのエピソードを披露する機会は今後もなさそうだ。毎日ラーメン食べている姉が羨ましい。

 斬鴉さんが読んでいた本を持ったまま立ち上がった。そのまま本棚まで向かうと、本をもとの位置に戻してしまう。

「飲み物を飲んでくる」

 斬鴉さんは僕たちにそう告げると、扉の前に立った。そして隣の返却ポストの中を覗き、

「夏凛。この中の本、本棚に戻しておいてくれ。除籍の方はあたしがしておくから、お前も仕事をしろ」

「うごげぉぉん」

 夏凛さんは女子高生が出しちゃいけない奇声を発する。今の、どうやって発声したのだろうか。

「それから当番記録に名前を書け。常木先生に見つかったら、またお小言だぞ」

「はーい」

 渋々といった具合でファイルを開いて名前を書く夏凛さんの姿を確認すると、斬鴉さんはようやく図書室をあとにした。

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