第29話

▫︎◇▫︎


 長い長い夢を見ていた。

 もう1人の自分の体験した苦しくて悲しい記憶。


 冷たい床に突っ伏して眠っていたベアトリスはゆっくりと瞬きをしてから緩慢な仕草で、床から起き上がる。血だらけな自分とそんなベアトリスを護るために剣を抱いたまま浅い眠りについているクラウゼル、そして、部屋の奥には光を失った2体の死体。担任ローガン・ウィーズリーと父アルフレッド・ブラックウェルのものだ。部屋の端ではボロ雑巾のようにボロッボロなマリアとキース、ノア、セオドリクがくっついて丸まっていた。互いの体温を補うように眠る姿はまるで仔猫のようだ。

 ズキズキと痛む、昨日ローガンに斬られた傷を光魔法で癒そうとして、そしてベアトリスは手をぱたんと地面に戻した。


 これはベアトリスへの戒めだ。


 嗚咽と共に口の中が痛酸っぱくなる。ヒリヒリと痛んで辛くて、苦しくて、でも心の奥底でこの道が正しかったのだと胸を張れてしまうことが何よりも辛かった。


 『幸』と『辛』は1画しか違わない。


 これは幸せはあっという間に過ぎてすぐに辛くなるという意味なのかも知れないと、ベアトリスはどこか遠くの出来事のようにそう感じた。


 自分が何をすべきか分からない。


「べ、てぃー………?」


 がらがらと掠れた声を上げながら、クラウゼルが目を覚ました。茫洋な瞳の色彩は何故か7色の光を宿している。ぐっと息を呑んだベアトリスは、けれどすぐに視線を外す。ベアトリスはもう彼のそばには居られない。居てはいけない。父殺しなんて、彼のそばにいるには相応しくない。


「おはよう、クラウゼル」


 ベアトリスは泣きそうな顔で笑った。


 それからのベアトリスは筆舌し難いほどに忙しくなった。

 父を転移魔法で運び、彼の死因を隠蔽して、母の悲しみをできるだけ軽減できるように行動する。もう1人のベアトリスが生きた人生での母ベルティアの死の最たる原因はアルフレッドの暴挙だった。故に、アルフレッドの死は知られても、アルフレッドの死因は決してベルティアに悟られてはいけない。慎重にことを運びながら、ベアトリスは複数の魔法を行使し続ける。

 魔力が尽きて、魔法を紡ぐことが難しくなれば、生命力を削った。何度も何度もそうやって様々な場所を行き来して、ベアトリスは完璧にアルフレッドの所業を無かったこちにした。

 もちろん、死んだ人間は戻ってこないし、今回の所業は全てローガン・ウィーズリーの行ったことにしてしまった。冤罪もいいところだが、それ以外に案がなかった。


「ごめんなさい、ごめんなさい」


 何度も何度も色々なところに謝って、でも、誰も返事はしてくれない。

 それが自分が責められているように感じられて、ベアトリスは安堵する。自己満足であることは重々承知済みだ。けれど、ベアトリスは謝らずにはいられなかった。


 それから6時間後、特別クラスへの違和感を抱いた他のクラスの先生によって、魔力不足や血液不足が原因で気を失ってしまっていたベアトリスたちは救出された。その頃には全ての後片付けが終了していた。だからこそ、誰もこの状況を不思議には思わなかったし、それどころかどこか不気味だったローガンがいなくなったことに安堵し、そして彼は国家反逆を企てた男として処理された。それが正しかったのか正しくなかったのかは、ベアトリスには分からない。

 けれど、ある意味ではそれも正しかったのかもしれないと、数日後に医務室のベッドで目覚め、先生からことの顛末を教えられたベアトリスは思ったのだった。


 学園はローガンの死もあって1ヶ月の休学を決定した。

 学園の医務室で目覚めたベアトリスは母ベルティアの憔悴を耳にして、そしてもう1人の消えたベアトリスの願いを叶えるために動き始める。

 横腹に走る激痛を無視しながら、学園室へと足を進めた。服はちゃんと身につけているし、髪も整えた。全てをもう1人のベアトリスに近づけた格好は終わりに向かうには相応しい装いだとベアトリスは思う。


 ーーーコンコンコン、


 学園室の扉を控えめに叩くと、中から許可をもらえた。

 教師の死によっててんやわんやしているであろうに、学園長は今日も人が良さそうな笑みを浮かべている。たくさんの教師に、生徒に尊敬される教師は、疲労をも味方につけているかのようだ。

 ベアトリスはそんな校長の前に堂々と立って、にっこり微笑む。

 こんな時、ベアトリスはいつも徹底された淑女教育に感謝を感じる。全ての負の感情を覆い隠せるこの仮面を、ベアトリスはもう手放せない。


「………退学を希望しますわ」


 学園長は予想していましたと言わんばかりに穏やかに微笑んで、そして頷いた。


「許可できません」

「え………、」


 学園は本人が望めばあっという間に退学が可能というのが当たり前だ。


「君の退学は母君と王家より禁止されている」

「っ、」

「休学中にしっかりと心身の健康を取り戻しておくように」

「………はい」


 ベアトリスは微笑んだまま校長室の外に出て、そして扉を後ろ手に占める。


「なん、で………、」


 扉に背中を預けたままぐらぐらと足腰から力が抜ける。床にがしゃんと座り込むと、扉に頭を預ける。


「………私は何をすればいいの………………?」


 ぐっと上を見上げると、そこにはただただ暗くジメジメしたい雰囲気の学園の天井が広がっていた。


 ゆっくり立ち上がったベアトリスは自分が持っている学園内サロンに足を向ける。


「………………?」


 サロンの扉は何故か開いていた。

 僅かに開いたその隙間からは室内を照らしているのだろう、きらきらとした陽光が漏れ出している。

 いつもならばとても慎重に行動して、ここには入らない、もしくは攻撃魔法を展開したままこの部屋に入室していたところだろう。けれど、今のベアトリスにはそんなことをする余裕も、元気も、理性も残っていなかった。苦しくて辛くて仕方がない。


 ーーーぎぃっ、


 僅かな音を立ててベアトリスは扉を大きく開ける。

 差し込む陽光によって室内は廊下よりもずっとずっと明るかった。

 部屋の中央に立つのは金髪藍眼の美青年だった。

 ずっと背中を追いかけさせてきたこの青年は、いつからベアトリスの前に躍り出ることができるようになっていたのだろうか。もう思い出すことはできない。けれど、妙にそれが安堵を呼び寄せたことを、ベアトリスはしっかりと覚えている。

 悪役令嬢を意識したゴージャスなドレス。けれど、父と担任の死を悼むために漆黒のみの色彩にしてあるドレスは、ベアトリスはにっこり微笑む。見事な縦ロール巻き上げて下ろしている漆黒の髪がふわっと揺れるのを首元で感じながら、ベアトリスは深々と頭を下げた。


「此度の失態、お目溢しをいただきありがとう存じます、王太子殿下」


 できうる限り他人行儀になるように挨拶をしたベアトリスは、これで終わりだと自分に言い聞かせる。


(王弟である父と炎の魔力を失った私には、何の価値もない)


 自覚とはすればするほどに惨めになるものだ。

 ベアトリスは頭を下げたまま自嘲をくちびるに乗せる。


「………いつまでそうしているつもりだ」


 彼の冷徹な声を聞きながらも、ベアトリスは決して顔を上げない。彼はアルフレッドがローガンを殺したことを、ベアトリスが父アルフレッドを殺したことを、誰にも言わなかった。それどころか、ベアトリスの隠蔽をも隠した挙句ベアトリスに加担している。世に出てしまえば彼は王太子でいられなくどころか、ベアトリスとともに地獄へと転落死してしまうだろう。なのに、彼はベアトリスを突き出さない。


「いつまでもこうさせていただく所存にございます」

「………………へぇ?」


 意地の悪い声が聞こえても、ベアトリスは無視を続ける。

 ベアトリスに頭を挙げる資格なんてない。彼の瞳を見る資格なんてない。そもそも、ベアトリスには彼の瞳を汚す資格がない。

 首元に彼の手が近づいてくる気配を感じても、ベアトリスは決して微動だにしなかった。


(………ここで惨殺されても、私はクラウゼルに決して文句を言えない。ーーー私は、クラウゼルに庇われている立場なのだから)


 ぎゅっと首を握られ、ベアトリスの顔は強制的に上げさせられる。ぐっと気道を掴まれている故に、とても息苦しい。


「………俺はお前がいればそれでいい。地位も、名誉も、名声も、何もいらない」

「?」

「けれど、お前は1度としてそんな俺を顧みなかった」

「………………」


 彼はベアトリスが彼以外の男との婚姻を望んでいることを知っている。

 だからなのだろうか、藍色の深い海のような瞳には深いどろどろとしたものが溶け込んでいるように見えてしまった。


「今回だってそうだ。お前を突き出せば、俺には相当な褒章が入っただろう。けれど、それをしなかった。何故かわかるか?」

「ーーー?」

「はっ、そうだよな。お前はそういうヤツだ。だからこそ、………愛おしい」


 彼はにいっと笑ってベアトリスの首を絞める手を緩める。


「俺はお前以外を妻に迎える気はない。もしそうなりそうな場面に陥るならば、王家の血を濃く受け継ぐ一族の子供を王家に迎え入れるつもりだ」

「そんなことっ!」

「許されるわけがないか?はっ!アホらしい。お前はよく知っているはずだ。先代は国中に轟くほどの女好き。1人や2人落とし子がいても不思議ではない」

「っ、」


 自嘲するかのような口調には、どこか深い苦しみと悲しみが宿っていた。


「………王家の人間は皆どこか歪んでいる。男の場合は、惚れた女の心や身体だけではなく、生殺与奪の権すらも握って、飼い殺して、その人の瞳に他の人間が映ることを嫌がり、女の場合は、男を嫌う。条件があるわけではない。王家の血を濃く受け継いだ子供ほど、その傾向が強くなる。そして、先代は愛する人が自死をしたせいで壊れた。あちこちに女を作って、王妃の代わりを見つけようとした。そんなものどこを探してもいないのになぁ?先代も、父上も、叔父上たちも、俺も、お前も、みんなみんな壊れているんだよ」


 ベアトリスは彼に憎悪の入った視線を向ける。自分がおかしい自覚はある。でも、だからと言って、クラウゼルやベアトリスの父のことまで悪くいうのは違っているのではないかとベアトリスは思う。


「俺はお前を愛している」


 藍色の瞳がきらっと輝いて、七色の光を宿す。

 七色の宝石を砕いて詰め込んだような瞳は、陽光をも上回る輝きでベアトリスを魅了する。

 ベアトリスはそんな言葉を失うほどに風景をどこか遠くのことのように見つめながら、けれど、絶対に認めないと言わんばかりに彼を睨みつける。ベアトリスは彼の隣にいていい人間じゃない。


「ーーーわたくしは、………いいえ、」


 令嬢らしく塩らしい口調を心がけていたベアトリスは、けれど、今この場でそれは相応しくないと思い直して口を開き直す。態度は尊大に、口調は偉そうに、できるだけ、彼の嫌う“悪役令嬢”に己の姿を近づける。


「ーーー私は、あなたのことを愛していないわ」


 残酷で冷徹な言葉は、クラウゼルのみならずベアトリスの胸をも深く抉る。

 どうして左胸がこんなにもズキズキと激しく痛むのか分からない。辛くて、痛くて、悲しくて、けれど、これは決してベアトリスが持っていい感情ではないということは、かろうじて理解できる。

 クラウゼルは頑なな態度のベアトリスにギリっと歯軋りをして首を締めるのをやめた手で顎をとらえた。くいっと顎を上げさせられた瞬間、ベアトリスは何が起こるのかを理解して、さぁっと青ざめる。


(嘘でしょ!?止めなきゃっ!!でもどうやって!?)


 頭の中は大混乱で、ベアトリスは結局意味をなすようでなさない言葉を口走る。


「は!?ちょまっ、」


 ベアトリスの止める声も聞かず、クラウゼルは意地の悪い笑みを浮かべてベアトリスのくちびるを奪った。


「絶対に逃さない。ベティー、お前は俺のものだ」


 はじめてのキスにも関わらず、クラウゼルは雰囲気もへったくれもなく、ただただくちびるを奪う。

 ただでは転ばないベアトリスは驚愕に目を見開きながらも、必死になってありったけの力でクラウゼルの胸を殴って逃げようとする。けれど、クラウゼルは逃さないと今しがた宣言した通り、ベアトリスを壁に押さえつけ、今度は先程よりもずっと長く口付けた。


「ふぁ、あ、う、」


 酸欠によって涙目で逃げようとするベアトリスに対して、彼は貪り尽くすかのように口づけをし、そして息が耐え耐えになっている今しがたファーストキスを奪った婚約者に向かって優しく微笑んだ。


「………お前がどんなにあの男のことを好こうが、な」

(私、どこで間違ったの?)


 ずるずると床に座り込んだベアトリスは、真っ赤に上気した頬を押さえてプルプルと震えた。

 あまりにもな出来事に頬を抑えるしかできないし、もう部屋にはベアトリスを襲っていたクラウゼルはいない。颯爽と去って行ったクラウゼルは、王子とは思えぬ手際の良さでベアトリスに口付けをし、そして去っていったのだ。


(こんな悪い子に教育した覚えないし!!ーーーそれに何より!)

「なんで攻略対象が、悪役令嬢にぞっこんなわけー!?私、モブ専なんだけどー!!」


 よって、女性の意味不明と判断されるであろう叫びは、誰にも聞かれることがなかった。

 ベアトリスはこのことに密かに安堵を抱いた。けれど、この安堵は無駄であると知るのはそう遠くない未来での出来事なのであった。

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