第18話

 午前中最後の授業は水泳だった。昨日の天気予報では雨が降るはずだったのだけど、空は雲ひとつない青空だった。


 二十五メートルプールを何本も泳がされ、僕の体力は底をついた。


 正直言って泳ぎはそれほど得意ではなかった。


 昼休み、授業で疲弊した僕は食事をとるのも億劫になっていたが、食べ飽きたパンを無理やり口に押し込んだ。


 早々に昼食を終えて、僕は小金井にヘアゴムを返すために教室を出た。


 同じ棟の東の端に小金井と泉のいる教室がある。僕らの教室は西の端にあるからちょうど正反対の位置だ。


 僕は小金井らの教室の前に立った。気持ちを落ち着かせるためふーっと息を吐いて僕は扉を開ける。


 教室内には昼休みでもそこそこ人がいた。扉を開けたせいで視線が集まる。僕は伏し目がちに室内を見回したが、そこに小金井の姿はなかった。


 その代わりに窓際に座っていた泉と目が合う。


 泉は大袈裟に手を上げる。


「ハル、どうしたの?」


 泉が立ち上がりこちらに来た。


「いや、別に……」


「さては学食に行きたくなったんでしょ? 誘いに来たってわけね」


「いや、ちがうから!」


「違うんだ? 残念」


 泉はいじけたような口調で言う。


「落とし物を届けにきたんだけど」


「落とし物? そんなの普通職員室でしょ?」


「まあ、そうなんだけど……」


 泉は目を細める。


「ははーん、わかった。その落とし物、小金井さんのなのね?」


「いや、えっと、なんで?」


「そんなのわかるに決まってるでしょ? ハルの知り合いなんてこのクラスに私と小金井さん以外にいないし」


 自分の交友関係の狭さを痛感した。


「それで、小金井さんは?」


 僕が言うと急に泉は顔を顰める。


「知らないわよ」


 吐き捨てるように泉は言った。


「何かあった?」


 二人の関係が良くないことはわかっていたが今日の泉はあからさまだった。


「昨日のこと、私も言い過ぎたかなって思って、謝ろうとしたら逃げられた」


 彼女の握った拳に力が入るのがわかった。


 泉に渡してもらうというのも一つの手だけど、今の泉に任せるのも酷だと思えた。


 僕は小金井が行きそうなところを回ってみることにした。


「それじゃ、そろそろ戻るよ」


「ちょっと、ハル!」


「学食は近江でも誘ってやってよ」


 そう言って僕は教室を後にした。

それから僕はすぐに特別棟に向かった。彼女の行きそうな場所で最初に思い浮かんだのが特別棟の理科室だった。ただこの間は西海も一緒にいたから西海がいないことを願った。昨日のような目に遭うのはもうごめんだ。


 理科室の灯りは一つも点いていなかった。遮光カーテンが締め切られているせいで室内は暗い。


 扉の小窓を覗くと中に人の姿は見られなかった。別のところを探そうと小窓から目を逸らしかけた瞬間、奥の机の下で何かが動いた。もう一度中を注意深く見ると部屋の隅でうずくまる人の姿を視界にとらえた。それが小金井かどうかは判断できなかったが僕はゆっくりと扉を開けた。


「いや!」


 扉を開けると甲高い声がした。


「小金井さん?」


 中に入った僕はその影に向かって声を掛ける。すると影はじっとこちらを見つめていた。


 眼が慣れ始めてその影から伸びる白い腕が見えた。次いで顔も確認することができた。やはりそこにいたのは小金井だった。


 いつもは綺麗に結われている髪の毛は無造作に顔の周りを覆っていた。彼女の蹲っている周囲にはフラスコやビーカー、試験管の破片が散乱している。


「ハルくん……」


 彼女は呟いた。その声はあまりに弱々しくて凍えているかのように震えていた。僕は彼女の顔を覗き込んだ。目は充血していた。ただごとではないことがわかった。


「何があったの?」


 僕が尋ねると小金井は呟く。


「近づいてくるかもしれない、近づいてくるんじゃないかって思ったの。だから……」


 彼女がどこを見ているかわからない。視線は宙を彷徨っている。息遣いも荒く何かに怯えているように見えた。


「一体何があったの?」


「だから、来るの、近くに」


「何が来るの?」


 小金井は目を見開いて、自らの身体を抱え込む。


「白いモノ」


 昨日の言葉を思い出す。


「それって何なの? どうしてそんなに……」


 彼女が何に怯えているのかわからなかった。


 僕はできるだけ声を抑えて訊いた。


「昨日も言ってたよね?」


 小金井は弱々しく頷いた。


「それは昨日の事故にも関係ある?」


 小金井は再び頷く。


 彼女はあの亡くなったライダーのすぐ近くで何かを指さしていた。それが何をさしていたのかはわからない。けど、彼女には何かが見えていたのかもしれない。


 小金井は手で何度も体を払っていた。


「鳴き声が聞こえてくるの、それで、その鳴き声が聞こえたら、人が死んでしまう」


 床に散らばったガラスの破片を僕が踏み、キッと乾いた音が室内に響いた。


「それってなんなの?」


 小金井はこちらをじっと見つめる。その瞳には涙が溜まっていた。今にもこぼれ落ちそうなその涙と瞳に薄明かりの光が反射して輝きを放っていた。


 僕は言葉が出なかった。こんな姿は小金井らしくなかった。


 小金井は呟いた。


「私、嘘つきじゃない」


 小金井の目から涙がこぼれ落ちるのを僕は見た。嘘つきという言葉が頭の中で反響する。


「そんなこと思ってないよ」


 小金井の目からは涙がボロボロと流れ始める。


「私、私は……」


 小金井は再び俯いてしまう。


 何か言わなければいけないような気がした。


「僕には何があったのかもわからないけど」


 小金井がこちらを見上げたのがわかった。急に恥ずかしくなる。


「初めて会ったとき僕は小金井さんに助けられた。情けない話だけど君の言った通り本当は泳ぎなんて得意じゃなかった。だから、困っているなら相談くらいは乗れると、思う」


 顔が紅潮していくのが自分でもわかった。


 恥ずかしくて小金井がどんな表情をしているのか見ることができなかった。


 しばらくしてから彼女は口を開いた。


「嘘つきだって。お母さんが言ったの。あんたなんか人間じゃないって、気持ち悪いって、死ねって」


 小金井は虚な目をしていた。視線は宙を彷徨っている。


『何も知らない奴が──』


 不意に西海の言葉が蘇る。僕は本当に彼女ことを何も知らないのだと思った。それでも彼女の言ったことを僕は他人事では片付けられなかった。


 昔のことを思い出した。僕を嘘つきと呼んだ同級生の姿、そして、嘘つきと呼ばれ続けた祖母のこと。


 彼女と祖母はどこか似ているように思う。容姿とかではなくて、雰囲気みたいなものが少し似ていると思えた。


「世界はわが表象である」


 小金井は不思議そうな目でこちらを見上げていた。


 僕は咳払いをした。


「誰が言った言葉か忘れたけど。世界と自分、どちらが先に存在しているかっていう話があって、これを言った人は世界より先に自分自身が存在していると言ったんだよ。だから、いくら嘘つきだって言われても自分が見たもの、信じたものが本当なんだ、と思う。だから、人の言葉なんて気にしなくていい。僕はそんなふうに思うようにしてる」


 自分でも何を言ってるのかわからなくなってきた。その間も小金井はずっとこちらを見ていた。涙は今も頬を伝っているけど、小金井は微かに笑みを浮かべた。


「何言ってるかわからない」


 小金井は笑っていた。


「でも、いいね。それ」


 囁くように小さい声だったけど、その澄んだ声はいつもの小金井のものだった。

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