第2話

 彼は自分の幼少期についてこんなふうに語っていた。

「僕が(Kはいつも一人称としては『俺』だったが、何か自分の内心に触れることになると『僕』を使った)はじめて自殺を試みたのは小学四年のことだった。それは家の三階から飛び降りようとする、まあ成功の見込みのないものだね。僕はその日うちに来ていた友人のカードを麦茶で濡らしてしまって、そいつが弁償しろというもんだから、死のうとしたんだ。こう、ベランダの手すりに跨って。僕は弁償という言葉が恐ろしかった。当時の僕を取り巻く主題といえば世界が間違っているのか、僕が間違っているのかということだった。僕は僕の周りのものと寄りが合わなくて、どっちかが間違っているという二者択一の、善悪で考えていたんだ。もちろん僕としては世界が間違っていると思いたかった。しかし弁償という言葉には決定的な響きがあって、もうそれが最後の判決に思えたんだな。それでも僕は手すりに跨ったまま地上を見た。家の前にはコンクリートの小道があって、夏の日差しに温められていた。俺はひとたまりもないと思った。それで泣きじゃくって諦めたんだ。泣きじゃくりながら、俺は眺めていた友人たちを見た。友人たちは俺を止めなかった。俺はもっと世界が嫌いになった」

「僕が世界というものに何らかの安心を覚えたことはすくなかった。居心地のいい場所というか、そういうのが僕にはなかったんだ。僕は最初の一年ことば教室に通わされた。教育委員会が独断で僕の言葉を過ちとしたらしい。僕は週に二日そこに通って、通う日の学校の一限目は休まなきゃならなかった。もちろん周りからは頭のおかしい奴みたいに思われた。僕はすぐに一人になり、そのあとはクラスで中心的でないグループを狙って寄生した。そう、寄生だった。僕は僕の孤独を見せないために誰かを使っていた。そういうのが僕にとっての処世術だったんだ。しかし僕は誰かにとっての一番でないことが嫌だった。人に寄生したくせに、自分がないがしろにされたくはなかったんだ」

「僕が絵で県の特選をとったとき、周りの手のひら返しにはおどろいた。それは教師も生徒も同様で、僕は致命的に頭の悪い問題児から、芸術肌の問題児になった。これは大きな差だよ、なんたって僕の無意識にする落ち着きのなさや滑舌の悪さ、興奮したときの意味不明の早口がすべて芸術の素養に思われるんだから。そして僕が学校の成績もよくなったときいよいよ僕は秀才として扱われた。僕は正しくなった」

「僕が幼少期で学んだことといえば、世界というものが論理的でもなく、その場の感情で動いているということだった。何となく嫌いだから嫌いだ、何となく好きだから好きだ、そんなことで動いてるということ。それを簡単にひっくり返すには何でもいいから権威を纏うことだった。権威のマントを着れば、大抵のやつは親しくしてくれる、少なくとも悪感情は動かない」

 ……これくらいでKの幼少期はある程度想像できると思う。しかしこれはKが僕に語り、そして僕が覚えている範囲の話だ。だからこの話は客観性に欠ける。僕は僕の主観的世界で彼を捉えて、それを語っている。それをどうか念頭に置いてほしい。おそらく僕と彼の摩擦はこういう世界のちがいから来ているのだから。もちろん摩擦があったらの話だが。

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