第2話

 目の前の光景を見て、僕は心臓を摑まれたような思いだった。遊泳禁止区域で女の子は微動だにせず海面を死体のように漂っていた。岩の上から見たその女の子は生きているようには見えなかった。


 僕は考える間もなく海に飛び込んでいた。


 六月でも思いのほか海は冷たかった。服が海水を吸ってうまく泳げず、もがくように手足を動かした。いくらか海水を飲んでしまったがなんとか浮いていられた。


「だ、ぶっ、大丈夫、ですか⁉︎」


 水が口に入ってうまく声が出ない。


 海に浮かぶその人の長い髪が波に揺れている。高い鼻がツンと空に向いているのが印象的で瞳には空の青が映っていた。


「あの!」


 声をかけても返事はなかった。本当に死んでいるんじゃないかと恐ろしくなった。


 しかし、彼女はゆっくりと手を空に向けて伸ばした。ブレスレットだろうか、彼女の手首で青いガラス玉のようなものが煌めいた。僕はようやく彼女が生きていることを確認し、安心した。バタバタと水面を叩きながら近づいていく。


 そして、彼女と目が合った。


「誰?」


 小さい声だったが彼女の声は高くよく通った。


「何してるんですか⁉︎」


 僕が声をかけると彼女は眉根を寄せて再び空に視線を向ける。


 彼女は何も知らないのかもしれない。ここがどれほど危険なのか理解していないのだと思った。


「ここ、危ないから早く!」


 僕は彼女の腕を摑んだ。しかし、彼女は僕の手を引き離そうともがき始める。


「ちょっと、離して!」


「だから、ほんとに、危ないか──」


 彼女を岸に引き戻そうと腕を引っ張った瞬間、身体が大きく揺れた。大きい波が僕を飲み込んだ。鼻に水が入り痛みを感じる。それと同時に水に視界を奪われ、どうすればいいのか分からなくなった。


 僕は彼女の腕に縋り付くことしかできなかった。


「ちょっ、何やって──」


 彼女の声が微かに聞こえた。


 僕は必死に海面に上がろうともがいたが、そもそも海面がどこにあるかも分からない。必死に手足を動かすが一向に海面は見えない。


 パニックになっていた僕の顔に何かが触れた。それは彼女の手だった。彼女の手は僕の顔を上に向けた。するとぼやけた視界の中で海面の光が見えた。上から差し伸べられた手と彼女のシルエットだけが光に照らし出されていた。


 僕はその手を摑んで泡のようにゆっくりと浮上していった。


 海面に出た後、僕は何度も咳き込んでいたが、彼女は何も言わず僕の手を引いて岸に向かって泳ぎ始めた。


 初めて握った女の子の手は冷たくて、でもとても安心できた。


 僕は釣具を置いた元の岩場まで登り激しく咳き込んだ。いくらか海水を飲んでしまったせいか吐き気もする。


「大丈夫?」


 こちらも見ずに彼女は髪の水気を取りながら言う。


「へ、平気、なんか、ごめん」


 咳が何度も出て苦しかった。その上自分の失態が恥ずかしくてまともに彼女のことを見られない。


「君、馬鹿なのね」


 こちらを振り返って彼女は言った。長い睫毛に水滴がついて光って見えた。


「泳げもしないのに海に飛び込むなんて」


 顔が熱を持つのを感じた。


「ふ、普段なら、泳げるんだ。ただ、服が重くて……」


 くだらない言い訳だと自分でも思う。


「だ、だいたいあんなところにいるから!」


 言葉を重ねるたび喉の奥がキュッと締まっていき息苦しさを感じた。


「そうね。でも、こんなところに人が来るなんて思わなかったから……」


 彼女は海のほうを見て言った。その視線はずっと遠くの水平線に向けられているようだ。


 しかし、すぐに彼女はこちらに視線を戻して、岩場に転がる釣り竿を見た。


「これ、君の?」


 僕は急かされてもないのに慌てて頷く。


「ずいぶん大きい釣り竿ね」


「えっと、これは投げ釣り用で」


「投げ釣り?」


「岸から離れたところの魚を釣るんだよ。見たことない? こうやって振りかぶって針を遠くに飛ばすんだ。岸から離れたところのほうが大物が釣れるんだよ」


 彼女はふーんと興味なさげに頷いた。


「それで、何が釣れるの?」


 彼女はスカートの裾を絞り始める。水が彼女の脚を伝い地面に染み込んだ。


 僕は言い淀んだ。何と答えれば良いのかわからなかった。今まで釣ってきたのはカサゴやアイナメ程度の小さい魚ばかりだった。それらの魚を餌に大物を狙いはしているがまだ一度も大物を釣り上げたことはなかった。


「いろいろ釣れるみたいだよ」


「みたいってまるで釣ったことないみたい」


「釣ったことは、あるよ。カサゴとか、アイナメとか……」


 彼女は目を丸くしてこちらを見ていた。


「それが大物?」


 再び顔が熱くなった。


「まだ、釣れてないだけだから」


 ひどく自分が惨めに思えてくる。


「よく来るの?」


 僕は頷く。


 彼女は首を傾げる。


「釣れない場所なのにどうして?」


 自分の首が徐々に締まっていくような思いだった。


「ここが一番沖に近いから……」


「でも、釣れないなら──」


「そんなことはわかってるよ!」


 彼女の言葉を遮るように僕は言った。思わず声が大きくなってしまった。


 彼女は目を細めてこちらににじり寄ってくる。


「何に怒ったのか知らないけど、言い方、気に入らないわ」


「別に、怒ったわけじゃ……」


 どうしてなのか彼女は口元に笑みを浮かべて言う。


「じゃ、なんで怒鳴るの?」


「それは、なんというか」


 自分でもわかっていることを言われたから、ここで目当ての魚なんて釣れるわけがないと自覚しているからだ。でも同時にここが一番可能性があるとも思っている。


「ここは危ないって君が言ったのにどうしてここなの?」


「それは……」


 僕は言いよどむ。馬鹿げているというのは自分でも分かっている。こんなこと人に言うべきでないと分かっていたけどなぜか僕は言ってしまった。


「シーラカンスを、釣りたくて」


 囁くような小さい声しか出なかった。


 彼女の顔から笑みは消え、目を見開いてこちらを見つめていた。


 笑うでもなく、馬鹿にするでもなく、ただ彼女は驚いているように思える。この話をするとたいていの人が馬鹿にするか、苦笑いを浮かべるかのどちらかだったから彼女の反応は予想外だった。


 彼女の眼が細められるのを僕は見た。


「それ本気で言ってる?」


 睨みつけるような視線がこちらに向けられていた。


 僕には彼女の考えが欠片も分からなかったけど、これだけは自信を持って言えた。


「当たり前だよ」


 彼女の瞳が太陽の光でオニキスのように黒く輝いて見えた。


「そう」


 彼女は再び笑みを浮かべて言った。


 それからしばらく彼女は制服の袖や裾を絞って水気を取っていた。服の水気をある程度取り終えた彼女は手首にはめていた青いガラス玉のついたブレスレットのようなものを口に咥えて、髪の毛を後ろで一つに束ね始める。あれはヘアゴムだったのかとその時初めて気づいた。


「君、名前は?」 


 突然彼女は言った。


 僕はいきなりのことで吃ってしまう。


「ま、松波まつなみ晴、晴れって書いてハル」


 彼女は顎に指を当てた。


「ハルくん、ね。それで学校は? 小学生?」


「ちがっ」


「この辺だと蓮見小?」


 僕は彼女の制服を指差して言う。


「中学生だよ! 君と同じ!」


「へ?」


 彼女は間の抜けた声を出した。


 そして、「くふっ……」と吹き出した。


 アハハハハッと笑う彼女の声は高く、これだけ声を上げているのに下品なところがなかった。ただ失礼なやつだとは思った。こんなことで笑われるとは思わなかった。


「ごめんなさい。あんまり小さいからてっきり小学生かと。えっと一年生かしら?」


「違う、これでも三年生だよ」


 彼女は再び口を押さえてクククッと喉を鳴らして笑った。


「ふふっ、ごめんなさい」


 コロコロと表情の変わる人だと思った。


「そんなことより、どうして海にいたのさ?」


 彼女はあごに指を当ててうーんと唸ってから答えた。


「探し物をしてたの」


「探し物?」


 こんなところで何を探すのかと思った。


「私も君と同じものを探していたのかも」


「え?」


 彼女は岩場の端に脱ぎ捨てられていた靴を履いて教会のほうへ歩き始める。


「そ、それってどういう?」


 彼女は振り返って小さく手を振った。


「また今度、ね」


 それから彼女は教会の脇道の向こうへ消えていった。


 彼女もシーラカンスを探していたのだろうか。いや、きっとからかわれただけだろうと思う。この町であの魚の存在を信じている人なんてほとんどいないのだ。期待するだけ無駄だと知っている。


 彼女はよく笑うが時折とても冷たい目をする人だった。相入れない二つの感情が交互に見え隠れする不思議な雰囲気を持っている。


 僕はずぶ濡れの自分の身体を見た。服が重く身体がだるい。さすがにここから釣りをする元気はなかった。


 僕は釣り竿とバケツを手に元来た道を歩き始めた。


 目の前には教会がある。海側の壁には大きなステンドグラスが嵌め込まれていた。青や緑、赤、黄とさまざまな色が太陽の光を受けキラキラと輝いて見えた。


 自転車のところまで来ると釣具やバケツを前かごに突っ込んで、ティーシャツを脱いだ。ずぶ濡れのティーシャツを絞っていると背後で足音が聞こえる。


「大丈夫ですか?」


 振り返るとそこには黒い服の男が立っていた。


「何かあったのですか?」


 この教会の神父らしかった。僕はすぐにティーシャツに袖を通した。


 壮年のその男は明るいブラウンの瞳でこちらを見つめ、手を差し伸べてくる。


「怪我はありませんか?」


 僕はどうしていいのか分からず、急いで自転車に跨った。


 そして、何も答えずに勢いよく自転車を漕いだ。


 百メートルほど走った後に振り返るともうそこに神父の姿はなかった。

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