第4話

 彼女が起きた音がする。布団をめくり、鯨のような大きな欠伸の音。僕はさっきまで考えていたせいで朝食をつくれなかった。昨夜から卵液に染み込ませていたフレンチトーストをバターと一緒にフライパンで焼く。彼女に朝食をいまからつくると謝ると「いいよ、いいよ」と笑ってくれる。僕らはもうそろそろ結婚を考える時期だ。同棲して三年、僕らは危機的な喧嘩もなく互いのライフステージを昇ることができた。子どもとなると話は経済的に少しシビアになるけれど、しかしここまで順風満帆に事が運べたということはそういうことではないだろうか。もし互いにその意思があれば。そして僕は結婚を望んでいる。

 結婚願望というのに大した信念があるわけでもないが、しかし僕は将来の孤独を避けることがこの二十代の最後の役割と思っている。

 二十代、それは自由と義務の時代だ。大学という四年間の夏休みで若者は自由と義務のバランスを学ぶ。自分で言うのもなんだけど僕はそのバランスが上手くいった。バイトも休むことはなかったし、単位もまあ通常の学生通りに取得して普通に卒業。輝かしい時代と言い切れるわけではないけどそれなりの後悔の数で済んでいる。そして真面目に勤労して大人になりつつある。

 大人という言葉は不思議だ。何故なら皆が大人ということについて明確な定義を持たないのに、どこか漠然と想像できている。そうでないと、大人への批判、大人への肯定はどうやってここまで交わされるのだろう。たぶん大人というのは部分的な、もしくは老人までの長い過渡期なのだろう。自由と義務の秤を調整しながら僕らは大人的になっていく。

 そういう意味ではKはほとんど大人でなかった。二人とも学生のとき、僕はKを大人だと思っていたけれどいまはちがう。僕の大人的な要素が彼を追い抜いてしまったか、彼の大人的な要素が縮小してしまった感じだ。彼は自由というのを信仰しすぎた。権利には義務がある。彼が行う自由は僕からすればほとんど我儘だった。

 彼女がフレンチトーストを食べ、コーンポタージュを飲む。日曜だけの特別メニューだ。彼女の目ぼけた瞳が幸福によって醒めるのが僕は好きだ。こういうのが幸福だと僕は言い切れる。しかしKはこのレベルの幸福すら求めなかった。

 朝食を終えると黙って彼女は皿を洗ってくれる。僕はその後ろ姿に「今日はどこか行く?」と訊いた。

「うーん、今日って雨じゃなかった?」

 たしかに窓外は雨天特有の暗がりができていた。

「車なら出せるけど」

「じゃあ映画でも観に行く?」

「何かあったっけ」

「ほら庵野の新しいやつ。評判いいんだって」

「ああ、ならそうしようか」

 僕はまたKの親戚からもらった手紙をひらいた。外出するならそのついでに返事を出したい。僕はリストを眺めた。僕とKとの思い出の品はひとつとしてなかった。いやそもそも故人の品なんて重すぎて受け取りたくもなかった。僕は雑貨入れからレターパック取り出して返事を書いた。そして想像以上にすぐ書き終えた。これがきっと僕と彼の終わりの儀式であるはずなのに。

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