ここにウサギがいたら、震え上がって死んじゃう
「おいアドルファス、急に走り出してどうした――て、ほんとどうした!?」
ルードヴィヒ王弟殿下が客間に駆け込んで来たのだが、アドルファス王太子殿下の様子を見て後ずさる。
そしておそるおそる甥っ子に問いかけた。
「怖っ……激怒してるじゃん、何があったんだよ? 長い付き合いだが、アドルファスがここまで怒っているの、初めて見たんだけど」
それを聞いた私は驚きを覚えた。
今のアドルファス王太子殿下は先ほどよりもだいぶ落ち着いている。怒り度数でいえば半分以下まで下がっているだろう。……それでもルードヴィヒ王弟殿下から見て、過去にない異常な状態なのね?
じゃあさっきの様子を見ていたら、仰天して腰を抜かしていたかも……。
――「何があったんだよ?」と尋ねられたのに、アドルファス王太子殿下は答えない。
ということは、まだ普通に会話できないほどに感情を乱している……? 私はそう推察した。
助けてくれた直後に少しだけ会話をしてくれたが、あれは相手が私だったからで、鋼の自制心で応答してくれたのだろう。
と、それより……何があったのかルードヴィヒ王弟殿下が気にしているので、私が代わりに答えた。
「私が客間のドアノブを捻ると、グニャリと歪んだ気がしました。そしてドアを開けたら、目の前にペイトンさんが立っていて、それで――」
「え、Pが!? どこだ、あいつ……!」
ユリアが仰天して叫ぶ。そして身を乗り出し、客間の中をぐるりと見回した。
ユリアもルードヴィヒ王弟殿下とほぼ同時にここへ駆けつけて来たのだ。エルゼ嫗も一緒だった。
客間の出入口に大勢が集まっているので、なんとなく息が詰まる。すごい密集具合だ。
アドルファス王太子殿下はずっと私を懐に抱え込んでいて、離さないし……。
私は慌ててユリアを落ち着かせる。
「あの、ユリアさん、ペイトンさんはもういません」
「でもあなたに何かしたのでしょう?」
「いえ、襲われたのは確かなのですが、相手はペイトンさんじゃなかったんです。見た目はペイトンさんなのですが、実は違って」
「あの……彼女を襲ったのは私です」
膝立ちの状態を保っていたゲオルクがおずおずと挙手した。
視線がゲオルクに集まる。皆、アドルファス王太子殿下の異様な雰囲気に圧倒され、ゲオルクのことは眼中になかったのだ。『なんか膝をついているやつがいるなぁ』くらいの扱いでスルーされていた。
ゲオルクはしょんぼりしている。
「す、すみません、私は慌てていまして……客間に入って来た美しいご令嬢に飛びつき、壁に強く押しつけ、覆いかぶさってしまいました」
「お、覆いかぶさった!?」
ふたたびユリアの声が引っくり返る。
「え、どういうこと? 覆いかぶさって、匂いを嗅いだってこと? 髪を撫でた? 抱きしめた? キスした? あるいはムラムラして胸を揉んだ?」
――な、なんという容赦のない詰め方! 私は頭を抱えたくなった。
私を抱き留めているアドルファス王太子殿下から殺気がまた漏れ始めている。
そろそろ地獄の扉が開きそう……!
「違います! 胸は揉まれていません!」
私は必死で否定をした。けれど事態はどんどん悪くなる。
「……『胸は』揉まれていません? てことは、ほかのことはされたの? どこを揉まれたの?」
おっと……メルヘン王子の闇落ち。
怖っ……私は息を呑む。ここにウサギがいたら、震え上がって死んじゃうかも。
とにかく一刻も早く誤解を解かなければ。
「いえ、ほかのこともされてな――」
「すみません」胸の前で両手の指を組み合わせ、ゲオルクが懺悔しだす。「匂いはたくさん嗅ぎました。すごく甘い匂いで、キュンとしました。あとキスしそうなくらいに近寄りました……正直、すごくタイプです。夢に出てきそうです。一生の思い出にします」
正直な性格なのかなんなのか知らないが、これはない。
ちょっと黙って……! 私からも殺気が漏れ出す。
アドルファス王太子殿下の頭がゆらりと微かに揺れ――……彼の右腕がしなやかに伸びて、ガツッとゲオルクの顔面を掴んだ。
「どうしよう、五分前の再現……!」
私は恐れおののく。
「え、再現? さっき何があったんだよ」
ルードヴィヒ王弟殿下がぎょっとしている。
混沌とした空気の中、ユリアがふらりと進み出て来て、片足を振り上げた。腕組みをし、修羅の表情を浮かべている。
ゲオルクは膝立ちの状態なのだが、ユリアは彼のふくらはぎをガツッと踏みつけた。
「おい、貴様、ディーナさんの匂いを嗅いだだと? キスもしかけただと? このド腐れ痴漢クソ野郎が……!」
ユリアの台詞にかぶせて、ギリ――と右腕に力を込め、ゲオルクの顔を歪ませる無表情なアドルファス王太子殿下。
「記憶を飛ばしてやろうか……」
完全に地獄の扉が開いた模様……殺気を放つふたりの背にサタンの幻影を見た気がして、私は青ざめた。
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