バーフライズ・ストンプ

名古屋ゆりあ

センセイは美しい人

波田小梅(ハタコウメ)、27歳。


職業は官能小説家だ。


わたしこと津川紅葉(ツガワモミジ)は彼女のことを“センセイ”と呼んでいる。



センセイは美しい人だ。


1度もカラーリングをしたことがないショートカットの黒髪。


一重の目に小さな鼻、桜色の唇。


白玉のように真っ白で透き通る肌。


彼女を例えるとするならば、まるで日本人形のようだ。


「はい、来月の原稿」


凛と澄んだ声で、センセイがわたしに原稿が入った茶封筒を渡した。


分厚い茶封筒を持っている、ピアニストのようにしなやかで細い指に視線が行ってしまう。


「ありがとうございます」


わたしは会釈をするように頭を下げると、センセイの手から封筒を受け取った。


一瞬だけ、わたしの手がセンセイの手に触れた。


ドキッ…と、わたしの心臓が鳴った。


この瞬間が怖くて、だけど楽しみだったりする。


「では、確認をします」


「どうぞ」


センセイは桜色の唇をあげた。


わたしは封筒から原稿を取り出すと、確認作業を始めた。


センセイの職業は官能小説家で、わたしはセンセイ担当の編集者だ。


――さすが“女王様”だ…と、彼女の原稿を読んだわたしは思った。


センセイは高校2年生の時に官能小説家としてデビューをして以来、10年目を迎えた今日まで活躍を続けている。


センセイの手から紡ぎ出されるその言葉は丁寧で、例えるとするならば花のようだ。


センセイの手から紡ぎ出された言葉は種になって、芽を出して…美しい花を咲かせる。


その花から漂う香りは甘くて、瑞々しくて…ああ、もう目眩がする。


「――とっても、よかったです…」


わたしは原稿から顔をあげると、センセイに言った。


センセイは優しく笑うと、

「そう、それはよかった」

と、言った。


その笑顔と唇からこぼれた言葉に、わたしの心臓がまたドキッ…と鳴った。


センセイの担当になって早1年、わたしはまだこの感覚になれることができずにいた。


センセイの手から紡ぎ出される言葉に、センセイの唇からこぼれる言葉に、花のように美しい笑顔に――センセイの全てにひかれていることは、嫌でもわかっていた。


「おや?」


センセイが首を傾げた。


「顔色が悪いね。


どうしたんだい?」


「――あっ…」


センセイのしなやかな手が、わたしに向かって伸びてきた。


「あ、あの…センセイ…?」


「熱はないようだね」


センセイは額をさわった後、手を離した。


ああ、熱があるかどうか確かめたのか…。


そう思ったのと同時に、離れてしまったその手が名残惜しいと思った。


もっとセンセイの手にさわっていたい。


ううん、センセイの手だけじゃ物足りない。


「津川さ…」


わたしは自分から手を伸ばして、センセイの手を握った。


突然のことに、センセイが驚いた顔をする。


「――センセイ…」


呟くようにセンセイを呼んだ後、自分の顔をセンセイの顔に近づけた。


センセイとの顔の距離が近づけば近づくほど、花のような甘い香りが近くなる。


いつも漂っているこの香りは、センセイの躰から出てくる香りだったのか。


「――ッ…」


そう思ったのと同時に、わたしの唇とセンセイの唇が重なった。


――センセイと、キスをしてしまった…。


ゆっくりと唇を離すと、センセイはわたしを見つめていた。


「――あっ…」


わたし…今、センセイに何てことを…。


そんなことを思っても、時すでに遅しだ。


「ご、ごめんなさい!」


わたしは握っていたセンセイの手を離すと、センセイから離れた。


一瞬でもセンセイを求めてしまった自分を怖いと思った。


センセイは桜色の唇を横にひくと、

「君は、私がそう言うタイプである人間だと言うことに気づいていたみたいだね」

と、言った。


「えっ…?」


そう言うタイプの人間って、どう言うタイプの人間なんですか?


「おや、君は何にも聞かされていないようだね」


センセイはわたしの顔を覗き込むと、

「私は…男でも女でも愛すことができる人間なんだよ」

と、ささやくように言った。


「お、男でも女でも…?」


センセイは女だから男を愛すのはわかるけど、女って言うのはどう言う意味なの?


戸惑っている私に、

「俗に言うならば、“バイセクシュアル”と言うところだね」

と、センセイが言った。


「ば、バイ…?」


「そう、“バイセクシュアル”だーー人によっては“博愛主義者”なんて言う表現の仕方をする人もいる」


センセイの躰から漂っている花のような甘い香りに、頭がクラクラする…。


まるで、病気になったみたいだ。


「こんな私を、君は嫌いかい?」


センセイが言った。


そう言ったセンセイはどこか悲しそうで、放って置けなかった。


気がつけば、私は首を横に振っていた。


「――嫌いじゃ、ありません」


黒いビー玉のようなセンセイの瞳を覗き込むと、

「センセイが好きです」

と、言った。


「――紅葉…」


センセイは大切なものを扱うようにわたしの名前を呼ぶと、今度はセンセイの方から唇を重ねた。


――センセイとキスをしてしまった


センセイの家から出版社に、どうやって戻ったのか自分でもよくわからなかった。


「はい、確かに受け取ったよ」


編集長がセンセイの原稿を受け取った。


「どうした?


何かあったか?」


首を傾げて聞いてきた編集長に、

「――えっ…い、いえっ…」


わたしは首を横に振って答えた。


「波田先生の原稿も受け取ったことだし、今日はもう帰っていいぞ。


みんなもキリがいいところで終わらせて帰るように」


編集長が呼びかけた。


出版社を後にすると、グレーの壁のマンションが見えてきた。


そっと、センセイとキスした唇を指でさわった。


女の人とキスをしたのは、今日が初めてだった。


ドアを開けると、先に目についたのは男物のスニーカーだった。


パンプスを脱いで、中へと足を踏み入れる。


2LDKの間取りのこの部屋は、1人で暮らすには充分過ぎる広さだった。


ある部屋の前に立つと、そっと音を立てないようにドアを開けた。


ドアのすき間から漂ってきたタバコの匂いに、思わず顔をしかめた。


センセイの躰から漂う香りとは大違いだ。


耳を澄ませてみると、寝息が聞こえた。


…この様子だと、また仕事を辞めたようだ。


気づかれないようにこっそりと息を吐いた後、ドアを閉めた。


つきあって2年目になる彼氏とは合コンで知りあった。


彼はわたしの家に勝手に転がり込んできて、勝手に暮らし始めた。


彼が働いているところは見たことがない。


3日…長くても2週間で仕事を辞めては、わたしの家に寄生している。


「――センセイ…」


そっと、また唇を指でさわった。


センセイが甘い香りを漂わせる美しい花だとするならば、わたしはその甘い香りに誘われたハエと言った方が正しいかも知れない。


手をさわっただけじゃ物足りない。


キスをしただけじゃ物足りない。


しなやかなその手でわたしにさわって欲しい。


桜色の唇でわたしにキスをして欲しい。


センセイに犯されるなら、本望だ。


センセイに狂わされるならいいと思った。

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