第7話

 僕の住む蓮見町はかつて青果や乾物、金物などの市場があって活気のある町だったという。今では働き盛りの若者は脱兎のごとく都市部に移り住んで町を歩いていても年寄りや僕らみたいな半端な学生、児童ばかりが目立つ。蓮見町の中心部にある商店街の半分くらいは年中シャッターが降りている。その光景を見て、幼い頃はもう少し賑やかだったと思う。


 蓮見町の人は小学校を出ると大抵が町の中心部にある蓮見中学に通うことになる。町を分断するように東西には一本線路が走っていて僕はそれを使って町の端っこから中心部にある中学校まで通っていた。


 教室に戻った僕は近江になぜ小金井に僕のことを話したのかを訊いた。


 近江は早口になって、


「いやあ、まっちゃんにも春が来たんだなぁと思ってねぇ。知り合いなら早く教えてくれなきゃ困るぜぇ。でも安心してくれ。しっかりまっちゃんの良さをアピールしといたからな」


 などと訳の分からないことを言った。


 それから放課後になって僕は近江と別れた。


 僕は電車に乗り込み過ぎゆく町の景色を眺める。


 一両編成の茶色の列車の中にはくすんだ赤色のシートが横一列に並んでいる。


 自宅の最寄り駅に着くと駅の南側から暗くなっていく水平線がよく見えた。夕暮れ時の爛々と光る海の上を白い鳥が飛んでいる。


 閑散とした無人駅には人の気配はなく、駅の近くの小さな砂浜からわずかに波の音が聞こえてくるだけだった。


 僕は砂浜に向かって歩き始めた。

線路脇にイヌビエの細長い葉が垂れ下がっていてその上には黒いテントウムシが一匹止まっていた。水平線の向こう側はもう滲んだ藍の絵具のようにどんよりと暗くなっている。


 砂浜に続くコンクリートの階段を降りると細長い流木の上に海藻がへばりついていた。いつも見ているはずなのに夜の海を眺めると不安な気持ちになる。暗くなった海は何もかもを飲み込んでしまいそうなほど深く恐ろしいもののように思えた。


 砂浜を歩いていると人の姿があった。


 髪の長い女の人だった。白衣が風に揺れている。歳は二十代後半くらいだろうか。医者か学者か。背が高く、顔は髪に隠れて見えなかった。


 その人も僕に気づいたみたいだった。目が合って思わず立ち止まるが、僕は不審に思われないようにすぐにその人の後ろを通り過ぎようと歩き出した。


 その人は振り返ってこちらをじっと見つめていた。


 僕は立ち止まって辺りを見回したが僕以外には誰もいなかった。その人はこちらに対して手招きをした。なんだか怖い気もするけど僕はゆっくりとその人へ近づいていった。


 隣に来ると女の人は僕を見て頷く。何か話すのかと思ったらその人は何も話さずただ海を眺めていた。


 気まずい沈黙が流れて、耐え切れなかった僕は適当に言葉を発した。


「あ、あれはウミネコですか?」


 遠くの空で鳴く白い鳥を指さした。


 彼女は目を一瞬見開いて、すぐに微笑を浮かべた。


「あれはカモメだよ」


 高くも低くもない声、ただとても穏やかな印象の声だった。


「そうなんですか? 違いがわかりません」


「鳴き声とか、後は季節によって見分けられるよ。カモメは渡り鳥だから」


 彼女は遠くを飛ぶカモメを眺めていた。切長の目、薄く小さい口には薄い色の紅がさしてある。僕はその女性のことをどこかで見たことがある気がした。


「こんなところで何かしてたんですか?」


 夏休みに入ってもいないのにこんな時間に人がいるのは珍しい。


「人を待ってた」


 その人は砂を見つめて言った。


「人ですか?」


 笑みを浮かべ頷いた。切れ長の目が海面のわずかな光を映している。


「誰を待っているんですか?」


 海のさざなみの音が聞こえてくる。小さな貝殻がいくつも足元に落ちていた。よくよく見てみると砂浜にはたくさんの流木が打ち上げられている。


「知り合いを……ね。あいつ、すぐどっか行っちゃうからさ。まだ調査も半ばだっていうのに」


 彼女の瞳の中で光が揺れていた。僕は調査という言葉が気になった。


「何を調査してるんですか?」


 僕が言うと彼女は目を細めた。薄い色の月が空に浮かんでいて、海面を照らしていた。


「蓮見町近辺の海の生態調査を、ね」


 その言葉を聞いた瞬間、指先に血液がめぐるのを感じた。


「それじゃあ、もしかしてシーラカンスについても」


 興奮した僕はきっと声が大きくなってしまっていた。


 その人は一瞬目を丸くして、すぐに笑みを浮かべる。


「うん、そう。そうだよ。私たちにとって一番重要なことだから」


 僕は思わず前のめりになっていた。


「シーラカンスは本当にいると思いますか⁉︎」


 その人は微笑みを浮かべながら言った。


「君はどう思う?」


「僕は、いるんじゃないかって思っています」


 彼女は目を細める。


「そう。私もいると思っている」


 祖母以外でシーラカンスがいると言った人に初めて会った。誰も信じなかったことを研究者が肯定してくれたことが信じられないと同時に嬉しかった。


 僕は矢継ぎ早にいくつも質問を投げかけた。彼女は嫌な顔一つせず質問に答えてくれた。


 そして最後に僕はこんな質問をした。


「どうしてシーラカンスは数億年と長い期間を生き残ってこれたのでしょうか? 他の生物はあんなに絶滅を繰り返しているのに」


 その人は海を見つめて言った。


「それは見方の問題、かな。そもそも姿を変えず生き残っている動植物は意外と多いんだよ。だからシーラカンスは決して例外的というわけじゃない。例えばシーラカンスと同じように生きた化石と呼ばれるカブトガニは約三億年前からほとんど姿を変えていないし、ゴキブリの祖先なんかはそれよりも前から生息している」


 その人の答えは僕が求めていたものとは違っていた。だから、少しだけ力が抜けてしまった。


「もちろんシーラカンスが現在まで変わらない姿で生存してきた理由はある。例えば現存のシーラカンスの行動範囲は水深二百メートルから七百メートルだから天敵になりえるような巨大なサメなどはいない。そう言った要因が大きいのかも」


 僕は「そうなんですね」と返すことしかできなかった。僕にとってシーラカンスは特別な存在だったから、彼女の答えに落胆していた。


 しばらくの沈黙、波の音ばかりが耳に入る。


「ま、まあでも!」


 彼女は声を張り、調子を変えて言った。


「この海のシーラカンスも同じとは限らないとは思う。この辺りの海域には海底火山もあって、かつてはその噴火で多くの海洋生物が死滅したと考えられている。この海のシーラカンスがいつ頃から生息しているかによるけど、もしそういった自然災害を乗り越えているんだったらこの海のシーラカンスは特別だといえるかもしれない」


 彼女の口調は先ほどよりも明るかった。


 波が足元まできていた。ブクブクとした白い泡を残して波は引いていく。


 僕は急に頭痛を覚えて、頭を押さえた。視界が一瞬ぐにゃりと曲がって脚の力が抜けたがなんとか立っていられた。


 彼女はこちらを見て「大丈夫?」と言った。


 僕は「大丈夫です」と答えた。


 おどけた調子で僕は彼女に尋ねる。


「僕もこの海が好きで、だから、いつか海のこともっと調べたいと思っているんです」


 一瞬、その人は顔を歪めたがすぐに笑みを浮かべる。


「研究者になりたいってこと?」


 僕は強く頷いた。


 その人はとても優しい笑顔で、


「きっとなれるよ」


 と言った。


 僕は海の方を見た。辺りは暗くもう水平線もほとんど見えなくなっていて、海と空が同化していくようにさえ思えた。


 そして、彼女の方を振り向くと僕は違和感を覚える。彼女の肩が白く膨れ上がっていたのだ。


「あの何かが……」


 僕はその人の肩を指さした。それは肩が膨れ上がっているのではなく、白くて丸い何かが乗っているのだとすぐにわかった。


「何?」


 その人は何も気づいてはいないようだった。


「肩に……」


 僕が目を擦るとそこにはもう何もなかった。


「何かついてる?」


 女の人が自分の肩を見て手で払う。


「い、いえ、気のせいみたいです」


 彼女は「そう」と頷いて、僕の手を握ってきた。


「もう遅いから帰ろうか」


 そう言って彼女は僕を連れて駅のほうへ歩き始めた。


 中学生にもなって大人に手を握られるのは気恥ずかしかったけど、不思議と嫌ではなかった。

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