詩の場合6


 「一花が熱を出した」


 取引先のお客様に何度も頭を下げて、営業部へと戻れば湊がそう言った。


 保育園に入ってから、もう何回目かの体調不良。

 心配ではあるが、いつも湊が定時退社や早退・休暇をとって対応してくれていた。

 なのに何故今回、自分が豊川部長に呼ばれたのか。

 しかもよりによって、とても大事な商談の時に呼んだのか、詩には全く理解出来なかった。


「じゃあ、早くお迎えに行ってあげて」


 焦りや苛立ちから、詩は不機嫌に答えた。


「あのさ、僕にだって仕事があるんだよ。たまには詩が行って欲しい」


 と湊は言った。詩には信じられなかった。

 湊の仕事と、自分の仕事。

 自分の仕事はこの会社を背負っているもの。重みが違う。


「湊くん、私の仕事は来期の会社の売り上げに大きく関わってくるものなんだよ? 相手も『私』だから、取引してくれているのに。豊川部長がああ言ってくださったけれど、相手だって『私』が接待に来なくて、期待が外れたと思うわ。今ならまだ間に合うわ。……私、戻るから」


「ちょっと待てよっ!」


 湊の怒り声に詩の身が竦んだ。

 幸い、詩の部署は騒々しく、怒鳴り声が注目される事はなかった。しかし、詩の足を引き留めるには十分の声だった。

 詩の目の前には「あの時」と同じ、恐ろしい形相の湊がいる。

 

「それって、おかしくないか? 『詩』が必要なのは、一花だって同じじゃないか。なんで、一花よりも会社を取るんだよ!」

「だって……、一花を育てるには、お金が必要でしょ? そのために頑張って働いているのよ?」

「僕だって働いている! 詩はなんでいつも僕の仕事を軽んじているんだ?」

「軽んじてなんていないわ。ただ、湊の方が融通が利くからであって……」


「融通が利くっていうのはなぁ、ずっと勤勉に働いている、信頼出来る人間が周囲の理解を得て貰える権利なんだよ! 僕の様に一年近くも定時退社や早退や休暇を繰り返していて職場の信頼を失っている人間は、もう融通なんて……利かないんだよ!!」


 湊が社内でどのような評価を受けているのか。知らなかったとは言えない。薄々感じていたけれど、蓋をしていた。

 湊の目は怒りに満ちている。詩はどうしても怒りに弱い。

 それは気難しい母親がヒステリックに怒らない様に、顔色を窺って生活していたからだろう。

 詩は怯えを見せない様に精一杯、虚勢を張って言う。


「……分かったわよ。今日は私が行くね」

「明日からも、交代だよ」

「え?!」

「僕だって、これから仕事が忙しくなるんだ。一花に何かあったら、交代で休むからね」

「そんなの、無理よ!」

「君の上司の豊川部長は、僕たちを応援するって言ってくれた。今回だって快く君の仕事を請け負ってくれた。……詩は恵まれているよ。あんな理解のある上司がいてさ。……とても、羨ましいよ」



 そう呟くと「じゃあ、一花をよろしくね」と湊は去って行った。



 ◆



 一花を希望の園の保育園に併設された病児保育へと引き取りに行くと、熱のせいかグズグズしていた。咳もケホケホとひっきりなしにしている。

 機嫌の悪い一花をなだめながらも家に戻り、ミルク粥を作っていると、ずっと咳をしていた一花が少し静かになった。


「……一花?」


 眠ってしまったのか? と、ベビーベットに眠る一花を覗けば、ぐったりとしていた。


「一花!?」


 詩は慌てて一花を抱き上げる。熱い。すごい熱だ。白目を向いて意識が朦朧としている。


「一花!!……ど、どうしよう」


 詩は慌てて、子供救急に電話をしようとする。

 しかし、抱いていた一花が嘔吐した。

 詩の腕に吐瀉物がかかる。ゴホゴホと噎せた一花は苦しそうに泣き始めた。

 詩はソファーに山積みになっていた洗濯物の中からタオルを引っ張ると一花の口回りを拭いてやる。顔色がみるみると青くなり、あからさまに弱っていく姿をみて、詩の頭が真っ白になる。

 震える手で、子供救急に電話をする。

 すぐに繋がった。詩は半ば混乱しながらたどたどしく、状況を説明する。


 救急車がすぐに来てくれる事になった。











 ――結果、一花は肺炎を引き起こしていた。


 即入院が決定し、今は落ち着いて顔色も少しは良くなり、小さな呼吸器をつけてベッドに寝ている。



 ――怖かった。



 詩はまだ震えていた。

 小さな一花。一瞬で体調が悪化した。

 すごく怖かった。判断を間違えていたら、命が無くなってしまっていたのではないかと思うくらいに。怖かった。


 一人は怖い。

 怖かった……!


 手の震えが止まらない。

 湊は一花が熱を出した時、グッタリとしている時、こんな恐怖と不安をたった一人で乗り越えていたのか……。



 結局、詩は母親と『蓮人』と過ごしていた時から変わっていない。


 自己都合の正論と正義感を振りかざしながらも、臆病で何も出来ない自分。


 ――その結果、蓮人を壊してしまったし、今だって、家族を壊しそうになっている。


 自分だって一花が生まれた時、一人で面倒をみていて孤独だった。

 不安だった、怖かった。


 だから逃げた。楽な仕事に。楽な世界に。

 湊に甘えていたんだ。


 自分はなんて湊にも、一花にも、酷い事をしていたのだろうか……。

 

 ――と、自分の気持ちを改めて自覚した時だった。

 慌てすぎて背広がズレたままの湊が病室に飛び込んで来たのだ。



「一花は……! 大丈夫なのっ!?」

 ハアハアと荒い息遣いで。



「み、湊くん……仕事は……」

「一花がこんな時に仕事なんて出来るわけないだろ!!」


 湊は小さなベッドに呼吸器を付けて寝そべる一花を見て、「うっ」と嗚咽し涙を零した。

 零れる涙をスーツの腕でぐいと拭い、


「苦しかっただろうに……。こんなの小さいのに……!」


 ポタポタと涙を零す湊。

 そんな純粋に心配をする湊を見て、緊張と不安と恐怖で凍っていた涙が解けてスルリと詩の頬を伝った。


 嗚咽して、なりふり構わずに泣き出した詩に、湊が驚き、涙が止まった。

 子供の様に泣いている詩に呆然とし、それから湊は詩を抱きしめた。


 心の泥を流す様に泣いた詩は、湊に言った。


「湊くん、今までごめん。ごめんなさい! 私、色んな事から逃げてた。……だって、出来ないんだもの。上手に出来ない! 私、結婚するまでは自分がなんでも出来ると思っていた。でも、一花を上手に育てられないし、イライラしちゃうし、自分の事ばっかり考えて、湊くんの事、ないがしろにしてしまう。交代で一花を見ようって言われた時、本当は出来ない自分が嫌で一人じゃ無理って思ったの。自分で生むって決めといて、ムリだなんて…………お母さん……失格だよね」


「僕だって……生活の余裕の無さと君の態度に反抗して意地を張っていた所がある。……ごめん。

 でも、合格か失格の二つでくくられるほど、簡単な事じゃないんだ。僕たちは一人ぼっちで生きてきたから、人に頼るのが苦手なんだ。でもさ、僕は君の家族なんだよ。良い所だけじゃなくて、何が苦手で何が難しいのか。一方的に押し付け合うんじゃなくて、お互い話し合って、妥協出来るところを決めようよ。お互いが補って、二人で解決していこうよ」


「……なんで、なんで、湊くんはそんなに優しいの?」


「そんなの、家族だからに決まっているじゃないか!」


 と、当然だと言わんばかりに微笑む湊。

 湊と出会った頃。ふにゃふにゃとした優男だと思っていた。

 同じ理由で惹かれ合っても、自分よりも弱い男であり、自分が支えてあげなくてはと思っていた。

 しかし、こんなにも強い。

 守っているようで、守られていたのは自分の方だった。


「……湊くん、入れよう。アンドロイドのお手伝い。私、努力はするけれど、すぐに変われない。だから変わるために……手助けがもっと欲しい」


 ついに決心をした。

 もう、アンドロイド無しの育児とか、二人だけの子育てとか、そんな事に構ってられなかった。


 何よりも大切なのは、どんな形であれ、詩と湊と一花が心やすらかに暮らすことなのだ。


「湊くん、今村さんの『お守り』を頂戴」

「え?」

が、ここに連絡する」


 詩は翌朝、名刺の隅に書かれた電話番号を押した。

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