詩の場合5


 ――仕事は楽しい。

 仕事はママを忘れられる時間。


 目標があって、邁進まいしんして、没頭して、時には嫌な事や辛い事もあるけれど、それでも、私が作り上げたものを目にした時、再び立ち上がる。

 なんて分かりやすい世界。


 今日も日付が変わる頃に帰宅。

 そっと静かに玄関扉を開ければ、「東雲詩」が「ママ」になる。


 以前よりも部屋が鬱蒼とした。洗濯物は常に干っぱなし。食器も器具もごちゃごちゃ。リビングテーブルには何かしら書類やチラシが乱雑に置いてある。

 湊くん、今日もご飯はレトルトだったのかな。

 お弁当のプラスチック容器がゴミ箱から溢れている。まあ、しょうがない。


 私も湊くんも、日々、アンドロイドに頼らずに頑張っているんだもの――


 ベビーベッドでMWの形をして、すやすやと眠る一花。

 可愛らしい。小さな声で「ただいま」と呟けば、ふええっと気配を感じて一花が泣き出した。

 詩は一花を抱き上げて、背中をとんとんした。


「はいはい。ねんね、しようね」


 一花は泣き続け、声が一層大きくなる。


「……おかえり」


 ガラリと続きの和室から、湊が現れた。

 寝ていた様で、黒のスウェット姿。目が半分開いていない。


「ただいま。一花、起きちゃったみたい。ほらほら、お母さんだよ~」


 しかし、一花の声が大きくなる一方。

 それを背中をトントンしてあやす詩。


「困ったな。ほらほら、ねんねしよーね……」


 焦る詩に、湊はすっと両手を差し伸べてきた。


「貸して」


 詩は素直に一花を湊に託す。そして、しばらくトントン、ユラユラと揺らすと一花はすうっと眠ってしまった。


「……わあ、すごい」

「詩ちゃん、お風呂入ってきなよ」


 湊の言葉に甘えて、詩は風呂に入り再びリビングに戻ると、一花を抱っこしたままソファーに座っている湊が居た。詩は冷蔵庫へと向かい、缶ビールを一つ取り出すと、ごくごくと飲む。


「っつあー! 美味しい! 今日も疲れたなぁ!」


 湊の隣に座る。そして、久しぶりに湊の顔を見た。

 いつも詩が見つめれば、薄く微笑んでくれた湊。しかし、今の湊は目線が合わない。湊の視線の先は一花だった。ずっと一花だけを見ていて、詩を見ようとしない。こんなに近くに、湊の近くにいるのに。

 詩が何か話しかけようとした瞬間、湊が立ち上がる。


「僕、寝るね」

「あ、うん……おやすみ」

「おやすみ」


 一花を連れて、和室の寝室へと行ってしまった。

 パタン、と戸が閉まる音。冷たい。

 詩は小さくため息をついた。


 以前――湊がアンドロイドのお手伝いを入れたいと言い争いになった時――から、詩は何となく、湊に対して言葉が上手く言えなくなっていた。


 あの時の湊が怖かった。

 あんな風に異性に怒鳴られたり、手を挙げられた事がなかったから。

 また、自分の勝手な意見を言って、湊が怒りだすのではないか、と思うと思った事も言えなくなっていた。


 湊が怖い。

 これは詩が仕事に没頭する理由の一つでもあった。

 本当だったら、もっと協力して一花を育てなきゃいけないのは分かっている。

 でも、湊と一緒の空間に居て、また言い争いになったらどうしよう。

 あの時はうやむやになったけれど、湊が愛想をつかして出て行ったらどうしよう。

 そう思うと、考えない、楽な方へと逃げてしまうのだった。


 一花はすっかりパパッ子になって、湊の方が一花の世話も上手になった。

 それを寂しいと感じながらも、また自分の意見で家族を壊したくなくて、だったら、私がむやみに触らなければいいんだと、逃げ続ける詩。


 詩の部署は花形で仕事も忙しく、給料も詩の方がかなり多く貰っている。

 だから詩が仕事に本腰を入れて、融通が利く湊がサポートすればいいのだ。


 そう、時間が解決してくれる。

 そう、思っていた。

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