第2話 遊園地のピエロ

 これから行こうとしている遊園地は、この駅から急行電車で三つ目くらいの駅だった。所要時間としては二十分くらいで着く場所で、駅からさほど歩くこともなく、遊園地のいる口に辿り着くことができる。

 その駅の乗降客のほとんどは遊園地利用客と言ってもいいだろう。休日などは急行電車に結構な人が乗っていても、この駅でたくさんの人が降りる。そのほとんどが家族連れで、半年くらい前に家族で来た時に感じた思いを思い出していた。

 小学生の低学年の考え方など、たかが知れているはずなので、今こうして話していること、つまりは先ほどの待ち合わせの時間帯の人間観察にしても、実際にその時に感じた思いというよりも、もっと成長してからその時の記憶を呼び起こして思い出として結び付けたものだった。

 本人にはその意識はないかも知れないが、その時の記憶は大人になっても忘れていなかったということで、かなりの印象に残っていたのは事実だった。

 それは後になって作り上げた記憶が作用しているからではないだろうか。大人になってからそのことに気付くことになるのだが、あすなはその時何を感じ、何を見たのだろう。そのことが大人になってからの記憶位置づけに大きな影響を与えたということは確かではないだろうか。

 あすなは小学生の頃の記憶がそんなに残っているわけではない。むしろ小学校時代の記憶というのは、

「暗黒の時代」

 という意識が強かった。

 中学、高校時代の方が孤独だったような気がするが、小学生の頃は孤独という言葉とは違うものがあったような気がする。やはり思春期を通り抜ける前、そしてまさに通り抜けている時、そして通り抜けた後とでは微妙に感覚が違っているに違いない。

 その間隔の違いが、

「時間が経てば経つほど、大きかったのだ」

 という思いを抱かせたとするならば、時間というものが自分にどのような影響を与えたのかを思い知ることになり、次第に子供の頃の記憶は、今の思い出そうとしている意識から何かを着色されたかのように思えるのだった。

 おじさんと来たその日は平日だったので、それほど人はいなかった。入り口も閑散としていて、自分の知っている遊園地ではない気がしたくらいだった。

 中に入ると、大きな花壇が正面にあり、必要以上な広さを感じさせる広場になっていた。だが考えてみると平日に来るから必要以上に広いと感じるだけであって、日曜日などは、人でごった返しているに違いなかった。その時感じたのは、

――今のこの広さと、人でごった返している時のこの場所の広さとでは、どっちが広いと感じるんだろう?

 ということだった。

 同じ場所であっても、環境が違えば感じる広さも若干違ってくるという意識は小学生のあすなでも分かっていたような気がする。普段は子供のような考えしか持っていないあすなだったが、時々大人顔負けの考えを持っていたような気がしていたあすなには、広さの感覚というものが、その大人顔負けの考えだったのではないかと思えて仕方がなかった。

 広場を抜けると、正面にはヨーロッパ中世の建物が建っていた。そこが遊園地の事務所であり、お土産屋や休憩所が設けられているところだった。子供用には遊園地のアトラクション、大人にはこの建物の中にある施設、例えば温泉などがあるようで、そちらで楽しんでもらえるようにしていたようだ。

 これももっと大きくなって分かったことだったが、中世のヨーロッパの建物という意識は、小学生だったその頃からのものだったように思えた。どうしてそう思ったのかは根拠があるわけではないが、自分の中での信憑性は高いものであったことには違いない。

 遊園地のあちらこちらからかすかではあるが話し声が聞こえた。何ら他愛もない話だったように思うのは、笑い声が混ざっていたからだ。それを聞いて、その声の主が園内のスタッフであること、そして、客がほとんどいないことから、暇を持て余して、無駄話をしているということに気付いた。

 そして、その後に感じたことは、

「今日はお客さんよりも、スタッフの方が多いんだわ」

 という思いで、つまりはほぼ貸し切り状態になっているということを表していると感じた。

 おじさんもこんなに少ない遊園地を見たことがないのか、あすなよりも余計にキョロキョロしている。戸惑っていると言ってもいいだろう。その様子を下から見ていて滑稽に感じたので、おじさんには分からないように、クスクスと笑っていたのだった。

 遊園地では、アトラクションも並ぶことはなかった。逆に、

「今のままではお客さんはおひとりですので、ほんの少しで結構ですから、他にお客様が来られるまで、お待ちいただけますか?」

 と言われたほどだった。

 別に構わなかったので、

「いいですよ」

 と答えたが、それほど客が少ないということなのか。

 なろほど、まわりを見渡すと、客よりもスタッフの数の方が圧倒的に多い。最初に感じた通りだった。スタッフは余裕があるのか、雑談している人もいるくらいだった。

 考えてみれば、土曜日曜はこんなことはないはずだ。アトラクションには家族連れがたくさん並び、園内は人でごった返しているはずだからである。

 あすなもそんな光景しか見たことがなかったので、最初から平日は少ないと思っていたのだが、この光景は想定外だった。貸し切り状態は分かっていたが、ここまで自由だと、今度は寂しいくらいである。

――おじさんは、どう感じているのだろう?

 横顔を下から覗き込む分には、あまり何も感じていないようだ。

 どちらかというと、心ここにあらずとでもいうべきであろうか。その顔はまったくの無表情に感じられた。

 おじさんの顔を見ていると、自分とそんなに年齢が違わないように思えてきたのはどうしてだろう?

 遊園地という環境にいるからなのか、それとも父親や先生以外で、なかなか年上と接する機会がないから、新鮮に思う反面、年齢が離れているという感覚が嵩じて、年の近さを感じてしまったのかも知れない。

 父親や学校の先生といつも接しているという思いはあるが、接しているというほど親密感を感じたことはない。

――相手は大人なんだ――

 という思いが強く、近づけない存在であるという感覚があったのだ。

 だが、それだけではなく、

「近づきたくない存在」

 という思いも確かにあった。

 特に親とは隔絶した思いがあったような気がする。それは肉親という切っても切り離せない既成事実が存在しているからに他ならない。学校の先生にも一線を画したところがあるが、そこまで隔絶した感覚を持っていない。

 学校の先生に関しては、

「別に関わる必要もない存在」

 という思いがあったからだ。

 肉親という既成事実があるわけではなく、義務教育の中で、勝手に大人が決めた自分の担任というだけだ。既成事実以外で逃れられないものはないと思っているあすなには、勝手に決められたことを自分が義理がたく感じる必要などないという思いがあったのだ。

 おじさんに対してはどうだろう?

 血族という意味ではそうなのだが、肉親というほどの既成事実でもない。中途半端な気持ちになってしまうが、別に毎日顔を合わせなければいけない相手でもないし、何よりもあすな自身が嫌いではなかった。

 たまにしか会うことはないが、会った時に嫌な気分になったことなど一度もなく、どちらかというと、

「いつもお小遣いをくれる優しいおじさん」

 というイメージが大きく、会えることが楽しみなのは、やはり小学生の気持ちだからだとあすなは感じていた。

 今日は、そんなおじさんと一緒にいられることが嬉しかったはずなのに、最初の待ち合わせで見たおじさんの雰囲気がいつもと違っていることで、

――あれ?

 と一瞬感じたが、すぐに笑顔になったことでその思いは消えてしまった。

 だが、遊園地で覗き込んだその顔には感情が見えてこないことで、

――やっぱり今日のおじさんはいつもと違っているような気がするわ――

 と感じた。

 あすな自身、小学生なのにこんなに人間観察において、細かいところまで見ている自分に少し違和感を感じていた。

 人間観察をすることは嫌いではなかった。ただそれは駅で待ち合わせをしている時など、暇つぶしという意味での人間観察であって、その中でいちいち相手の感情まで思い図ることはなかった。

 しかし、今のあすなはおじさんの気持ちを思い図ろうとしている。この感情は一体どこから来るのか、自分でもよく分かっていなかった。

 おじさんは、しっかり前を見ている。いつものおじさんとは確かに違っていた。いつもであれば、もう少しあすなの方を見て、あすながどんな表情をしているのか確認しようとしてくれていると思った。

 この日はあすなのことよりも、自ら何か悩みでもあるのか、どこか上の空に感じられる気がする。

――これではいつもと逆じゃないの――

 と思ったが、悪い気はしなかった。

 いつもは助けられているという感覚があったことで、甘えていた部分もあったが、今日はあすなも精神的に落ち着いている気がしたので。

――今日は私がおじさんの癒しにでもなれればいいかも知れないわね――

 と感じた。

 元々、自分では面倒見がいいと思っていたあすなだったが、今まではそれを発揮できる機会がなかっただけだった。

 まわりからはきっと、

「あすなは自分のことばかりしか考えていない」

 とクラスメイトなどからは思われていたことだろう。

 あすなはあざといことが嫌いだった。わざとらしさが少しでも見えれば、やりたいと思ったことでも思いとどまってしまう。思いとどまったその時、自分がしようと思ったことを他の人にされることも結構あったが、その様子を見て、本当にあざとさが見えてしまうことで、

――やらなくてよかった――

 と感じさせられる。

「一歩踏みとどまって考えることが一番いいんだ」

 とあすなに感じさせたのは、この時の思いがあったからだ。

 別にあすなは慎重派だというわけではないが、まわりから見れば、

「石橋を叩いて渡るタイプの女の子」

 というイメージが強いようだ。

 悪いことではないのだろうが、小学生のように無垢で無邪気なのがかわいいと思われる年代なので、まわりからそう見られることが果たしていいことなのか、あすなには分からなかった。

 だが、あすなはそれでいいと思っていた。

「しょせんまわりからどう見られようとも、自分は自分」

 という思いが強く、それがあすなの基本的な性格を形成しているように思えた。

 それは自分でも感じていることだし、まわりも思っていることだった。もちろん、まわりがあすなも自覚しているなどということが分かるはずもなく、むしろ、本人はこんな性格を分かっているとしても、

「嫌いな性格なんだ」

 と思っているに違いなかった。

 あすなは学校でもどちらかというと孤立していて、あまり他の人と話すことはない。小学生というと、結構グループを作っているというイメージだが、彼女はどのグループにも所属していない数少ない人の一人だった。

 ただ、無所属の人たちを大人の目で見ていると、

「彼らには確固たる信念のようなものはまだないような気がする」

 という風に見えるようだった。

 中学生より大きくなって無所属であれば、確固たる信念のようなものが見え隠れしているのだろうが、小学生の間で無所属というと、

「どの団体にも入ることのできない中途半端な気持ちしか持っていない」

 というように思われているようだった。

 そういう意味であすなは、大人から見ると、内容までは分からないが、何か自分の中で信念のようなものを持っているように見えることで、数少ない中でもさらに希少価値に値する人に見えているようだった。

 いい意味でも悪い意味でも、

「変わり者」

 と言っていいのかも知れない。

 しかしあすなにとっての変わり者という称号は、自分としては嫌ではなかったに違いない。

 もちろん、まわりからそんな風に思われているなど思ってもいなかったので、普段から一人を嫌と思うこともなく、孤立を楽しいんでいたと言ってもいいだろう。

 負け惜しみというわけでもなく、あすなはその証拠に、まわりを見る目に関しては、他の人には負けないとまで感じていたのだ。

 まわりを見るというのは、主観的にではない。あくまでも客観的に見ることができることが肝要だと思っていた。まわりに気付かれず、気付かれてしまったとしても、変な気遣いをさせないことが、大切だと思った。だから、そのためには客観的に見ることで、まわりを広く浅く見ることができると思ったのだ。

 別に深く知る必要などない。一つのことだけを深く掘り起こしても、まわりから見えなければまったく無意味だと思っていた。

 あすなはあまり自己分析をするタイプではないのだが、それは中学生になってからのことだった。今から思えば、小学生の頃は結構自己分析をしていたような気がする。

 そんな小学生時代の自分をあすなはあまり好きではなかった。自己分析をするから好きではなかったわけではなく、中学に入ってから小学生時代のことは思い出したくないと思うようになったからだ。

 その理由は五年生の頃くらいから、クラスメイトに苛めを受けていたからで、そんなに厳しい苛めではなかったが、思い出したくない思い出としては十分だった。

 だが、そんな時でも自分を客観的に見ることができ、そのおかげで、それほど自分を嫌いにならずに済んだと思っている。そういう意味であすなは自分を客観的に見ることができる自分を、

――これが私の長所なんだ――

 と感じていたが、実際には短所でもあった。

「長所と短所は紙一重」

 と言われていることは知っていたが、まさかこれが短所であったなどという感覚はなかった。

「人の性格はよく分かる気がしていたのに、自分の性格が分かっていない」

 それが中学生の頃のあすなだったが、中学生の頃の自分は決して好きではなかった。

 その理由は、後から考えて、この考えが間違いだったと分かったからだ。本当は人の性格がよく見えていたわけではなく、客観的に見ただけで、奥までは見ることがなく、自分のことを分かっていないと思っていたが。それは自分から目を逸らしていたからだという逃げの感覚が自分の中にあったからだ。

――私は、これでいいのかしら?

 成長期特有の精神的な堂々巡りを繰り返していたのだ。

 人が少ないところにいるのは、好都合だった。いつも人が多いところにいることが多いので、あまり気分のいいものではなかった。あすなにとっては人が少ないのはありがたかったが、おじさんがどう思っているのか、よく分からなかった。

 その思いがあったから、おじさんの顔を覗き込んだのだったが、その表情からは感情を思い知ることができない。

――人の表情から感情を読み取ることは難しいので、読み取れないのも仕方がないと思うが、今日のおじさんの気持ちが分からないのは、ちょっと嫌だな――

 と思っていた。

 なぜなら、おじさんと二人きりだからである。二人きりでいることで、今までおじさんには気を遣うことがなかったのに、その日初めて気を遣った気がするのは、大人の気持ちを思い図ろうという思いがあったからなのだろうか。

 おじさんにとってあすなと一緒にいるのはどんな気分になるのだろうか。あすなはあまり気にしたことはなかったが、この時、おじさんが無表情だったことで、そのことも気になるようになってしまったのだった。

「そういえば、おじさんは今日、お休みなんですか?」

 と聞くと、

「うん、今日はこの間休日出勤したので、その代休なんだよ」

 と答えてくれた。

 会った時に比べて、少し顔色も悪くなったような気がしたのは、最初におじさんに出会った時、出会えたことに安心したような気がしたからだ。

 館内は静かだったが、遠くの方からBGMのようなものが聞こえた。遠くの方から聞こえたと感じたのは、音が小さいからというよりも、スピーカーから聞こえてくるからなのか、音が籠っているように聞こえるからだった。

 音楽はクラシックだったように思う。行進曲のような感じで、まるで運動会のような音楽に、イメージはあまりよくはなかった。運動音痴のあすなには、行進曲は嫌いな部類の音楽だった。

 籠って聞こえるのは幸いだった。

「聞こえないようにしておこう」

 と思えばできないこともなかったからだ。

 遊園地のアトラクションを二つくらい乗ってからのことだっただろうか。時間的には入館してからまだ三十分も経っていなかっただろう。あすなとしては、もっと時間が経っているかと思ったが、おじさんから、

「まだ入ってから三十分も経っていないんだね」

 という言葉があったからだ。

 あすなとしては自分が時間を気にしたことよりも、おじさんが時間を気にしていることの方が気になっていた。

――私と一緒にいると、時間ばかり気にするのかしら?

 という思いがあったからだ。

 最初に遊園地に入った時、あすなが感じたようにおじさんもきっと、

――これだけ人が少ないと、本当に自由に何でもできる――

 と思っていたに違いない。

 しかし、あすなはそんな思いはすぐに薄れてしまって、寂しさを感じるようになっていた。確かに休みの日にしか来たことがなかったので、こんなに少ないのは願ったり叶ったりのはずなのに、どこか物足りない思いになるのはなぜなのだろう?

 親の都合でおじさんが駆り出されたという事情が分かっているだけに、おじさんに余計な気を遣わせることはあすなには喜ばしいことではない。そんなおじさんを見ていると、たとえ三十分くらいとはいえ、もっと時間が経っていたような気がしていたのだ。

 おじさんも、あすなと同じように時間がなかなか経ってくれないことを気にしている。それはきっと自分の身の置き所を戸惑っているからなのかも知れない。

 あすなは、まわりに活気のないこの環境の中で、いかに時間を有効に使うべきか、考えあぐねていた。きっと何か新しいことが起こってくれればいいのだが、何も起こりそうにないこの状況に気を揉んでいるのを感じていた。

 そんな時だった。さっきまで動いていなかったアトラクションの一つが動き出した。そこには誰かが乗っている様子は見受けられなかったので、何か不思議な感じを受けたが、おじさんも同じように不思議な感覚を抱いているようで、じっと、そのアトラクションを眺めていた。

 すると、その反対方向で物音が聞こえたかと思うと、さっきまで何もないと思われたその場所に色鮮やかな服を着た、怪しげな人影が見えた。

 その人は一人ではなかったが、さっきまでなかったスポットライトに包まれたその一団の中心にいるその怪しげな人物に目が奪われた。テレビでは見たことがあったが実際に目の前で見るのは初めてだった「ピエロ」だったのだ。

 某ハンバーガーチェーンのマスコットにも似たそのいで立ちは、髪の毛は黄色かかっているパーマをかけていた。鼻は丸い球がついていて、口元はこめかみあたりまで裂けて見えるのは、その独特の化粧によるものだった。

 おじさんは、口を半開きにして、呆れているのか、それともあまりのまわりの変化についていけていないのか、表情は硬直していた。今話しかけてもおじさんから返事をもらえる気がしなかったあすなは、自分もそのピエロを見つめているしかなかった。

 ピエロのまわりには確かに人がいるのだが、ピエロの雰囲気に圧倒されているせいか、それとも逆光になっているせいか、その表情を図り知ることはできない。

――ピエロも逆光のはずなんだけど――

 とあすなは思ったが、だからどうなのか、それ以上の発想が思い浮かばなかった。

 さすがにまだ小学生の低学年である。発想は的を得ているのかも知れないが、結論を導き出すまでの考えはない。発想は持って生まれたものなのかも知れないが、結論を導き出すのは、育っていく中で培われていくものなのだろう。それが大人と子供の違いだと言えばそれまでだが、あすなは大人になるまでには一歩も二歩も足りないことを自覚していたようだ。

 ピエロは奇抜な行動をしていた。それは予想を逸脱したもので、前に進んでいるように見えて、巧妙に後ろに下がってみたり、右に進むように見せて、前に進んで見たりと、ことごとくあすなの発想の裏を行っているようだった。

 いわゆる「チンドン屋」という雰囲気ではなく、どちらかというと、サーカスにいるピエロの雰囲気の方が強かった。どちらも、今は普通に生活していては見ることのできないピエロであるので、遊園地とはいえ、こんなところで会えるというのは、実に稀なことなのであろう。

――それにしても、何を考えているんだろう?

 化粧を施したその顔から、表情を読み取ることなどできるはずもなかった。

 表情を見られたくないから、ピエロはあんな化粧を施しているのだと思うのだが、それも無理もないことだった。

「おじさんは、一度ピエロの恰好をしたことがあったんだよ」

 ピエロが少し離れたところで誰を相手にしているというわけではないパフォーマンスを演じている時、おじさんがおもむろに言った。

「どういうことなの?」

「あれはおじさんがまだ大学生の頃だったかな? 大学の学園祭で仮想大会というものがあって、おじさんはピエロの恰好をしたんだ」

 おじさんはピエロから視線を逸らすことなく、そう言った。

「どうしてピエロなの?」

「実は、前からピエロを演じてみたいと思っていたからなんだけど、それは前に見たピエロの印象が頭に残っていたからなんだ」

 おじさんは、ピエロを見てそこから視線を離すことができないのは、初めて見たという物珍しさからではなく、自分の過去にその理由を抱えていたのかも知れない。

「それは、いつ、どこでだったの?」

 とあすなが聞くと、

「実はそれが覚えていないんだ。確かに見たという記憶はあるんだけど、その時のまわりの環境をまったく思い出せないんだ」

「それは夢だったという可能性は?」

 というあすなの言葉を聞いて、おじさんは一瞬ビックリしたような表情をした。

 ひょっとすると、おじさんの中に夢だったという発想がなかったからなのかも知れない。それよりもピエロを見た、そしてそれをいつどこで見たのかまったく覚えていないという自分の中の矛盾に戸惑っていたのではないだろうか。

「ないんじゃないかって思うだけど、言われてみるとちょっと自信がないかな?」

 とおじさんは言った。

 それを聞いてあすなは、

――おじさんがピエロの記憶がなかったけど、今思い出したということは、私も今の光景をそのうちに忘れてしまうんだろうか?

 と感じた。

 これだけセンセーショナルな光景を目の当たりにして、あすなはこの光景をそう簡単に忘れることはないと思っている。忘れることがあっても、完全に忘れてしまうことはないだろうし、おじさんのように、まるで初めて見たかのような驚きを持って感じることはないだろうと思えた。

 ピエロは相変わらず無表情で踊っている。その踊りも滑稽なもので、

――本当に初めて見たのかしら?

 と感じさせるものだった。

 ピエロに集中していると、さっきまで客はほとんどいなかったはずなのに、ピエロに集中していた間のわずかな時間で、人が集まってきていることに気が付いた。

 それは、

――どこからこれだけの人が集まってきたんだろう?

 と思うほど結構な人数で、ざっと見ても、数十人はいるようだった。

 そのほとんどは子供で、物珍しいピエロを見るために集まってきたことはよく分かるが、親がほとんどいないのことも気になっていた。

――皆、どこから湧いてきたんだろう?

 湧いてきたなどというと、失礼な言い方だが、まさに甘い砂糖にたかっているアリのようで、

「自然の摂理」

 を思わせるほどであった。

 あすなはピエロに群がる子供たちの無邪気な表情を見ていると、この光景も初めて見るものではないという錯覚に見舞われた。

 そのうちに、

「ピエロが子供たちに何かを囁いているのではないか」

 と思うようになり、その言葉が今の自分なら分かりそうな気がして、ピエロから余計に目が離せなくなった。

 ピエロの様子を眺めていたおじさんは、一瞬咳払いをした。あすなはその咳払いに一瞬驚いておじさんの方を見たが、おじさんはバツの悪そうな表情であすなを見た。その姿が滑稽で、思わず笑ってしまったあすなだったが、急に何を思ったのか、すぐに目の前でパフォーマンスを演じていたピエロの一団に目を戻した。

 すると不思議なことに、今まで目の前にいた人は一人として残っていなかった。煙のように忽然と消えてしまったのだ。

 今まで目の前で踊っていたピエロの一団、そしてそれに群がっていた子供たち、本当に煙のようにいなくなっていた。

――どうしたのかしら?

 あすなはおじさんに聞いてみた。

「ピエロは? 今まで目の前で踊っていたピエロは?」

 と落ち着いているつもりだったが、完全に声が裏返っていた。

 無理もない。目の前の人が忽然と消えたのだから、動揺しないなど考えられないことだった。

 すると、おじさんはきょとんとした表情で、

「ピエロ? 何のことだい?」

 とおじさんは、何もなかったかのようにそう答えた。

 もし目の前で忽然と消えたという事実がなければ、おじさんが自分をからかっているのではないかと思うのだが、おじさんの言動と目の前で起こったことは、信じられないことではあるが、辻褄が合っている。そう思うと、

――何を信じればいいのかしら?

 と思うのも無理もないことであり、それこそ、

「夢だった」

 として、片づけてもいいことと言えるのではないか。

 ただ、夢だったとしてはリアルすぎるのと、おじさんが一緒にいることとを考えれば、簡単に夢だったとして片づけられない気がして仕方がなかった。

 だが、あすなはすぐに気にするのをやめた。あすなが目の前にいたピエロの存在を否定さえすれば、何事もなかったことになるのだ。下手に騒ぎ立てて余計な思いを抱かせるのは、あすなの本意ではなかったからだ。

 目の前にいたピエロを夢だったとして片づけることはできない。しかも、ピエロを見たという事実を時間とともに、簡単に消えて行っているのが分かったことで、何か自分の中での矛盾が芽生えてしまったことを悟っていた。

 その時のあすなには分からなかったが、この矛盾が一層、事実を忘却の彼方に追いやることを推奨しているかのようだった。人間が逃げようという感覚に陥る時の中には、この矛盾を感じた時に生まれるのではないかと、あすなはかなり後になって気付くのだが、その時はまったくその気配もなかったのだ。

 あすなはおじさんがピエロのことを覚えていないのか、それとも忘れてしまったのか、本当に最初から意識があったわけではないのか、さらには、夢だと思っていたのか、いろいろ考えられることを頭に思い浮かべてみた。一つ一つを消去法で考えたが、考えはまとまらない。そのうちに、あすなの方がピエロへの意識が低下していることに気が付いたというわけだった。

 あすなはピエロの記憶が頭の中から消えていくのを、徐々に同じペースで消えていくものだと思っていたが、どうも違っているようだった。

 それはまるで階段のように、ある一定の段階に来るまでは、一気に薄れていき、ある段階にくれば、一旦薄れが消えてしまう。しかし、また少ししてから意識が薄れてくるという具合だった。

 今までに感じたことのない感覚にあすなは戸惑っていた。

 しかし、あすなはまだ小学生の低学年である。まだ十歳前後なので、これから大人になり、いろいろな経験をするわけなので、感じたことのない感覚を味わったことで戸惑うというのは、少し違う気がする。

――やはり、これが初めてではないという感覚があるからなのかしら?

 という思いが残ってしまっていた。

 あすなはこの思いを自分だけではなく、おじさんもしているのではないかと思っていた。そこに根拠はなかったが、おじさんの顔を下から眺めていて、どこか上の空になったおじさんの顔がすぐに思い浮かぶからだった。

 おじさんという人は、あすなが思っているよりも結構気さくな人だということだった。会社でも営業をしているらしく、成績もいいと聞いていた。そんなおじさんは社交的で、誰とでも話を合わせることができるという話だったので、だからこそ、両親はおじさんにあすなを預けたのだろう。

 おじさんの本音は分からないが、両親から頼まれると嫌とは言えないところがあって、どうやら恩義を感じているところがあるようなのだが、子供のあすなに分かるはずもなかった。

 おじさんと両親はあまり似ていない。社交的でしかも几帳面なところがあるおじさんに比べて、あまり社交的ではないが、几帳面でもない両親とはどうして話が合うのか、あすなには疑問だった。

 だが、両親は社交的ではなく、しかも几帳面でもないにも関わらず、会社の仕事を無難にこなしているのか、成績はいいようで、父親などは、すでに会社で課長にまで出世していて、同期の中でも出世頭だという話を聞いたことがあったが、あすなはすぐには信じられない気がした。

――本当にお父さんのことなんだろうか?

 と感じたほどだった。

 あすなは、確かにピエロの記憶が残っていたはずだった。しかし、おじさんに簡単にピエロの存在を否定されて、

――私の方がおかしいのではないか?

 と感じるようになった。

 元々あすなは、自分に自信が持てない方だった。人に何かを言われると自分の意志が急に揺らいでしまう。最初はそれを、

――まだ子供だから――

 と思っていた。

 子供であれば許される感情であり、無理もないことである。それはまわりの人が自分よりも優れているという感覚から来ている。決して自分が悪いわけではないという感覚だ。

 それは、絶えず誰かと比較しているからで、比較対象がなければ、自己評価もできないと思っている。この感情はあすなに限らず誰もが持っているものなのであろうが、必要以上に持ちすぎるとそれがトラウマになってしまうということを、その時のあすなには分かっていなかった。

 その日、遊園地は相変わらず人が増えることはなく、昼前くらいになると、がらんとした遊園地内の雰囲気にも慣れてきたのか、それほど違和感を感じることはなくなっていた。

 閑散とはしていたが、無駄にだだっ広いという感覚は消えていた。この「無駄」という感覚が消えたことが、その後の慣れを生んだのかも知れない。そう思わせたのは、

「ピエロの存在だったのではないか」

 と思わせたが、この発想は突飛すぎて、信憑性のあるものではなかった。

 あすなとおじさんが遊園地を出たのは、午後三時くらいだった。

「もうそろそろいいかな?」

 とあすなが言い始めたからだった。

 おじさんも、

「そうだね、楽しめたかい?」

 と言ってくれたが、

「はい」

 としか答えることができなかった。

 遊園地で何が楽しいかということを、今日ほど疑問に感じたことはなかった。

 日曜日のように人でごった返して、アトラクションに並ぶのに、三十分以上というのも普通だという時でも、やっと乗れたアトラクションを十分に楽しむことができた。

 今日も前半はアトラクションを楽しんでいたが、それは普段と違って自分一人で占有できるという独占欲を満たしてくれることが新鮮で嬉しかったからだ。

 だが途中から次第に寂しさがこみあげてきた。その寂しさがどこから来るのか分からなかったが、いつもは嫌だと思っていたざわつきがないことが物足りないと思えていることが分かった。

 それが虚しさという言葉と結びついてくるということを分かるはずもなく、もし虚しさという言葉の意味を分かっているとしても、物足りなさがすぐに虚しさに結び付くなどという発想は浮かばなかっただろう。

 つまり、虚しさに辿り着くには段階を踏む必要があるということだ。少なくとも二段階は必要であり、二段階を満たすには、最初の段階の方がハードルが高いようだった。

 あすなとおじさんは遊園地を出てから、駅に向かった。出口からは目の前にあるはずの駅なのに、駅までの距離は来た時の倍くらいに感じられた。

 来た時は、

――やっと着いた。これから楽しむぞ――

 という意気込みとドキドキという感情の楽しみがあったからだが、帰りというと、疲れたという印象と、想像以上に感じた寂しさによってテンションが完全に落ち込んでいたことから、足取りが重いことが起因しているのだろう。

 電車の切符は最初から持っていた。乗る時に往復券を買っていたからだ。おじさんは定期券付きのプリペイドカードを持っていたので、パス入れをかざすだけだったが、あすなは自動改札に切符を通した。

 小学校までは徒歩なので、プリペイドカードは必要がない。切符を買うというのも普通の行為だった。

 自動改札を通ってプラットホームに出ると、電車を待っている客はいなかった。この駅はほとんどが遊園地利用客なので、それも無理もないことだ。つまりはこの駅は遊園地のための駅であり、遊園地ができたことで、作られた駅だという話も聞いたことがあった。

 待っている人のいない駅のホーム。こんな光景を今まであすなは見たことがなかった気がする。

 電車を利用するのは休日のみ。当然客がほとんどいない光景など見たことがなかった。

 駅で電車を待っている時、まわりの大人が皆大きく見えて、子供の自分たちなど意識する人はいないだろうと思っていた。

 子供連れも少なくはなく、大声で叫んだり、泣いたりしている子供もいた。子供目線から見ていると、見ていて情けなさが感じられた。

――何をそんなに泣いているんだろう?

 という感情である。

 何か自分の思いを達することができなかったからごねて泣いていることは分かっていたが、見ていてあまりいいものではない。

――私はあんなことはしない――

 と確固たる思いを頭の中に浮かべていたが、それと同時に、どうしてごねているのか、その理由を知りたいという気持ちもあった。

 しょせんは大したことではないという思いはある。ほしいものを買ってもらえないことで泣いてすがっているのだろうか、それとも行きたいところが親の連れて行こうとしているところと違っているのだろうか。どちらにしても子供のわがままだと思った。

 だが、ごねている子供を見ていると、そのうちに羨ましい気分になることもあった。

 自分は決してごねるようなことはしない。それは性格的にできないと思っていたからだが、それは最初に、

――私は、決してそんなごねたりなんかしない――

 という思いを強く持ったからだった。

 最初に強く持ってしまうと、それに抗うための気持ちを持つことは、それに伴うだけの強い意志が必要だと思うのだ。しかも、最初に感じた思いよりも強いものではないと、覆すことなどできるはずもないからだ。

 あすなは、自分が涙もろいということを自覚していた。何でもない時に泣きたくなるのだ。

「大人も私くらいになると、涙もろくなってね」

 と、一度おばさんの奥さんがそう言っているのを聞いたことがあった。

 そのおばさんというのは、あすなのクラスメイトの母親だったので、自分の母親と同年代だろう。

 年齢的には三十歳代後半から四十歳くらいなのだろうが、あすなには結構なおばさんに見える。母親よりも歳を取って感じられるのは、少し太っているからなのかも知れないが、たまにそのおばさんが、

「自分の母親だったらよかったのに」

 と感じることがあったが、間違っても口に出すことはなかった。

 その理由は、時々自分と気が合うのではないかと思うことがあるからだ。

 おばさんが何気なく口にした言葉が、忘れられなくなることがあるからだ。先ほど思い出した、

「大人も私くらいになると、涙もろくなってね」

 という言葉もその一つだが、とにかくおばさんは時々あすなの気持ちをハッとさせることがあるのだ。

 言葉に力があるという意識はあすなにもあったが。忘れられない言葉を何回聞くかということにそのバロメーターがあるのかも知れない。

 そのくせ、すぐに忘れてしまったり、どうしても覚えられないことがたくさんあるのも事実で、この二つのギャップがあすなの成長する上での障害になりはしないだろうか。

 小学生のあすなにそんな自覚などあるはずもなく、そのおばさんを意識することで、両親を余計に嫌いになってしまうことが、自分を好きになることができない理由の一つではないかと思うあすなだった。

 閑散とした駅のホームに立っていると思い出してしまった近所のおばさんだったが、電車が見えてくると、すぐに我に返ってしまった。

 さっきまであれだけ無駄に広いと思っていた駅のホームが急に狭く感じられ、人がホームに待っているわけではないのに、止まる電車を見ると、寂しさが感じられた。

 この寂しさはさっきまでいた遊園地の広場での、

「無駄なだだっ広さ」

 を感じた時の情けなさとは少し違っていた。

 微妙な違いなのだろうが、きっと他の人が同じ感覚になった時、同じ寂しさだと感じる人もいるのではないかと思うほどの微妙さであった。

 あすなは滑り込んできた電車に乗り込むと、やはり閑散としている車内を見ていると、差し込んでくる西日がまるで何かの幻を写し出すのではないかという錯覚を覚えた。

 閑散とした電車内というのは、あすなの感覚では夜間の電車内だった。遊園地に来るまでも結構閑散としていたはずだったが、それを感じさせなかった理由は、遊園地へ行けるという楽しみが待っているという感覚と、閑散とした中で、喧騒とした雰囲気もあったからではないかと思っている。帰りに乗った電車の閑散さの中に喧騒とした雰囲気は存在せず、ただ寂しさだけが漂っているだけだった。

 だが、

「無駄なだだっ広さ」

 という雰囲気は感じられなかった。

 だだっ広さすら感じなかったからで、だだっ広さを感じなければ、当然修飾子である「無駄な」という言葉もそこには存在しない。

 むしろ狭さすら感じさせる。普段乗る適当に混んでいる状態の電車の中よりも狭く感じられるのだ。

 電車の扉は片方で三つあり、それぞれその間に対面式の座席が作られていた。普段よりもその座席が狭く感じられることが、車両一両が狭いという感覚にさせられるのだった。

 電車の車両を見ていたおじさんも、

「何となく、狭く感じるのはおじさんの気のせいかな?」

 と言って笑っていた。

 あすなは同じことを感じているおじさんにドキッとして顔を見上げたが、ただ笑っているだけのおじさんを見て、

――これ以上、触れない方がいいかな?

 と咄嗟に感じたのか、何も言わなかった。

 おじさんは笑顔を見せたがその笑顔であすなの方を向くことはなかった。あくまでも正面を見ながら言っただけだった。何か虚空を見つめているというような様子もなく、ただ前を見ているだけだった。

 二人はここで黙り込んだ。

 席に座る時も、おじさんはあすなを促すこともなく、適当に座り、あすなも後ろをついていくようにしながら、その隣に当然のごとく腰を下ろしただけだった。

 腰を下ろして正面を向くと、今度はさっきまで感じていた狭さとは正反対に、向こうが遠く感じられた。それは目の前の窓が小さく感じられたからだ。

 車窓から覗く景色は、せわしなく駆け抜けていくように見えた。等間隔で立っている列車用の電柱は、垂直に走り抜けていくというよりも、進行方向から吹いてきた風になぎ倒されるように斜めに進んでいくような錯覚を覚えた。

――何なのかしら? この感覚って――

 あすなは目の錯覚に戸惑っていた。

 車窓の飛び越えるような風景に錯覚を覚えるのは、これが初めてではなかった。今までにも何度か錯覚を覚えたのを思い出していたが、そのほとんどは、扉の横にもたれるように立っていた時だった。

 あすなは反対路線のレールが見えるところに立つことが多かった。最初はどちらに立つなどという意識はなかったのだが、いつの間にかレールの見える扉の方に立つことが多くなってきた。

 気が付けば、レールを見ている。枕木はせわしなく走り去っていくので、横の線として見えるわけではなく、斑な部分を残像として残して見えるところが気になっていた。

「中心に向かって数十分割に区切った縁を七色に塗った時、それを高速で回すと、次第に色が消えていき、真っ白に見えてくるんだよ」

 と、学校の図画工作の時間に習った。

「それは色が混じるってこと?」

 と誰かが聞くと、

「ああ、そうだよ。色が高速で混じりあうと、色が消えて真っ白になってくるんだ。やってみるといい」

 と言って、授業時間の課題として七色に塗った円盤を作り、実際に高速でまわしてみた。

 原理はコマ回しのようなもので、糸を通して回した部分を引っ張ることで、高速回転の円盤になった。

「ああ、本当だ。真っ白になった」

 そう言って、教室が感動に包まれたことを思い出した。

「小学生の君たちには理論を説明するのは難しいけど、覚えておくといい。何かの役に立つかもよ?」

 と先生は言っていた。

――あの時の先生の言葉、本当だったんだ――

 と、早くもあすなは感じることができたのだった。

 斑であったとしても、七色と同じような高速による変化が起こる。真っ白ではないが、

「限りなく白に近い色」

 が完成されたと言ってもいいのではないだろうか。

 その日は家の近くのレストランで夕食を摂った。おじさんが時々利用しているというレストランで、イタリアンのお店だった。

「私、こんなところあまり来たことがないので、どうすればいいのか分からないんですけど」

 と戸惑ってるあすなを見ておじさんは笑顔で、

「大丈夫だよ。難しいテーブルマナーなんかいらないので、気にすることはない。極端に失礼なことをしない限り大丈夫だからね」

 と言ってくれた。

 なるほど、まわりを見ると、別に正装をしてきている人がいるわけではない。かしこまった場所ということではないようだ。

 レストランに来る前、少し時間があったので、これもおじさんの馴染みだという喫茶店に寄った。

 そこは気さくな人が多く、常連さんでもっている店のようで、マスターをはじめ、常連さんと思しき人がおじさんに次々に話しかけてきた。

 内容は他愛もないもので、おじさんの照れる姿はあまり見たことがなかったので意表を突かれた気がしたが、親近感があって好印象だった。

「おいおい、いつのまに娘なんかいたんだよ。確か独身って言ってなかったかい?」

 と一人がからかうと、

「そうそう、独身だって言っていたはずなよな」

 ともう一人が煽るように話しかけた。

 その様子は完全に面白がっていて、本当に娘だと信じていないかのようにも見えるが、子供のあすなにはそんな難しいことが分かるはずもなかった。

 おじさんは確かに独身だった。

 以前に一度結婚を考えた人がいて、一度あすなの家にも連れてきたが、いつの間にか別れたという話を親がしているのを聞いて、こんなに優しいおじさんがどうして別れなければいけなかったのか、分からなかった。

 実際に家に連れてきている時も、相当照れていた。おじさんは照れる癖があるのは分かっていたことであり、自分の話をされて照れているおじさんを見て、女性を連れてきた時のおじさんを思い出した。

 その女性はおじさんとは不釣り合いではないかと直感した。

 地味さが売りのおじさんに、少し派手な感じのする女性だったので、照れているおじさんを見ながら、複雑な気分になったのを思い出した。

 それは、おじさんがかわいそうに思えたからだ。なぜかわいそうに思えたのか、今となっては分からないが、明らかにおじさんの照れ顔に対してかわいそうだという印象を持ったのだ。

――おじさんは、この店にもその女性を連れてきたのだろうか?

 普通なら連れてきそうに思えるが、あすなはその時、

――おじさんなら、連れてくることはなかったような気がする――

 と感じた。

 根拠も信憑性もあるわけではない。あすなの直感だった。

 何よりもあの女性がこの店に似合うはずがなかった。後で来たこのイタリアンレストランであれば連れてくることもあっただろうが、あの喫茶店に連れてくることはなかっただろう。

 あの喫茶店はおじさんだけの、「隠れ家」のようなお店なのかも知れない。

 以前テレビドラマで、一人のサラリーマンが会社の同僚も家族も誰お知らない隠れ家のような場所を求めているというドラマを見たことがあった。そのドラマで辿り着いたところはいかがわしいお店だったが、おじさんが連れてきてくれた喫茶店はそんなお店ではない。馴染みの客もおじさんに似合いそうな人たちであったが、皆自由気ままであった。好き勝手なことをしているように見えるところが「隠れ家」のようでいいのだろうが、あすなは子供の頃から自分だけのお店というものを持ちたいと思っていたのだったが、その原点がこの時だったということを、大人になると忘れているようだ。

「それにしても、こんなに大きな子供がいたとはね」

 と言われて、

「いえいえ、ただの親戚です」

 と答えると、

「そうかい? 結構顔の輪郭なんかソックリなところが多い気がするけどね」

 と言ってからかった。

 あすなは、自分がおじさんに似ていると言われて実は嬉しかった。

 自分の親に似ていると言われると、苛立ちを覚えていたが、おじさんに似ていると言われる分には、正直嬉しい。

――何かの間違いで、本当は私はおじさんの子供なんじゃないかしら?

 などという妄想を抱いたこともあったが、それは願望から抱いたというだけのことで、そんなことあるはずないという意識は、当然のごとく持っていた。

 おじさんと似ているところを指摘されて、鏡を見ることも何度かあった。しかし、次第に鏡を見ることもなくなってきて、似ているということを言われたということが素直に嬉しいと思うようになった。

 別におじさんの娘でなくてもいい。おじさんとは親子というよりも、友達感覚の方がお似合いのような気がしてきたからだ。

 おじさんの方はどうなんだろう?

 おじさんはあくまでも、

「私はおじさん」

 という態度を示しているだけだった。

 それ以上でもそれ以下にも感じない。優しさは感じることができるが、それ以上のものは感じなかった。

 それだけおじさんは冷静な性格である。

 両親にも爪の垢を煎じて飲んでほしいくらいだった。

 だが、一度両親が話しているのを聞いたことがあった。

「あいつは、この間連れてきた女性と別れたらしいぞ」

 と父親が母親に話している。

「へえ、そうなんだ。結構ウマが合っているように見えたんだけど、気のせいだったのかしらね」

 という母親に対し、

「そんなことは他人が見ただけじゃ分からないよ。しかもこの間初めて少しだけ会っただけじゃないか。それに緊張していたから、本性が見えてくることなんかないんだろう」

 と父親は言った。

「そうね、私たちもそうなのかしら?」

 という母親のセリフに対し、父親はしばらく黙っていて何も答えようとはしなかった。

 この時、二人の間に険悪なムードが立ち込めた気がしたので、あすなは緊張してしまった。

 だが、少しして、

「やめましょう。こんな話」

 と母親が切り出すと、

「そうだな」

 と言って、父親も賛同した。

 人の話題を肴に話をしていたはずなのに、それを自分たちに当て嵌めてしまったことが、運の尽きだったのかも知れない。

 お互いに気まずい雰囲気になったが、結局その日は二人とも口を利くこともなく、その日は終わった。

 だが、翌日は何事もなかったかのように朝を迎えた。

「おはよう」

「おはようございます」

 という言葉は普段と変わりのないもので、まるで二人とも昨日のわだかまりは消えているかのようだった。

――これが大人なのかしらね――

 とあすなは感心したが、完全に信用したわけではなかった。

 どこかにわだかまりが残っているようで、対応は大人であっても、感情は大人なのか子供なのか分からない。そもそも感情に大人も子供もあるというのか、あすなはいろいろと考えていた。

 喫茶店でおじさんの素顔を見た気がした。遊園地では誰もいない無駄な広さにおじさんは普段の自分を隠していたかのように見えたが、自分の隠れ家である喫茶店に赴いてからは、おじさんは自分を表に出しているようだった。

―ーでもこんなに楽しそうなおじさんの顔、見たことがないわ――

 とあすなは感じた。

 次のイタリアンレストランでも、素顔そのままの状態で、少し緊張があるかのように思えたその顔は、あすなの気のせいだったのだろうか?

 いや、そんなことはない。あすなが感じた緊張した顔は、きっと前に連れてきた彼女を思い出したからなのかも知れない。二人がなぜ、どのような経緯で別れることになったのか知る由もないあすなは、おじさんの顔をじっと見つめているしかなかった。

――おじさんには、何か予感めいたことがあったのだろうか?

 あすなは、直感でそう感じた。

 この日のあすなは、まるで大人になったかのように直感が働き、そのほとんどが的中していたと言ってもいい。

「直観を感じるようになるのも、それが間違いがないと思えるようになるのも、それは大人になった証拠」

 とあすなは信じていた。

 その思いに拍車をかけたのが、この日だった。

 あすなはレストランに入ってから少しして、それまでのおじさんとはまったく別人になってしまったかのような錯覚を覚えるほどになっていた。その理由としては、

「何を言ってもまったくの無反応で、まるで他人のように思える」

 という感覚だった。

 ここまでくれば直感でなくても、おじさんの様子がおかしいことは分かるのだろうが、あすなが感じた直感は、もっと前からのことだった。

 緊張だと思っていたその雰囲気は、おじさんが一点に集中して見ているからだった。そこはおじさんから見て正面の席で、そこには先ほどから一組の男女が楽しそうに食事をしているのが見えていた。

 女性の方は結構派手で、最初は、

「以前、おじさんが連れてきたのもあんな感じの女性だったわ」

 と思ったが、おじさんの視線と、その表情から、どうやらおじさんがその女性を知っているように思えてきた。

「まさか」

 あすなは、そう思ってその女性を見たが、見たことがあるような気がするのだが、誰だか思い出せない。

 その状況から考えれば、その女性がおじさんの別れた以前付き合っていた女性であるということは一目瞭然なのだが、あすなにはそれを自分に納得させるだけの材料が弱かったのだ。

 しかし、あすながそう思ってその女性を見ていると、その向こうから当たる光が、やたらと気になってきた。

 その光は完全に逆光になっていて、相手の顔を隠すには十分だった。

 そんなわざとみたいな都合のいい状態が、それほど簡単にできてしまうなど、想像もできないことだった。

 レストランでの雰囲気は一変してしまった。流れているBGMも最初は高貴なイメージに感じられたものが、次第に交響曲でも、何か妖気を帯びた雰囲気に感じられた。

 切羽詰まったような空気が息苦しさを誘い、あすなは自分が呼吸困難に陥りかけていることを感じた。

 おじさんはあくまでも緊張しているのだが、息苦しさは感じさせない。

――まるでおじさんが感じるはずの息苦しさを、私が感じさせられているような感じがするわ――

 と、自分の置かれた環境に理不尽さを感じていた。

 あすなはおじさんの様子に変化を感じ始めてから、時間が経つのが遅くなった気がした。気のせいか、まわりの人の動きもぎくしゃくして感じられ、早いタイミングと遅いタイミングが交互にやってきているように思えてならなかったのだ。

 喉の奥はカラカラに乾いていて、水を飲みたいのだが、喉を通る気がしなかった。手はコップを掴むのだが、口元に手がいかない。何かに腕を抑えられているようで、空気が重たいのか、まるで水の中でもがいているかのようだった。

 そして、その時間の空気は重たさからも感じられることだが、かなりの湿気を帯びているかのようだった。無駄な汗が滲み出ているのを感じ、額からも脇からも、そして本来なら掻くはずのない掌からも汗が出ているのを感じ、掌から出ている汗を感じたせいもあってか、どこまでが本当のことなのか、次第に疑問に感じるようになっていた。

 そんな不思議な時間がどれほど続いたというのか、次第に我に返ってくると、目の前には注文した料理がすべて運ばれてきていた。

「さあ、いっぱい食べなさい」

 とおじさんに促されて、目の前にある料理に今度は集中した。

 さっきまでの自分がどこに行ってしまったのかと思ったが、食べてみるとおいしく、次第にさっきまでの自分を忘れていく感覚になっていた。

 気が付けば、さっきまでいたカップルはいなくなっていた。テーブルの上に料理は残っておらず、そこに誰かがいたという気配はその時には存在しなかった。

――幻を見たのかしら?

 と思ったが、あすなには何とも答えようがなかった。

 最近、時々だが、

「幻を見た」

 と感じることがあったような気がした。

 そこにいた人を認識していたはずなのに、いたはずのその場所には人がいたという痕跡も気配も残っていない。幻というよりも、夢を見たとその時は感じていたが、おじさんと立ち寄ったレストランで感じたものは夢のようには思えなかった。

「どこが違うんだ?」

 と聞かれれば、ハッキリとどこがと答えることはできないが、一番の違いは、今回のようにすぐに違和感の原因を考えたのかどうかということだった。

 最近見ていた幻に関しては、すぐには夢か幻かという感覚にはならなかった。まず最初に、その真意を疑ってかかるからだった。疑うことによって何段階か考えが先に進んでしまって、そこに時間の流れも加味されて、実際に夢か幻かということを考えようとした時、認識した感覚を思い出すと、かなり以前に感じたことのように思うようになり、夢を見ていたという感覚が、その間に失せてしまっているような気がした。

 つまりは、時間が経つにつれて、夢であるという感覚の方が先に薄れていくということなのだろう。残った幻かどうかということに意識は残ってしまい、自分の中で幻一択になってしまっていた。

 あすなは、今回初めて夢と幻の二択を選択できる気がした。だが、実際にはやはり幻を見たという方がしっくりくるような気がして、夢という感覚は持つこと自体難しいと思っている。

 さっきまでいた喫茶店でのことを思い出した。おじさんは他の常連客と仲良く話をしていたが、あんなおじさんを初めて見た気がした。家に来ても、ほとんど喋ることはなかったような気がする。

 それまでは、家に来た時、おじさんは結構喋っていたような気がしたのは、よほど両親が何も話さなかったからだろう。相手が何も話さなければ、自分から話をしないと、その場が凍り付いてしまうことを恐れたおじさんが、他愛のないことであっても、何とか話題をひねり出すしかなかった。だから結構喋ってはいたと思ったのだが、それが本当におじさんの意志によるものだったのかというと、疑問しか感じない。

 つまりは、口から出てきた言葉に、意志が伴っているかということである。体裁を取り繕ったような話はぎこちなかったのだろうが、両親の普段から凍り付いたような雰囲気しか知らないあすなには、取って付けたようなおじさんの話であっても、喋っていたという事実から、饒舌な感じを受けたのかも知れない。

 だが、本当の饒舌というのは、馴染みの店で常連さんとの会話から生まれるものだった。実際には、両親と話をしている時の方が口数は多かったのかも知れない。何しろ相手は何を言ってもほとんど相槌を打つだけで、意見を言わないのだから、会話を途切れさせないようにしようとすれば、口数を増やすしかなかったのだろう。

 馴染みの店ではそんな気遣いはまったく無用だった。おじさんの方が相槌を打つ方で、おじさんが聞き上手であることを表していた。

「相手が饒舌な時には聞き上手になり、相手が話題を振らない時、こちらから話題を振って場を盛り上げるという人が一番上手な人間関係を形成できるのではないかな?」

 そんな話を聞いたことがあったが、いつどこでだったのかなどは、まったく覚えていない。

 小学生の低学年の女の子に面と向かってする話ではないとは思うが、記憶にあるのだから、確かにどこかで聞いたのだろう。それこそ、

「夢で見たのかしら?」

 と思うほどだったが、夢というのは潜在意識が見せるもので、意識していないことを夢に見ることはできないはずだ。

 そう思うと、夢という言葉には信憑性は感じられない。だが、この時に目の前にいた人が消えたという認識を夢だと思う感覚は、何かの予兆なのか、それとも過去に感じた理不尽な何かが影響しているのか、その時のあすなには分からなかった。

「お待たせいたしました」

 頼んだ料理が運ばれてきた。

 あすながその間、じっと考え事をしていたはずなのに、おじさんはその間、どうしていたのだろう。目の前にいたのに、まったく意識することはなかった。それまではずっとおじさんを意識していて、その意識の先におじさんがいたという感覚はずっとあった。しかし、レストランの中でカップルが忽然と消えてしまったということを考え始めた時、あすなの中からおじさんの存在が消えていた。意識が飛んでしまったと言ってもいいかも知れない。

 おじさんへの意識が飛んでしまったことで、目の前にいるにも関わらず、まったく気配も感じなくなってしまうほど、自分が集中して考えていたということだろうか。そう考えると、目の前にいて消えてしまったカップルは、あすなが別の何かに集中したことで、気配を感じなくなったと言ってもいいかも知れない。

 本当はその場にいるのだが、気配を感じなくなって少しして、忽然と消えたと感じたとすれば、その間に二人は普通に会計を済ませて、出て行ったとも考えられる。集中していたという時間を自覚できなかったことで、夢や幻を見たと考えるのは、忽然と消えてしまったという自分の中だけの事実の辻褄を合わせようとする一種の正当性を求める考えなのではないだろうか。

 何に集中していたのか分からないことで、集中していたということ自体、我に返った時、忘れてしまってことで、残った事実としての、忽然と消えていたということをどのように正当化させるかという無意識の感情が生み出した、夢か幻かという意識だったということではないかと思うのだ。

 あすなは、また我に返って今度はおじさんを見た。するとおじさんは、あすながさっきまで見ていた方向をじっと見つめている。そこには空席のテーブルがあるだけで、おじさんが見ている虚空は、あすなが見た虚空と同じものなのか、気になってしまった。

 おじさんの表情も、まるでお化けでも見たかのような表情をしていた。それを見た時、

――私も今のおじさんと同じような表情で、あの席を見ていたのかも知れない――

 と感じた。

 しかも、あすなの方がおじさんよりも先にその場所へ意識を持って行ったはずだった。――ひょっとして私があの席を意識しなければ、おじさんがあの席を意識することもなかったのかも知れないわ――

 と思った。

――私のせい?

 とも感じたが、おじさんのこのあからさまな驚きの表情は、明らかにそこにいた人を知っていると思っていいのではないか。

 あすなの場合は、二人が忽然と消えたことを恐ろしく感じているのだが、おじさんの場合はその顔に浮かんでいるのは恐怖ではなく、意外だという意識と、それよりも歯ぎしりが聞こえてきそうなほどの屈辱感を思わせる顔に思えた。

 おじさんが、男女のどっちを知っているのか分からないが、その二人がその場にいることに屈辱を感じているのだとすれば、

「相手の女性とは付き合っていて、他に男性がいることで裏切られた」

 という思いなのか、それとも、

「二人とも知っていて、おじさんはひそかに彼女に思いを寄せていて、もう一人の男性は友達なのだろうが、その人に先を越されたことでの屈辱を感じたのか」

 というどちらかのような気がした。

 後者であれば、おじさんの屈辱感は相手に対してというよりも自分に対しての方が強いかも知れない。なぜなら行動を起こした相手は責めるという意識になるはずで、屈辱的に感じるのであれば、行動を起こすことのできなかった自分に対してであるからではないだろうか。

 あすなは、自分が大人になったような気がして、冷静にその状況を分析してみた。もうその時のあすなは小学生の女の子ではない。思春期を通り越して、大人を意識することでいろいろな矛盾や理不尽なことを乗り越えてきた女性のような感覚である。

 そう思った時、あすなは、自分が人の顔を覚えられないという感覚を思い出していた。その日に出会った人を思い出していたが、ほとんど人と出会ったという意識はない。何しろ遊園地では客よりもスタッフの方が多かったくらいで、意識する人などいなかったからだ。

 おじさんが連れて行ってくれた喫茶店でのおじさんにとっての常連仲間の人たちも、ついさっきのことなのに、その顔をすでに忘れかけている。

――どんな顔だったっけ?

 と思い出そうとすると、意識してしまって、さらに忘却の速度を早めてしまいそうで怖かった。

 あすなは、遊園地にいたピエロを思い出していた。あの顔だけはハッキリと記憶している。

 顔の表情をパーツとして意識していたからなのかも知れないが、忘れようとしても忘れることができない。

――怖いことほど忘れられないものなのかしら?

 と感じたが、そう思うと、夢でも確かに怖い夢ほど覚えているものだということを感じていた。

 眠っていて、いつも夢を見るわけではない。しかも、夢を見たという感覚が残っていても、夢から覚める、いや、目が覚める過程において次第に忘れてしまっていることが往々にしてあったりした。

 夢から覚める過程は、夢の最後から継続していた。自分が夢を見ているということは、夢の中で分かっていることだったのだ。

――そろそろ夢の最後だ――

 と感じることもあれば、何かショックなことが夢の中で起こり、それまで冷静な目で見ていた自分が急に我に返った感覚になることで、夢だと認識するということである。

 あすながハッキリと夢だと思えるような本当に怖い夢には、

「もう一人の自分」

 が登場する時だった。

 もう一人の自分の登場には、夢の中で予感があった。たまにもう一人の自分だと思って見たその人がのっぺらぼうだったりすることもある。この時にもそれが夢であるという認識ができる。

 のっぺらぼうともう一人の自分の出現とどっちが怖いかというと、あすなにはもう一人の自分の存在の方が怖い気がした。のっぺらぼうというのはその存在が架空のものであるので、夢に出てきてもビジュアル的に怖いだけであり、次の瞬間に目を覚ましてしまえば、その恐怖を断ち切ることが十分にできる。

 しかし、もう一人の自分の存在は、普段から意識しているもので、夢に出てきたとしても、

「今出てこなくても」

 という出現のタイミングを憂うことの方が強かったりする。

 その存在への疑念はなく、その先の恐怖が、あすなを襲うのだった。

 あすなはおじさんの顔をその時初めて正面から見た気がする。横を歩いている分には、見上げるだけで、下からしか見えていなかったからだ。

 最初に立ち寄った喫茶店でも正対して見たのだが、その時に敢えておじさんの顔を意識はしなかった。それ以上におじさんの人間性に感心していたことの方が強く、表情が自分の想像していたものとピッタリ一緒だったことで、そこに何らの疑問も疑念も生まれる余地など、存在しなかったからだ。

――それにしても、おじさんのこの表情、どういうことなんだろう? こんな表情をされると、それが本当のおじさんの表情なのか分からなくなってしまう――

 とあすなは感じた。

 それも当然のことで、なるべくこの驚いた顔を強いインパクトで記憶に残さないようにしようと思うあすなだった。

 その日あすなは、おじさんの顔をもう二度と見つめることはなかった。おじさんの方も必要以上に話しかけてくることはなかったし、何か気まずい気持ちになっていることは分かっていたので、それを必死に打ち消そうとしているようにも伺えた。あすなはそんなおじさんを見て、

「かわいそう」

 という気持ちになった。

 それが同情から来るものなのか、それとも他に他意があることなのか分からなかった。

 あすなは、小学生でありながら、結構深いところまで読み取ることのできる自分にビックリしていたが、それでも結論を出すことができないことにホッとしていた。

――ひょっとして、他の人も深いところまで感じることができるんだけど、結論を出すことができないので、感じたことを表に出すことをしないようにしているだけなんじゃないかしら?

 と考えるようになったが、皆が皆、深いところまで感じられる子供の世界など、面白くないと思ったあすなは、すぐにその考えを打ち消した。

 自分も今、深いところまで感じていたが、それは一過性のもので、すぐに子供のような無邪気さに戻るという思いであった。こんな感覚が長く続くはずもなく、このまま思春期に突入すればどんな感情になるのかを思うと、恐ろしくなる。

 きっと他の人にも思春期を迎える前の子供の間に、今のあすなのような大人顔負けの考えができる時間を持つことができるのではないかと思うようになった。あすなにとって今がまさにその時で、その時が自分にとってどんな影響をもたらすのかということの方が、深く考えることができるという事実よりも、よほど気になるところであった。

 要するに最終的には自分に対していかに降りかかってくるかということが大切なことである。

――でも、明日になれば、今日のことを忘れているかも知れない――

 こんな特殊な時期を、他の人も通るとすれば、誰かが口にしてもいいはずだ。

 もし口にすることを許されないタブーだとすれば、そのことを自覚する瞬間があるはずだからである。それよりも、この時期のことを忘れてしまうと思った方が、どれほど納得のいくことであるか、それを思うとあすなは、

――明日になれば覚えていないかも知れない――

 と感じたのだ。

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