猟奇単純犯罪

森本 晃次

第1話 桜子

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。


 都会へのベッドタウンとして、最近マンションが爆発的に増えてきたT坂ニュータウンでは、入居者募集のマンションや、近くでは分譲住宅が増えてきていた。近くには学校も設立され、スーパー、コンビニなども増えてきて、いよいよ新興住宅街としての様相を呈してきた。

 ベッドタウンとしての需要がこんなに高まるなど想像もしていなかった土地の持ち主たちは、次第に土地の値段が上がってくるのをほくそ笑んでいたことだろう。売るタイミングを見計らっている人もいるかと思うと、さっさと土地を売って、新しい場所に家を建てている人もいる。

「昔からの代々続いた家」

 などという設定は、すでに過去の話えあり、そんな土地は、ほとんどがすでに開発されていた。

 今、新たに開発されようとしているところは、昔の森林地帯であった場所を切り開いての場所なので、買収する土地というのは、住宅地ではなく、ほとんどが森林だった場所である。

 そういう意味では、土地に対する執着というのはそれほどはなかった。昔であればいざ知らず、森林地帯が高値で売れるということもなかったが、森林にしておいても、収入がそれほど入ってくることもなく、さっさと売った方が得策だと思う人も多かった。森林に対しての需要がそれほどないということであろう。

 それよりも、今は高度成長時代に建てられた家やマンションが耐久年数に近づいてきたこともあって、新たに建て直しというのが急務になっていて、新たに土地を開発するということが疎かになっていた。ただ建て直すのも、一度立ち退いてから、さらに建て直しという手間と時間が掛かるので、家や土地に執着しない人は、新たに開発される場所が自分にとって不便でなければ、引っ越していくというのもご時世になっているようだ。

 それでも、今の家が忘れられないという老夫婦は新たにできたところに残り、今の世帯主となっている息子夫婦は、新たに開発された土地に引っ越していくという家庭も多かった。

「いまさら、親と二世帯なんて、マンション住まいじゃあ、部屋も狭いし」

 という家庭もあった。

 親の世代は建て直した家に年金で住んでもらい、その分、息子夫婦には何ら干渉しないという取り交わしをしているところもあったようだ。

 ただ、その場合、建て直した家が小さくなるのは仕方がない。年金だけで賄えないところは、土地を売った部分で補填し、老夫婦二人だけで過ごせるだけ住宅で十分だった。

 実際に、今までの家も、息子夫婦がいるというだけで下手に広かったので、逆に気が楽である。

「これでいいんだよ」

 と息子夫婦がいうと、老夫婦も、安心したようにうなずいていた。

 嫁姑も、お互いに口には出さなかったが、かなりのストレスを抱えていたので、一番別居を喜んだのは、嫁姑だったのかも知れない。

 嫁と姑、どっちがストレスが大きかったのかは難しいが、一般的には嫁の方だろう。基本的に旦那はそんな嫁のストレスは知らないだろう。もし知っていたとしても、知らんぷりをしていたのは必定である。それを思うとここで世帯が分かれるというのは、実に好都合なことであった。

 しいていえば、孫がいたりした時に、老夫婦は今までと同じように孫の面倒を見ることができないということだろうか。

 息子夫婦は、自分たちから出て行った手前、もう老夫婦に孫を任せられないと思っている。しかし老夫婦にしてみれば、

「任せてくれていいのに」

 と思っている。

 孫を巡っての家庭内での抗争は、一緒に住んでいる時の方が、お互いの防波堤になってよかったかも知れない。親が見てくれなくなると、この問題は夫婦だけの問題になってきて、それまでなかった夫婦間のいざこざの元になるかも知れないと思うと、少し胸が痛むような気がした。

 そんなニュータウンの新しい方に、一組の夫婦が入居してきた。彼らは舅姑から「逃げてきた」というわけではなく、三十五歳を機に、新しいマンションを購入する気になったのだ。ちなみに、二人に子供はいなかった。

 旦那の名前は牛島幸助。某商事会社で営業の仕事をしている。彼の会社は全国チェーンではなく、地元大手と言われるところなので、転勤があったとしても、県内なので、今のところ営業所のある場所には、この場所からでも通勤はできるので、安心だった。

 今は本社勤務なので、電車を使って通勤時間に一時間とちょっとくらい、このあたりであれば普通に当たり前の通勤時間だった。

 ライバル会社も最近近くに営業所を作り、自分たちのエリアを脅かし始めたこともあって、少し忙しくはなったが、元からの地場大手ということもあり、信用は地元民に抜群なので、今のところは安泰だった。

 幸助が結婚したのは、今から五年前、社内恋愛で、三年という交際期間を経ての結婚だった。二人は同じ部署にずっと勤めていたが、最初は二人とも意識することはなかったように見えた。幸助の方は、大学卒業前から付き合っている女性がいたが、なかなか結婚に対して煮え切らない幸助に業を煮やして、彼女の方から遠ざかっていった。

 それまでの幸助と人間が変わってしまったのではないかというほど、露骨に落ち込んでいた。同僚の女性からみれば、

「何て情けない男なのかしら。女性にフラれたくらいであんなに落ち込んじゃって。元々明るい方ではなかったけど、さらにひどくなったわね。あれじゃあ、フラれるのも当たり前のことだわ」

 と、ウワサしていた。

 確かに幸助の落ち込み方は激しかった。

「女の腐ったみたいな情けなさ」

 と言われてもしょうがないくらいだったが、本当に仕事も手につかないほどになっていて、

「このままだったら、クビになっちゃうわよ。まあ、いい気味なんだけど」

 と、彼を擁護する人は誰もいなかった。

 もちろん、そんなことを彼の前で口にする人もおらず、ただでさえ、彼が近くにいると鬱陶しく思えた。

「そんな態度を取られると、こっちまでどうにかなっちゃんわ」

 と、苛立ちを隠せなかったので、本当は文句を言いたくて仕方のない人も多かったことだろう。

 幸助の奥さんは、桃井桜子と言った。桜子は、そんな幸助のことを最初は何とも思わなかった。桜子自身、あまり人と関わる方ではなかったので、人のことを気にしないような性格になっていた。

 今までに男性と付き合ったこともあったが、長続きしなかった。桜子とすれば、

「どうしてなのか分からないんだけど、相手が私から放れていくのよ」

 と同僚には話をしていたが、実際に同僚もどうして彼女が長続きしないのか、不思議でしょうがかなった。

 ルックスもキレイというよりも可愛い系で、男好みのするタイプのはずだった。少しポッチャリしてはいるが、太っているというわけでもなく、体系的にはグラマーと言ってもいいだろう。

 グラマーな体型で可愛い系というアンバランスな雰囲気が、本当であれば男心をくすぐるのだ。彼女に対して告白してくる男性は少なくなく、短い期間に別れても、次から次に付き合う相手が変わるだけなので、絶えず誰かと付き合っているというイメージだ。

 ただ、相手が違っていることが彼女を中途半端にしか知らない人は、

「男を狂わせるタイプなのかも知れない」

 と思い、敢えて彼女と距離を取っている人もいるくらいだ。

 そういう意味で、幸助はそっちのタイプだった。自分も社交的ではない性格であり、しかもそれまでずっと学生時代から付き合っている女性がいたのだから、他の女性に目が行くはずもない。

 ただ、避けてはいたが、桜子のことをかわいいと感じていたのは事実のようで、嫌いだというイメージはなかった。

 それだけに、距離を保っていたというのが本音で、避けていたという感覚は桜子側が勝手に感じていたことだった。

 だから、自分を避けている男が女性にフラれてショックを受けているのをいちいち気にするはずもなかった。

 別に好きでも嫌いでもない相手なので、

「どうでもいい」

 と感じているだけだったのだ。

 だが、桜子という女の子は、実際にはウブだった。男性を知らないわけではなかったが、下ネタの話などは、他の友達に任せていて、自分から積極的に話に行くタイプではない。高校時代までは、結構ませたタイプだったようだが、友達ばかりが目立つようになってしまったので、自然と自分は引っ込み思案な性格に変わってしまった。

 中学の頃というと、ファッション雑誌などを結構見ていて、自分も将来ファッション関係の仕事に就きたいと思ったほどだった。実際にファッションセンスに関しては今でもいい。それは誰もが認めるところであったが、目立つというところまではいかなかった。

 そのうちに、高校生になると、それまでいつも自分の後ろにいたような女の子が急に饒舌になった。何が彼女をそんな風に変えたのかというと、これも考えればすぐに分かること、その女の子に彼氏ができたからだった。

 元々、暗い性格ではなく、何かのきっかけがあれば、会話にしてもいくらでもできる女の子だった。きっと自分でもそのあたりは分かっていたのだろう。分かっていたからこそ、彼氏ができたのだと思うのだし、どうして自分が表に出なかったのかというと、ただ自分に自信が持てなかったからだった。

 彼女は人の顔を覚えるのが苦手で、一度人ごみの中で知り合いを見かけたと思い、思わず声を掛けると、

「あなた、誰ですか?」

 とキョトンとされたことがあった。

 それ以来、彼女は人に声を掛けられなくなり、同時に自分に自信も失った。同時に失った自信なので、一つ取り戻すことができれば、他の自信も簡単に取り戻せるのは必然だった。

 今でも人の顔を覚えることができない彼女ではあるが、一度高校を卒業してから連絡を取り合っていなかったのに、就職してから少しして、電車の中で偶然出会ったのだった。

 彼女は名前を塩塚りえという。

「桜子じゃないの?」

 と言われて、最初は誰なのか分からなかった。

 普段から急に声を掛けられるなどないことであったが、とりあえず相手が女性でよかったと思った。

 振り向けばそこにいたのは、どこかで見たことがあるような気がしたが、すぐに思い出せる顔ではなかった。それだけ高校時代の記憶というと桜子にはかなり昔の記憶だということであった。

 化粧が濃いわけではなかったことで何とか思い出すことができた。

「ひょっとして、高校の時一緒だった、りえ?」

「ええ、そうよ。久しぶりね」

 高校の頃から前のことは、あまり思い出したくないと思っていた桜子だったが、りえの顔を見ると急に安心感が湧いてきた。

――だが、待てよ? りえというと、人に話しかけることに対して、極度のトラウマを持っていたはずじゃないのかしら? どうしてこんなにも簡単に私に声を掛けることができたのかしら?

 という思いがあった。

「本当に、りえなの?」

 と思わず聞いたくらいで、

「何よ、そんなに不思議なの?」

 と言われて、

「だって、あなたの方から誰かに声を掛けるなんて、ちょっと信じられなくて」

 というと、それに関して彼女も別にこだわっている様子もなく、

「あれからだいぶ経ったもんね。私も変わったのよ」

 とあっけらかんと言ったが、こんなに重要なことを簡単に言えるような性格でもなかったはずだ。

――何が彼女を変えたのかしら?

 と思ったが、その後、

「彼氏ができた」

 と聞いて、

「なるほど」

 と感心したのだった。

 桜子としては、先を越されたという意識が強かったが、焦る気持ちはなかった。それは彼女の変わりようが少し大げさすぎたからだ。以前の彼女を知っている人であれば、違和感を抱かないわけはないと思えた。

 彼氏というものが、女性をどれほど変えるかということは、大学時代に見てきたことでよく分かった。

 桜子の直接の友達ではなかったのだが、その女の子はアルバイトでキャバクラで働いていた。桜子も、

「あなたもやらない?」

 と言って誘われたことがあった。

 しようとは思わなかったが、興味はあったので、どんなものなのか、彼女の口から出る言葉が聴いてみたかったのだが、

「男性を騙すつもりになってはいけないと思うの。自分が相手に好かれているという思いを錯覚だとして認識して、その時に彼が彼氏だとして、何をしてほしいのかを考えるようにすると、お仕事も嫌ではないし、お客さんからの指名も増えると思うの」

 と言っていた。

 その時は何を言っているのか分からなかったが、確かに彼女は楽しそうに仕事をしているということは分かった。

「普通の接客業と変わらないと思えばいいんだわ」

 と思い、一度だけ体験入店というものをしたことがあった。

 もちろん、その時のことは誰にも内緒だが、その時に、

「聞くとするとでは大違い」

 ということがよく分かった。

 もちろん、客のタイプにもよるだろうし、一緒についてくれたキャバ嬢にもよるのだろうが、客の好奇の目は、かなりグサリと突き刺さった気がした。明らかに厭らしい目が桜子に注がれた、髪の毛の先から舐めるような視線がどんどん下がっていく。途中、胸に来た時と、腰のあたりに来た時の視線の厭らしさと言えばなかった。思わず腰をくねらせたものだが、その様子を客はさらに舐めるような厭らしい視線で見つめた。

「まるでまな板の上の鯉のようだわ」

 と感じたが、その時に、恥ずかしさが頂点に達しているのを感じた。

 しかし、次の瞬間にはその恥ずかしさが続いてこない気がした。続いていないくせに、下がってくる気はしない。同じ恥じらいという感情があるのに、それが恥ずかしいという感情とは違っていると感じた。

――この感情は一体何なのかしら?

 と思うと、

「見られたいという感覚とは違うんだけど、何だか気持ちいいわ」

 と自分に言い聞かせた。

 気持ちよさは心地よさに変わり、相手の指が身体に触れでもすれば、鳥肌が立ってしあうのは間違いないと思っているのに、そのまま睡魔に襲われそうな感覚に陥った。

「ああっ」

 思わず声が漏れそうな気がして、自分でも目がトロンとしているのが分かった。

 そんな様子をこの時の客は見逃さなかった。触れてもいない指が、ねちっこく、自分の足の上を這っているかのようだった。まるでピアノの鍵盤を叩いているようで、その動きは淫靡であった。スーッとズボンの上をぬっているような感覚で、彼の目は、ずっと桜子の腰のあたりを見つめていた。

 彼の視線と指の動きが違っていることで、まるで催眠術にでもかかったかのように、腰がふらつく桜子は、自分がそのまま果ててしまうのを感じた。

「横にいる先輩キャバ嬢に知られたくない」

 と思って、顔を向けると、彼女も目の前の男と同じ表情をしていた。

「どう? 気持ちいいでしょう?」

 と言っている。

「ええ、気持ちいいわ」

 と声には出さないが身体がそう反応していた。

 その場にいる男と女から、同時に攻撃されていると思うと、恥ずかしさで顔が真っ赤になり、その場から逃げ出したい衝動に駆られたが、身体はその思いに反して、決してそこから離れようとはしなかった。

「もっと、して」

 このまま果ててしまえば、どんなにか気持ちいいだろう。

 しかし、二人はそれを許さない。あくまでもニヤニヤしているだけで、桜子が我慢できずに、その場で失神するのを待っているかのようだった。

 失神まではしなかったが、身体から溢れる厭らしい体臭や体液で、意識不明寸前まで行っていた。その場で絶頂を迎えてしまうと、間違いなく、失禁したまま気を失っていたことだろう。

 さすがにそこまではできないということで、ギリギリのところで寸止めされた。この興奮が、桜子の中で強烈な印象となり、ある意味トラウマとして身体に沁みついてしまったようだ。

 そして、同時に桜子は自分がM気質だということを、その時に初めて気づいたのだった。桜子は、自分が恥ずかしい体質なのだと思い、体験入店だけで、結局そこで働くことはなかった。ただ、男性に対して恐怖心や、依存心のようなものが芽生えたというわけでもない。どちらかというと、

「私には普通の恋愛なんかできないのかも知れない」

 という思いがあったくらいだった。

 しかし、彼氏ができたことであれだけ性格もいい方に変わったりえを見ていたので、彼氏を作りたいという思いは持ったまま、ただ彼氏を作らなかっただけだった。

 そのせいか、大学を卒業するまでは、男性と付き合うことはなかったが、大学を卒業し就職も決まると、環境が変わったおかげで、彼氏ができそうな気がしてきたのは、

「元々ポジティブな性格だったのかしら?」

 と、桜子は感じた。

 就職し、少し仕事に慣れてくると、気持ちに余裕ができてきたのか、まわりを見る気にもなってきて、気になる男性も出てきた。その男性が今の旦那である、牛島幸助だった。

 幸助は真面目な性格というものを判で押したような人で、仕事中、まったく余計なことも言わないような、一種の堅物に見えた、

「牛島さんは、仕事上では頼りになるけど、男性として付き合うという気分にはなれないわね」

 というのが、独身女性社員の一致した意見だった。

 女性社員も数人いれば、一人の男性に対しての意見はそれなりに割れるものだが、この牛島という人に対しては、ほぼ皆一致した意見だった。

「それだけ、ブレない性格ということなのかしら?」

 と、桜子は感じ、そこに魅力を感じるのだった。

 桜子は牛島をいつも注意して見ていた。まわりの女性社員からは、そんな桜子の態度は丸わかりだったのに、逆に見られている牛島の方は、なかなか気づかないようだった。

「何て鈍感なのかしら?」

 と、他の女子社員は皆そう思っていたようで、

「牛島さんとか、やめなさいよ」

 と助言してくれる女子社員もいた。

「え、ええ」

 と曖昧に答えたが、桜子の中では意中の人という意識があったので、それを否定する気にはなれなかった。

 そんな日々が一月ほど経ったであろうか、やっと牛島も気づいたのか、ある日仕事の帰りに、

「今日、お時間ありますか?」

 といきなり聞いてきた。

「えっ?」

 と、半分ビックリ、半分嬉しさでそう聞きなおすと、

「よかったら、一緒にお食事でもどうかと思って」

 と言ってきた。

 もちろん、断る理由など何もない。いつ誘われてもいいように、予定は開けておいた。いや、最初から予定など何もなかったと言ってもいい。桜子が返事をしないと、了解だと思ったのか、牛島は無言の桜子を引っ張るように会社を出た。

――この人、思っていたよりも積極的な人なんだわ――

 と感じた。

――ひょっとすると、今まで何もリアクションを起こさなかったのは、気付いていなかったわけではなく、私の気持ちを思い図っていたのかしら?

 と思ったほどの積極性に、

――男性は、こうでないと――

 と思った桜子だった。

 牛島は会社を離れれば、結構饒舌だった。多趣味でもあり、映画の話や最近読んだ小説の話など、芸術的な話も交えて、話も飽きさせないものだった。

 仕事が終わっての食事の時間は彼の饒舌もあって、あっという間に過ぎて行った。

「今日はどうもありがとうございました」

 と桜子がいうと。

「いえいえ、こちらこそ。これからもよろしくお願いしますね」

 と言って、彼は握手を求めてきた。

 桜子も誠実さが感じられた牛島に好意を寄せていたので、素直に手を差し出し、握手をした。

 思ったよりも冷たく感じたが、

――掌が冷たい人って、逆に心が温かいというわ――

 と自分に言い聞かせた。

 その思いが合っているのか間違っているのか、桜子は分からずに、その時に感じた感覚は意外とすぐに忘れて行った。

 それから、適度なタイミングで牛島はデートに誘ってくれた。ほとんどが仕事帰りだったが、ある日、

「今度の休日、ご一緒できれば嬉しいですね」

 と言ってきたのが、初めて食事をしてから一月ちょっとしてからだった。

 タイミング的にはちょうどよかったのではないだろうか。桜子としても、

「そろそろかしら?」

 と思っていたからだ。

 彼との最初のデートは美術館だった。会社の近くに大きな公園があるのだが、その端の方に県立美術館があり、少し建物としては古く、少し森のようなところにあるので、意識しなければ見過ごしてしまいそうなところであった。

 ちょうど、フランス絵画の印象派の美術展が行われていて、絵画にあまり興味のない桜子でも知っているような有名な画家の作品もあり、まったく分からないわけではなかったのは安心できた。

 それよりも今までに美術館なるところにほとんど足を踏み入れたことがなかっただけに、一緒にいるのが、付き合っている牛島だというのが嬉しかった。息苦しくほど空気の薄さを感じる。無駄に広い空間に、音がわざとらしく響いているようで、気が遠くなるのを何とか抑えているかのようだった。

「大丈夫ですか?」

 やはり、少し息苦しさが顔に出ていたのか、牛島が気にしてくれた。

「時間はゆっくりあるので、慌てなくていいですよ」

 と、身体を支えるように、歩いてくれた。

 それまで彼とは腕を組んだり、手を繋いだりはしたことがあったが、ここまで身体が密着することはなかった。お互いに重ねようという意識があってのことではなかったが、却って自然な感じがするのも悪くはなかった。

 そんな時、心地よさを感じたが、

――これは初めてではない感覚だわ――

 どこで感じたのかを思い出していたが、

――そうだ、大学生の時のあの体験入店の時だわ――

 あの時は身体が触れあったわけではなかったが、まるで身体に電流が走ったかのように震えが止まらないほど興奮し、そのまま果ててしまいそうな恥ずかしい思いをしたのを思い出した。

――どうして、あの時のことを?

 と感じたが、だからと言って、今日も恥ずかしいというわけではなかった。

 むしろ懐かしいという感覚で、相手が付き合っている人だという思いがあるから、恥ずかしくないと思った。

「付き合っている?」

 ふと、桜子は感じた。

 確かに、何度かデートを重ね、その間に腕を組んだり手を繋いだりしたが、それ以上のことはまだ何もない。それで付き合っていると言えるのかと思うのだった。お互いに身体を重ねるという一線を越えることが付き合っているということになるのではないかと、桜子は思った。

 実際には、付き合うという定義はどこからなのか、それは個人レベルでそれぞれ差があるのだろうが、初めて男性との交際で、桜子は戸惑っていた。

 ただ、自分の中で、

「そろそろなんじゃないか」

 という思いがあるのも事実で、今までの牛島の態度を見ていると、彼に従っていればそれだけで安心であることから、

「彼に任せておけばいい」

 と思ってもいた。

 こういうことは男性の方からのアクションであって、決して女性の側から言い出すことではないと桜子は思っていた。

 やはりというか、想像していた通り、その日の夕方、彼は桜子をホテルへと誘った。誘い方も紳士的だったので、何ら抗う心境もなく、その場の流れに身を任せることができたのだが、それはまるで夢のような出来事に感じた桜子だったが、牛島の方はどうだったのだろう?

 桜子はその状況に身を任せながら、そんなことを考えていた。

 その日を境に、二人は完全に付き合い始め、それまで公然の秘密だった交際も、会社でオープンになっていった。どちらも同僚に隠していたという意識はなかったが、まわりの方で二人が隠しているのではないかというような雰囲気があったようで、それがぎこちなかったことから、公然の秘密のようになっていた。

 しかし、今はそのぎこちなさが消えたことで、二人の交際はまわりから公認という雰囲気になっていたのだ。

 幸助は、今までの女生徒の交際を隠さずに話してくれた。といっても、実際に付き合っていたのは、大学卒業前に付き合っていて、別れを切り出された女性だけだったというが、彼の話を聞いていると、大学在学中に、付き合っていたと言えないほど短期間であれば、ひょっとして付き合った人数に入れるべきか悩むところの人は数人いると言っていた。

「それってどれくらいの期間なの?」

 と桜子が聞くと、

「長くて三か月くらいかな? 中には二週間なんて人もいたけどね」

 と言って苦笑いをしていた。

「三か月くらいだったら、微妙なのかも知れないけど、それより短かったら、お付き合いしていたとは言えないかも知れないわね」

 と、自分が男性と付き合ったことがないのを棚に上げて、自分の意見を述べた。

「そうなんだよね。僕は今まで女生徒長く付き合ったことはないんだ」

「どうして別れることになったの?」

 と聞くと、

「それが分からないんだ。急に相手から別れを切り出したり、何も言わずに僕から去って行ったりで、僕としてはサッパリ訳が分からない。そのせいもあって、失恋してからのショックは結構長引いたりしたんだ。三か月しか付き合っていないのに、半年悩んだりしてね。今から思えばバカみたいだった思うよ」

 と彼がいうと、

「そんなことないわよ。それだけあなたが恋愛に真剣だったということでしょう?」

「僕もそう思うんだけど、やっぱりうまく行かないというのは、ショックが大きなものだよね。特にいきなりの別れというのは、ショック以外の何物でもない。おかげで自分の何が悪いのか結構いろいろ考えるんだけど、どうしても分からないんだ」

 という。

 別れに際して、すべてどちらかが悪いというのは、明らかに浮気したなどの既成事実でもなければ成立しないだろう。それこそ、

「性格の不一致」

 などという別れの理由があるが、これほど曖昧で、都合のいい理由はないような気がする。

 言い訳にも聞こえるし、この意見が圧倒的に別れの理由で多いというのは分かる気がする。

 少し、その話を聞いて、初めて牛島という男性に不信感を感じたが、結婚に際して何ら引っかかることでもなく、次第にその感覚も忘れていくのだった。

 二人が結婚したのは、付き合い始めてから三年くらいが経ってのことだろうか。気が付けば会社の中では早い方で、人によっては、

「なるべくしてなった結婚」

 ということで、やっとというイメージの強い人や、二十歳なかばという年齢から、

「スピード結婚」

 をイメージする人もいたが、二人の間ではそんな余計な感覚はなく、

「普通に付き合って普通に結婚しただけ」

 という思いがあった。

 特に二人は結婚に対して特別なこだわりがあったわけでもなく、結婚という儀式が済んだだけという感覚だった。

 最初、二人は会社の近くの賃貸マンションで新婚生活を始めたが、そのうちに彼からの誘いで、

「両親が一緒に住まないかと言っているんだけど」

 という話を聞き、少し迷ったが、両親とも別に確執があるわけでもなく、嫌いなわけでもないので、

「いいわよ」

 と返事をした。

 それが、自分にとって無意識なストレスをためることになるなど、その時はまったく意識していなかったが、もし、人生に節目がいくつか存在するとするなら、この時もその一つだったのかも知れない。桜子は、まったくそんな感覚もなく、ただ牛島を信じるだけだった。

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