第13話「選択・4」

「真実みたいに物に触れん類の怪異は、現実にほとんど干渉できん代わりに、現実からもあんま干渉されん。これが何を意味するかって言うと、少しくらいだったら、というか案外普通に物理法則なんて無視できるってことだ」


 我が家への道中。蒼勇から、私の怪異としての能力についてそんな説明を受けた。だが、聞いてもなるほどわからん状態で、私は終始ぽかんと口を半開きにして間抜け面を晒していた。


「物理法則を無視したら、何が出来るの?」

「代表的なのはものをすり抜けることだけど、ものには光も含まれるからね、光が体をすり抜けてっちゃう。だから、反射した光を捉えるっていう仕組みでものを見とる人間からは姿が見えんし、影も作れん」

「影が作れない……?」


 心当たりがなくてリピートする。


「ほら、見てみ? 影出来とらんだろ?」


 足元を指差され、ちょうど街灯の下を通っていた私は視線を落とすと、


「本当じゃん……」


 ――街灯に照らされた地面の雪に私の影はなかった。

 どうして指摘されるまで気付かなかったのだろう。足から影が伸びていないという異様な光景は、意識して見るとなんとも不気味だ。しかし、どうしてかその不気味さにこそ心を惹かれ、その場で足踏みしてみたり、地面に手を近づけたり、反対に街灯に向かって手を伸ばしたりなどしてみたが、地面に届く光が遮られることはなかった。

 ふと、蒼勇が隣にいないことに気付いて、周りを見てみると、蒼勇は私を置いてどんどん道を進んでいっていた。慌ててその背を追う。

 追いつくと、蒼勇は言った。


「話を戻すぞ。あとは、声を出しても空気が振動しんから人の耳には届かん。……物理法則ガン無視しとんのはこんなところかな」

「ほおぉ……」


 確かに、こうやって冷静に分析すると、私の身に起きていることは相当に現実離れしている。しかし、怪異現象とかいう如何にも物理では説明ができなそうな事柄に、ここまで物理的な解釈が与えられていることにも驚きを隠せなかった。


「この性質を逆手に取りゃあ、もっと色んなことが出来る。やろうと思えば、重力に逆らって宙に浮いたりなんかも可能なはずだ」

「それまじ?」

「まじ」


 宙に浮くとは――そそる話だ。

 早速実践。私はその場で飛び跳ねて、広げた両腕を翼に見立ててパタパタ上下させた。お、飛べる! と思ったのは最初のコンマ三秒くらいで、すぐに重力に引っ張られて情けなく地面に落下した。


「飛べないじゃん」

「そりゃそうだ。全くイメージが足りとらん。もっと鳥になりきれ」

「はい、師匠!」


 鳥を頭の中に思い浮かべながらもう一回飛んでみたが、駄目だった。


「どうしてうまくいかないの?」

「真実は自分を何だと思っとる?」


 尋ねると、逆に脈絡なくそんなことを聞かれた。


「何その質問」

「いいから」


 促され、渋々ながら考えてみる。


「何ってそりゃ、怪異じゃないの?」

「そういうことじゃない。自意識の話だ。真実、って言われたら、どんな姿を想像する」


 目を瞑って想像してみると、思い浮かんだのは、鏡で毎日見てきたあの顔だった。


「人間だった頃の私だけど……」

「そいつは、空飛べそうか」

「いや、無理だね」

「ほら、じゃあ真実にも無理だ」


 ほら、と言われてもよくわからない。私は首を傾げる。


「真実は意識しとらんだけで、自分のことを人間だと思っとる。だから、何を考えるにしても人間の常識に当てはめるし、何をするにしても人間に可能な範囲のことしかできん」

「それは……」


 言いさして、口を噤んだ。否定はできなかった。

 仮に、私が今から人間に出来るはずのないこと――例えば、幅十メートルくらいある崖から崖の間を跳び越えろと言われても、無理だ。怖くて跳べない。

 その、どこまでが自分に出来て、どこからが無理なのか、人間時代の基準は私の中に深く刷り込まれている。一言、『君は実は宙に浮くことができる』と言われたところでそれが消えてなくなるわけではない。


「ポテンシャル的には本当はもっと動けるのに、その固定観念に縛られて、自ら能力に制限をかけちゃっとるんよ」


 だから――と繋げて、蒼勇は言った。


「必要とあらば、自分が人間であることを忘れろ。そうすりゃあ、人の枠を外れたようなことは容易に出来る」




「そうだ、人間であることを忘れろ」


 人間を辞めて、まっさらな状態で想像するんだ。他の何かになった新しい自分を。

 速いもの。何の追随も許さない、速いもの。私の体に染み付いていて、今すぐになれるもの。――ネコ科の肉食獣になら、昔からよくなったような気分になっていた。

 そのなかでも最も速いのは……

 結論が出るのは早かった。


「チーターだ」


 私はチーター。地球上でもっとも速く走れる動物。

 私はチーター。私の腕は前脚。

 私はチーター。私の全身の筋肉は、速く走ることに特化している。

 私はチーター。この手足の爪は、地を噛むためにある。

 私はチーター。地面を蹴って駆け出した私に追いつけるものはいない。

 私はチーター。最速の捕食者。

 私はチーター。標的は正面、人間のメス。

 私はチーター私はチーター私はチーター私はチーター私はチーター……


「すー……」


 息を吸いながら、四肢に力を溜めるように地を踏み締めると、刹那――空気が変わった。糸がピンと張ったように、緊張が走った。


「――狩りの時間だ」


 次の刹那――爆発的な瞬発力で蹴り出された私の体は、一閃の雷のように発射された。四肢を使って地面を掻きながら、這うような低い姿勢で加速していく。後ろに流れていく景色が、あまりの速度でブレて見える。私と銀さんの間にあった距離は、瞬きをする間もなくゼロになった。


「届く……!」


 最高速度での、電光石火の交差。人はチーターのように速く動くことはできない。故に私の動きに銀さんは反応すら出来ず、為す術なく捕まり、勝負に勝った私は報奨をもらう……はずだった。

 はずだった。

 だから、交差した直後、空中に投げ出された私は、来るべきそれを心待ちにしていた。ところが、それは一向にやってこない。――私の知りたいことを、教えてもらっていない。

 それはつまるところ、勝負は未だついていない――私達の肌は、一度も触れ合っていないことを意味する。

 信じたくはないが、正直、わかっていた。交差したあの一瞬に何が起きたのか、まるでスローモーション映像を見ているかのように不思議と時間がゆっくり流れる感覚の中、その一部始終を目の当たりにしたからだ。

 肉薄の寸前、きっと脊髄反射だろう、銀さんは目を瞑って、落下物から身を守るような姿勢を取ろうと屈み始めた。だが、回避にしては、時機も動きも遅すぎる。ただ、それでもほんの僅かに頭の位置が下がったため、今思えば、あれは無駄な抵抗ではなかったらしい。

 そしてもう一つ。どうやら私は自分の能力を制御しきれていなかったらしい。私の運動能力は想像していた何倍も高かった、というより、チーターの体の動きへの理解が足りなかった。

 銀さんをタッチしようと、まっすぐ前に前腕を伸ばしただけのつもりだったのに、意図せず私の体は高く跳びすぎてしまった。いや、実のところ、自分としては『跳ぶ』という行為すら、そもそもしたつもりはないのだが、四足歩行動物の自然な動きとして、疾走中に自分の頭よりも高い位置のものを捕らえようとすると、前脚をその高さまで上げるために跳躍してしまうらしい。

 銀さんの僅かな下降と、私の僅かな上昇で高さにずれが生じた結果――跳躍中のネコ科の肉食獣よろしく地面と平行になって伸びた私の体は、銀さんにまっすぐ突っ込んでいくはずだったのが、紙一重の差で、頭の上を飛び越えていくこととなった。凄まじい速度で髪を掠め、しかし肝心の地肌には届かなかった。

 惜しい。惜しいが、この小さな差が、触れるか掠めるかという大きな差に繋がった……

 なんて、相変わらず時間が緩慢に流れる中思考に耽っていると、ふと、冷静になってしまった。


「私は今どうなってるんだ?」


 途端にチーターの暗示が解け、夢から覚めたような心地になった。

 現実では、私は最高速度の勢いのまま、道路の上を受け身も取らず跳ね転がっていた。体のあちこちを地面に打ち付け、その摩擦で勢いが次第に殺されていくと、私の体は横向きに、丸太のようにくるくると転がって、やがて完全に動きを止めた。

 仮に私が人間の体だったら、今頃衝撃に耐えられずに全身の骨がひしゃげて皮膚も肉もぐちゃぐちゃ。死体が引き摺られたような生々しい跡が、道路に残っていたことだろう。

 だが、立ち上がった私は自分の体を確認して、頷いた。


「よし、無傷」


 現実に干渉できず、現実からも干渉されないというのは基本的に不便だが、時には役に立つらしい。今に限っては感謝せねば。

 振り返ると、道の真ん中で、頭を抱えてしゃがみ込んでいる銀さんの丸まった背中が見える。


「次で決める」


 前脚をついて、噛み締めた地面を蹴って駆け出す。先程のような瞬発力はないが、今はこれで十分。低い姿勢で一気に加速して、今度は高さに注意して鋭く跳躍。狙うは首。型などありはしない、急所を掻っ切るための爪撃を……いや、何を考えているんだ私は。それはだめだ。

 一瞬の躊躇。しかし、その一瞬が勝負を分けた。躊躇して爪を収めたのと同時、それまでぴくりともしなかった銀さんがいきなり動いた。丸まった体勢のまま横に倒れて転がり、私の跳躍の軌道から外れようとする。私は前脚では届かないと判断、空中で無理に腰を捻って後ろ脚を出す。少しでも触れればいいと伸ばしたつま先は、服を掠めてすり抜けたが、その体には届かなかった。

 私達は互いに足を付けて着地すると、互いの方に向き直る。

 そこで見えた銀さんの顔には、一瞬だけ狐につままれたような表情が浮かんでいたが、たちまちそれは消えた。代わりに、じわじわと湧き上がってくるように浮かんだのは、


「いやぁ、危なかった。本当に危なかったよ」


 すっきりとした笑顔だった。その表情で額の汗を拭う様は、まさにジェットコースターに乗った直後の絶叫好きのようだった。


「それもあの鬼の入れ知恵かい? 同族は容赦なく斬り捨てるのに、君は随分と気に入られてるみたいじゃないか。色目でも使ったのかい?」

「急によく喋るようになったね。動揺してるの?」

「いやいや、勘違いしないでもらえるかな? ボクはもともとおしゃべりだよ」


 銀さんは見透かすように目を細める。


「それで、あの鬼になんと言われたら、あんなスピードを出せるようになるのかなぁ?」


 とぼけたように尋ねてくるが、私はじっと目を合わせたまま答えない。答えることが何を意味するかわかっているからだ。


「まあ、答えてくれないよね。……ああ、そういえば」


 銀さんはふと思い出したように、私の背後を見やった。


「時間は残り三分ね」

「え、もう?」

「うん」

「どうやってわかるの?」

「月の動いた角度から測ったんだ」

「へぇ。そんなことできるんだ」


 銀さんの視線を追って振り返り、空を見上げてみる。高く浮かぶ月が、秋のような微かな雲をベールのように纏って、暗い空を円環状に光で滲ませていた。

 綺麗な朧月、なんて思って見惚れていると、不意に、耳がパタパタという音を捉えた。我に返って見ると、銀さんがこちらに背を向けて走っていた。


「ここにきて逃げるとは」


 残り三分にしてようやっと普通の鬼ごっこらしくなってきた。だが、所詮人間の足では、チーターから逃げ切るなど不可能。私は前脚をついて駆け出すと、五秒と掛からぬうちに追いついた。私の肉薄に合わせてどう動くか、慎重に観察していると、何故か銀さんのパジャマの袖がパタパタと風に靡いていることに気がついた。袖に、腕が通されていないのだ。

 まさか、と思ったのと、目の前が紺色一色になったのは同時だった。銀さんが脱ぎ捨て、空中に放り出されたパジャマが、広がった状態を保ったまま空気抵抗で一気に減速。速度の差によって、私視点からだとまるで壁が迫ってくるように見えたが、実際は私が自ら突っ込んでいく形だ。

 もちろんすり抜けるのだからいちいち避ける必要はない。しかし、それまで視界が塞がれる。動作を見られないことを利用して、銀さんは普通右か左に運任せで避けるところなのだろうが、如何せん銀さんのことだ。私がそう考えて左右のどちらかに跳ぶと予想して、あえて真ん中に突っ立っているに違いない。そして引っ掛かった私を見て大笑いするに違いない。

 よって、進むべきは正面。私は跳躍して飛びかかった。

 パジャマを貫通し、視界が開ける。目の前には――誰もいなかった。そして視界の下端に小さく、蹲って体をとにかく低くしている銀さんが映った。


「……やられた」


 いつかと同じように、私は間抜けにも銀さんの頭の上を飛び越えていった。


「大成功! やったぁ! 楽しっ!」


 着地先で振り返ると、銀さんは既に立ち上がって、いたずらが成功した子どものようにはしゃいでいた。まさか、読みの先を読んだ私の、その先まで読まれるとは。見事にしてやられた。

 いや、それは一先ず置いておいて、だ。今の銀さんは、上のパジャマを脱いだ所為で黒のキャミソール姿になっているのだが……私の粗末なものを外に晒すのは、ちょっと勘弁願いたい。できれば仕舞って頂きたい。別に他に誰かが見ているわけではないけれども、見ている私が恥ずかしいのだ。


「なんて悠長なこと気にしてる場合じゃない! 制限時間はあと五分もないんだった」


 四肢に力を込めると、それに反応して銀さんも腰を落とす。笑顔のままだが、目だけはしっかりとこちらを見据えている。

 地面を蹴って駆け出し、跳躍、振りかぶった左爪を振るう。対して銀さんは一歩引いて距離を取り、迫りくる前腕に合わせて軸をずらして避ける。空振り。次の攻撃に思考を移す。

 追撃までの挙動の無駄を最小限にするため、右脚を軸に着地。踏ん張って溜めた力で体を左に押し出し、方向転換、左後ろにいる銀さんめがけて再度飛びかかる。

 それに合わせて銀さんは後ろに跳ねるが、回避が間に合わないと思ったのか、あるいはただおちょくりたいだけなのか、


「ほいっ!」


 と、前に蹴り出した足でスリッパを飛ばしてきた。偶然か狙ってか、それが顔にまっすぐ飛んできた所為で、私はつい反射的に顔を背けて避けてしまう。スリッパはそのまますり抜けていったものの、気が削がれた私の、振りかぶった前脚は振るわれることなく、地面に降ろされた。

 続けざまに飛びかかると、スリッパを失った足でよっとっとと下がった銀さんは、慣れたように更に後ろに跳んで間合いから出ていく。私は離れた分の距離を細かなステップで詰め、右から爪を振り下ろす。それをくぐるように右奥に跳ばれる。一気に加速して、その着地先を狙う。だが、今度はそのスピードを利用されてしまった。

 銀さんは着地と同時に後退を止め、私の振るう前腕が迫ると、その場でひらりと身を翻した。前脚は空を切り、それだけでなく、スピードを出しすぎたせいで咄嗟に方向転換も停止もできなかった私は、止まっている銀さんのすぐ隣をすれ違った。その時の銀さんの笑顔と言ったら、それはもう無邪気で、心の底からこの鬼ごっことは呼べない鬼ごっこに愉悦を感じているようだった。


「くそッ」


 銀さんに余裕が戻ってきてしまった。チーターのスピードへの順応が早い。

 せっかく加速したのだから、勢いを殺すのはもったいない。交差した後、速度を落とさず正面に立っている電柱を垂直に駆け上がった。チーターの暗示のおかげか、昔木登りをしていた時と比べたら、随分と簡単だった。軽々と数歩登ったところで体を捻って上下に反転、地面に見立てた電柱の表面にぺたりと四肢を接地させる。上下逆さまに電柱に張り付いたその瞬間の私は、ヤモリのようだった。見下ろす先には、反対にこちらを見上げる銀さんの姿。

 四肢をバネのようにして電柱を蹴り、斜め上から銀さんを襲う。


「面白くなってきたねぇ! やっぱりこうでなきゃ!」


 愉悦と期待の滲み出る叫びが、夜の町に響いた。……正直、私の声で叫ぶのは、近所迷惑だし恥ずかしいからやめてほしい。




 私と銀さん。獰猛な動きと獰猛な笑顔。一方的な攻撃と一方的な回避。さながら闘牛と闘牛士のように幾度となく交差する。その中で気付いたことは、銀さんが徹底的に道の端、特に塀やフェンスがあるところには近付かないようにしていることだ。理由は単純、逃げ道が制限されるから。誰しも子供の頃、鬼ごっこで壁際に追い詰められ、逃げ道を失って捕まった経験があるだろう。それをなんとしても避けたいようだ。

 そんな分析をしつつ、のらりくらりと決着はつかないが、しかし、交差が十回を越えたあたりから、段々と銀さんの動きが鈍くなってきた。表情からも余裕が薄れていく。蒼勇の言っていた通り、地力は私のほうが上。こうして繰り返していれば、いずれ向こうが先に力尽きるだろう。

 ただ、時間がない。ここで仕掛けることとしよう。奇しくも、そう思って動き出したのと、


「あと三十秒だよぉ?」


 銀さんが残り時間を告げたのは同時だった。

 踏み込み、地面を蹴る直前、先程までと同じ要領で跳躍するように見せて、私はものをすり抜ける能力で地中に潜り始めた。その行動が予想外だったのか、銀さんが一瞬硬直する。

 その瞬間が狙いだった。

 すぐに潜るのをやめ、肘と膝のあたりまで埋まっている状態から地上、銀さんの目の前に飛び出して振りかぶる。地面に潜ることこそがフェイクだったのだ。一瞬の硬直のおかげで、銀さんの動き出しが遅れた。

 一度目の攻撃は紙一重で横に躱し、続いて二撃目。斜めに振るわれる爪を躱すために体を捌いた時、疲労からか銀さんの足がもつれてよろめいた。表情に苦悶と衝撃が走る。

 これはチャンス。三撃目、回避が間に合わないことを悟ったのか、もう片方のスリッパを放ってくるが、それはもう効かない。私は一気に肉薄、跳躍して前腕を振りかぶる。

 しかし、この一手で決められる自信がなかった私は、空中でチーターの暗示を解いてみることにした。チーターのままだと、四足歩行動物の体の仕組み上、跳躍後の着地の際、必ず前脚を一度地面につかなければならないからだ。それだと、どうしても次の攻撃までにタイムラグが生まれてしまう。途中で人間に戻ることで、避けられても二足で体を支えて間髪入れずに追い打ちをかけたいのだ。

 よろめきながらも無理やりに重心を傾け、地面を蹴って後ろに跳ぶ銀さんに、一撃では届かないと判断、途中で前脚を――手を振るうのをやめ、もつれて転ばないように、全力で回転させた足で地面を蹴って、凄まじい前傾姿勢で二足走行する。

 しかし、実を言うとそうする必要もなかった。

 そうしてチーターのスピードを残したまま追い迫った先。跳んだはいいものの、後ろに体を傾けすぎた所為か、銀さんが着地に失敗して足を踏み外し、尻もちをついたのだ。

 まさかあの銀さんがそんな間抜けな失敗をするとは思ってもみず、一瞬思考が停止しそうになってしまったが、すぐに持ち直し、咄嗟の反応で両足で地面を踏ん張る。ずずずと雪の上を滑って減速、ちょうど銀さんの目の前で止まった。

 銀さんは尻を打ち付けた痛みで表情を歪めるが、それは一瞬のこと。直後には愕然と目を見開いて、後ろに下がろうとジタバタ地面を蹴るが、尻をついた体勢では踏ん張りが利かず、足の裏が道路の上を滑って下がれない。最後の悪あがきのつもりか、死物狂いで身を捩りながらこちらを見上げると、制止するように掌を突き出した。

 そして、


「待て! やめてくれ! 今はッ!」


 なんと。命乞いをし始めた。あの銀さんが。青ざめた形相で。

 が、ここまで散々煽っておきながら今更命乞いをしても無駄だ。私は表面には出さないようにしていただけで、そろそろ苛立ちが痺れを切らしそうになっていた頃だったのだ。

 銀さんなら切り札の一つや二つ残しているかと警戒していたが、この様子を見るにそれもなし。なら、これで終わりだ。

 最後は実に呆気なかった。


「今はまだ、駄目だ――ッ!」


 負けたことが相当衝撃だったのだろう。驚愕と怯えが見て取れる表情でこちらを見上げ、叫び続ける銀さん。

 躊躇はない。私はこの勝負に勝たなければいけない理由があるから。

 制限時間残り十秒。

 その肩に、ねぎらう気持ちを込めてそっと手を置いた。









 ――その瞬間、視界が真っ白に染まった。頭の中に、自分ではない何かが注ぎ込まれるような、あるいは自分自身が別の何かになってしまうような、気持ちの悪い感覚。頭の中を掻き混ぜられでもしたように意識が混濁する。

 やがて、光に慣れるように視界が元に戻っていくと、私の――いや、私ではない誰か目の前に広がっていたのは、しかし私のよく知っている景色だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る