(2)自覚のない馬鹿


 私の名前はオーティス、この国の第二王子だ。


 我が妹のメイヴィス王女が先日色々とやらかしたらしい。


 ――要約すると、『長いあいだ他人の男にちょっかいをかけていた』ことが知れ渡り、さらには実力不足により(?)『聖女』という立派な肩書も失い、あげくの果てに隣国に嫁ぎ損ねた。


 まぁすでに終わったことだし、『やってしまったことは仕方ない』と割り切る考え方もあるだろう。


 だが。


 私はこの事態に心の底から嫌悪を覚える。――なぜかって?


 何よりゾッとするのが、メイヴィス自身が、騒動の最中、事態が悪化していくことを望んでいたという点である。私は立ち会っていなかったのだが、後日、人から聞いた。当初、メイヴィスは呑気にはしゃいでいたらしく、そうなるともう、救いようがない。


 五つ、六つ、の子供じゃないんだぞ。十八歳だろう、しっかりしてくれ。


 頭のネジが外れているのか?


 というより、誰かを気遣ったことがないから、年相応の常識が育っていないのか。


 ……まぁ、もともとそんな人間だったよな。


 引きこもりの上に、猫をかぶるのがうまいので、外部にバレていなかっただけで。




   * * *




 ――『子供は無垢(むく)な天使』――そう言う人もいるけれど、私はその説には懐疑的だ。『天使かどうかは、その子供による』――これが正解だと思う。


 それでメイヴィスの場合はどうだったのか?


 私は幼い頃から妹を見てきたが、早い段階から、『この子はかなり問題がある』と考えていた。


 私がはっきりと問題を認識したのは、メイヴィスが三歳の時だった。私と妹は年が五つ離れているので、彼女が三歳で、私が八歳の時。


 とはいえ、彼女が三歳になった途端、突然何かが悪いほうに変わったというわけではない。


 なるべくしてそうなったというか、それらしい原因はあるにはあったのだ。


 ――そもそもの話。


 私たち兄妹(私の上に兄がひとりいて、私、メイヴィスの三人兄妹)は、幼くして母を失くしている。


 母はメイヴィスを産んでから、数カ月後に亡くなった。


 産後のひだちが悪かったということで、とても悲しいことだが、誰を恨むという話でもない。


 父(国王陛下)は母を愛していたので、あとに残されたメイヴィスが、特別な存在に思えたようだ。――男児(兄)、男児(私)、と続いたあとの女児(妹)ということで、おそらく普通の状況であっても可愛がられていただろうが、メイヴィスは面差しが母によく似ていたこともあり、父は彼女を溺愛するようになった。


 ……ただ、溺愛されたからといって、それで性格が歪むわけではないと思うのだ。


 いや、むしろ、愛されて育てば、自己肯定感が高く、おおらかな性格になるケースのほうが多いのではないだろうか。


 だからやはりどう育つかは、『その子供の資質による』のだと思う。


 ただ、幼い頃は多くの子供に癇癪を起こす時期が訪れるようなので、ある程度の我儘に関しては、私も問題視はしない。妹の場合、そういった子供らしい我儘とは、ちょっと種類が違ったのだ。


 ――そう、それで妹が三歳の時。


 父、メイヴィス、私の三人は、連れ立って庭園を散歩していた。(ちなみに兄は私より七歳も上で大人に近く、こういう時は一緒に行動しない)


 散歩の途中でメイヴィスが弱々しくしゃがみ込んでしまったので、父が彼女を抱き上げてやった。


 まぁそれは別にいい。幼い子供がすぐに疲れてしまうというのは、よくある話だ。


「今日はもう、お部屋に戻ろう。疲れてしまったよな」


 父が優しくそう言い、妹を抱っこしたまま歩き出した。


 するとそこへスズメバチが飛んで来た。


 付かず離れずの位置に護衛が付いていたが、彼らは真横を歩いているわけではない。――この時は父が、「威圧感のある君たちがすぐ近にいると、子供が怖がるから」と言って、普段より距離を取らせていた。とはいえ賊が襲撃してきた時は十分に対処できる距離であったが、そばの生垣から突然小さな生物が飛び出して来た場合、即対応するのは難しい。


 父は頭のほうに真っ直ぐスズメバチが向かって来たので、子供を抱いていたこともあり、慌ててしまった。のけ反りかけたあとで、『娘を護らねば』と、腕に抱いていた我が子を下のほうに遠ざけようとした。その動作と同時に、メイヴィスも悲鳴を上げて暴れたため、父の腕から滑り落ち、地面にお尻から落ちた。


 近くにいた私もかなり慌てていて、妹を支えようと手を伸ばしたのだが、間に合わず。


 メイヴィスが火のついたように泣き出した。それはまるで『焼きゴテを顔に押しつけられました』というくらいの痛がりようだった。(スズメバチには刺されていない。単に落とされた衝撃により、だ)


 スズメバチのほうはすぐに護衛が仕留めたが、全員が後ろめたさを感じることとなった。……不可抗力だったとはいえ、結果的に女児を泣かせた。


 特に罪悪感に責められたのが父だ。


「すまない、メイヴィス――私の不注意だ、すまない」


 眉尻を下げ、オロオロと謝る父。


 私も初めは、助けられなかったことを、兄として申し訳なく思った。


 ――ただ。


 妹はじきに泣き止みかけたのだが、そのあとも奇妙な素振りをしばらく続けたので、『あれ?』となって。


 妹の行動は明らかに不自然だった。


 当初のパニックは去っているのに、座り方を行儀の良い横座りにさりげなく直し、顔を覆う手の位置も調整し、メソメソするのを続けたのだ。その仕草がなんというか、私の目には芝居じみているように映った。


 それに、よくよく見てみれば、妹が落ちたのは芝生の上だし、硬い砂利道に放り出されたわけでもない。父は彼女を落す前に、下のほうに遠ざけようとしていたから、落下した地点はそう高くなかったはず。


 ……本当はあまり痛くなかったのでは?


 私は疑いを抱いた。


 初めの泣き叫びはまだ分かる。三歳ならびっくりして、反射的にああなるのも当然だろう。しかしそのあとのコレは、なんなのだ……?


 私はその時、なんともいえない気持ち悪さを感じた。


 そしてそれは気のせいではなかった。


 その後、私は妹により、窮地に追いやられることになる。


 ――三歳児だ、たかが子供だ、となめるべからず。


 もしかすると、とんでもないモンスターであるかもしれないのだから。




   * * *




 スズメバチ事件のあと、妹が寝込んでしまった。


 父は一日に何度も、彼女の様子を見に行ったようだ。


 私はあの時現地にいたし、寝込むほどの問題があったようには思えなかったので、当日はそのまま静観することにした。


 ……小さな子だから、大騒ぎしたせいで熱でも出たのかな……そのくらいの認識だった。


 ところが翌日も起き上がれないほどに弱っているというので、さすがに心配になり、私もメイヴィスを見舞うことにした。バラバラに行くと本人も負担だろうからと、父と一緒に妹の部屋を訪ねた。


 ――ノックのあと、父がドアノブに手をかけ、扉を開く。


 完全に開ききるまでの一瞬で、私は室内の慌ただしい物音を聞き取った。ガタン、バサッ、という音だったので、もしかすると妹が慌てて起き上がろうとして、ベッドのヘッドボードに手か頭でもぶつけたのだろうかと思った。最後のバサッという音は、掛布団を勢い良く剥いだ時のものではないだろうか?


 ところが。


 扉が開ききると、メイヴィスがベッドに横たわっているのが見えた。耳の上まで掛布団をかぶっている。この位置からは彼女の頭髪が少し見えるだけだ。


 え……?


 では今の音はなんだったのだろうか。現状寝ているのだから、起き上がった音ではない――ということはその逆で、直前まで『起きていた』のに、ノックの音を聞いて慌てて寝転がった? だとするとなぜ、そんなことを?


 寝込んでいることを家族が心配しているのは妹も分かっているはずで、それが起きられるほどに回復したのなら、喜ばしいことのはずじゃないか……。


 傍らの父を怪訝な気持ちで見上げるが、父は私のように疑いを抱いていないようだった。ただ純粋に、心配そうにベッドのほうを眺めている。


「……メイヴィス、入っていいかい?」


 妹は返事をしない。けれどこうしていても仕方ないので、私たちは顔を見合わせてから、静かに室内に入った。


 使用人は部屋にいない。なんでもメイヴィスが、「病気で寝てる時誰かがそばにいると、音が気になるの。決まった時間にだけ来て」と注文をつけたのだとか。


 妹は幼いのに、本当にしっかりしている。


 私が同じ年齢だった時は、たぶんもっとケモノ的だったというか、勢いで生きていたような気がするから(そのせいか?幼児期の記憶はそんなにはっきりとは残っていない)、妹のこういうところは素直に感心する。――この能力を良いことに使えば、もしかすると将来は大物になるかもしれないな、と。


 ――そういえば今回の見舞いは、メイヴィスが指定していた訪問時間を守っていなかった。


 これは私の都合だ。家庭教師に勉強を教えてもらっているのだが、ちょうど『今』が空き時間だったのだ。


 けれど父も、私も、訪問時間を守らなかったことに対し、悪いとは思っていなかった。家族だから別に構わないだろう、と。だって使用人と違って我々は、何度も妹の部屋に出入りするわけじゃないのだから。


 ベッドサイドに近寄り、父が優しく話しかける。


「具合はどうだい? メイヴィス」


 妹はモゾモゾと身動きし、掛布団をさらにかぶってしまう。……拗ねているのだろうか?


「メイヴィス?」


「……体、打ったところが痛い」


 元気のない声。父がショックを受けたような顔をしている。


 抱っこしていた自分が、あの時落としたせいで――そんなふうに責任を感じているに違いなかった。そしてそれとは別に、寝込んでいる家族を見て、産後のひだちが悪く亡くなってしまった妻のことを思い出しているのかも。


 私も胸がズキンと痛んだ。私もまた、母が臥せっていた時のことを思い出していた。


 ……息が苦しい。


 父が縋るような声音で問う。


「何か……ちゃんと食べているのか? 栄養を取らないと」


「食べたくない」


「でも、フルーツとか」


「食べられない」


 私はふと、掛布団の隅に白いクリームがついていることに気づいた。


 ……なんだ? 体に塗るクリーム? でもあんなふうにベタッと布団につくだろうか?


 ほとんど勘だった。


 私は掛布団を掴み、サッとそれをめくった。


 すると。


 妹はこちらに背中を向けて横向きに寝ていたのだが、彼女のお腹の前あたりに、デザート皿が置いてあるのが見えた。その上には、クリームたっぷりの焼き菓子が載っている。しかも食べかけだ。なんだよ、ほとんど平らげているじゃないか。


 妹がハッとして飛び起きる。それは俊敏な動きだった。私の目には、ものすごく元気そうに映った。


「……食べられない、だって? 嘘だ、ちゃんと食べているよね」


 私の声は冷たく響いた。無表情になっているのが、自分でも分かった。


 幼い妹は屈辱のためか顔を赤くし、私を睨みつけた。


「これは……メイドが置いていったんだもん」


「置いていったとか、どうでもいいよ。食べたんでしょ」


「食べてない」


「しっかり減っているじゃない」


「……食べないとメイドがうるさいから、食べたフリして、半分捨てた」


 嘘つけ、このクソガキ――私の心はどんどん冷えていく。心配していたぶん、怒り倍増だ。家族の気持ちを弄(もてあそ)ぶなよ。何様なんだ、お前は。


 父が困ったようにメイヴィスの頭を撫でる。


「その……もしも食べられたなら、それは良いことなんだよ」


「だから食べてない」


「そうか、ええと……じゃあ次は捨てないで、頑張って少しだけでも食べてみよう……な?」


「……うん」


「具合が悪いのに、邪魔して悪かった。もう行くから」


 私たちは無言で部屋を出た。


 父がメイヴィスを叱らなかったことに、私はたぶん失望していて、むっつりと黙り込んだまま廊下を歩いた。


 父も気まずかったのか、何も言わなかった。




   * * *




 その後メイヴィスがさらに三日間仮病を続けたので、さすがに私の我慢も限界に達した。


 妹の部屋に行き(この時は設定を守ってちゃんと寝ていた……前回で懲りたのかもしれない)、


「こういう性質(たち)の悪い嘘をつくな、いい加減にしろ」


 と注意した。


 怒鳴らなかったし、暴力も振るわなかった。


 ただ、どうしようもないほどに腹が立っていたので、それなりに強い言い方にはなった。


 ――理由はよく分からないが、私は『今が大事』だという気がしていたのだ。


 このまま妹を放置した場合、この子はもっとひどくなるに違いない、と。


 早い段階で真剣に叱ってやることが、メイヴィスのためになると信じていた。『だめなものはだめ』としっかり教えてやるのが、兄の役目なんじゃないか、って。


 けれど私の言葉は妹に響かなかったようだ。


 一応上半身だけは起こしたものの、メイヴィスはツンケンした態度で視線を伏せ、小馬鹿にした顔で、黙ってその場をやり過ごそうとしたのだ。それは三歳児とはとても思えぬ、大人びた仕草だった。


 ――メイヴィスは体よりも、心のほうがずっと早く成長しているのかもしれない。


 大人たちは彼女の可愛らしい、あどけない見た目に騙されているけれど、内面がどんな状態なのか、まるで分かっていない。おそらくメイヴィスは知能が高い上に、自己中心的で、ひねくれている。


 自分で言うのもなんだが、私もどちらかといえば頭はよく回るほうで、同年代の子供たちとは違っている部分が多々あったから、妹のことがなんとなく理解できるのだ。


 私はメイヴィスを真っ直ぐに見つめ、


「このままでは済まさないぞ。お前が良くないことをしたら、これからも見過ごさず、注意していくから」


 と言い置き、部屋を去った。


 メイヴィスに勝利感を与えないためだった。『兄に怒られても、無視していれば問題ない。また好きにできる』と思わせたらいけない。『ちゃんと見張っているから、態度を改めろ』と伝えたかった。


 けれど。


 このことがきっかけでピンチに追い込まれたのは、妹ではなく、なんと私のほうだった。


 たぶんこの時味わった挫折感が、私の人格を大きく捻じ曲げた。


 もしも……もしも当時、父が――……


 ――いや、よそう。


 誰かを恨むことはしたくない。


 今、私は幸せなのだから、『過去、あの人がこうしてくれていれば』なんて、もうどうでもいいことだ。




   * * *




 その夜、私は父の執務室に呼び出された。


 父は泣きながら私を抱きしめ、そしてこう言った。


「メイヴィスを憎んでいるのかい? ああ、すまなかった……私が気づいてあげられなかったせいだ……」


「え」


「妻を失って、私はとてもつらかった。私は自分のことばかりで……ごめんな、オーティス――母を亡くしたお前のこと、もっとしっかりケアしてやるべきだった。だけどな、自分がつらいからって、妹に八つ当たりしちゃだめだ。母さんはメイヴィスを産んだこと、後悔していなかったよ。妹のせいで母さんが死んだなんて、そんなふうに思わないでおくれ。どうか、罪のないメイヴィスをいじめないでおくれ」


 痺れたみたいに、全身に力が入らない。私は茫然として、すぐには言葉が出てこなかった。


 ……やられた。


 腹の底からジワジワと苦いものが込み上げてくる。


 メイヴィスは架空の話をでっち上げたのだ。


『私は兄様に憎まれている。私を産んだせいで、母様が死んだと思っているみたい。兄様に言われたの――お前さえいなければ、母様はまだ生きていたはずだ、って』


 頭の中に、メイヴィスがこう言ったんじゃないかという台詞が浮かんだ。


 私はこのあと父に、「違う」ということを訴えた。


 けれど先手を取った妹のやり口があまりに鮮やかすぎたので、状況をひっくり返すことができなかった。


 父は争いごとを嫌うから、このことで私を排除したりはしないだろう。だから私がメイヴィスの矯正さえ諦めれば、それで平穏を取り戻すことができる。


 私は五つ下のメイヴィスに完全敗北した。


 そしてこの日、私は妹を見限ることを決めた。


 もう知るもんか。


 もうあいつには関わらない。勝手にしろ。




   * * *




 時は流れ、私にも好きな人ができた。


 ――私の初恋相手は、ディーナ嬢である。彼女は私の三歳下だ。


 ディーナとの特別な思い出が何かあるわけじゃない。なぜなら出会った時、彼女はすでに婚約していたから。


 その婚約相手がまた、ちょっとややこしい。


 彼女が婚約したペイトンは、もともとは私の妹メイヴィスと婚約する予定だった。


 けれど妹が聖女に決まり、ペイトンは別の女性と婚約することになった。


 それで選ばれてしまったのが、ディーナだ。


 ああ――可哀想なディーナ。


 君は優しすぎたんだ。そして誠実すぎた。


 私はこう思う――優しくて誠実な人はね、人生で必ず一度は試されることになる――誰かに理不尽に踏みにじられ、それでもなお正しくあれるかどうかを。


 ほら、眩しいばかりに汚れていない、雪原を思い浮かべてくれ。そこに足跡をつけたくなるのは、人の本能だ。


 私の場合は、綺麗なものは綺麗なまま、汚さずに眺めていたいと思う。だけどそれが健全なのかどうか、私には分からない。それはそれで、結局は歪んだ執着なのかもしれないし。


 ――私はたぶん本気で彼女が好きだった。


 だけど特別すぎて、行動には移せなかったんだ。


 ディーナが婚約者を愛しているのは、彼女の視線から、よく分かっていたというのもある。


 環境のせいにするのは良くないけれど、もしも八歳の時、私が挫折を味わっていなくて、屈託のない性格のまま大きくなっていたなら、好きな女性との未来を夢見て、思い切って前に踏み出していただろうか。


 困難が待っていると分かっていても、強い気持ちで。


 ……分からない。


 たらればを語ってみても仕方ないか。


 結局、私は彼女のために何もしなかった……それがすべてなのだから。


 初めて出会ったのは、彼女が十六歳、私が十九歳の時。


 喋ったこと自体、そう何度もあるわけじゃない。――月に一度とか、たまに王宮に来た彼女と挨拶を交わすだけの関係。


 その際にお天気の話をする、とかね……その程度だ。


「今日は暖かいですね」


 私がそう言うと、彼女が柔らかに微笑む。


「そうですね、とても」


 たったこれだけでも恋に落ちることができるんだから……人って不思議だよね。


 彼女の虹彩の煌めきが、当時は時折、夢に出てきた。


 ――私は彼女が好きだったし、幸せになってほしいとずっと願っていた。




   * * *




 妹とペイトンの関係は、私からすると、とても気持ちの悪いものだった。


 ――メイヴィスはペイトンを試してばかりだし、ペイトンはペイトンで、阿呆みたいにすぐに釣られる。


 ほら、猫じゃらしを激しく振るとさ、猫って瞳孔を開いて、首を左右に振って、ずっとそれを目で追うじゃないか。あんな感じ。


 猫は可愛いから、それでいいんだけどさ。


 君は一応、人間だろう。しかも社会的立場があって、婚約者がいて、それはないと思うよ。


 ――私がペイトンと少し踏み込んだ会話をしたのは、三、四年ほど前のことか。


 時系列的には、こんな感じだ。


 ――四年前、ディーナ(当時十六歳)とペイトン(当時十五歳)が婚約。


 ――その後、ディーナがちょこちょこ王宮に来るようになる。婚約が決まった彼女が、行儀見習いで、新しい習いごとを始めたためだ。彼女が教えを受ける相手が、私の家庭教師のひとりであり、『それならば王宮にディーナ嬢が通えば』という話になったらしい。それにより私たちは時折王宮内ですれ違ったりして、ひとこと、ふたこと、言葉を交わすようになる。


 ――そしてさらに半年後、ここが非常に問題。


 妹のメイヴィス、ペイトン、ディーナの三人で、茶会をすることになったというのだ。


 おいおいおい……正気なのか?


 私は心の底からこの成り行きを嫌悪した。


 ありえない。


 どうせメイヴィスの発案だろう。妹はペイトンを『私の男』扱いしているから、その結婚相手が気になって仕方ないのだ。妹の自己中心的な考えが、私には手に取るように分かる。


 しかしなぜ父はこんな馬鹿げた話をOKしたんだ? 少しでも想像力を働かせれば、これがどんなにディーナにとって残酷なことか分かるだろうに。


 ああ、だけど――父はまた面倒を避けたのだな。『父と妹が具体的にどういった会話をしたか』はこの際どうでもいい。重要なのは、『妹は自分がそうしたいと考えれば、周囲にいる男を意のままに操れる』ということなのだ。


 もしも彼女が本気を出していたなら、『聖女に選ばれた』という事実ですら、『なかったこと』にできたのではないかと疑ってしまう。たとえばもう一度国民全員に、聖女判定式を受けさせるだとか。そうしたら意外と次々に、新しい候補者が見つかったかもしれないぞ。


 それをしなかったのは、メイヴィス自身が、『聖女』という肩書に魅力を感じていたからだろう。大国に嫁入りできるというのも、彼女にとって悪い話ではなかった。


 妹はなんだって思うとおりにしてきた。


 なんというか、彼女は自らの考えに、相手――特に自分に好意を抱いている男を引きずり込むのが、悪魔的に上手(うま)いのである。


 現に私は八歳の時、その力を目の当たりにしている。彼女のでっち上げにより、『メイヴィスを産んだせいで母が死んだのだと、妹を逆恨みする兄』にされたのだ。その時妹が操ったのは、父だった。


 ――国王陛下に対して不敬かもしれないが、父は知らず知らずのうちに、メイヴィスに調教されてしまった気がしてならない。


 彼女の小さな我儘を叶えてやるうちに、段々とそれが当たり前になり、疑問にも思わなくなっていく。……重罪人の過去を振り返ってみると、初めは小さな盗みをしていただけなのに、次第に感覚が麻痺していって、行き着くところまで行ってしまったという話に似ている気がした。




   * * *




 ――それで、だ。


 茶会が開かれると決まったあとで、妹が前髪を短く真っ直ぐに切り揃えた。


 このことに、私はものすごくイライラしてしまって。


 ――いい加減にしろ、と。


 下町で暮らしている庶民の女の子なら、好きにすればいいだろうさ。


 しかしお前、王族だろう。特権階級にいるんだぞ。そのことを理解できているのか。


 人の上に立つということは、それなりの責任を伴う。一見、周囲にはイエスマンしかいないように感じられても、彼らは驚くほどシビアにこちらを見ているぞ。


 貴族子女でお前のような前髪をしている女性を、私はほかに見たことがない。


 ――これが個性です?


 ――私らしくありたい?


 ――頑張っている自分にご褒美?


 知らんわ。お前は庶民ではないのだから、立場を自覚しろ。はしゃぐな。


 大体、お前が思っているほど、似合っていないぞ、それ。


 もう妹のパッツン前髪を見るたびにムカムカするし、そんな自分自身にもげんなりした。


 なんだか自分が情けなくて――……子供の頃に妹にやり込められたことをずっと根に持っていて、言いがかりをつけようと、粗探ししているだけじゃないのか? 私は器の小っちゃい人間なのかもしれない……そう思うと気分が落ち込んだ。


 それでもやはり、気になるものは、気になる。


 ――妹にイライラ。


 ――そんな妹にデレデレしているペイトンにもイライラ。


 ああ、もう――馬鹿なのか、ペイトン。


 お前にはディーナという、聡明で、一途に想ってくれる婚約者がいるじゃないか。それなのになぜ、妹との関わりを断たない。


 妹と肉体関係はなさそうだから、そのせいもあるのだろうか。


 心は裏切っているのに、体のほうは最後まで進んでいない――だから自分は清廉潔白だとでも思っている? いや……まさかね。そんな馬鹿な。


 私だけがひとり感情を乱していた。怒り、無力感を覚え、落ち込む……その繰り返し。


 そんな時、王宮でペイトンとすれ違った。




   * * *




 ペイトンとすれ違ったのは、柱廊を歩いていた時のことだ。


 そこは壁がなく、柱の向こうには芝生が植えられていて、開放的だった。


 だからだろうか。


 私はそのまま通り過ぎようとして――ふと、気が変わり。


 その時にちょうど風が吹き抜けたから、なんとなく勢いがついたのかも。


 足を止め、ペイトンに話しかけていた。


「――ちょっといいか」


「はい」


 ペイトンは行儀良くかしこまり、私を見つめ返した。


 こういうところは実直そうに感じられる。


 この男はメイヴィスとさえ関わらなければ、私に薄っぺらさを見抜かれることもなかったかもしれないな。


「ペイトン――君は普段、妹の買いものに付き合ったりしていると聞いた」


「あ、はい」


「メイヴィスが面倒をかけていないか」


「そんなことはありません」


「君から見て、メイヴィスはどうだ」


「は……あの」


「私は人から『妹さんはどんな方ですか?』と訊かれることがある。身内だとよく分からないところもあって。君から見た妹がどんな感じなのか、聞いておきたい」


 それらしい理屈をこねてペイトンに伝えると、『ああ、なるほど』という顔つきになった。……なるほど、じゃないんだよ。婚約者がいるくせに、王女との関係を尋ねられているんだぞ。『さすがにマズかったか?』とか心配にならないのか。


 まぁいいけれど。ペイトンが稀代のお馬鹿でも、私にはどうしようもないしな。


「メイヴィス王女殿下はお淑やかで、とても可愛らしいです。内気なので、私が護って差し上げなければ、という気持ちになります」


 ……薄っすいなぁ、おい。


 私はげんなりしたが、なんとかポーカーフェイスを保った。


 とても可愛らしい、か……つまりペイトンは、妹の顔が好きなのか?


 私は個人的に、ディーナのほうがずっと美しいと思っているのだが、まぁ外見の好みは千差万別だからな。


 ふと気づいて、私は有名な舞台女優の名をふたり挙げた。


「ちなみに君――今挙げたふたりだと、外見はどちらが好みだ?」


「はい、ええと……」


 彼が答える。


 ……ん?


 回答が私の想定していたものと違った。


 そこでこの問いを、五回繰り返してみた。挙げる女優の名前をすべて変えて。


 五回も繰り返すと、彼の好みが絞れてくる。彼が『こちらが好み』と選んだ女性は、髪色や雰囲気に共通点があった。


 つまり、ペイトンの好みは――……押しつけがましくない、圧の少ない美人で、目元は涼しげだけれど優しい雰囲気が強く、おっとりしていて、背は低いよりも長身、そしてスタイルが良い……そういうことか? そして髪は暗めのブロンドなら、なおいい、と。


 あれ……これは完全にディーナじゃないか?


 妹のメイヴィスは気弱そうに眉尻を下げているものの、顔立ち自体は鋭角だ。顎は尖っていて、瞳は猫科のようだし、背が低く、小枝のように痩せていて、黒髪。


 私は眉根を寄せ、ペイトンを眺めた。ペイトンはかしこまって恐縮している。


「……君は、少し前に婚約したのだったか?」


「ええ、半年ほど前に」


「婚約者はどんな女性?」


「その……人の話を聞くのがとても上手な女性です。このあいだ、一緒に町に遊びに行った時のことですが、小さな女の子がひとりでいることに気づきまして。どうやら迷子になっているようでした。私は騎士なので、それを保護しなければならないのですが、子供は苦手で。話しかけても、いつも怯えられてしまう。けれど彼女がにっこり優しく笑って話しかけたら、その子は色々話してくれました。どこで親とはぐれたか、とか細かく。おかげですぐにその子の親を見つけることができましたよ。あと、なんていうか……彼女、手が綺麗なんです。爪の先まで。そういうところがディーナらしい……上手く言えないですけれど。すみません」


 私は混乱した。


 ……なぜだ。スラスラと出てくるじゃないか、ディーナの良いところに関しては。


 メイヴィスに関しては、あんなに発言が薄っぺらかったのに。


 まぁ、相手を好きになりすぎるともう理屈じゃなく、全部好きだからこそ、『ここ』とは絞れないものなのかもしれないけれど……でもな。


 私はペイトンをじっと眺めてから、急速に興味を失った。


 理由はよく分からないのだが、この男はいつか、自分がしてきたことのツケを払うことになるような気がした。


「――ありがとう。さようなら」


 私はペイトンから視線を切り、歩き始めた。




   * * *




 私は妹のメイヴィス、そしてペイトンを見ていて、こう思うのだ。


 ――彼らは、自覚のない馬鹿に違いない。


 自分のことを賢いと勘違いしているから、自らのあやまちに、いつまでたっても気づけない。


 そしてこうも思う。


 自身の至らなさを知る、自覚がちゃんとある馬鹿がいるとする――その場合、その者は、本当に愚者なのか?


 しっかり自覚できている時点で、むしろ賢者なのではないか?


 そういえば、私は自分のことを、馬鹿だと思っていない。


 ということは、つまり、だ。


 ――私もまたメイヴィスやペイトンと同じように、自覚のない馬鹿なのかもしれない。




   * * *




 ペイトンと交わした、あの奇妙な会話――あれからもう四年近くたつのか。


 私は執務室のデスクに寄りかかり、腕組みをして窓の外を眺めた。


 ――王宮の二階、角部屋。


 私はもうすぐここを去る。


 兄は賢く、図太い人なので、治世者向きだ。父よりもよほど向いている。


 次男である私は、本来はもっと早くにここを出て、自領に居を移すはずだった。


 しかし一年前、ここを出ようと思ったタイミングで、国王陛下から頼まれたのだ。もう少しだけ王宮に留まってくれないか――せめてメイヴィスが隣国に嫁入りするまでは、と。兄は兄で忙しいし、父は隣国とやり取りをする際に、私にも近くにいてほしかったのだろう。


 それがすべて白紙に戻った。


 ――聖女の肩書が外れた妹は、ペイトンと結婚することになる。


 なんだかここへきて、ふたりはギクシャクしているようだが(?)、正直なところ、私の知ったことかという気分だね。


 なんせ私は八歳の時、メイヴィスの教育係を下ろされているから。自分で下りたという見方もできるけれど、やはり違う。私をその役目から遠ざけたのは、メイヴィスと父のふたりだ。


 ――そういえば妹が幼い頃、私は彼女のことを天才だと思っていた。人間性はともかくとして、頭が非常に良いのは間違いない、と。


 しかし大人になるにつれ、彼女は段々と凡庸な存在に成り下がっていった。


 おそらく単に――メイヴィスは早熟だっただけで、能力的に突き抜けた何かを持っていたわけではないのだろう。『二十歳過ぎればただの人』と言うが、まさにこのタイプだったようだ。


 そうなってくると、頭の出来は並なのに、他者に優しくできず、ありえないくらい自分勝手――もはや良いところが何も見つからない。


 いくら娘に甘い父であっても、こうなってはもう、メイヴィスとペイトンを無理矢理結婚させるしかあるまい。


 ふたりが長年、真面目で誠実なディーナ嬢を理不尽に傷つけてきたことが、皆にすっかりバレてしまったのだ。これで『やっぱり結婚はしません、気が変わりました』は通用しない。ディーナの父が絶対にそれを許さないだろう。


 メイヴィスの結婚式はまだ予定も立っていないが、私がこのままダラダラここに居続けると、変なことに巻き込まれそうなので、早いうちに発ってしまいたいと思っている。……一応大人だから、結婚式の際は戻って来て、出席するつもりだけどさ。


 ――考えを巡らせていると、扉が開き、妻が部屋に入って来た。


 私は腕組みを解き、満たされた気持ちで彼女を見つめる。


 妻もまた、愛おしげに私を見つめる。


 ああ……これが私の幸せだ。


 一年前、私は彼女と結婚した。政略結婚だった。


 たぶん……結婚した当初はまだ、私はディーナのことを忘れられずにいた。


 けれど。


 私は妻の前で、それを出さないよう、細心の注意を払った。


 私と結婚してくれて感謝していたし、妻のことはひとりの人間として尊敬していたから。


 初めはぎこちなく、夫婦生活が始まって……一日、一日と、ゆっくり時を重ねて。


 ふと気づけば、君が隣にいるのが当たり前になっていた。


 当たり前なのに、いつも感動する。


 私の隣は君のもので、君の隣は私のものだ。


 歩み寄って来た彼女が口元に笑みを浮かべ、デスクに寄りかかっている私の隣に並ぶ。――ピタリと腕をくっつけて、温もりが伝わる距離で。


「何を考えていたの?」


 穏やかな声音。……君の声がね、私は好きだよ。


 私は微笑み、答える。


「君のことを考えていた」


「調子がいいのね」


 笑い声。


 私も笑う。


 ――初恋相手のディーナが聖女として認められ、隣国に嫁ぐことになったと聞いた時――私は冷静にそれを受け止めることができた。


 ダメ男のペイトンと別れられて、よかったね、と思っただけで。


 彼女が遠くに行くとなっても、少しも心が揺れなかった。


 いつの間にか、初恋はすっかり過去のものになっていたんだな。


 ――私の愛する人は、もうディーナではない。


 感謝と共に、隣を見つめる。


 今、とても幸せだ。


 ――ありがとう。私と結婚してくれて、ありがとう。


 君に感謝している。


 愛している。心の底から。




   * * *




 そうだ――私はね。


 妻を思い浮かべれば、現状自分は人の道を踏み外していないし、これから先も問題はないのだと確信できるよ。


 だって大丈夫なんだ――もしも私が馬鹿なことをしでかしたら、きっと彼女が本気で怒って、私をまっとうな道に引き戻してしてくれるだろうからね。


 私自身は『自覚のない馬鹿』かもしれないが、妻がちゃんと賢いから、それでバランスが取れているのさ。


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