ふたりの愛の物語

香杜 洲

第1話

 冴島さえじま家に着いた頃には、すっかり日が落ちて辺りは暗くなっていた。恭一朗に促されてみさ緒が車を降りると、目の前には見たことも無いような大きな建物がそびえ立っている。

(これが・・冴島家?)

 石造りだろう。建物は暗い中にほの白く浮かび上がり、その前に立つ者を圧倒するような荘厳さだった。煌々と灯された外灯、開け放たれた玄関から見える建物の中は、まばゆいくらいの明るさにキラキラしていた。天井には美しい装飾の照明がいくつも取り付けられて、奥へと続く廊下には赤いじゅうたんが敷きつめられている。

(すごい・・)

 たしか恭一朗は、冴島商会の冴島恭一朗だと名乗った。冴島商会とは、何をしているのだろうか? 村での暮らししか知らないみさ緒には想像もつかないような世界が広がっていた。恭一朗に助けられて、ここまで来たが、一体どれくらいの時間、車に乗っていただろう。かなりの長旅だった、と思う。みさ緒が育った村の暮らしは、いつも薄暗かった。目の前の様子がまるで別世界で、すっかり委縮してしまっている。ぼぅっとした様子で立っているみさ緒に、恭一朗が声をかけた。

「さ、中に入って。履物はそのままでいいから」

「お帰りなさいませ、恭一朗様」

 口々にいう声に迎えられて、恭一朗に続いて玄関から廊下に上がったものの落ち着かない。まるで場違いな所に来てしまったようで、みさ緒は恥ずかしかった。恭一朗の陰に隠れるようにしていると、

「恭一朗様、お帰りなさいませ」

 と、明るい声で言いながら近づいてくる女性がいる。四十歳位だろうか。いかにもしっかり者といったようなてきぱきした立ち居振る舞いをしているが、どこか温かい雰囲気をまとっている。

「まぁまぁ、みさ緒様・・。すっかり大きくなられて・・」

 と、親しげな様子で声をかけられた。みさ緒は全然覚えがない。顔を赤くして何も言えずに俯いてしまった。

「きよ、みさ緒がびっくりしているよ。まだ詳しいことは何も話してないんだ」

 恭一朗が笑っている。

「あら、そうでしたか。それじゃ、びっくりなさいますね」

 と、きよも笑った。恭一朗が、女中頭のきよだと紹介すると、きよは軽く頭をさげて挨拶した。

「みさ緒様、きよと申します。お腹は空いていらっしゃいませんか? お食事のご用意もありますけれども・・」

 と言って、早速世話を焼き始めた。みさ緒に特別な思いがあるようだった。

「いえ、あの、ありがとうございます。お腹は空いているはずなんですけど、今は食欲がないみたいです」

 顔を赤くしたまま、みさ緒が小さい声でそう答えると、

「そうか・・。慣れないことで疲れているんだろう。今日はもう休むといい」

 無理しないようにと、恭一朗が気遣ってくれた。みさ緒を部屋へ案内するよう、きよに指図すると、

「おやすみ、みさ緒」

 と声をかけて恭一朗は奥の方へ歩いて行こうとしている。

「恭一朗さま、おやすみなさい。今日はありがとうございました」

 みさ緒は慌てて言うと深々と頭を下げた。



 案内されるまま二階へと続く大きな階段の下までくると、きよが屋敷全体のことを簡単に説明してくれた。

「一階はお客様がお見えになったときに面会される客間と大人数が一度にお食事を召し上がることができる大広間、恭一朗様と旦那様がお仕事をされる部屋があります。お仕事がら、お客様が多ございますから、そのための公の場所とでも言いましょうか。二階は居間とか寝室とか皆様が普段の生活に使われる場所になっています。今晩、みさ緒様に使っていただくのは二階の来客用のお部屋です」

 みさ緒は階段の手前で草履を脱ぐと丁寧に揃えて、そのまま足袋で赤い絨毯の敷かれた階段を上りかけた。すると、きよが気付いて

「みさ緒様、お履物はそのままで」

 と、階段下に揃えられていたみさ緒の草履を、どうぞと足元に並べてくれた。

「西洋式、とやらで、このお屋敷では履物は、ずっと履いたままなんですよ。実をいうと、もう何年もこのお屋敷で働いているというのに私も慣れなくて・・。これは中の履物、これは外のって履き分けてます」

 と言ってけらけらと笑った。

(きよさん・・、いい人)

 村から来て作法も何も知らない自分を馬鹿にする様子もなく、それどころか恥ずかしい思いをしないようにと気遣ってくれるきよに、みさ緒は亡くなった祖母フミの面影を重ねていた。心細さが少しだけ和らいだ気がする。

「さ、こちらですよ。お荷物はここに置いておきますね。本当にお腹はお空きじゃないんですか? よかったら、おむすびでもお持ちしておきましょうか? 水差しはここにありますからお使いくださいね。お茶がよろしければお持ちしますけれど。でも、寝る前だとお茶は却ってよくないかしら」

 部屋に入るなり、立て板に水の如くきよがあれやこれやと聞いてくる。どうでも世話を焼きたいらしい。なんとなくうれしくて、みさ緒が思わず笑顔になると、あら笑い顔が出ました、少しは落ち着かれたようですね、と言うと

「では、きよはこれで失礼します。ごゆっくりお休みくださいませ」

 と、部屋から出ていった。

「よかった、よかった」

 と、どこかほっとしたようにきよが階段を降りかけたとき、後ろでガタンと音がする。何事かと振り返ると、風呂敷包みを抱えたみさ緒が廊下に立っていた。

「みさ緒様、どうなさいました? 何か要り用のものでも?」

 と、きよが慌てて近寄ってくる。

「いえ、あの・・」

 と、みさ緒は口ごもっていたが、思い切ったように言った。

「きよさん、私は明日からこの冴島家で下働きをさせていただくことになるのでしょう? いえ、とてもありがたいことだと思っています。その私が、あんな立派なお部屋に泊まらせていただくのはもったいないことだと思って・・。だから、その、きよさんたちが使っているお部屋の方で、私が泊まれる場所がないかと思って」

 言い終えると、黙ってきよの返事を待っている。

「まぁ、みさ緒様・・。みさ緒様は、れっきとした冴島家のお嬢様なんですよ。下働きだなんて、まぁまぁ何をおっしゃるのかと思えば・・」

 と、びっくりした顔で言った。これまでのいきさつやこれからのことについては、明日にでもお話がありましょうから、と諭すようにして、みさ緒をさっきの客間に押し戻した。

 結局、客間に戻ったみさ緒だったが、きよが言った言葉が気になって布団に入ってもすぐには寝つけなかった。

「すっかり大きくなられて・・」

「れっきとした冴島家のお嬢様・・」

 まるっきりピンと来ない。だいたい冴島家が何をしている家なのかも知らないのだ。

 このふかふか布団に包まれている自分は、まるで何かの物語の中に放り込まれてしまっているようで、現実味がなかった。ほの暗い天井を眺めながら、祖母のフミが亡くなってからここに来るまでの目まぐるしかった十日ほどの日々を思い出していた。

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