「催眠」と「夢遊病」

森本 晃次

第1話 つかさと新垣

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。


 藤堂つかさは、今年二十歳になる女子大生であった。名前を「つかさ」というため、男なのか女のか名前だけでは分かりにくいところから、最近までこの名前が嫌いだった。だが、大学に入って最初に友達になった男性から、

「俺は、つかさっていうその名前好きだな」

 と言われたことから、つかさという名前もまんざらでもないと思うようになった。

 さらに、この言葉を聞いてから、彼のことがずっと気になるようになって、自分が男性を好きになったということを自覚したのだ。

 高校生の頃は女子高だったので、まわりに男子がいなかったこともあって、男性を自分が好きになるということに対してピンとこなかった。意識として、

「男性を好きになるということは他人事であって、自分に関わることではない」

 と思っていたのである。

 それよりも、相手から好かれることの方がありえないと思っていたこともあって、まわりの女の子が男子の話題をしているのを、本当に他人事として聞いていたのだ。自分に男性と付き合ったことがないというだけの単純な理由でそういう話を他人事のように聞いていたわけではない。本当にそう感じていたのだ。

 高校時代のつかさは、勉強ができたわけでもなく、スポーツが得意だったわけでもなく、さらには、芸術的なことに長けていたわけでもない。いわゆる、

「どこにでもいる平凡な女子高生」

 というだけのことで、それを一番意識していたのは、つかさ本人だった。

 ただ、つかさはよく夢を見ていた。

 毎日のように夢を見る時期があったのだが、ある時など、その日だけは夢を見なかった時があって、今まで毎日見ていた夢をその日見なかったことがどうしても気になったのか、いろいろ考えてみた。

 そして、根拠はないことだったが、何とか自分を納得させることができた結論に達したのだが、それは、

「夢を見ることができなかった」

 という夢を見ていたのではないかということであった。

 まるで笑い話のようだが、つかさは真剣に考えていたのだ。

 つかさは自分で納得さえできれば、他の人が認めてくれないことでも、一応結論として受け入れることができる。そんなつかさを他の人は、

「何を考えているか分からないところがある」

 と言って、敬遠することが多かった。

 だが、つかさを知る人は、

「あなたほど分かりやすい性格の人っていないような気がするわ」

 と言っていた。

 それが、皮肉なのは分かっているが、つかさには悪い気がしなかった。却って何も言わない人たちの方が不気味に感じられ、なるべく自分からも近寄りたくないと思うほどだった。

 つかさのことを、

「何を考えているか分からない」

 と言っている人は、つかさのことを一方向からしか見ていないので、分かるかも知れないことまで一絡げにして、

「分からない」

 という言葉で片づけようとしていた。

 要するに面倒くさがり屋なのだろう。

 つかさのことをまったく気にしていない人もいる。そういう人は、ある意味徹底しているのであって、つかさのことを分からないという人は、少しでもつかさに興味を持ったということになるので、その考えは、

「中途半端だ」

 ということになるのだろう。

 少しでも興味を持ってくれた人がいることはつかさにとって嬉しいことだと感じた時期もあったが、結局中途半端で放り出すくらいなら、まったく気にしない人の方がまだマシに見えてきた。

 そういう意識があったからだろうか。高校生の途中くらいから、つかさは意識してまわりから気配を消そうと思うようになったのだ。

 つかさは自分のことを、

「石ころのような存在」

 と思うようになっていた。

「なるべく目立たないようにすることが自分の気配を消すことだ」

 と思っていたが、石ころのような存在にまで行き着くには、そんな単純なことだけではないということにウスウス気付いているようだった。

 そもそも小学生の頃までは、目立ちたいと思うような女の子だった。口数も少ない方ではなく、話題性もないわけではないと思っていた。だが、なぜかいつも中心にいることはできないでいた。

「自分より目立つ人がいただけのことだ」

 と思っていたが、それが言い訳にしかすぎないということに気付いたのは、中学に入ってからのことだった。

 集合写真を見ると、その意識は間違っていないことは小学生の頃から分かっていたのだが、それを認めたくない自分がいた。

「この時は、この子が目立っていたんだわ」

 と写真を見れば、そのことがよく分かった。

 もちろん、写真写りのいい人悪い人の違いはあるのだろうが、それだけで片づけてはいけないように思えた。確かに写真写りのいい女の子は、よく見ればいつも目立っていたような気がする。それを集合写真は証明しているようで、中学になってそのことに気付いてからは、写真写りが最悪に悪い自分が目立つことなどできるはずはないと思えたからだ。

 つかさが小学生の頃に一番目立っていたのは誰だっただろう? 思い出そうとすると、ハッキリとしなかった。さらに小学生の頃に思いを馳せてみると、意外なことに気が付いた。

「それぞれの学年の時で、目立つ女の子って違ったような気がするな」

 というものだった。

 しかし、考えてみれば、学年が変わると目立つ女の子が変わるというのも当たり前のことのように思えてきた。

 学年ごとにクラス替えがあるので、当然と言えば当然だ。取り巻きと言われる人たちがクラス替えで同じクラスにならなければ、遠ざかっていくのも仕方のないことだ。目立つ当人は取り巻きが決まっていると思いがちだが、取り巻きからすれば、頂点にいる相手は誰であっても関係ない。人間につくわけではなく、「目立っている人」についているだけなのだ。

 それは、「イヌ派」と「ネコ派」の違いに似ているかも知れない。

「犬は人につくけど、ネコは家につく」

 という話を聞いたことがある。

 つかさは目立っている人は「イヌ派」であり、取り巻きの方は、自分たちが持ち上げる人を「ネコ派」として見ているのではないだろうか。

 そこまでは中学時代のつかさには分かっていなかったが、二十歳になったつかさにはその意識があった。つかさがこのことを最初に意識したのがいつのことだったのか、どんなきっかけがあったのかということは意識の中にはない。

「いつの間にか、イヌ派、ネコ派という考えが頭の中にあったんだわ」

 と思っていた。

 いつの間にか意識するようになったというのは、つかさの中には結構あったような気がする。

 つかさにとって目立ちたいという意識がどういうものなのか、その意義を忘れかけたのが、高校時代になってからだった。

 高校生になると、急にまわりの人誰もが自分の気配を消しているように思えてきた。

――どうしてこんなに真っ暗なイメージなのかしら?

 と感じた。

 真っ暗というのは、本当に真っ暗なイメージではなく、見えているものが見えなくなったというイメージで、自分がまわりを見えないのは分かったが、まわりも自分が見えているのかどうか分からないということが怖かったのだ。

 見えているとしても、見えていないとしても怖いことには変わりない。一長一短であることで、

「前にも後ろにも進めない」

 というイメージで、まわりが何も見えない暗黒の世界もイメージしてしまう自分が怖かったのだ。

 断崖絶壁の上にいる自分を想像したことがあった。それが夢の中でのことだったということは分かっているのだが、それがいつ見た夢だったのか、まったく覚えていない。

 小学生の頃だったのか、中学の時だったのか、あるいは高校生の頃だったのかが分からない。分かっているのは、大学に入ってからではないということだけだった。

 どうしてそれが分かっているのかというと、断崖絶壁の意識は最近よく感じるもので、最初に感じたのは、高校卒業前だったことは分かっている。

 断崖絶壁は普通は真っ暗なところのイメージがある。

 夢に何度出てきたことか。断崖絶壁を想像するだけで、足が竦んでしまい、暗闇を想像すると断崖絶壁しか見えなくなるのだ。

 足を一歩でも踏み出すと、身体が宙に浮いてしまい、あっと思った瞬間に、転落してしまう自分が想像できるのだ。

 真っ逆さまに下に落ちたなどという経験をしたことがあるはずもないのに、断崖絶壁を想像すると、真っ逆さまに落ちるイメージを身体が覚えているとしか思えない状況に陥ってしまう。

 夢を見ていると、何でもできるというイメージが想像できるのだが、実際にはできないことを分かっているので、何もできないことを思い知るのも夢ならではである。

「夢だから空を飛べるはずだ」

 と誰もが思うだろう。

 しかし、実際には空を飛ぶなどということができるわけもない。つかさ自身、高所恐怖症だということもあるが、高いところを想像することができないのだ。

 断崖絶壁からだけ、高いところから落下するイメージを感じることができるのは、真っ暗な世界だからである。少しでも見えていると、落下の雰囲気を味わうことはできない。それも夢と現実との結界を感じることができるからかも知れない。

 つかさは空を飛ぶ夢も、実際に宙に浮こうと思うと、浮くことはできるが、空を飛ぶことはできない。空気という水の中で泳いでいるような感じで、完全に自由からはかけ離れた世界になっているのだ。

 以前、高いビルの上から飛び降りる夢を見た気がしたが、気が付けば、まったく違うところにいた。

「瞬間移動したのかしら?」

 と思ったが、実際には夢から覚めた瞬間だったのだ。

 つまり、無理だと思ったことができないのは、意を決したとしても、結果としては、夢の世界から引き戻されただけのことだった。

 そういう意味では、現実世界で無理なことをしようと思った時、夢の世界に逃げ込むこともできるのではないかと思ったが、それはあまりにも都合のいい考え方だった。

「夢の世界というのは、潜在意識の見せるもの」

 という発想があるが、まさしくその通りだろう。

 夢の中にいる自分を想像することがある。そんな時はいつも夢の中にいる時だった。

「夢を見ているという夢を見ているのかも知れない」

 と思ったが、その時に、夢に対しての限界というイメージを頭の中で理解している気分になる。

 一度、断崖絶壁の中を歩いているイメージがあった。夢であるのは間違いないのに、どうして足を踏み出すことができたのだろう?

 一度も踏み外すこともなく進むことができた。一歩踏み出すだけにどれほどの時間が掛かったことだろう。時間という意味で、

「夢というのは、どんなに長い夢であっても、目が覚める数秒の一瞬に見るもの」

 と言われている。

 一日であっても、何十年であっても、一瞬のことである。どれほどの圧縮になるというのだろう。理論的には納得のいくものではない。そういう意味では夢の中での時系列など、あってないようなものだと言えないだろうか。

 夢というものをいろいろイメージしていると、自分の中で納得できるものとできないものとに真っ二つに別れてしまう。納得できるものとして把握しているものは、全体のどれくらいなのだろうか? 全体像を誰も分かっているわけではないので、つかさは、いまだに夢を見るのが怖い時があった。

「そういえば、最近怖い夢を見た記憶がないな」

 と感じた。

 夢の内容を覚えているのは、怖い夢の時しかない。忘れたくないような楽しい夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れてしまうようだ。

「夢を見たという意識はあるのだが、どんな夢だったのか、まったく覚えていない」

 と感じた時は、まず間違いなく、楽しい夢だったと思っている。

 だが、考えてみれば、内容を覚えているわけではないのに、楽しい夢だったと感じるのは一見矛盾しているように思うが、目が覚めるにしたがって徐々に忘れていくことで、全体像だけが意識して記憶されていて、思い出せないまでも、完全に忘れているわけではないという矛盾した内容で意識が残ってしまうようだった。

 つかさと同じ大学で心理学の研究をしていた新垣征四郎が、つかさの存在を知ったのは、偶然だった。

 新垣は、心理学の研究の一環で、一時期占いに凝ったことがあった。その時に知り合いになった手相占いの人と仲良くなり、よく占いの話を研究材料として論文を書こうと思っていた。卒業論文には早かったのだが、心理学の勉強の中で、論文を書くということは定期的に行われていて、それまでにもいくつかの論文をまとめたことはあったが、そのどれにも自分としては納得のいくものではなかった。

 いつも貪欲に研究し、自分に厳しいことを自負していた新垣は、それまでの論文にしても教授から、

「なかなかよくできているよ:

 と言われているにも関わらず、口では、

「そうですか?」

 とまんざらでもない表情を浮かべながらも、心の中で消化不良を感じていた。

 二年生の頃まで、絶えず研究にいそしんでいた新垣だったが、三年生になると、少し気分的に余裕を持つようになった。それまでは文献を中心に、あまり表に出ることもなく、籠って研究を続けていたのだが、三年生になると、表に出ることも多くなった。

「課外授業のようなものですよ」

 とまわりに言っていて、半分その通りだったが、半分は籠っても研究に一段落したというのも本音だった。

 最近は占い師に嵌っているが、それ以前は宗教団体に接触していた。

「お前は危険なところにばっかり接触するな」

 と言われたが、本人はそれほど悪いことをしているという意識はなかった。

 実際には、被害を被ったわけではなかったが、一歩間違えるとどうなっていたかと思えば、笑い事ではない。それだけ籠っての研究ばかりをして世間知らずだったと言えるのだろうが、要するに、

「世間知らずだった」

 ということだったのだ。

 三年生になって表に出るようになって半年もすると、それなりに怖いものへの意識も強くなってきた。それまでの世間知らずだった自分が怖いと思いもしたが、その期間に貴重な体験をしたのも事実である。悪いことばかりではなかったのだ。

 占い師の人と知り合ったのは、大学の近くに占いの館というものがあり、大学生をターゲットにしていることは明らかだった。実際にお客も結構いた。もっともほとんど最初は冷やかしでお金を払ってまで占ってもらう人は少なかったが、先輩の中で、占い師のいうことを聞いて、就職活動がうまくいったなどという話を聞くと、あっという間にウワサは広がるもので、新垣の耳に入ってきた時には、すでに占いの館は繁盛していた。

 新垣はそのうちの一人である手相占いの人のところに行ってみることにした。興味本位であるということを敢えて相手に見せて、相手がどう出るかを伺いながら、占ってもらった。

 言っていることは当たり前のことを、さも当然のごとく話しているだけだった。新垣には退屈とも思える時間だったが、最初からそんなことは分かっていたので、根気よく話を聞くことができた。

――こんな当たり前のことを聞いたってな――

 と心の底で思ったものだが、話を聞いているうちに、次第に心境が変わってくるのを感じた。

――どうしたんだろう?

 話の内容というよりも、彼の口調が相手の気持ちを動かすということに気付くと、何か魔術的なことを想像した。

――俺としたことが――

 と我に返って考えたが、最初からこれも分かっていたことのように思えた。

 彼の話術というか、暗示のようなものが相手の気持ちを動かすのであれば、占いにも宗教的なイメージが思い浮かぶのであった。

 いわゆる、

「洗脳」

 である。

 相手の気持ちをこちらの意図するところへと移動する話術であったり、説得力は宗教団体、占い師共通のものである。そういう意味で、人の心理を誘導したり、洗脳したりするのがどれほど難しいことなのかと新垣は思った。

 彼が研究する心理学は、一人の人間の考えを中心に考えているのだが、研究すればするほど、

「一人の人間が自分で考えたことを覆すのは、自分でしかない」

 という結論に導いたが、それを証明したくて、表に出るようになったのだ。宗教団体であったり、占い師のように、相手の考えている意志を洗脳によって誘導することが本当にできるのか、心理学を勉強すればするほど、宗教団体や占い師のごとくは、まるで都市伝説の類にしか見えてこないのだ。

 新垣が目を付けた占い師は、実はそんなに目立つ方ではなかったはずなのだが、占いの館の中の誰かは分からなかったが、先輩の就職活動を成功に導いたことで有名になってからのことだった。

――でも、彼じゃないような気がするんだよな――

 とその手相占いの人に注目してみた時、目を逸らすことができなくなった。

 それは、その男が目立つ存在ではなく、逆にまったく目立たない存在であることから、余計に意識が向いてしまったのかも知れない。

 本当は彼を意識するまで、占い師のところに足を向けようとまでは思わなかった。話を聞いてみたいという意識はあったが、足を踏み入れる雰囲気ではないという思いがあったからだ。

 だが、目が合った瞬間、自分の目が自分を離れて、相手の目線に嵌ってしまったような意識が一瞬宿ったことで、彼と話をしないわけにはいかないという気になってしまったのだ。

「僕を占ってもらえますか?」

 と合わせてしまった視線を逸らすことなく、彼の前に歩み寄ると、

「どうぞ、こちらに」

 と、彼は感情を押し殺しているのか、暗さを感じさせながら、怖さもあり、それでいて、今の雰囲気で笑顔になっても違和感がないような、おかしな感覚に陥っていた。

 この時点で、すでに彼のペースに引き込まれていたのかも知れない。

 洗脳というのが、相手のペースに引き込まれることが第一歩だと思っていたので、自分のペースを乱されないようにすることが最低限の条件であるということを意識していた。

「何を占ってくれるんだろう?」

 と思い、ドキドキしながら、彼の前に鎮座した新垣だったが、最初は彼は何も話そうとはしなかった。

 しかも、新垣の顔を覗き込むわけでもなく、両肘を台について、目を瞑って瞑想に浸っていた。

――いつもこんな感じなのだろうか?

 と新垣は思ったが、客の顔を見るわけではないので、どのように解釈しているのか分からなかった。

 相手の顔も手も見ているわけではない。これが彼のやり方だとすれば、最初から何を考えているのか分からないところが、不気味さを演出しているようだ。

「……」

 彼は、下を向いて、何かを呟いていた。

 その声はあまりにも小さくて、念仏にしか聞こえないのは、すでにその時点で暗示にかかったしまっているからではないだろうか。

 一定の時間、念仏を唱えていたかと思うと、彼はおもむろに顔を上げて、今度は今までの雰囲気からまったく違ったニッコリとした表情になっていた。

 その表情を、新垣は不気味に感じられた。

「笑顔がこんなにも気持ち悪いとは」

 確かに相手に何か思惑が隠されている時の笑顔は、ウソ臭さを感じさせるせいか、気持ち悪いというよりも、わざとらしさから、見たくないという意味の気分悪さが付きまとうことがある。

 だが、新垣はそんな胡散臭さとは違うイメージをその男から感じ取った。

――この人は、自分と同じところがあるのかも知れない――

「どこが?」

 と聞かれると、ハッキリとどこだと答えることはできない。

 自分でも曖昧な気持ちでしか感じることができないだけに、その男を見ることで、相手が自分をどのように見ているかを想像することができるのではないかと思うようになっていた。

 新垣は占いに興味を持っていたわけでもない。ましてや宗教団体にしてもそうだ。どちらに対しても以前は胡散臭さしか感じていなかったが、心理学を研究するようになってから、そのどちらも気になるようになった。

 ただ、それはあくまでも研究としての興味でしかない。間違って嵌ってしまわないようにしないといけないと思っていながら、少し不安がないわけでもなかった。

「もし、知り合った中に、自分が気に入った女性がいたら、どうしよう」

 という重いだった。

 新垣が女性に対して異常な感覚を持っていることは自覚していた。まともに女性と知り合うことはあまりないと思っていたが、特に自分から告白することなどできないと感じていた。

 恥ずかしいというのが本音であったが、その恥ずかしいという感情がどこから来るのか、心理学を研究していながら、そんなこともまだ分かっていない自分が情けないと思うこともあった。

 新垣にとって、好きな女性のタイプは今まで一定していたわけではない。子供の頃はお姉さんタイプが好きだった。小学生低学年の頃は高学年のお姉さんが気になっていたし、高学年になると、今度は女子中学生のお姉さんたちが気になるようになった。

 その頃は制服が気になっていたわけではない。どちらかというと、長い髪を三つ編みにしたり、ポニーテールにしたりという、後ろで束ねた髪型が気になっていたのだ。

 だが、まだ思春期ではなかったので、異性として意識していたわけではない。

「お姉さん」

 というイメージしかなく、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 だが、このお姉さんという感覚が忘れられなかったのも事実で、最近の新垣が、

「自分の女性の好みが分からなくなってきた」

 という意識の表れに繋がっていたのだ。

 新垣は中学生になった頃からちょうど思春期に入っていった。

 これが早いのか遅いのか、今となってはよく分からない。心理学を研究するようになってから、男子生徒が思春期に入る平均的な時期は分かってきた気がしていたが、それはあくまで今から考えるからである。その当時に立ち返っているわけではないので、自分が思春期に入った時が果たしていつ頃だったのか、正確には分からない。

 分かっていることとしては感覚的なこと、主観的なことでしかないので、客観的な面がない限り、ハッキリとしたことが言えるわけではなかった。

 新垣は思春期に入ると、それまでの女性の好みが変わってきたのを感じた。

 最初はやはりお姉さんタイプの女性が気になっていたのだが、思春期になってからお姉さんタイプの女性を見ると、それまで感じていたイメージとは変わってきたことに気付いた。

 気付いたのは気付いたが、どのように違ってきたのか、ハッキリと分かるわけではない。ただ、お姉さんタイプの女性が怖いと思えるようになっていた。しばらくすると、それが妖艶なイメージだということに気付いたのだが、怖さを最初に感じてしまったことが強烈なイメージとして残ってしまったことで、小さなトラウマが発生したと言ってもいい状況になっていた。

 一度恐怖を感じると、後で妖艶な雰囲気だということが分かっても、自分から一度離れてしまった距離を元に戻すkとおはできなくなっていた。

 その反動であろうか、思春期の前半は、女性を気になるという感覚はなくなっていた。それがおかしな感覚というわけではなく、まるでこれが自然な感覚であるかのように、気持ちは平穏であった。

 だから、まわりの男子生徒が女子に対して必要以上に気にしていることが分かっていたし、そんな状況を見て、

「かわいそう」

 という、自分のどこがそんな感覚にさせるのか分かるはずもなく、ただ哀れみのようなものを感じていた。

 だが、思春期も後半に入ってくると、女性への興味が戻ってきた。

 新垣は、思春期を前半と後半に分けることができると思っていた。その根拠は女性に対しての興味で。前半、まったく興味のなかった時期があり、後半からまた興味を持ち始めた。それだけでも十分な根拠だった。

 しかも、前半で女性に興味を示さなかった自分が、別におかしな感覚だったというわけではないということを自覚できているから、前半と後半をしっかりと認識できると思ったのだ。

 新垣の思春期後半の始まりは、中学二年生の冬だった。

 これはハッキリとした時期だった。それまで女性に対してまったく興味を示さなかった新垣が、それを自然なことだと思っていたにも関わらず、気になる女性が現れたことで、それまでの女性を気にしなかった時期がまるでなかったかのようにしか思えなくなったのだが、それも普通に受け入れることができた。

 思春期に関しての感覚は、自分が思春期の真っ只中にいる間は自覚していると思っていたが、思春期を抜けてから思い出した感覚が若干違っていたのだが。その後はすべて思春期を抜けてからの感覚でしかなくなってしまっていた。

 新垣が中学二年生の冬、一人の女の子と仲良くなった。

 相手の女の子は同じクラスの女の子で、普段から目立たない、いつも一人でいるような女の子だった。

 それまで同じクラスにその子がいるということすら、意識の中になかった。もっともそれは思春期だという微妙な期間に自分がいるということが原因なのかも知れないが、それ以上にやはり目立たない存在である彼女に一番の原因があったような気がする。

 塾も同じだったのだが、学校で感じたことのなかった視線を、塾の中で感じるようになった。それが彼女からだということにすぐには気付かなかった。どこからか不自然な視線を浴びているのは分かっていたが、それは決して不快なものではなく、むしろ暖かさのある感覚だった。

――何て、ほっこりした感覚なんだ――

 その時にほっこりとしたというワードが思い浮かんでいたのかどうか覚えていないが、後から彼女を思い出すと、ほっこりとしたというワードしか当てはまるものはなかったのだ。

 彼女はハッキリと告白してくるわけでもなかった。ただ視線だけ浴びていて、その視線が心地よくて、新垣の方からも話しかけることを躊躇していた。

 その感覚を、

「助かった」

 と思っていた新垣だったが、それは、話しかけるだけの勇気が自分にはないということを分かっていたので、自分を納得させるだけの根拠として、

「心地よさ」

 という思いを利用したに過ぎなかった。

 新垣が何も言わないことで、彼女の方も痺れを切らしたのか、やっとのことで新垣に告白してきた。

「私、新垣君をずっと前から好きだったの」

 と言われて、新垣は顔が真っ赤になった。

 自分でも顔が真っ赤になるのが分かったが、そんな自分をいじらしく感じられたのは、それが思春期の特権だと思ったからであろうか。

 新垣は、すぐには返事をしなかったのは、

「少し焦らしてみよう」

 といういたずら心があったからで、それが自分のS性であるということに、中学生の時点で気付くわけもなかった。

 だが、さすがに焦らしてやろうと思っても、そんな気持ちがずっと続くわけもなく、次に会った時には、

「僕も君のことが好きだよ」

 と答えた。

 彼女は本当に喜んでいたが、その表情を見て、自分もニッコリと微笑んだ新垣だったが、その思いが本当に最初からあったのかどうか、自問自答して、複雑な気分に陥っていたのだった。

 新垣は、本当に彼女のことを最初から好きだったのだろうか? 意識もしていなかったはずではなかったか?

「好かれたから好きになった」

 というだけではないのだろうか。

 それを思うと、新垣は自分が分からなくなった。しかし、この心地よい、これまでに味わったことのない感覚を簡単に捨てることはできなかった。

――これこそ、思春期の特権――

 自分の気持ちに納得できるできないは別にして。せっかく与えられたこの気持ちやこの環境に逆らうだけの勇気が持てるわけもなかった。

 新垣は彼女と付き合うことにした。

 だからと言って、学校ではお互いに何もないように装っていた。

 塾では彼らのことを誰も気にする人はいない。誰もが自分のことで精いっぱいで、学校にはない。独特な雰囲気を醸し出していた。

 それを新垣は嫌いではなかった。お互いに何も干渉しないという間柄は、自分も願ったり叶ったりだと思っていたし、自分だって他の人のことをまったく意識していないことを分かっていたからだ。

 新垣はその頃に、自分の女性のタイプというものが、

「まるで妹のような人」

 というように、それまでとはまったく違った、いわゆる正反対のタイプであるということに気付いたのだ。

 彼女から告白された時ではなく、彼女の視線を感じ、少し焦らしてやろうと思っていた頃から、自分の女性に対しての感覚がマヒしてしまっていることには気づいていたような気がする。好きなタイプに関しても、敢えて想像しないようにしていたのではないかと後から感じたのだ。

 新垣は彼女と一緒にいる時、どのように対応していいのか分からなかった。

 お互いに共通の趣味があるわけでもなく、話題にどうしても困ってしまう。

「どうして、僕を好きになってくれたんだい?」

 会話に困ってしまった新垣は、それが禁止ワードなのかどうかもあまり考えずに聞いてみた。

 すると彼女は最初困った様子だったが、おもむろに口を開くと、

「ハッキリとした理由はないんだけど、新垣君には、私と同じようなところがあるような気がして、それでお互いに気持ちが分かりあえるのではないかって思ったの」

 その話を聞いた新垣は、却って安心したような気がした。

「あなたの好きなところは、ここなの」

 とハッキリ言われてしまうと、そこに自分があまり意識している部分がない場合には、相手が期待している答えを返すだけの自信が自分にはなかった。

 相手が自信を持ってしまうと、新垣は完全に臆してしまう。相手が同じように戸惑いながらであれば、お互いに探りあって話をすることができるので、末永く付き合っていけると思ったのだ。

 だが、実際に会話をしてみると、最初の入りから、まったく話ができていなかった。こうなってしまうと、収拾はつかない。やはりどちらかが主導権を握らないと、会話にならないということを、いまさらながらに知ってしまった新垣だった。

 そういう意味では彼女の方が、新垣よりも少し大人だったかも知れない。彼女にはそのことは最初から分かっていたように思えてならない。これも根拠があるわけではないが、新垣が彼女に何か言おうとした瞬間を彼女の方で敏感に感じることができるらしく、お互いに目が合ってしまうのを意識した。

 目が合ってしまうと、臆してしまうのは新垣の方で、話そうと意を決したはずなのに、またしても喉の奥に流し込んでしまうのだった。

 お互いに何を話していいのか分からない状態が続く。新垣の方は、完全に、

「ヘビに睨まれたカエル」

 という状態に陥ってしまって、動くことができなくなった。

 彼女の方で、自分の視線が新垣の口を閉ざしてしまったという事実を把握しているのかどうか分からないが、視線は新垣に対して何かを求めている。

 普段なら、

――お前の視線のせいではないか――

 と思うのだろうが、

 この時は、

――せっかく彼女が望んでくれているのに、何もできない自分が情けなくて、悔しい――

 という思いが先に立ってしまい、彼女への贖罪と、自分への懺悔の気持ちでいっぱいになってしまったのだ。

 新垣と彼女は、その一回のデートで別れるということはなかった。二回目から以降はほとんど惰性のような感じであったので、何が楽しいのかまったく分からなかったが、それでもデートは四回までに及んだ。さすがに四回目で彼女から引導を渡されたが、新垣はそれを、

――やっと言ってくれたか。サッパリした――

 とさえ思った。

 苦しみがあったわけではないが、苦しみも楽しみも何もない状況から、逃げたいという思いだけがあり、逃げることができない自分がどれほど緊迫されたかのような状態に陥っていたのか、新垣は頭の中で堂々巡りを繰り返しているかのように思っていた。

 彼女と別れたことで、一人になったのだが、その一人も悪くないと思った。孤独という言葉とは縁遠い感じがして、一人でいることを寂しいとは思わなかった。

 それよりも、

「懐かしい」

 という感覚の方が大きく、孤独な毎日を送っていた頃の自分がまるで昨日のことだったように思えていた。

 彼女と付き合っていた時期にポッカリと穴が開いてしまい、その穴を誰かが埋めてくれたというわけではない。

 掘り起こされた穴は最初からなかったかのように閉ざされていた。どんなに開こうとしても開くことができない。なぜなら、その場所がどこだったのか、跡形もなく消えてしまっていたからだ。

――俺が喋らなかったのが、いけなかったのかな?

 と自問自答を繰り返したが、

――好かれたからと言って、いい気になってしまったことがすべてなのかも知れない――

 と思うようになっていた。

 新垣は、

「好きだから好きになったのではなくて、好かれたから好きになっただけなのだ」

 ということに気が付いた。

 新垣は、しばらくは彼女などほしいとは思わなかった。中学、高校時代と孤独な自分を言い訳もせず、他人事のように見ていた。本当に寂しそうにしている自分を見ていると、かわいそうというよりも情けなく感じられ、その思いが余計に自分を他人事として見ることができたのだ。

 その思いがあったから、余計に自分を情けないと思うようになり、その思いがいつの間にか、自虐的な自分を作り出していたのだろう。

 いや、自虐的な部分は生れつきなのかも知れない。彼の親を見ていればよく分かる。父親も会社で上司にペコペコしている情けない社員で、一度家に上司を連れてきた時、その様子は子供にもよく分かった。

 応接室で大声で会社の自慢をしながら、父親に対して自分の意見を押し付けようとしているのが子供であってもよく分かったが、父親はまったく抗おうとはせず、上司のいうことに小声で反応し、頷いているだけだった。

 そんな父親を母親も避難しようとはしなかった。歯ぎしりしたいくらいの苛立ちを抑えきれない状況で、よく我慢できていると母親に感心していたが、その様子は我慢しているようには見えなかった。

 母親を見ていると、

――これは、よほどの我慢強いか、よほどのバカなのかのどっちかだ――

 と感じた。

 顔を見ている限り、我慢しているようには見えない。確かに顔色は悪いのだが、元々普段から顔色の悪い母親とさほど変わっていないように思えた。我慢しているのであれば、もう少し血色がよさそうな気がする。普段から血色がいいのであれば、顔色が悪くなったら、内に籠って我慢していると思うのだが、普段から顔色が悪いのであれば、その様子はなるべく気にしないようにしているだけにしか見えなかった。

 実際に、上司が上機嫌で帰った後、二人は何事もなかったようにしていた。それを見た時、

――この二人、普段からこんなによそよそしかったのかも知れない――

 と感じた。

 いつもは両親のことなど考えることもなかったので、よそよそしさを幸いに、気にしなくてもいいと思っていた。しかし、気になってくると、

――こんなに居心地悪い家だったんだ――

 ということを思い知らされた。

 居心地の悪さを言い訳にしたくないから、余計に気にしないようにしていたのだろう。しかし、あんなに部下を愚弄するような言葉を、楽しそうに話す上司も上司だが、それを甘んじて受け入れるのが大人だと思っているとすれば、新垣は、

「俺はそんな大人になんかなるもんか」

 と自分に言い聞かせていたのだ。

 母親も、近所の奥さん連中の輪の中に入ってはいるが、決して中心にいるわけではない。中心に近づこうという意思もないようで、近づけば自分が溶けてしまうかのような錯覚を覚えているのかも知れない。

 おばさん連中の会話ほど聞く耳を持たないことはない。確かに父親の上司の罵倒も聞いていて痛いくらいの状況だったが、奥さん連中はそれ以上だ。世間を知らないということがこれほど恐ろしいことだということを、新垣は子供の頃から奥さん連中の会話を聞きたくもないのに、聞こえてくることで身に染みるようになっていたのだ。

――聞きたくないことほど、耳に入ってくるものだ――

 と感じた。

 父親に対しては、

「事なかれ主義」

 母親に対しては、

「孤独なくせに、誰かのそばにいるというだけで、何かしらの安心感を得たいと思っている」

 という風に感じていた。

 その二つは似ているようでまったく違うように思えたが、そんな二人が夫婦になってみると、意外とうまくいっているように見えるものらしい。

 会話もない家でのぎこちない関係は、息が詰まるほどなのに、そんな状況に慣れてしまっているのか、新垣は何も感じなくなっていた。

 そんな自分が情けないとは思うが、

「遺伝なんだ」

 ということを自分に言い聞かせていたが、これだけは言い訳ではないと思うようになっていた。

 父と母に関することで自分を顧みた時、そのほとんどは言い訳でしかないとしか思えなかった。

 しかし、すべてを言い訳だと考えてしまうと、親子だと割り切っているつもりなだけに、そのうちに自分が許せなくなるようで怖かった。そんな思いをしないように、防波堤として遺伝という最後の砦を考えるようになったのだ。

 だが、遺伝を言い訳として許容できるのは、高校生の頃までだった。大学生になると、新垣は自分が大人になったような気がしていた。背伸びに過ぎないのだが、何かそれまでになかったものが開けた気がしたのだが、

「俺にでも努力もしなくても友達を作ることが簡単にできるんだ」

 と思ったのが、大学生という立場だった。

 自分が大人になったかのような錯覚を覚えたのだが、実際には大学生という立場が、自他ともに、

「大人の余裕を感じさせる年代」

 を感じさせた。

 大学に入って知り合う人たちは、それぞれに個性的で、まるで子供がそのまま大人になったような人もいたが、よく見てみると、そんな連中にでも、一本筋が通った考え方があったのだ。

 それは、新垣が特別な目で見ているからなのだが、その特別な目というのは、思い込みに違いなかった。

「大学生は大人なんだ」

 と自分に言い聞かせ、さらに暗示を掛けていた。

 暗示を掛けることに対して意識しないようにするために、大人の定義について考えようと思った。

 だが、しょせんは無理なことだった。

 大人の定義など、大人の世界を垣間見ただけではダメなのだ。経験からの目線がなければ定義などを語ることはできない。それを分かっていなかったことが、新垣に中途半端な暗示を掛けることになってしまい、いつの間にか自分が輪の中心にいるように思っていながら、一歩下がったところからしか見ていない自分に気付いていなかった。

 だが、時々臆したような気分になるのだろう。友達の言葉に尊敬の念を抱きながら、

――自分には、あんな言葉を口にすることはできないんだ――

 と感じることで、複雑な思いを抱くようになってしまった。

 新垣は、大学生になってから、

「彼女がほしい」

 とまた思うようになった。

 中学時代に感じた思いと微妙に違っていたのは分かっていたが、概ね同じ感覚であるという思いから、自分が思春期のあの頃を思い出そうとしているのを感じた。

 あの頃の思い出は、思い出したくもないという意識が強かった。それなのに思い出そうとするのは、自分の意志からではなく、無意識の中の意志だったのかも知れない。

 だが、普通に知り合って、普通の付き合いをしたいとは思わなかった。なぜなら、中学時代の失敗を克服できたわけではないので、うまく誰かと知り合って付き合うようになっても、また同じことを繰り返すだけではないかと思うのだった。

 その時思い出したのが、

「好きだから好きになったわけではなく、好かれたから好きになった」

 という過去の意識だった。

 それは、変わっていないだろう。ただ、相手が変われば違ってくるかも知れないとも思ったが、自分が好きになりそうな相手というのは、中学時代に付き合った女の子のイメージを引きづっているようにしか思えなかった。

「ツバメのひな鳥は、生まれて最初に見たものを親だと思うらしい」

 という話を聞いたことがあったが、新垣の感覚もその通りなのかも知れない。

 初めて好きになった相手、いくら好かれたから好きになった相手だとはいえ、今でもその印象が頭の中に残っている。

 彼女の顔は半分忘れかかっているにも関わらず、彼女への印象は頭の中にこびりついていた。もし、彼女の顔を完全に忘れてしまったとしても、印象は残っていることで、まるでのっぺらぼうの口だけが開いて、表情も分かるはずもないのに、ニッコリと笑っているように見えるに違いない。

 新垣が心理学に興味を持ったのは、そんな自分を研究してみたいという思いがあったのも否定できない。

 もっとも、そのことを自覚したから心理学に興味を持ったわけではない。むしろ心理学を勉強する意義を考えた時、自分の中にある感覚を垣間見て、自分の中にある自分を見つめようとしている不可思議な雰囲気を感じたのだ。

 自分の中の自分がさらに自分の中を見ようとしているのを見ると、人間の心理には年輪があるように思えた。

 心理的な節目が年輪のように積み重なって、木の幹を形成しているのだと思うと、見えている部分を見ただけで、中がどうなっているのかということを感じることができるようになるのって、恰好がいいと思った。

 大学に入って、具体的に何をしたいという意識があったわけではない。大学にも合格したところに行けばいいと思っていただけで、

「いくつか受ければ、どこかには引っかかるだろう」

 という思いしかなかった。

 浪人することも視野に入れていた。

 浪人することで親に迷惑をかけるということも分かっていたが、

「それも仕方のないことだとうちの親なら漠然と考えるに違いない」

 と思っていたのだ。

 だが、浪人することもなく、何とか合格できた大学もあった。総合大学の学生数も半端ではないくらいのマンモス大学なので、親としても最低限の面目は保てたとでも思っているかも知れない。

 とりあえずは、浪人しなかっただけでもよかった。後から思えば、浪人なんかしたら、それこそ、顔向けできないと思うことだろう。

 偏見を感じている親に対して顔向けできないという感覚は屈辱でしかない。そんな思いをしなかっただけでも、本当によかったと思っている。

 この大学は三年生までに自分の進路を決めればいいという、画期的なもので、まだ一般的に普及していない教育方針を試験的に導入しているところだったので、とりあえずの入学は、それ自体、悪いことではなかった。

 しかし、逆に入学してから二年生までに進路を決めなければいけないということになり、この時期が本当は一番大切で難しいのだ。

 大学生になったからと言って、遊んでしまうと、人生を踏み外してしまいかねない。

「人生の凝縮が大学生活だ」

 などと大げさなことは言わないが、将来において何かあった時、後悔するなら最初に感じるのはまず間違いなくこの時期であろう。

 よほどの精神状態を保てていないといけないという状況を、大学側も分かっているのだろう。進路決定へのカリキュラムは、大学側も真剣に取り組んでいるようだった。

 そんな時、心理学に出会ったのだ。

 教授が面白いというのも、気になった要因だった。何かを好きになる理由として、さまざまあっていいような気がしたのは、教授に興味を持つことで心理学が気になったことが原因だったような気がする。

 教授の話は別に面白いというわけではない。

「心理学なんて学問は、面白いと思えれば勝ちなんだよ」

 と先生は言っていた。

「面白いと思わなければ?」

 と学生が聞くと、

「だったら、勉強なんかしなければいい。私は心理学を面白い学問だと思わなければ、勉強なんかしなかったからね」

 という。

「心理学のどこが面白いんですか?」

 と他の学生が聞くと、

「経験しなくても勉強できるところさ。君たちは心の中で、経験したやつには絶対に適わないと思っているだろう? でも実際にはそうではない。世の中に起こっていることは、経験だけがすべてではない。経験しなくても考えることはできる」

「考えれば人を救えるというのですか?」

「救う、救わないは問題ではないんだよ。人を救うという意識があるのであれば、そこから先は宗教団体の領域に入ってくるからね」

 それを聞いた新垣は、

「先生は宗教団体を認めるんですか?」

 と、思わず食って掛かってしまった。

「これも認める認めないではない。信じる人がいるから存在しているというだけのことだよね。つまりは需要と供給で成り立っていると言ってもいいかも知れないね」

 その言葉を聞いて、

――先生もあまり信じてはいないんだろうな――

 と、話の中に痛烈な皮肉を見出したことで、そう感じたのだ。

 新垣が心理学に陶酔するようになったのは、自分でもよく分からなかった。

――まさか、先生にマインドコントロールされたんじゃないだろうか?

 とまで考えたほどで、さすがにそこまでは極論なので、すぐに否定したが、

――あの先生ならやりかねないな――

 と思うエピソードを先生は持っていた。

 教授にはいいウワサと悪いウワサの二種類が存在した。二種類というのは、いい悪いとザックリと分けただけで、いいウワサも悪いウワサも複数存在したのだ。

 ただ、半分は信憑性の怪しいもので、悪いウワサも武勇伝と言えなくもないようなものもあり、人によっては、悪いウワサと言われていることも、いいウワサとして受け取る人もいるかも知れない。

 それだけ教授は得体の知れない人だと言えなくもない。心理学の先生なのだから、少しは変わっていると言ってもいいのだろうが、どこまでが本当か分からないという前提で見ていると、どんどん先生の存在が大きく感じられた。

 それはいい意味でも悪い意味でもではあるが、少なくとも興味を持ったことは間違いない。三年生になって先生のゼミを選択したのも必然だったのだと思うが、少なくとも最初の方での後悔はなかった。

 教授は人のいうことをあまり信用する方ではない。自分の考えていることを人に押し付けるわけでもなく、研究も一人で行うことが多く、あまり人に関わる方ではないということは分かった。

 教授のウワサの中には、

「女たらし」

 というものがあった。

 大学教授たるもの、学生と不倫をしているなどというイメージは結構あったりする。教授は今年で五十歳を超えているが、実際にはまだ三十代と言ってもいいくらいに見えることがある。髪の毛は白髪が混ざってきていて、斑な様子を醸し出しているが、却ってそれが教授らしさを演出していて、女学生には人気があるようだった。

 ゼミに入ってしばらくは、そんな教授のウワサも他人事として捉えていたが、そのうちに聞きたくないウワサが耳に入ってきた。

 自分がひそかに好きになった女の子が、先生と関係しているというものだった。

 彼女は普段から静かなタイプで彼氏がいないということは間違いないと思っていたので、新垣はひそかに思いを寄せていた。

 新垣は性格的に、彼氏がいそうな女性に興味を示すことはない。なるべく人といさかいを起こすことを嫌う彼は、好きになった人がいたとして、彼女に誰か関わっている男性がいるのだとすれば、すぐに冷めてしまうところがあった。

 さらに、気の強そうな女性であったり、自分に抗いそうな女性は最初から相手にしない。もし例外があるとすれば、相手が積極的に自分のことを好きになってくれた場合は、その限りにはないと思っていた。

 優先順位としては。やはり自分を好きになってくれた相手であれば、まずはそれが一番となるのだ。

 この性格は中学時代から変わっていない。

 いや、小学生の頃からそんな傾向にあったのかも知れない。新垣は自分の小学生時代を思い出していた。

 あれは小学校の四年生の頃だっただろうか。低学年の頃からお姉さんタイプが好きだった新垣は、四年生になって六年生の女の子が新垣を好きになってくれたことがあった。

 ただ、それは新垣の思い込みだったようで、本当は弟のように慕ってくれる新垣をかわいいと思っていただけなのかも知れない。それでも自分のことを好きになってくれたと思った新垣は、お姉さんを好きになった。

 今でも新垣はそのお姉さんが自分のことを好きだったのだと思っている。実際にお姉さんが小学校を卒業するまでの間、一緒に登校したりしていたし、お互いの家に遊びに行くこともあり、相手の親からも気に入られていた。

「うちの子は大人しくて、同級生にお友達がいなかったので心配していたんだけど、あなたがお友達になってくれて嬉しいわ」

 と、相手のお母さんから言われたこともあった。

――相手の親も公認なんだ――

 と思うと安心して相手の家に行くことができた。

――こんなに幸せでいいんだろうか?

 と思うくらいだったが、毎日がのほほんとした生活になってしまい、気が付けばボーっとしていることも多かった。

「しっかりしなさい」

 と、親からも先生からも言われたことがあったが、本人はしっかりしているつもりで気が付けばボーっとしてしまっているのだから、どうしようもないと思っていた。

「はい」

 とは答えるものの、それ以上どうすることもできないでいた。

 だが、お姉さんが中学に入ると、次第に二人の間に距離ができてきた。

 お姉さんはそのことで寂しいなどと言わないし、新垣も別に寂しいと思うことはなくなっていた。

 しばらくすると本当に疎遠になってしまい、彼女が中学で友達が増えると、新垣のことを忘れてしまったかのように、連絡を取り合うこともなくなった。

 新垣としても別にそれでいいと思っていた。

 一緒にいることが惰性になってきたわけでもなく、心境の変化を感じたわけでもない。なぜこんなに感覚が変わってしまったのか自分でも分からないが、

「別に変わったわけではないのかも知れないな」

 とも思った。

 考えてみれば、小学四年生というと、まだ異性に対しての感情がなかった頃だ。思春期までにはまだほど遠いところにいたのだから、恋愛感情なるものを感じていたわけでもない。

 新垣はお姉さんと疎遠になったことで、ホッとしている自分も感じていた。

――どうしてホッとした気分になんかなるんだろう?

 と、ホッとした気分になった自分に、少し嫌気がさしていたが、すぐに平常心を取り戻し、

――これも仕方のないことなんだ――

 と感じるようになった。

 それから一年が経って、新垣はお姉さんを見かけたことがあった。

 すっかり小学生の頃と変わってしまったお姉さんを見て、

――俺はあの人のことが好きだったのか?

 と感じた。

 まだ小学五年生だったので、好きなタイプの女性を感じることもなく、漠然としてしか感じることができなかったが、少なくともフラれたからと言って、ショックを受けるような相手ではないことだけは分かった。

――だから、後悔も寂しさもあまりなかったのかな?

 と感じたが、そうではない。

 自分が思春期でもないのに、恋をしたと思ったからで、恋が偽物だったのだから、別れたとしても、そこに失恋としてのショックはないものだ。

 だが、新垣はこれを失恋のショックだと思った。

 中学生になってから思春期を迎え、本当に好きになる女の子ができた。

 別に彼女の方から好きになってくれたわけではない。だが、嫌われていたわけではなかったのだろう。新垣が思い切って告白すると、彼女は二つ返事で了承してくれたからである。

 本当は、彼女も新垣と同じようなところがあった。

 彼女の方とすれば、

「好かれたから好きになっただけだ」

 と思っていたようだ。

 新垣はその少し前に、好きになられたので好きになった女性と付き合ったが、破局を迎えてから、積極的な性格になったということだった。

 まさか自分から告白するなんて、思ってもみなかった。相手もビックリしていたが、新垣の思っていた通り控えめな性格なので、断ることができなかった。

 もっとも、好きになってくれた相手をぞんざいに扱うことができないという感覚は新垣にもあったので、自分が傷つくことはないと確信していた。

 だが、実際には嫌いになられても仕方のない状態だったのは間違いのないことであり、嫌いになられた場合のことをまったく何も考えていなかったのは、後から思えばゾッとするほど恐ろしく感じられた。

 だが、彼女とうまくいくこともなかった。

 新垣は自分が相手のことを好きだと思っていたのだが、相手はさほど自分のことを気に入っているわけではない。そのことを次第に分かってきたことで、自分の中で恋愛感情が急激に冷めてきたのだ。

 それでもすぐに別れることはしなかった。

――もしかして、自分の勘違いなのかも知れない――

 と感じたからだ。

 往生際が悪いと言えばそれまでだ。

 だが、相手は新垣の心の変化に気付いていたのかどうか分からない。何しろ無口で陰気な性格だからだ。

 最初は控えめな性格を自分の好きなタイプだと思っていたのだが、次第に陰気な性格であるということに気付いてくると、

――自分には手に負えないかも知れない――

 と感じるようになった。

 何を考えているのか分からないということがどれほどの障害になるかということを、その時初めて感じたのだ。

 中学時代のほとんどは、思春期だったと言ってもいい。高校生になってもまだ思春期は続いていたような気がしたが、高校に入って頃には、恋愛感情を抱く相手がいなくなった。恋愛感情というよりも、性的な対象としてのイメージが強く、同級生の女の子に対しても、オンナとしての視線を浴びせていた。

 相手も、

――あの人、気持ち悪いわ――

 と思っていたかも知れない。

 制服に異常な感情を抱いたり、制服を脱がせる妄想をしてみたりと、自分でも病気ではないかと感じるようになっていた。

 それが高校時代のことなのだが、他の人は、そんな感情は思春期の真っただ中である中学時代に済ませているようだった。

 そのことをよく知らなかったので、高校生になってそんな感情を抱いた自分を、まるで病気のように思った。

 中学時代の好きになった女の子との破局の後にショックでなかなか立ち直れない時期を迎えたが、その時よりも、高校生になってからのこの異常な感情の方が、ショックが大きかったように思えた。

 その時初めて鬱状態になった。

 ただ鬱状態になっただけではなく、躁状態との繰り返しを何度か繰り返し、それが躁鬱症の始まりだった。

 大学に入ってから少し落ち着いていたが、いずれまた起こる状況であることは、自覚していた。

――結構な確率で起こりそうな気がする――

 それは予感というよりも、予知と言ってもよかった。

 高校時代には好きになった相手も、自分を好きになってくれる相手もおらず、悶々とした気分が、ずっと続いたまま、卒業したような気がした。

 鬱状態と躁状態を繰り返していた時、一度、通常状態に戻ることがある。それは鬱から躁状態になる時であり、躁状態から鬱にはいきなり入る。

 鬱状態から躁状態になる時も、躁状態から鬱状態に入る時も、予感というものはある。慣れから分かるものではなく、最初から分かっていたのだ。特に鬱状態から躁状態への移行の時には、長い真っ暗なトンネルに光が差し込んでくるような感覚が分かるだけに、余計に感じるのかも知れない。

 だが、そのトンネルというのは普通のトンネルではない。いや、実際のトンネルに似ているというべきなのか、トンネルの中に長くいると、真っ暗なはずのトンネルに黄色いランプがついていることを感じるようになる。

 そのランプは、実際の山の中などのトンネルの中で光っている明かりと同じで、走っていながら、自分が暗示にかかっているかのように思えるのだ。

 まだ車の免許も持っていない中学時代なので、誰かが運転する車であったり、バスであったりするので、余計に視界を広めて見ることができるのだ。

「黄色いランプの中であっても、影は真っ黒いんだな」

 と、新垣は感じた。

 ただ、ランプが黄色い時に感じる影は、普段の影よりも一回りも二回りも大きな気がした。

「妖怪でも出てきそうだ」

 と思うと、トンネルの出口が早く見えてほしいと思う反面、この中から抜けると本当に自分が知っている外の世界に出ることができるのかが不安になってきていることに気付くのだ。

「一体、俺は何を怖がっているんだ」

 最初にトンネルを感じた時、それはまだ自分が鬱状態であるという自覚はなかった。

 だから、余計な心配をする自分が怖がっていると思い、そんな感覚になったのだが、怖がっているという自覚はなかった。トンネルから本当に抜けられるのかという疑念が本当は最初に浮かぶべきなのに、他の疑念を感じたことで、鬱状態とトンネルとが因果な関係になってしまったと感じたのだ。

 新垣は自分の鬱状態から抜け出せたのは、大学に入ったからだと思っていたが、本当にそうだろうか。確かに大学に入ってから友達はたくさんできたが、そんな友達が皆自分の想定内だったわけではないことが、躁鬱状態からの脱却に繋がったような気がする。

 趣味も性格もまちまちで、それでも相手に合わせようとするところがどこかいじらしく感じられた。新垣も相手に合わせようとしていたが、自分の中では、

――俺が一番まともではないか――

 と思っていた。

 しかし、そう思えば思うほど、皆が新垣を慕っているように思えた。それは、自分の性格を卓越したように見えるからのようで自分ではそんなつもりもないのに、慕ってこられるのは、どういう理由があれ、嬉しいものだった。

 そのうちに、異常とも思えるような性格であっても、見方によって違っていることに気が付いた。

「何かに目覚めたかも?」

 と思ったが、何に目覚めたのか、自分ではすぐには分からなかった。

 異常性格であっても、話を聞いていれば、それほどおかしな性格に見えてこないところが不思議だった。説得力があるのか、それとも新垣が信じやすい性格なのか分からないが、話を聞いていると、納得できるように思えてくるのだ。

 特に高校時代の暗かった時期、躁鬱症に悩んでいた時期を彷彿させることは考えたくもなかった。

――あの頃には戻りたくない――

 という思いが強く、つとめて明るく振る舞っていたが、その様子がぎこちなく感じるらしく、露骨に嫌な顔をするやつもいた。

 そんな露骨な表情は分かるもので、特に皆が明るい雰囲気を醸し出している中で、自分に対してのみ嫌な顔を浮かべられると、何があっても悪いのは自分だという意識が強くなってしかるべきだった。

 新垣は友達と仲良くしたいとは思っていたが、ズッポリとのめりこむようなことはしたくなかった。のめりこんでしまうと抜けることができないことを自覚していた。それはきっと高校時代に感じた躁鬱症を思い出すからなのかも知れない。

 躁鬱症から抜けたのは、自覚もなく抜けていた。そういう意味では運がよかったのかも知れない。

 確かに大学生になったという節目が存在したのは事実だが、今後同じような転機がまた訪れるとは限らない。

 そう思うと、のめりこむことに躊躇があった。特に宗教団体や占い、ギャンブルの類は自分の中でタブーだと思っていた。

 それでも心理学を勉強するようになってから、占いにだけは気になっていた。信じる信じないは別にして占ってもらいたいという気持ちはあったのだ。

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