第2話 恋する乙女



「夢だったのかしら」


 パーティが終わってしばらく、レメーニはなにも手に付きませんでした。

 好きだった刺繍をやりかけては手がとまり、ただため息がでます。しかたがないので刺繍を机に放り出して、窓の外をぼんやりと眺めています。

 

 レメーニにはあの夜のピアノの音が、いまも耳の奥で鳴っているような気がするのです。それほど、衝撃的でした。忘れようと思っても忘れられませんでした。


 耳の奥で、頭の中で、なんども反芻するあの方の奏でるメロディー。レメーニにとってそれは宝物のような時間でした。


「恋わずらいですか?」


 召使いのベスが、またぶしつけなことをいってからかいました。「ちがうわ」とレメーニは答えました。ベスは、レメーニがアザルトに恋わずらいをしているとかんちがいしているのです。


「だってお嬢さまはお茶はぜったい熱いうちに飲むのがお好きでしょう? それなのにあの夜から、お茶が冷めているのすら気が付かないのですもの」


 お相手に一目惚れなさったのね。ようございました。ご結婚がたのしみですわね。たたみかけるようにベスは言いました。


 ちがうわ、とレメーニは否定しようとしましたが、うまくいきませんでした。本当にそうかも知れない、と思ったのです。


 もちろんアザルトに対してではありません。あの夜の、見知らぬピアノ弾きが奏でたダンス曲に対して。大輪の牡丹の花のようにワッと華やかに咲いたと思ったら、一晩のうちにあとかたもなく散ってしまったような…そんなはかない曲でした。


 すこし変だけど、私は「あの曲」に恋したにちがいない。だから間違ってもあのピアノ弾きに恋したわけじゃない。


 レメーニは真剣にそう信じていました。なぜなら、あのピアノ弾きはお世辞にも美しいとはいえない外見をしていたからです。


 まず年を取っていました。背中は丸まり、髪もヒゲも伸びっぱなし。すり切れた燕尾服えんびふく、古ぼけた革靴、丈の短いズボンからはすね毛がはみだし、なんだか不潔でした。


 レメーニの家系は、みな鼻筋が高く、整った顔立ちをしています。レメーニのおばあさまはもちろん、お父さまもお母さまも、姉たちもみな美しい人でした。レメーニにはそれが誇らしくもありました。


 だから大丈夫だと思いました。ぜったいにあのピアノ弾きに恋することはない、と。あの男はレメーニの好みのタイプとはあまりにもかけ離れた外見だからです。


 しかしなにか心に引っかかるものがあるレメーニ。…そして、あのパーティの夜からちょうど一週間たったころ、とうとう意を決してお父さまの書斎を訪れたのでした。


「お父さま、レメーニのお願いを聞いて…」


 ほかのわがままに育った姉たちに比べ、日頃から願い事をすること自体珍しい無欲なレメーニでしたので、父アルベルトは愛娘の願い事がむしろ嬉しそうでした。


「願い事とは珍しいね、かわいい我がヒナギクちゃんの願いならなんなりと。そういえばベスは元気かい? またどこかに売られて行っていないかい?」


 アルベルトはいたずらっぽい笑顔で言いました。


 その昔、レメーニが十歳とおかそこらだったころ、おばあさまが大事にしていた花瓶が何者かに割られていて、ちょっとした騒ぎになったことがあったのです。


「公爵さまの奥方さまから特別にちょうだいした花瓶なのよ!」


 おばあさまのお怒りははなはだしく、そのお怒りを鎮めるためにも、なんとしても犯人を探さなければならないという雰囲気になりました。


 しかし、だれも名乗り出るものはありません。おばあさまのお怒りはそれほど苛烈で、どんなバツを受けるか知れない恐ろしさがあったのです。


「おまえがやったんだ」


 そこで犯人にでっちあげられたのが、褐色の肌色をした少女でした。彼女はぶどう摘みをするために異国から売られてきた奴隷でした。


「わたしはやっていません。わたしのような者がそんなお城の奥深くに入ることができるわけがありません」


 少女がどれほど訴えても、だれも聞く耳をもちませんでした。その少女に罪をなすりつければ、一刻もはやくこのやっかいな事件を終わらせることができるのですから。


 おばあさまは、その少女の奴隷を人買いに売り渡しました。もう二度と顔も見たくないとでもいうように城から追い出したのです。


 そんな騒ぎがあったことを、レメーニはあとになってから知りました。両親と避暑地に出かけていたため、しばらく留守をしていました。


 自分たちが留守のあいだにおきた不条理なできごとを知り、父と母はおばあさまのやりかたに困惑し、レメーニは大激怒!


 レメーニとその少女は、じつはひそかに親友でもありましたから、まさか親友に突如としてそんな濡れ衣が着せられ、お払い箱にされているなんて夢にも思わなかったのです。


 すぐさまレメーニは行動を起こしました。庭師のおじさんに頼み込んで御者になってもらい、執事を脅して用立てた馬車にのりこみ、その夜のうちにお城を抜けだしたのです。そしてまさに船にのりこもうとする奴隷の少女をみつけ、お城に連れ戻しました。


 お城に戻ったレメーニがお父さまにした「お願い」が、「この少女を私の側仕えにしてほしい」というものでした。


「おばあさまの命令は絶対だから、逆らえない」


 と渋るお父さまに対し、レメーニは「この女の子は姿かたちは似ているが、おばあさまが追放した奴隷ではない。別人だ」といいはり、おばあさまも巻き込んだ話し合いとなり、レメーニの熱意に根負けするかたちでとうとうみな納得させてしまいました。「ベス」という名はそのときレメーニによって与えられた名でした。


 ……そんな一風かわったレメーニですから、どんな願い事をして困らせられるのか、お父さまも興味津々です。


「わたし、ピアノを習いたいのです。先日のパーティでピアノを弾いた演奏者を、私の先生に雇っていただきたいのです」


 お父さまは思ってもみない願い事をされ、きょとんとした表情を浮かべていました。










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