第27話

 どれくらい気を失ってしまっていたのかはわからないけど、何か冷たいものが顔に当たって僕は目を覚ました。


 目の前には小金井の顔があった。僕の顔に落ちてきた冷たいものは彼女の涙だった。


「なんで泣いてるの?」


 彼女はすぐに目元を裾で拭った。


「泣いてない」


 小金井は平静を装うが目の下が赤くなっている。


 身体中が軋むような感覚があった。全身が痛い。最近はこんなことばかりだった。


 僕は起き上がろうとするけど痛くてうまく体が動かない。


「動いちゃダメ。頭を打ったみたいだから」


 小金井はしゃがみ込んで僕を制止した。


「救急車今呼んでくるから」


 そう言うと小金井は立ち上がる。僕は慌てて答えた。


「ま、まって、そんな大袈裟にしなくても」


「でも……」


 僕は嘆願した。


「お願い。本当に大丈夫だから、たいしたことないから」


 僕は必死に小金井を止めた。


「わかった」


 小金井はそう言って再びしゃがみ込んだ。右手が僕の額に触れる。


「でも、病院には必ず行って」


 僕は黙って頷いた。


 小金井はまたグッと顔をしかめた。今にも泣きそうな顔だった。


「司がやったんでしょ?」


 僕は何も言わなかった。


「なんで、こんなこと……」


 地べたに転がる僕はどれほど惨めに見えるだろうか。こんな姿を小金井に見られて余計に惨めで僕まで泣きそうになった。


「ここ、養護施設だったんだね」


 僕が言うと小金井は目を見開いた。


「司から聞いたの?」


 僕は頷いた。


 それ以上小金井は何も言わなかった。僕も何も訊かなかった。


 風が吹いて、小金井の髪が靡いた。空は青々として雲一つなかった。こんなに心地いい日なのに体はボロボロだ。


 僕は体に力を込めて立ち上がる。


 しかし、すぐによろけて倒れそうになったところを小金井が支えてくれた。


「ごめん」


「どこかで休んだほうがいい。ハルくんの家、すぐ近くでしょ?」


 僕は小金井の肩を借りたまま、山道を下っていった。下り坂がこんなにきついと思ったのは生まれて初めてだった。


 自宅前まできた僕は商店の入り口から家の中に入っていった。


 その際、父に「何があったんだ」としつこく訊かれたが、とりあえず坂で思いっきり転けたと言っておいた。


 小金井は部屋まで付いてきてくれた。全く片付いていない自室を見られるのはとても不本意だったが、どうしようもなかった。僕はベッドに倒れ込んで、小金井も疲れたのか畳の上に座り込んだ。


「おーい、入るぞ!」


 父は遠慮なしに僕の部屋に入ってくると陳列棚から持ってきたであろうペットボトルの麦茶をローテーブルに二本置いた。そして、救急箱を畳に置く。


「これ飲んでね」


「あ、ありがとうございます」


 それから小金井は父に簡単な挨拶をした。


「初めまして、小金井です。ハルくんにはいつもお世話になっています」


「小金井さんね。息子と仲良くしてくれてありがとう。まあ、ゆっくりしていって、それとお前はおほら、怪我したところ見せてみな?」


「あ、私が、私がやります!」


 小金井が声を上げると、父は数瞬考えてから「じゃあお願いしようかな」と言った。


 そして、僕の耳元で「うまくやれよ」とにやけ顔で囁き、部屋を後にした。


 小金井は父が出て行ってから扉のほうを呆然と見ていた。


「ごめんね。大雑把な父親だからさ」


 僕はベッドから起き上がり、小金井に言った。正直動くのが億劫で今日は学校を休もうと考えていた。


 小金井は頭を振った。


「いい人そうだね」


 小金井はわずかに笑みを浮かべた。


「ほら、肘出して」


 小金井は救急箱から消毒液を出していた。僕は黙って小金井に従った。それから、小金井は手際よく僕の怪我の処置をしてくれた。


「とりあえずはこれで大丈夫だけど、ちゃんと病院行ってね」


 小金井は処置を終えると救急箱を片付けながら言った。


「わ、わかってるって」


 小金井は頷くと周りを見回して言った。


「そういえば魚齢章は?」


「ああ、えっと、僕の鞄の中に入っているよ」


「見ていい?」


「うん」


 小金井は僕の鞄から魚齢章を取り出してローテーブルに広げた。


「読んだ?」


「いや、昨日は中のほうの挿絵だけ見たよ。確かにあの本に書いてあったものと同じものを見つけたよ」


 小金井はページを捲りながら渋い顔をする。


「これ、読める?」


 小金井はこちらに目を向けた。


 僕は差し出されたページを手に取り、文章を追う。文字は古く、達筆すぎて解読するのに時間がかかりそうだった。


「少しぐらいなら読めるかもしれないけど……」


 そのページを僕は読んだ。内容としてはこの辺りの海のことが書かれているようだった。詳しいことまではわからない。


「これ見て」


 小金井はまた別のページを僕に渡してくる。そこには挿絵が描かれていた。


 魚の絵だった。通常の魚よりも根元の太い鰭、そして何より異様に長く人の腕のような胸鰭をした魚だった。


「これってシーラカンス」


 その挿絵の横に文章が書かれているが、字が掠れて読めない。かろうじて魚という文字だけは確認できた。


「多分この魚の名前だと思うけど読めない」


「シーラカンスじゃないの?」


「いや、おそらくシーラカンスのことだと思う。ただ、この本が書かれたのがシーラカンスって言葉が入ってくるずっと前のことだろうから……」


 僕らはそれからいくつかのページを調べていった。中にはシーラカンスであろう魚の記載やシラズ蛙らしき生物に関する記載もあったが、文字が古いせいで全文を理解することはできなかった。


「ダメだぁ。わかんない」


 僕はページを畳の上に置いてベッドの中で体を伸ばした。体のいたるところが痛かった。


 小金井は一つのページをじっと眺めていた。


「何か手がかりは見つかった?」


 小金井は慌てて振り向いた。


「えっと、何も、何もわからなかったわ」


 小金井は魚齢章のページをまとめ始める。


「これ、私が持ち帰ってもいい?」


「うん、構わないよ」


 小金井はまとめ終えるとそれを鞄にしまう。


「そろそろ学校に行かないと、遅刻は確実だけど」


 僕はケータイで時間を確認する。すでに時刻は八時半を回っていた。


「ご、ごめん。気づかなかった」


「いいよ。それよりちゃんと病院行ってね」


 そう言うと小金井は部屋を後にした。


 下の階で小金井と父親が話している声がわずかに聞こえた。


 僕はひどい眠気に襲われて目を瞑り、すぐに眠りについた。

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