第7話「願い・1」

「――真実は銀さんに、どんなお願いをしたの?」


 私はこの質問に答えることを――拒否した。


「どうして話してくれないの?」


 目を丸くして聞かれたが、だんまりを決め込んだ。


「話したくないの? 話せない理由でもあるなら言って?」


 そんな私を、果穂さんは必死な様相であれやこれや言葉を尽くして説得しようと試みるも、私の頑として話さない姿勢は崩せなかった。そのことに気が逸ったのか、声に少々苛立ちが混じり始めた頃だった。それまで気遣わしげな表情を浮かべていた彼女は、不意に、壁にでもぶつかったかのようにはっとして質問攻めを止め、「まさか……」と血相を変えた。その表情のまま蒼勇のほうに向いて尋ねる。


「蒼勇は真実の願いについて何か知らない?」


 蒼勇の返答はこうだった。


「いや。俺は全く聞かされとらんよ」


 それはそうだ。――私が意図的にこの手の話題を避け続けてきたのだから。

 だが、私は知っていたはずだ。それに全く触れないことは、それについては気にするなと言うに等しい。そして、気にするなと言われた人は、それがそれまで目に入りすらしなかったような事柄だったとしても、逆に気になってしまうのだと。

 一向に話そうとしない私に、段々と表情に影が差していく果穂さん。剣呑な空気が流れてくる中、蒼勇は不釣り合いにもなんてことないような調子でこう語り出した。


「ところで、実は、悪魔という怪異の本分は、人の願いを叶えてその魂を食らうことなんだ」


 突然何の話だろうか。


「突然なんだって顔しとるね?」


 あ、バレた。表情は見えていないはずなのに。


「俺が言いたいのは、悪魔に、人に魂をくれてやるような性質なんて存在しんってこと。だけども、何故か銀さんは真美に自分の魂の一部を入れた。悪魔としての特性も譲渡した。これは悪魔の本分を外れた、本来ありえんことなんだ。異例の事態なんだ。この異例を引き起こし得た原因は何なのか。それは、真実が銀さんに唱えた願い以外に考えられん。

 だから、真実の願いに込められた真意を、その願いを持つに至った経緯を話してくれりゃあ、人間に戻れるかどうかはすぐにわかる。戻り方も、きっと同時にわかる。

 これを聞いても、まだ話す気にならん?」


 頭を振ると、「やっぱりね」と、彼はそれもお見通しといった様子だった。


「話さないかんてわかっとるのに話さんってことは、それは話したくないことなのか、もしくは話せんようなことなんだろ? なら、胸に秘めたことを無理に引っ張り出すような真似はしん」


 そんな野暮な男じゃないんでね――おどけたように付け加えた。

 悪魔という怪異の本分も、今が異例の事態なのもどちらも知らなかった。しかしそれを知る前から、私が願いについて話せば、人間に戻れるかどうかわかるだろうなとは大方察していた。察した上で、それでも話さないのには私なりの理由がある。もっとも、その理由を話しては本末転倒になってしまうため、それも出来ないが。


「やっぱり、人間に戻ることよりも秘密を守り通すことのほうが大事なんよね? 仕方ないよね?」


 しかし、こうやって小突いてくるところを見るに、もうこれ以上隠しても無駄なのだろう。それに、人間に戻れるかどうか知りたいのも本心だ。

 口車に乗せられたわけではないが、人間に戻れるかどうか知るためだと自分を納得させて、そして覚悟も決めて、私は語ることにした。


 みんなに幸せでいてほしい――私が銀さんに託した、この平々凡々な願いの真意について。


 私と蒼勇のやり取りを終始傍から眺めていた果穂さんは、彼女らしい陽気さなど露ほども感じさせない、氷のように冷え切った目をしていた。

 その目を私はよく知っている。私自身が常日頃からその目をしていたからだ。私はその目を、父に向けていた。

 それは、憎むべき相手、忌むべき相手――すなわち敵に向ける目に違いなかった。



 ◆



 実は、今の母の夫、つまり私の父親は、私と血の繋がった父ではない。本当の父親は七年前、私が十一歳の時に亡くなった。

 母は元の夫のことを溺愛していた。秋人あきひと、というのが彼の名前だが、秋人さえいれば後は何もいらないと、そう公言して憚らないほどだった。そして、そんな愛する夫との間の娘である私のことも、大層可愛がってくれた。

 父が病気で急死してから、母は変わった。悲しみに暮れ、昼夜問わず泣き叫び、仕事もままならず、食事も口にせず、見る見る痩せ細っていった。その酷いやつれようは、何かの拍子にそのまま父を追っていかんとするばかりだった。一時はそんな精神状態だった母も、しかしある時からぱったりと持ち直した。母の中で何か心境の変化があったのか、或いは環境的な要因があったのか、それは母のみぞ知ることだが、とにかく、母が持ち直したのは、彼女が父に向けていた膨大な愛の矛先を、私へと向けるようになってからだった。母は水を得た魚のように、命の輝きを取り戻した。

 それから二年ほどは、私が学校であった出来事を話せば、母はいつも熱心に耳を傾けてくれた。学校で取った賞を見せれば、よく頑張ったねと褒めてくれた。ある日、私は学校で練習したリコーダーを自慢したくて、家で母の前で披露してみせると、上手い上手いと拍手しながら聞いてくれた。私はもとから好きだった母のことを、より一層好きになった。この頃は、何をするにも母と一緒だった。

 私は中学に上がり、吹奏楽部に入部した。母は家で練習にも付き合ってくれ、発表会がある度に見に来てくれた。どれだけ下手くそな演奏だったとしても応援してくれた。しかしある時から、これまたばったりと見に来なくなった。中学二年の秋のことだった。後から聞くに、母に新たに男ができたというのはちょうどこの時期だったらしい。

 まただ。また母は変わった――初めはそう思ったが、どうやらそうではないということに気が付いたのもこの頃だ。母は始めから、ただその溢れ返るほどの愛と興味を注ぐ相手、精神的に寄りかかれる依存先、そういうものがないと安定しない人だったのだ。

 そして、その相手として私以外が選ばれる可能性があるなど考えたことがなかった。当たり前のように明日がやってくるのと同じように、明日も明後日も、その先もずっと私のことを愛してくれるのだと信じて疑わなかった。だが、それは私の身勝手な妄想にすぎなかった。

 母はまるで私から乗り換えるように、その男へと傾倒していった。そうなっていくにつれて、少しずつ私に向けられる愛が減っていくのがひしひしと感じられて、やがて私への興味を完全になくすのではないかと恐ろしかった。

 そんなある日、私は母の興味を引きたくて、久しぶりに家で楽器を演奏してみせた。それを聞いた母はというと、こちらに目を向けすらせず、


「うるさい。大きな音鳴らさないで」


 と言った。心底鬱陶しそうに、言った。心底忌々しそうに、言った。

 翌日、私は退部届を提出した。

 母が離れていく恐怖と同じくらい、私は嫉妬した。その男に、母を盗られたと感じた。母にも猛る嫉妬の炎は向いた。有り余る愛を向けられる相手がいれば、寄りかかれる相手がいれば誰でもいいのかと。誰でもいいなら私で良いじゃないかと。どうして私じゃ駄目なんだと思った。

 私は母を取り返すことに苦心した。頭を回して、調べて、人に聞いて、努力して、思いつくことを可能な限り全てを試した。しかし結果は最早語りたくもない。高校に上がった頃には、母の私への興味は完全に失われていた。

 高校に上がってすぐ、母はその男と再婚した。名前は亮太という。母とその男と三人で暮らすことになった。母は私の時よりもずっと深くその男に心酔していた。酔っていたどころの話ではない。いっそその男に溺れていたといったほうが正確な表現かもしれない。

 私が渇望してやまない愛が他人に注がれる様はジリジリと私の心を炙った。痛くて痛くて、見ていられなかった。なのに、その男と関わる時の母はいつよりも生き生きしていて、幸せそうだった。その上その男は私を本当の家族かのように扱ってきたため、私達三人は表面上は家族として成り立っていた。だから、この家族の形は絶対に崩せない。それは母の幸せをも崩すことを意味するからだ。本当に複雑で、やりきれない心境だったけれども、そんな訳で、私もその男を家族の一員として見る努力をした。しかしどう頑張っても無理なものは無理だった。普段は理屈にうるさい私だが、こればかりは理屈ではない。私はどうしても嫉妬の対象でしかない彼を父親と、ひいては家族として受け入れることはできなかった。結局、彼を名前だけでも父と呼べるようになるまでに二年以上かかった。

 この頃、高校では後に親友となる相手――明香里との交友が始まった。彼女とは実は中学から同じ学校だったのだが、如何せん同じクラスになったことが一度もなかったため接点はなく、互いに名前を知っている程度だった。それが、同じ高校に進学したことをきっかけに話をするようになり、一気に打ち解けて親しい間柄になったのだ。明香里はサッカー部のマネージャーになったが、私はどの部活にも入る気にはならなかった。

 そうして、学校ではそれなりに楽しく過ごし、しかし家では渦を巻く激情に蓋をして、家族という形を崩さず、母の幸せを崩さず、絶妙な距離感とバランスに常に気を張って過ごしてきた。家の中でも家族がいるところは心が休まる場所ではなくなり、自分の部屋に一人でいる時だけが心が休まる時だった。

 そして時は進み、今から約一ヶ月前、初めて銀さんに出会った日のこと――



 その日は、学校で億劫ないざこざに巻き込まれた所為で、家に帰ってからもなんとなく心が毛羽立っていた。そんな日に限って、夕飯の時、まるで見せつけるように父と母が身体を寄せ合って、二人だけの甘い空間を作り出していた。私は無意識に恨めしげな目を向けてしまった。それに気付いたのか、父はこちらを見ると、我に返ったような顔をした。


「ごめんね真実。食事中くらいは控えるべきだよね」


 言われ、私は腹の中で黒いものが蠢いたのがわかった。本人はそんなつもりはなかっただろうが、その言葉は毛羽立っていた私の心を逆撫でした。

 以前から漠然と頭にあった考えをぶちまけてやりたい衝動に駆られ、我慢できずに言葉にして吐いてしまった。


「二人はそのままいちゃつけば? いいよ。私のほうが出ていくから。そうすれば、食事中だろうといつだろうと、好きなだけ気兼ねなく愛し合えるから、そっちのほうがいいでしょ?」

「真実、どうしたんだ、急に」

「だって、私を育てるためじゃなくて、二人でいちゃつくために二人は結婚したんでしょ?」


 父の表情に衝撃が走る。


「私何か間違ったこと言った?」


 父の顔を穴が空くほど強く見つめると、父はそれに気圧されたように固唾を呑んだ。


「いや……言ってない」

「ならいちいち謝らないで、ほっといてよ」


 本当に惨めな気持ちになるから――俯いて、父には聞こえないように口の中で呟いた。茶の間が静まり返ると、空気に含まれる圧迫感をより強く感じるようになって、息が詰まりそうになった。


「そっか……」


 そう言った父の悲しそうな声は、ただでさえ重い空気を更に重くした。ふと父の方を睥睨しようと顔を上げて、意図せず母のほうに目が留まってしまった、その時だった。我に返った私は、そこで初めて、自分のしでかしたことの重さを知った。

 こちらを見る母の顔は私にとって衝撃的で、今も脳裏にこびりついて離れない。信じられないとばかりに見開いた両目の、その中心でこちらを捉えて離さない瞳は真っ黒に塗り潰されているように見えた。口元を覆おうとしていたらしき両手は頬の前で止まって、半開きになった口元とともにわなわなと震えていた。その悲愴の表情には、母の胸の中で入り交じる強い衝撃と深い悲しみが色濃く映し出されていた。

 そしてようやく理解した。何故母の愛情を受ける相手として父が選ばれて、私が選ばれなかったのか。何故私じゃ駄目なのか。

 そりゃ当たり前だ。


 ――父は私と違って、母にこんな顔をさせないのだから。


「ごちそうさま」


 私は逃げるようにして茶の間を後にし、足早に自分の部屋へと引き上げた。いや、ようにではなく、逃げに違いなかった。母にあんな顔をさせてしまった自分のことが嫌で嫌で堪らなかった。故に、逃げた。罪悪感で母から逃げた、というのもあるが、私が本当に逃げたかったのは、自分自身からこそだった。厭わしい自分自身をどこかに置いて、離れたかった。

 自分の部屋は静かだった。静かだからこそ、ふとした瞬間に茶の間での出来事が脳裏に浮かんだ。私はそれから逃げるためにスマホに没頭した。暫くベッドに寝転がって、SNSの取るに足らないくだらない投稿に全神経を集中させた。

 そうして、気が付けば時刻は十時を回っていた。そろそろ風呂にでも入ろうと思い、スマホの電源を切ろうとしたのと、全ての始まりであるそれに目が留まったのは同時だった。


『悩み、何でも解決します。願い、何でも叶えます』


 それは、偶然画面に映っていたサイトのタイトルだった。

 なんだそれ。胡散くさ。笑い飛ばそうとしたが、しかし私は自分で感じている以上に思い詰めていて、何かを頼ったり、何かに寄り掛かかったりしたかったらしく、不思議な力に衝き動かされたように指が動いて、そのサイトを開いた。

 記憶にあるのはそこまで、気が付いたら、私は夢を見ていた。

 それは、見惚れるほど美しい白髪の君に願いを尋ねられる、そんな夢のような夢だった。



 この日から、父は今までよりも一層私を気にかけて、懇切丁寧に接するようになった。いや、この表現は正確ではない。正確に言うならば、腫れ物を扱うように接するようになった。


「母さんも、もっと真実のことを気にかけたらどうなんだ」


 反対に、今までと変わらず全く私に関心を示さない母を叱るようになった。父の言葉ならば聞き入れるかと思ったが、そんな都合のいい幻想は叶わなかった。むしろ逆だった。叱責の度に激しい言い合いが起こり、口喧嘩の度に家の中の雰囲気が重く、暗くなっていくのがわかった。私のことで喧嘩をされるのは、何と比べようもないほど居心地が悪くいたたまれなくて、むしろ私に一切関心を示さないでいてくれたほうがましだとさえ思った。いや、思うだけではなく、実際言葉にして、

 ――あのとき言ったことは確かにカッとなって口にしたことだけど、その内容は本心だった。私がいることで家族間にヒビが入るのなら、距離を置きたい。

 そんな旨を伝えた。

 だが父は、私が親の愛情を感じなくなって、自棄になってそんなことを言っているのだと勝手に解釈し、余計に気を遣わせる結果となった。



 そして時は更に現在に近づき、昨日(日付が変わってからまだ寝ていないため、感覚的には今日だが)。私が夜に銀さんと家の前で出会い、銀さんになる日。私は親友――明香里と喧嘩をした。

 その朝、私がとある男の子(名前は聡太という、同級生の、今は既に引退済だが、元サッカー部の長身の男子)からの告白を断ったからだ。私と聡太は、所謂友達の友達というような関係だった。故に直接の接点など殆どなく、言わずもがな好意は抱いていなかったから、なまじ期待など持たせないように、きっぱりと断った。

 ここだけ切り取れば、これは何ら特別なことはない、よくある恋愛話だ(誤解はしないでおくれ――よくある、というのは私が常日頃から告白されまくりのキラキラモテモテ女子だった、という意味ではないぞ。一般的によくあるという意味だ)。が、どうしてこれが明香里との喧嘩に繋がるかと言うと、まあ、話の流れで察した人もいるだろう。告白してきた聡太が、実は明香里の想い人だったからだ。

 以前から明香里が聡太に好意を抱いていたことは知っていた。故に、告白を断ったのには、友達の好きな人を奪うような真似をしたくなかったから、という理由もある。

 聡太には変に期待させないように、明香里とはこれからも仲良くやっていけるように、きっぱり断った。


 ――私は切に、三人とも後腐れなくこの件の幕が閉じてほしかった。


 だが、私が思っていたようには、ことは運ばなかった。

 その日の放課後、早速私は電話で明香里に呼び出された。電話越しでも声から怒りが伝わってきたため、覚悟して指定された場所に赴くと、先に着いていたらしい明香里が待っていた。私を見るや否や、彼女は抑えきれないとばかりにこう叫んだ。


「聡太に好きになってもらえたのに、それを断るとか、何様のつもり!?」


 目を剥いて、甲高い声で怒りを爆発させる明香里に、私はあくまで冷静に尋ねた。


「じゃあオッケーして、付き合ってたら良かったの? 明香里の前で、颯太と楽しそうに話したり、手を繋いだりするんだよ? 本当にそれが良かったの?」

「そんなの嫌だ!」

「――じゃあ、私はどうすればよかったの?」


 つい感情を押し殺しきれず、責めるような、明香里を上から押し潰すような調子になってしまった。

 尋ねられた明香里は目を見開き、潤んで揺れる瞳を一瞬私に向けた後、突然私に背を向けて走り出した。


「――――!!」


 そして、狂ったように大声で何かを叫びながら校舎の向こうへと消えていった。その背中から降り注いだ悲痛な叫び声が、不吉なサイレンのように、彼女がいなくなってからもずっと耳にこびりついて離れなかった。


 その晩の夕食時、父は私の様子がいつもと違うことに気が付いたようで、学校で何かあったのか聞かれたが、別に何もないと答えた。それでその話は終わりかと思いきや、父は食い下がって、今度は母に尋ねた。


「母さんも、今日の真実疲れてるように見えんか?」

「ん、そう」


 母は、私の方を一瞥だけして、素っ気なく答えた。すると、その私に対する愛情が一切感じられない対応を、父はこの一ヶ月で数えたくもないほどそうしてきたように、大声で叱った。

 この状況で、私はどうすればいいのだ。

 

 ――私は切に、母の幸せを崩すことなく、その範疇でほんの少しでもいいから、母に私のことを見てほしい。


 そのために、これまで何年も積極的に様々なことをしてきたが、最近ようやくわかった。この両立は私には到底実現不可能なほど難しいことだったのだと。結局叶えられたのは家族の安泰、ひいては母の幸せの方だけで、終ぞ母が私を見ることはなかった(父には見てもらえたが、そんなものは私は望んでいない)。

 もう何年も進展がなくて、正直、私は見てもらうことを諦めようとしていた。諦めて、母の幸せだけが叶えられればそれでいいと思った。

 そうして私の中で得られた結論は、私が両親のもとから離れることだった。

 その考えがより強固になったのは、先月のあの晩、父と母がべたべたとくっついているのを見て、胸が焼け爛れるような、耐え難く熱い嫉妬を覚えた時だ。

 母が私を見てくれることが未来永劫ないのならば、この苦しい感情は何のためにある。どうしてこれ以上苦しむ必要があろうか。――いや、ない。

 ならば、離れよう。距離を置いて、互いに互いのことを見ないようにしよう。母は私がいなくとも幸せを享受できる。私も苦しまなくて済む。素晴らしい案ではないか。

 そう思って、あの時言った。


『二人はそのままいちゃつけば? いいよ。私のほうが出ていくから』


 激情に任せた酷い形だった。だが、それでも伝えられた。

 結果は――既に知っての通りの、あの惨状だった。変わらず相手にされないだけで済んだらどれだけ良かったことか。私は母の幸せすら脅かしてしまった。

 近くにいても私が苦しいだけ。なのに反対に離れようとしても今度は母が苦しむことになる。母の苦しみは、そのまま私の苦しみだ。

 どちらに進んでも苦しいジレンマ。私はどうすればいいのだ。私はどうすればよかったのだ。

 そう考えている間にも、茶の間は不穏な空気に沈んでいく。今にも怒鳴り合いが始まっても不思議でない、ピリピリと痛い空気だ。

 私はそれに耐えかねて、勢いよくテーブルに手をついて立ち上がった。バタンッと音が響いて、一触即発だった二人がビクッとしてこちらを見た。


「――――!?」


 その中を、私は我を忘れて叫び散らかしながら部屋を飛び出した。廊下を走り抜け、階段を駆け上がりながら、私は血が上って今にも白飛びしそうな頭で考えた。

 明香里のことも、母のことも、自分では正しい選択をしてきたつもりだった。だが、その選択はどちらも良い結果を生むどころか事態を更に悪化させた。


「私の選択の、何が間違ってた?」


 母のことは――両親から距離を起きたいという旨を、丁寧に、もっともらしい言い分でも付けて伝えればわかってくれたのか? そうすれば、父は私が家族からの愛を感じなくて自棄になっているという勝手な解釈をしないでいてくれたのか?

 明香里のことは――最早他の選択肢を思いつきもしない。私の中では最悪の選択だと考えていた方法『聡太からの告白をあやふやにする』を取れたばよかったのか?


「――わからない」


 私には最早何が正しくて何が間違っているのか全くわからない。

 私はただ、――いてほしいだけなのに……。そう考えた瞬間、私の脳裏に、あの夜の君の言葉が過った。


『でも、願い事が出来たら、いつでもボクを呼んでね。待ってるから』


 願い、あるじゃないか。どうすればいいのか、私にはわからないけれど、君ならわかるかもしれない。

 私は自分の部屋に着くなりスマホを取り出し、藁にも縋る思いで、無我夢中でそのサイトを探した。そこから先のことはよく覚えていない。サイトは無事に見つかったのか、どこでどうやって過ごしていたか、記憶に霧がかかったようにうまく思い出せないのだ。だが、ふと、訳もなく家の前に銀さんがやってきたとわかって、私は廊下を進んで、玄関から家の前に出た。

 すると、そこには思わず息を呑んでしまうような、どこまでも美しい、あの真っ白な夢が広がっていたのだった。


「私の願いは一つ。――ただ、みんなに幸せでいてほしい」


 銀さんに託したのは、私にはどうしても叶えられなかった、私の切な願いだった。


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