夢の溝

水川純

黒い双生児

アメリカ中西部に位置する某州へ、高校生の頃からの友人であるユリと一ヶ月間ホームステイをする事になった。ユリは私以外に友達は居ないと言っていたが、ホームステイ先のアメリカ人夫婦とは知り合いなのだそうだ。インターネットで知り合ったのかと尋ねたところ「違う」と返答するだけだった。尋常の会話であれば続けて追及するのだろうが、そういう気にならなかった。私がそういう性格なのか、ユリが物事を詳細に説明したがらない性格なのか、どちらが先であったのかはもう分からなくなってしまった。

運賃を抑える為、始発に乗って成田空港からLCCに乗り、トロントでトランジットをし、アメリカに到着。機内の座席に備え付けられてある液晶で、一昨年流行ったイニャリトゥの『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』を観たが、期待外れだった。この映画のどこが評価されているのかは分かる。分かり易過ぎると述べるべきか。そういった点が自分の好みからは大きく外れていた。その後は持って来た小説を読んだり、音楽を聴いたりして過ごした。

ユリは機内食が運ばれて来る時以外は殆ど眠っていた。「よくこんな狭い所で寝られるね」と言うと、「私、いつでもどこでも眠れるから」と応えまた目を閉じてしまった。

空港から更にバスを乗り継ぎ、バス停からも二十分程歩いたところで、ようやく目的地である青い屋根の一軒家が見えた。iPhoneで時間を確認すると、ここに辿り着くまで約二十時間が経過していた。

この州は自動車産業で栄えており、バスで通った際には東京にも引けも劣らぬ都会らしいビル群やビジネスマンらしき人々が車窓から見えたが、この辺りは自然も多く、牧歌的な風景が広がっていた。一軒家は三階建で、庭の芝生や花々の手入れがよく行き届いていた。

ユリがドアをノックすると、すぐに開き一人の年老いた女性が出迎えてくれた。私達は、「昔は子供部屋だったが、もう結婚して自分の所帯を持っているので今は誰も使っていない」と言う三階の部屋に一先ず荷物を置きに行った。二段ベッドと勉強机、クローゼットがあるだけの殺風景な部屋だったが、きちんと掃除されており清潔ではあった。一階にある居間へ行くと、先程の女性が紅茶を淹れてくれた。我々は各々自己紹介をした。女性はLと名乗り、年齢は五十歳だと言った。正直に言うと、七十歳くらいに見えたので驚いた。Jと言う夫が一緒に住んでいるそうだが、今は街へ仕事に出ており居ないそうだ。他には二匹の黒猫を飼っていた。その猫達は兄弟で、どちらもよく見ると黒い毛の中に更に濃い黒の縞模様があった。ユリは猫が好きなので、近付いて撫でたり、iPhoneで写真を撮ったりしていた。

長時間の移動の後だった事もあり、その日は特に何もせず、L氏の作った夕食を摂りシャワーを浴びると、私もユリもすぐ眠ってしまった。

朝起きて、居間へ向かうと既にL氏が朝食の支度を終えていた。「丁度起こしに行こうと思っていた」と彼女は言った。J氏はもう出勤してしまったらしい。昔から家に居るのが余り好きでは無く、たまの休日も一人で終日散歩に行ってしまうのだそうだ。朝食を終え、珈琲を飲みながら、今日はこの辺りを散歩してみようとユリと話した。

外は快晴で、陽射しが少し暑かった。草木が鬱蒼と生い茂り、様々な花が咲いている。植物に詳しく無いからこれらが何と言う植物なのかは分からなかったが、その内の幾つかは日本では見掛けない種類だった。小一時間歩いただろうか、未だ自分達が宿泊している民家以外の家屋は見当たらず、それどころか誰にも遭遇していない。木々、花、草の匂い、土の匂い、陽射し、野鳥の鳴き声、自分達の足音。私はNikonのコンデジを持って来ていたので、たまに立ち止まって花を撮ったり、ユリの後ろ姿や横顔を撮ったりした。すると俄かに、ユリが口を開いた。

「あの家にS(私の名前)と一緒に来る夢を、ここ数年何回も見ているんだよね。月に一度か、もっと少ないかな、いつも忘れる頃に、まるで忘れさせないとしているかの様に夢に見る。決まってLさんだけが迎え入れてくれるんだけど、それ以降の過ごし方は毎回違う。今居るここも来た事が無いし、明日以降もずっとそうなんだと思う。Jさんを見た事は何回かある──と言っても片手で数えられる程度だし、私が一方的に見掛けただけで向こうはこっちを認識していない。Lさんも年寄りに見えるけど、Jさんはもっと皺々で、乾涸びていて、ミイラに似ている。私達は一ヶ月間楽しく過ごすんだけど、帰り際に──これも必ず──Lさんが『もう来ちゃ駄目だよ。恐ろしい事が起こるから』って言うんだ。そこで目が覚めて、またこの夢か、と思う」

私は相槌を打ちながらこの話を聞いていた。「疲れて来たし、今日はもう帰ろうか」と言うと、ユリは「うん」と同意し、来た道を引き返した。


二十八日が過ぎた。明日はいよいよ帰国する。その間、地下鉄に乗って市街地や公園、美術館、蚤の市、カフェ、レストラン等沢山の場所を訪った。数日の雨の日以外、毎日出掛けていた。しかし、まだ一度もJ氏の姿を見ていなかった。

その日の午前中、日課となっている朝食後の珈琲を喫している時、眠っていた黒猫の片方が突然痙攣し始めた。驚いて「大丈夫なの?病気じゃない?」と訊くと、ユリは平生と変わらぬ口調で「猫も夢を見るんだよ。夢を見る時、ああやって痙攣する」と教えてくれた。

私達は、今日はまだ行った事が無い美術館へ行く事にした。徒歩でバス停に向かい、それから地下鉄に乗る。駅に着いた頃には昼になっており、目についたレストランで昼食を摂った。今回訪れたのは、有名な現代美術館だった。日本の公立美術館と異なり、作品の撮影が許可されている場所が殆どで、そこも同様だった。コンデジで撮影しつつ広い館内を観て周った。ユリはルイーズ・ブルジョワの作品を気に入った様子で、珍しく「カメラ貸して」と言い、色んな角度や距離から何枚も作品を撮っていた。

美術館を後にし、家の最寄りのバス停で降りると、外は夕暮れから夜に差し掛かろうとしていた。木立の間隙からグラデーションの空が覗き、星も瞬き始めている。家の中に入ると、電気は点いているにも拘らずL氏の姿が無かった。「今日はとても疲れて眠いから、もう寝るね」とユリは言い残し、そのまま寝室に上がってしまった。私は空腹を感じて居たし眠くも無かった為、キッチンに向かい冷蔵庫を開け、トマトと挽肉のパスタを作った。L氏はどこに居るのだろう。もしかしたら自室(二階にある)に籠って居るのかも知れない。しばらくテレビを観たり、今まで撮った写真を見返したりして待ってみたが、終ぞ彼女が現れる事は無かった。

シャワーを浴びてから一階の電気を消し、三階に向かった。階段を上る途中で、叫び声が聞こえた。彼女が大きな声を出すのを聞いた事が無かったが、それはユリのものであるとすぐに分かった。私は階段を駆け上がり、寝室のドアを開けた。こちらを見る目と目が合う。その目元は落ち窪み真っ暗なのに、瞳は異様なまでに強い光を発していた。皺々の乾涸びたミイラ──J氏であると瞬時に理解した。J氏はベッドの上でユリの上に馬乗りになっていた。彼が目を離した隙に、ユリは再び絶叫し思い切り彼の顔や肩を殴ったり両脚をばたつかせた。然しJ氏は私の存在など既に忘れ去ったかの如く、ガリガリの腕でユリの腹部を強かに殴りつけた。ユリの殴打により彼は鼻血を垂らしていた。その血が、ユリの首元や胸元辺りに何滴も滴り落ちていく。風が吹いただけでへし折れてしまいそうな痩せ細った体躯の癖に、ユリの渾身の抵抗にびくともしない。

私は茫然として──いや、これまでに感じた事の無い、太く頑丈なロープで全身を縛られたかの様に身動き一つ取れなかった。口を誰かに塞がれて居るかの様で、声も出ない。J氏はユリのズボンと下着を下ろした。Tシャツは既にたくし上げられており、ユリの全身が露わになった。彼女は突然、一切の抵抗を辞めた。そして飛行機の機内で見たのと同じ仕草で、静かに目を閉じた。また彼女の体の上に鼻血が垂れた。

全ての事を終えたJ氏がズボンを上げ、部屋を出て行った。その時ですら、彼は私に一瞥もくれなかった。途端に、体を縛り付ける力が弱まる。恐怖からも徐々に解放され、友人に対する心配のほうが勝った時、初めて私はベッドに駆け寄る事が出来た。何度も名前を呼んだが、ユリはすっかり眠ってしまっていた。白い裸体にシーツを掛けた。私は二段ベッドの上に登り、体を横たえた。夜が続いていく。夜がこの家を蝕み続けていく。一睡もせず、約八時間後に現れるはずの夜明けを待った。

カーテンを閉めた窓が仄明るくなったのを確認し、私は二段ベッドを降りた。ユリは眠りに就いた時と同じく突然目を開けた。

「怖い夢を見た」

夢の内容は訊かず、「私も」と言いユリの頭を撫でた。家の中はがらんどうだった。すぐに荷物を纏めると、──少なくとも私は──逃げる様な気持ちでそこを後にした。昼過ぎの便に乗り日本に帰国する。帰りは直通便だったので、掛かった時間は十三時間程度だった。ユリはその間一度も眠らなかった。ただ窓から見える暗闇を見つめ続けていた。

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