ほととぎす 鳴くや五月の あやめ草

 それから、はるは女将の化粧の手習いの師になった。


 まず江戸の水や紅など化粧道具一式を揃えさせ、白粉の溶き方、乗せ方、鼻を高く見せる塗り方、切れ長の目に見せる方法、紅の差す角度など、一つ一つ、女将がはる達に料理や針仕事を教えるように、根気よく、分かるまで何回も教えた。


 その甲斐あってか、女将は段々と化粧の腕を上げていき、また化粧をする機会も増えた。


 他の女達は女将が色気づいてきた、いい人でも出来たんじゃ無いかと噂したが、女将はそんな陰口は全く気にせず、相変わらずはる達に裁縫や料理、それから算術まで教えてくる。

 はるによる女将への化粧の手ほどきは、大体手習いの終わった夜に行われていた。自らの手で美しくなっていく女将と、はるは段々と打ち解けていき、時には礼だといって珍しい干菓子ひがしまでくれたこともある。


 その姿には初めて会ったときの岩山のような険しさはなく、ただ一人前と認めた女にだけ見せる年相応の熟した柔らかさがあった。

 女将は時々酒を持ってきて、身の上話をすることが多くなった。はるがずっと気になっていた「凶状持ち」の噂についてもあっさりと話してくれた。


 「それは根も葉もない噂だよ」


 いつも通り化粧を施した後、酒を飲みながら女将は否定した。酒のせいかいつもより饒舌だ。


 女将によると、二十年程前材木問屋に嫁入りし、数年後女子を一人授かったが、夫は酷い遊び人であり、しょっちゅう鉄火場に出入りし、借金をこさえ、そのせいで見世は傾きかけた。

 すると夫は借金のかたに、娘を勝手に女衒ぜげんに売った。当然、女将は抗議した。借金ならあたしが身を売って返す。だから娘を返してくれ、と。夫はせせら笑った。お前のようなとうのたった年増を買う奴なんていない、自分のツラ見てから出直してこい、と酷い罵声を浴びせた。


 その言葉に激昂した女将はそんな夫と取っ組み合いの大喧嘩になった。結果、ひっかき傷しか負わなかったくせに夫は番所に女将を突き出した。が、所詮夫婦の問題。大怪我させたわけじゃなし、女将はおとがめ無しですぐ解放されたが、これを理由に夫の家から離縁させられ、さらに番所につきだされたことを近所の皆は面白おかしく脚色し、いつしか女将は凶状持ちという噂がついてしまったのだという。


 分かってしまえばなんてことない、無責任な傍観者が悪意によって歪ませた事実の一つだ。吉原でもこういったたちの悪い噂はよく女郎達の間で回った。閉ざされたくるわ では毎日大小問わず噂が流れ、はるも何回かやっかみによる噂の被害にあった。


 「娘がどこに売られたのか、探してみてもさっぱり分からなくてね、吉原ってのは確かなんだけど、どこの見世に売られたかなんて分からない。文も寄越さないし………」


 吉原の女の出入りはとても厳しい。理由はもちろん女郎の足抜け防止のためだ。通行手形がなければ見世の者だって自由に行き来出来ない。女将は娘の身を案じ吉原の大門を来る日も来る日も眺めていた。


 そんな毎日をしばらく過ごしていると、女将は吉原から出てきた女郎達の大半が路頭に迷い、また吉原に戻るものが圧倒的に多いことを知る。

 あたしの娘も、吉原から出たらあの女達と同じ道を辿るのか? 出てきてもあの子は江戸の街で生きていけるのだろうか? あたしには帰るべき家も無し、両親も嫁入り直後に亡くなっている。何のよすがもない中年女があの子を迎えられるのだろうか。


 ――いや、なければ作ればいいんだ。


 そうして出来たのが、吉原の元・女郎達を雇い、娑婆の女の教養を女将自ら教える、手習い茶屋・かなぎ屋だった。


 「全部娘さんの為だったんだね」


 徳利とっくりを傾けながらはるは言った。成る程、どうして元・女郎限定の手習い茶屋なんて奇妙なものが生まれたか、これで合点がいった。もし娘が吉原から出てきても、女郎だけを雇う茶屋なら来る確率は高くなる。


 「……にしても、もし娘さんが身請けされたりしていたらどうするの? 年季明けたってここに必ず来るとは限らないよ。随分と分の悪い賭けな気がするけど」

 「まあ、そうだろうねえ。わかってるよ。だけどその時のあたしにはそれしか思いつかなかったのさ」


 髪結いや芸者、昔の知り合いで吉原に出入りしている者にお手製の案内書を配って、各見世にかなぎ屋の存在を知ってもらい、年季明け女郎をなるべく雇うようにする。

 娘と会うためとはいえとても効率の悪いやり方だ。それでも、女将は必死だった。そうしてかなぎ屋は女郎達を抱え込みなんとか見世を続けてきた。


 女将の空になったお猪口に、酒を注いでやる。女将の目が真っ赤だ。すると目に薄い水の膜が出来、やがてそれは涙となってぽとりと落ちる。


 女将は泣いた。童子のように、嗚咽混じりに、心に沈殿していた淀みの全てを洗い流すかのように、身体を丸げ滝のように泣いた。


 女将は口を大きく開け、まるで血を吐くように泣く。それがはるには赤い口内をさらし必死に鳴く傷ついた不如帰ほととぎすに見えた。


 不如帰は血を吐くように鳴くと言われている。なぜ鳴くのか。それは叶わぬ恋や悲しみのためだと姐女郎に聞いたことがある。それが本当なら、目の前の大きな不如帰は今までどれだけの悲しみを一人で耐えてきたのか。ろくでなしの夫と離縁し、心ない噂を広げられ、一人娘は行方知らず。心をずたずたにされ、誰にも頼ることの出来なかった悲しみと苦悩。それをはるは受け止められるのだろうか。どうやって彼女の傷を癒やせばいい? 傷ついた心の手当の仕方など、姐女郎は教えてくれなかった。


 だからはるは何も言わず女将の背中をさすっていた。そうすることしか出来なかった。大きいと思っていた背中が、その時だけはとても小さく、触れれば壊れそうなほど華奢に見えた。


 もし、あたしが男だったなら、彼女に熱い口吸いをし、抱いてあげるのに。もしくは自分が他人の心の機微に聡かったなら、もっと他の方法があっただろう。だが、客はもちろん見世の者ともいつも距離を置いて、ただ年季があけるまで黙々と働いていた女郎、はること春風は、本当の意味で他者に寄り添う術を知らない。


 そんな自分が酷く不甲斐なく、はるまで涙が出てきた。女将の浴衣の背にぽつ、ぽつと涙が落ちて大きな染みになる。女将は涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔をあげて、「どうしてあんたが泣いてるんだい?」と不思議そうにはるに聞く。

 はるは泣きながら答えた。

 「女将さんが悲しんでいるからよ」


 二人の女は互いに抱きつきずっと泣き続けた。涙に限度は無かった。泣いても泣いても涙は湧いてくる。


 なぜ、私達はこんなにも不完全なのだろう。なぜ皆どこか欠けているのか。

 きっと、私達は欠片なのだ。欠片同士が集まり、いびつにしか形を作れない。


 でも、歪だから、完全じゃないからいいのではないだろうか。一人で生きていこうとしても、欠片は欠片で、何かを形成することなどできない。歪な者同士がまた寄り集まり、形を作って、隙間を埋めるため、また別の欠片を求める。吉原で女郎を買う男も、無意識にそんな隙間を埋めたかったのではないだろうか。生きていくってのは、もしかしたらこういうことの連続なのかもしれない。


 女将の大きな背に手を回し、女将もはるの身体を抱きしめている。無花果いちじくのような甘い香りを女将の首筋から感じながら、きっと今夜を境に、自分達の関係が変わるのでは、という予感がはるの中で生まれていた。

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