第十章

第38話

 カチャカチャと食器の音だけが静かに響いていた。

 いつの間にか満席となっている店内だがBGMは静かで穏やかだ。テーブルは離れた配置なので他の席の人たちがどんなことを話しているのかはわからない。それでも楽しそうな様子が伝わってくる。

 そんな中、冬葉たちのテーブルだけ沈黙が広がっていた。誰も喋ることなく黙々と食事を続けている。

 あれからすぐに料理が運ばれてきてしまい、話し出すタイミングを失った様子の二人はそのまま食事を始めてしまった。

 それから間もなく二十分。

 すでに食べ終わった冬葉は二人の様子を見守っていた。藍沢も海音も視線を合わせない。俯きがちにほとんど空になった皿を見つめている。

 やがて「――あのとき」と海音が口を開いた。瞬間、ピタッと藍沢が動きを止める。海音は手にしていたフォークを皿に置くと「わたしが事情を話しに行ったとき、なんで何も言ってくれなかったの?」と藍沢に視線を向けた。藍沢はそんな彼女を無表情に見つめる。


「――何を言えば良かったの、あの状況で」

「もっと何か言われるかと思った」

「何を?」

「文句とか……」

「言ったら何か変わった? 行かないでってわたしが泣けば結果は変わってた?」

「それは……」


 海音が言い淀んでいると藍沢は「言えないよ」と力なく笑った。


「言えるわけないじゃん。あの子のそばにいたいって、あんな必死な顔見たらさ」


 藍沢は笑みを浮かべたままフォークを置く。


「そのときにね、やっぱりそうだったんだなって思った。海音にとっての一番はわたしじゃなくてあの子だって」

「そんなこと……」


 しかし藍沢は首を横に振る。


「海音、分かってないでしょ? わたしと一緒にいるとき、どれだけあの子の話をしてたのか」


 海音はじっと藍沢を見つめて彼女の言葉を聞いている。あるいは思い出しているのだろうか。あの頃の自分がどうだったのか。


「わたしさ、あの子のこと話す海音のことけっこう好きだったんだよね」

「え……?」


 海音がわずかに目を見開く。藍沢は笑って「だってすごい嬉しそうだったんだもん」と続ける。


「あの子が新曲を出したときとかお店の開店待ちして買いに行ってたでしょ。だけどライブは近くで見るのは恥ずかしいからって後ろの方に陣取ってさ。だけどすごい背伸びしながら見てんの。あれ、ほんと面白かった」


 藍沢は言ってから力なく「ほんとに楽しかった」と続けた。


「……楽しかったの?」


 海音は目を丸くして呟くように聞いた。藍沢は頷く。


「楽しかったよ」

「ウソ。だって、すごいめんどくさがってたじゃん」

「めんどくさかったけど嬉しそうな海音を見るのは好きだった。そんな海音を見せてくれるあの子のこと、わたしは嫌いじゃなかったんだよ」


 藍沢は柔らかな表情で「だから何も言えなかった」と続けた。彼女はそのまま視線を手元に落とす。


「まあ、いきなりのことで混乱してたっていうのもあるけど」


 言ってから彼女は「いや、違うか」と呟く。


「ショックだった。ただそれだけだったのかもしれない」


 藍沢は俯いたまま口を閉じた。海音はじっと彼女を見つめて「ごめん」と謝る。


「あのときのわたし、他に方法はないんだって思い込んでた。きっと冷静に考えれば他に方法だってあったはずなのにね。だけど蓮華のそばに居続けるためにはあの方法しかないんだって」

「……いきなり結婚はないでしょ」

「そうだね。わたしはバカだった」

「バカだね、ほんと」

「ごめん。ほんとに、ごめん」


 海音が頭を下げる。そんな彼女をぼんやりと見つめながら藍沢は呟いた。


「――何も相談してくれなかったことがショックだった」


 その言葉に海音はハッとしたように顔を上げた。


「だから何も言えなかった。わたしに相談しても無駄だって思ってるんだなって」

「違う」

「違わないよ。少なくとも、あのときの海音はそう思ってた。海音の気持ちはわたしには向いてなかった。それがあのときわかった。痛いほど……」

「違うよ、ナツミ。わたしは――」

「違わないでしょ。さっきも海音言ってたじゃん。自分の気持ちを伝えたことなかったって。自分で分かってるじゃん」

「え……?」

「いつかちゃんと伝えてくれるんじゃないかって少しだけ期待したりもしてた。せめて別れるときに何か言ってくれるんじゃないかって思ったりもした。だけど海音は何も言わなかった。好きとも嫌いとも」


 藍沢は視線を俯かせ、固い声で続ける。


「海音の気持ちが分からなくても、それでもずっと一緒にいてくれてたからきっと海音もわたしのこと好きなはず。そう思ってたのに、あの瞬間に思い知らされた。違ったんだよね。海音は優しいからわたしに付き合ってくれてただけ。わたしのこと好きでも嫌いでもなかった。そう思ったら、なんかすごい納得しちゃって――」

「違う!」


 そのとき海音が声を荒げた。近くのテーブル席に座る客がこちらをちらりと見たのがわかったが、すぐに興味を失ったのか顔を逸らした。海音は短く息を吐くと「違うよ、ナツミ」と続ける。


「わたしはちゃんとナツミを好きだったのに」

「……のに?」

「あのときナツミが何も言ってくれなくて。だからわたしは――」

「わたしが悪かった?」

「違う。悪かったのはわたし。だけどそうじゃなくて……」


 藍沢は軽く笑うと「まあ、うん。いいよもう」と顔を上げた。


「もう昔のことだし」

「昔……?」

「そうでしょ? もう昔のことだよ。わたしと海音はもう別々の生活を送ってるわけだし。海音の大事なあの子もこうして無事に立ち直った。良かったじゃん。これからもずっとあの子のそばにいられるでしょ」

「ナツミ……」

「今わたしが好きなのは冬葉だからさ」


 藍沢の視線がふいに冬菜に向けられた。海音もちらりと冬葉を見る。そして頷いた。


「そうだよね」

「そういえばさっきもそんな話になったもんね。冬葉から聞いた?」

「ううん。でも、そうなんだろうなって冬葉さんとナツミの話をしたときに思ったから。それに今日は冬葉さんが間に入ってたから来てくれたんでしょ?」

「……そうだね」


 藍沢は頷き、冬葉に微笑む。


「冬葉、間に入っちゃって可哀想だから」

「い、いえ。わたしはそんな――」

「だから今日はちゃんと海音とけじめをつけようって、そう思ってきた。昔のことはもういいよ」

「そっか……」


 海音は柔らかく微笑む。


「ナツミはもう、わたしのこと嫌い?」


 藍沢はじっと海音を見つめて「そうかもね」と穏やかな表情で頷いた。

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