第2話 棚橋つかさ

 緒方先生は、自分が忘れっぽい性格だと思っていた時期があった。その一番の特徴が、人の顔を覚えられないことだった。だから、自分には営業は向かないと思っていたが、それでも教師にはなりたかった。教師になりたててで覚えなければいけないことがたくさんある中で、その中でも不安だったのが、生徒の顔と名前が一致するかということだった。

 しかし、その心配は考えすぎであって、なるほど、最初はなかなか覚えられなかったが、ある時点を過ぎると、それまでほとんど誰も分からなかったのに、急にみんなの顔が分かってくるようになった。一つの歯車がうまく行くと、一気に繋がってくるものだと感じたのだ。それが一人の顔を認識できるようになったことだった。

 その生徒は、残念ながら中江つかさではなかった。その生徒は男子生徒で、名前を棚橋つかさという。中江つかさと名前の部分が同じなのは偶然なのかも知れないが、同じ名前なのに片方は男子で、片方は女子というのは面白い。

 棚橋つかさという生徒は、どちらかというと目立たない性格に見えた。しかし、実際に目立たないように見えるのは、彼が煮え切らない性格で、まわりをイライラさせるところがあるからだった。そのため、彼を意識した相手に対して、

「あんなやつのことを気にするのは時間の無駄だ」

 と思わせた反動によるものではないかと緒方先生は感じるようになった。

「女の腐ったような性格」

 とはよく言われたが、今では女性差別と言われかねない表現であろう。

 だが、こんな表現は昭和の時代には普通に言われていた表現であり、緒方先生も親から似たような表現を聞かされたことがあった。それは緒方先生が小学生の頃で、近所に住んでいた男の子に、棚橋つばさと似たような性格で、自分一人では何もできないような行動力に乏しい人がいたのだ。

 小学生であっても、

――それって差別用語なんじゃない――

 と感じていた。

 母親の前でそんなことを口にすれば、何を言われるか分かったものではないと思っていたので黙っていたが、母親の態度や言動を見ていると、昭和という時代が何となく分かってくるような気がする。

 小学生の頃にいた、いわゆる、

「女の腐ったような性格」

 の男の子ではあったが、彼は彼なりにいいところもあった。

 大人というのは、悪いところばかりを見つけては、それを指摘して満足しているのではないかと思っていた。そんな大人に逆らえばバカを見るというもので、

――自分がそんな大人にさえならなければいいんだ――

 と、自分に言い聞かせていた。

 その男子生徒のいいところというのは、勘が鋭いところだった。口数は少なかったが、たまに開く口から発せられる言葉は、ドキッとさせられるものが多かった。他の誰も気づかなかったことを口にする彼を、

――意外と鋭い人なのかも知れない――

 と感じていた人は、自分だけではないと緒方先生は思っていた。

 今から思えば、勘が鋭いというよりも、どちらかというと、

「的確な見方ができる人」

 というのが正解なのかも知れない。

 彼の言葉の一言一言に無駄な部分は一つもない。だからこそ、その言葉にドキッとさせられる魔術が含まれているのだった。

 人の言葉に魔術があるというのも、その時に初めて知ったことだった。ドキッとさせられる表現など、そんなに頻繁にあるものではない。逆に頻繁にあるようなら、却って魔術としての効力は薄れてくるというものだ。

 だがそのうちに感じたこととしては、

――ドキッとさせられる言葉って、意外と自分の考えていることを指摘された時に感じる言葉だったりする――

 ということであった。

 しかも、自覚のない無意識に考えていることを、自分でも無意識なのに、あまり自分と話をしたことのない人からいきなり指摘されるとドキッとするのも当然と言えば当然である。

 棚橋つかさという生徒が勘の鋭い生徒だということに気付いたのは、中江つかさに対する態度を見ていたからだ。

 つまり、緒方先生が中江つかさに意識がなければ、棚橋つかさという生徒を意識することもなかったかも知れない。中江つかさという生徒を見ていたのは緒方先生だけではなく棚橋つかさも同じだったということだ。

 その意識の強さは緒方先生の視線とは比較できるものではないのかも知れないが、緒方先生の中では、

――私よりも強いものに感じるわ――

 というものであった。

 中江つかさの方としても、緒方先生の視線よりも棚橋つかさの視線の方を強く感じているようで、たまに拒否反応のようなものが棚橋つかさに向かって浴びせられているように思ったが、気のせいだったのだろうか。

――気が付けば、中江つかさと棚橋つかさは自然と近くにはいるのだが、その距離は微妙で、近すぎることもなく、遠すぎることもない距離感だ。つかず離れずという言葉は、まさしくこんな距離感を言うんじゃないだろうか?

 と、緒方先生は感じていた。

――そういえば、棚橋つかさって生徒は、初めて見るという気がしないんだわ――

 と感じていた。

 最初にそのことを感じたはずなのに、棚橋つかさの顔を最初に覚えることができた時、なぜか緒方先生は、感じたことを忘れていた。感じたものを忘れていたというよりも、感じたこと自体を忘れていた。そこに自分の中の何かが影響しているとすれば、彼に対する拒否反応のようなものではないだろうか?

 しかし、拒否反応だとすれば、顔を覚えられたというのもおかしなものである。自分に関係のある人を思い起させるはずなのに、その人を思い起したくないという感情が、自分の中にするというのか。

 緒方先生が、今の段階で思い出したくない相手がいるとすれば、それは高校時代に好きだった先生のことだろう。

――もう少しうまく付き合えれば、思い出として記憶することもできただろうに――

 と感じていた。

 先生との別れは自分にとって突然だっただけに、今でもどうして別れなければいけなくなったのか分からない。別に先生に奥さんがいたわけでもなく、ただ自分が高校生で、しかも教え子だったということが学校側の問題になったのだとすれば、もう少し先生も、

――私のことを考えてくれてもよかったのに――

 と考えたものだ。

 だが、まだ高校生といえば子供である。もちろん、その頃の自分は子供だなんて意識はない。だからこそ先生と付き合うということだってできたんだし、先生も大人のオンナとして見てくれたのだと思っていた。

 先生がどんな気持ちで付き合ってくれていたのかという想像は、嫌というほどしてみたものだ。

――ただ生徒と付き合うというアバンチュールを楽しみたかった?

 いや、もしそうだとすれば、もう少し用心深いところがあってしかるべきだ。

 先生の行動は、今から思えば先生と生徒の秘密の恋を貫いているにしては、甘いところがあった。正直者に見えたことが好きになった理由だったので、先生にそんな用心深さを求めるのは酷なのかも知れないが、責任という意味ではしっかりしてほしいと思っている。自分の中で矛盾を抱えていた緒方先生は、知らず知らずのうちに先生に対して、

――申し訳ない――

 と感じていたに違いない。

――では、本当に愛してくれていたのであろうか?

 それも怪しいかも知れない。

 先生が本当に愛してくれているのだとすれば、二人で愛の逃避行くらいの覚悟があってもよかったはずだ。それなのに、先生はアッサリと見つかってしまった時、自分の罪を認めて、学校側の下す裁可に素直に従うことを早々と決めていた。

 その上で、

「緒方君も、将来がある。僕はこれ以上君の将来を傷つけるようなことはしたくないので、問題を大きくしないように何とかするつもりだ。だから、僕たちはもう終わりにしよう」

 と言った。

 その言葉を聞いて、緒方先生は身体から一気に力が抜けてしまった。

「何言っているの。私は先生を愛しているのよ。愛し合っている二人なら、どんなことだって乗り越えられるはずよ」

 と言いたかったはずなのに、彼の言葉に対して、何ら返事をすることができなくなってしまった。

 緒方先生に詰め寄る言葉を、学校側に交際を見つかってからずっと頭の中で反鐘していた。

――それなのに――

 緒方先生の身体から力が抜けてしまったのは、その言葉を口にできる勇気を先生の言葉がぶち壊したことで、それまで張っていた気が、一気に崩れてしまったのだろう。

 緒方先生の目がそれまでとまったく変わってしまった。

 それまでの暖かい眼差しが、完全に冷淡になり、そのせいか、見下ろされているという思いに駆られたのだ。

「先生はまったく違う人になってしまったのね。私の好きだった先生はどこに行ってしまったの?」

 というのがやっとだったが、その言葉に対する先生の態度は、それまでの見下ろしている態度から一転し、申し訳なさそうにうなだれていた。

――こんなにも一瞬で、人間ってまったく違う人になってしまうんだわ――

 と、それまで感じたことのない人間の精神による形相の変化をマジマジと見せつけられたことで、また身体から力がスーッと抜けてしまっていた。

――もう、この人は他人――

 と思うと、先生の顔を確認できなくなってしまった。

 顔は見えているはずなのに、のっぺらぼうのように感じていた。

 それ以来、先生と面と向かって話をすることはなくなり、そのうちに先生は学校を去ることになってしまった。

――もう先生の顔が思い出せない――

 先生がいなくなって数日で感じたことだった。

 もっと言えば、先生が在学中にもすでに先生の顔を思い出せなかった。直視しても、イメージはのっぺらぼう。これは緒方先生の精神が作り上げた幻想なのかも知れない。

 緒方先生は、それから恋愛はしていない。大学時代に男の子の友達は何人かいたが、付き合おうとは思わなかった。彼らも緒方先生に対して好意を持っていたのかどうか分からず、少なくとも告白されたことはなかった。

 寂しいという気持ちはあった。

 高校時代の恋愛を思い出すと、ドキドキを拭い去れない。しかし、相手の顔を思い出すことができず、しかも顔を見るとのっぺらぼう。顔を見るのを避けるようになっていたのだ。

 だから、大学時代の男友達に対しても、顔を直視したことはない。

「緒方って、ちゃんと相手の顔を見て話しをしないよね」

 と、一人の男子生徒がいうと、

「ああ、そうだよな」

 と、もう一人の男子生徒もいう。

「あら? そうかしら? 彼女って怖いくらい直視してくることがあるわよ。思わず後ずさりしちゃうもん」

 というのは、女友達だった。

 緒方先生は、女性に対しては直視して話をするが、男性には直視をすることがなかった。彼女の過去を知らない大学に入ってからの友達は、それが緒方先生のウブなところだということで、意見が一致していた。だから、友達から恨まれることもなく、男性を直視できないこともいい方に解釈されていたようだ。

 ただ、高校時代に好きだった先生の顔を思い出すことはできないが、声や性格は思い出すことができた。

 先生の声はただ優しさが感じられた。

「どのあたりが?」

 と言われれば、ハッキリと指摘できるわけではないが、まるで頬を撫でる風のような爽やかさが優しさを運んでくるような気がしたのだ。

 口調も優しさ以外の表現は難しいだろう。強いわけでもなく、掛かる言葉を口にするわけでもない。

 性格も、

「優しい」

 という一言で片づけられるような人だった。

 世間広しといえども、その一言で片づけられる人は珍しいだろう。もちろん、他にもいるいろな性格を兼ね備えているが、その性格もすべてが優しさに凝縮されているかのようだった。

 先生がそばにいるだけで、それだけでよかったはずなのに、いなくなってしまうと、どこか安心している自分がいた。

 きっと最初に感じたはずの先生の本質が、別れる時になって、信じられなくなってしまったからであろう。

 恋愛の本質と、相手の人の本質とが必ずしも一致する必要はないが、別れの際では、本質という言葉を思い浮かべることすらできないほど、思考能力が停止していた。

 それはきっと、頭の中で時系列がマヒしていたからだろう。いろいろなことが走馬灯のように繰り返され、順番もバラバラになってしまったことで、その時に何を考えていたのかということがまったく分からなくなった。

――その思いが、私の「モノを覚えられない」という意識に繋がっているのかも知れないわ――

 と、緒方先生が考えた。

 棚橋つかさという生徒をいきなり緒方先生は意識したわけではない。緒方先生に浴びせられた視線に彼女が気付いたからだ。

 その視線がどのようなものだったのか、思い出せるわけではないが、恋愛感情を含んだものではないことは分かった気がした。

――感じたくない思い――

 というわけでもなかった。

 棚橋つかさは、緒方先生のことをどう思っているのだろう?

 棚橋つかさという生徒は、どこかどこか女性っぽいところがある。肌の白さなどは女性を思わせ、女性の緒方先生から見ても、

「男にしておくのはもったいない」

 とまで思わせるほどだった。

 緒方先生も学生時代のクラスメイトに、棚橋つかさを思わせる男の子がいた。その男子生徒は、いつも物静かで、誰とも会話をする様子はなかったのだが、絶えず誰かを気にしているようだった。

 気にしている相手は一人だけだというのは分かったのだが、それが誰なのか、なぜか分からなかった。彼がわざとまわりに悟られないようにうまく立ち振る舞っているのか、それとも彼の無意識な態度が天性のものなのかも分からない。

 その男の子は、一人を気にしているくせに、自分がまわりから意識されていることにどうやら気付いていなかったようだ。彼を見るまわりの目は、冷ややかで、完全に引いていた。やはり彼の中にある女性の部分を気持ち悪く感じていたに違いない。

 その頃の緒方先生は、まだ自分がレズっ気があるということに気付いていなかった。ただ自分が彼を意識していることと、その意識が他の人が感じている意識と違っていることだけは分かっていた。どのように違うのかまでは分からなかったが、少なくとも自分にレズの気があるということを最初に気付かせてくれたのがこの時だったのではないかと思っている。

 その男の子の名前までは覚えていないが、ちょうどその時はまだ、先生を好きになる前だった。

――ひょっとして私が先生を好きになったのは、自分が彼を意識しているということを認めたくないという意識から、目が先生に行ったのではないか?

 と考えるようになった。

 先生に目が行ってからは、自分のそれ以前の意識を完全に忘れてしまっていたようだ。

 もっとも、男の子の中にある女性を意識していたというのも怪しいものなので、先生を見ていると、男の子の中の女の子を感じることがなくなり、女の子の存在が皆無になってしまったことで、彼への意識も消えてしまったのではないだろうかと考える。

 そのせいで、本当はその時に気付いてもよかったはずの自分の中にある性同一性症候群に気づくのが遅れたのだろう。気付いた時には先生を好きになっていて、気付いてしまったことで先生との別れを迎えなければいけなくなったということは、実に皮肉なことであった。

 緒方先生は自分が先生になって、また自分の中にある男性の部分が顔を出したことに気がついた。中江つかさを見たからだと思っていたが本当であろうか? ひょっとすると棚橋つかさの中にいる女性を意識したことで、今度はその女性の部分を否定したい気持ちから、中江つかさに目が行ってしまったのではないかとも思えた。

――順番が違うだけで、かなり事情も違ってくるような気がするわ――

 と感じた。

 緒方先生は棚橋つかさを見ることで、高校時代を思い出していた。

「最近よく高校時代を思い出すんだよな」

 と感じていたのは、棚橋つかさの存在が大きかったのかも知れない。

 棚橋つかさが女の子のような雰囲気になったのは、生まれもってのことではなかった。

 生まれた頃は健康優良児で、がたいも大きく、体重も結構あり、

「この子は立派な男の子になるわ」

 と言われていたようだ。

 名前も本当はもっと勇壮な名前にしようとお母さんは考えていたようだが、父親の方から、

「名前はつかさがいい」

 と言い出した。

 母親が、

「どうして?」

 と聞くと、

「お姉さんには、要になるようにと『扇』とつけたでしょう? だからこの子には、すべてをつかさどってもらえるように『つかさ』と名づけたいんだよ」

 と言った。

「女の子みたいじゃない?」

 という母親に、

「真の男というのは、女の子をも凌駕できるようでなければいけないと思うんだ。そういう意味で、男も女もつかさどるという意味で、いいんじゃないか?」

 と言われ、母親もここで変に言い争ってもと思い、しぶしぶではあったが同意した。

 彼が女性っぽくなってきたのは、まさかこの名前のせいではないだろうが、まわりは本人が意識するより前から、

「つかさ君の中には、女性っぽさがある」

 と思われていた。

 そういう意味では、彼の中に女性を感じているのは、

「緒方先生だから」

 というわけではないようだ。

 ただ、緒方先生の高校時代に似た男の子の中に女の子がいることに気付いたのは、緒方先生だけだった。それはまわりの見る目の彼らに対しての意識の違いなのか、それとも棚橋つかさの方に、女性を感じさせるオーラのようなものが備わっているのか、どちらなのだろう?

 緒方先生も、ほとんどのクラスメイトも棚橋つかさに扇という姉がいたことを知っている人はいない。棚橋扇のことを知っている生徒は、棚橋つかさと小学生の頃から一緒だった人だけなので、しかも現在も親交があるとなると、本当に限られた人になるだろう。

 棚橋扇は、つかさが小学校三年生の時に亡くなった。学年では二個上だったので、小学生の頃に死んだことになる。

 病気は不治の病だったようだ。

 両親には半年前に告知されたようだが、両親も病名を知ってからというもの、それなりに覚悟はしていたのだろう。

「なるべくあの子のためになるようなことをしないと」

 と両親はいつも話していたという。

 棚橋つかさは、大人のそんな事情を知るわけもなく、もちろん姉に余命を悟らせるわけにもいかないので、相当苦しかったことだろう。それでも、

「扇のためだからと言って、つかさに辛い思いをさせるのは酷だよな」

 と言って、つかさにも同じように愛情を注ぐようにしていたが、それにも限界はある。

「どうしてお母さんは、お姉ちゃんばかり贔屓するんだよ」

 と言って、いじけたことがあった。

 些細なことから姉を相手に意地を張ったのだが、それを見ていて母親が業を煮やしたのだろう。

「相手はおねえちゃんなのよ。遠慮しなさい」

 と強めに言ってしまったのだ。

――しまった――

 と、母親は瞬時に後悔したことだろう。その表情から焦りのようなものが見えていた。

 つかさはその表情から、

――自分が優位なんだ――

 と感じ取ったようだ。

 さすがに勘が鋭い子である。だが、その勘の鋭さは目の前に見えていることに対してだけのことであり、その奥に隠された、いや、隠さなければいけないことまでは看破することはできなかったのだ。

 中途半端な看破はつかさを疑心暗鬼にさせた。

――お母さんは、僕を嫌いなのかも知れない――

 と思わせた。

 それを両親は一番怖がっていたはずなのに、どうしてこんなことになったのか、姉のことだけで頭が一杯なのに、余計な心配をさせられたことは、自業自得のはずが、いつの間にかつかさに向けられていた。

 これは、堂々巡りになってしまった。

「負のスパイラル」

 とはこのことであろうか、特に相手が一人ならいざ知らず、姉弟という近親間でのことなので、厄介だった。

 しかも、そのうち一人は、余命幾ばくかなのである。やりきれない気持ちになってしまうのも仕方がないが、その重いというのが負のスパイラルの原点だと考えると、逃げるわけにはいかなかった。

 だが、真っ向から立ち向かったとしても、それは無駄でしかないことは分かっている。下手に正攻法を貫くことが得てして負のスパイラルを最短で繰り返させようとすることになるなど、なかなか思いつくことではない。

 棚橋扇が亡くなった時、つかさはそばにいなかった。学校にいて、何も知らずに授業を受けていたのだが、両親もつかさを呼んでいいのか悩んでいたようだ。

「つかさは、人の死について、まだ何も感じることができる年ではない。もう少し大人になるまで、人の死に直面することは避けてやろう」

 という話をしていた。

 だが、つかさとしては、

「どうしてお父さんお母さんは、僕を呼んでくれなかったんだろう?」

 と、口には出さなかったが、つかさは感じていた。

 別に会ったからと言って、何を言っていいのか分かるわけもなく、ただ混乱してしまうだけだとは思うのだが、それでも会えなかったことを両親のせいにして、気持ちのはけ口にしていた。

 両親が悪いわけではないと少し大人になれば分かることだったが、誰かのせいにしなければ、姉と会えなかったことの後悔を自分では整理しきれないでいた。

――姉に対しては、不満しかなかったはずなのに――

 と思うと、

――もし会っていたら、文句を言ったかも知れない。言いたかったんだ――

 と、自分に言い聞かせるように感じていた。

 その頃からだっただろうか、それまで分からなかった姉の気持ちが何となくであるが分かってくるのを感じたのは……。

 その感覚が棚橋つかさを勘のいい少年にしていったのかも知れない。

 特に女性に対しては、何を考えているか分かる気がしていた。もちろん、女性全般に分かるわけではなく、特定の人の性格や考えていることが分かるような気がしていた。その共通性についても考えてみたが、心当たりはなかった。別に自分と同じような性格の相手を分かるというわけでもなく、姉を思わせるような女性のことが分かってくるというわけでもなかった。

 ただそう思って次第に感じてきたのは、

――俺の中に誰か別の人がいるような気がする――

 という思いだった。

 二重人格の人はまわりに何人かいるようだが、それとも少し違っている。どちらかというと、自分が意識している間は、その人は裏に隠れてじっとしていて、ある瞬間、つかさの意識が飛んでしまい、その間にもう一人の誰かが自分の中から出てくるのだ。

 そのもう一人の誰かが自分ではないことは分かっていた。

――もう一人の自分は別にいるんだ――

 という意識があり、そうなると自分の中にはもう一人の自分と、もう一人の誰かと、そして今考えている本当の自分の三人がいることになる。

 最初は、

「ジキル博士とハイド氏」

 の話を思い浮かべたが、小説の中でのハイド氏は、明らかにもう一人の自分だった。

 そういう意味では、ジキルとハイドの話の方が切実で、恐ろしい気がしてくる。なぜなら自分の中のもう一人の自分は、自分の知らない本当の悪魔の部分だからである。ただ、他の人も本当の自分を知らないだけで、本当の自分は悪魔なのかも知れない。

「知らぬが仏」

 とは、まさにこのことであろう。

 棚橋つかさは、自分の中にいる、

――三人目の誰か――

 が姉ではないかと思うようになった。

 絶えず誰かに見られているような気がして、ゾッとすることはあるのだが、恐怖に結びついているわけではない。気持ち悪くないといえばウソになるが、それ以上に安心感を与えてくれるという矛盾を孕んだ視線であった。

――包み込まれるような視線って、こんな感じなんだろうか?

 身体がゾクゾクしてくるのを感じた。

 ただ、そのゾクゾクは、くすぐったくもあり、心地よさもあった。何かに包まれる快感をそれまでに味わったことのなかったはずの棚橋つかさだったが、中学時代になってくると、

――懐かしいような気がする。本当に気持ちいい――

 と、身体の奥から熱いものが噴出してくるような気がした。

 中学生というと思春期であり、身体は大人の仲間入りをしていた。性に目覚める頃でもあり、この快感が性によるものであるということはウスウス感じていた。

 だが、性を感じるということは恥ずかしいことだという意識が中学時代の棚橋つかさにはあった。しかも、性を感じさせる異性というのが、死んだとは言え、肉親である姉だというのは、

――異常な性欲から来るものではないか?

 と思わせた。

 棚橋つかさが、自分を異常性欲者だと感じるようになったのは、中学時代だった。一時期引きこもりにもなったのだが、引きこもりになる前というと、クラスに一人がいる、耳年魔の友達から、聞きたくもないのに授業中に席を寄せてきて、セックスの気持ちよさを耳元で囁いた。

 その表情を直視できなかったが、それだけにその顔を想像すると、これ以上ないというほどの淫靡な表情になっていた。

 口元は淫らに歪み、目は好奇の表情を裏付けているかのようで、歪んだ口元が今にも耳まで裂けてしまいそうなイメージに、なぜか道化師を思い浮かべた。

「道化師」

 それは、奇抜な格好に化粧を施し、どこの誰だか分からないのをいいことに、おどけた態度で、ある時は人を喜ばせ、感覚をマヒさせる効果がある。しかし、まともに見てしまっては、これほど気持ちの悪いものはない。

 道化師の恐ろしさは、その口から何も発しないことだ。だから、いくら彼の声を想像してもできるものではない。なぜなら、その顔面からは、その素顔を創造することはできないからだ。

 そういう意味では何も口にしない人ほど怖いものはない。中学時代に淫靡な話をつかさに聞かせたやつには、怖さは感じないが、話を盛り上げるには十分な声と雰囲気だった。つかさは衝撃を受けたのだった。

 そのイメージを感じたまま、自分の中にもう一人知らない人がいるのを感じると、その人にだけは誰も知らない自分を知られてしまっていることが怖かった。自分の中にいるのに自分ではないという矛盾した状況に、混乱を隠しえない棚橋つかさだった。

 自分の中にいる誰かが誰だか分からない時期と、ひょっとすると姉かも知れないと思い始めてからの棚橋つかさは明らかに違った。姉が自分の中にいてくれると思うと恐怖は薄らいでくる。しかしその反面、異常性欲を持っているかも知れない自分を、自分の中にいる姉は容易に知ることができたのだと思うと、恥ずかしい思いでいっぱいだった。

 しかし、姉はすでにこの世の人ではない。もし自分の中に姉がいるとしても、それを知っているのはこの自分だけである。それなのに恥ずかしいと思うのはどういう感覚なのだろうか? いくら姉がいたとしても、その範囲は自分の中でのことであり、しょせん表に出て行くことはない。だから、他の誰も知ることはできないのだ。

 姉はそれを知ったとしても、話すことができるわけではない。何も言われることもないし、別に恥ずかしがることもないのだ。

――俺はいったい何に恥ずかしいと感じているんだろう?

 思春期特有の感覚で、

「大人の人が聞くと顔を真っ赤にして、怒り出すような表現」

 それを恥ずかしいことだと思うのだろうか。

 思春期ともなると、少々のことでも恥ずかしいという感覚に陥る。思春期特有のニキビも顔面に広がっていて、汚らしいったらありもしない。

 だが、大人が恥ずかしがる必要がどこにあるというのか、自分たちも思春期を通り越えてきたはずで、その時に恥ずかしいという感覚を植えつけられたのだろう。

「恥ずかしいというのは、言葉にするのもおこがましいようなことであり、誰もが不快な気持ちにさせられるもの」

 という定義になるのだろう。

 しかし、性交は人間、いや生き物にとって大切な生きているうえでの営みであり、種の保存という観点からも重要なことだ。

 人間では人口問題、他の生物を含めると、生活環境のスパイラルとでもいうべきか、生き物が生きていくうえで、循環を繰り返す中で欠けてはいけないバランスがそこにはあるのだ。

「人に限らず、生物の生死というのは、何によって司られているんだろう?」

 と考えたりもした。

 神話の世界のように、神様がいて、彼らの中にある生殺与奪の権利のようなものが影響してきて、時には神様の勝手な心境で、人が簡単に殺されてしまったりする。

 ギリシャ神話などに出てくる神々は、基本的には嫉妬深く、しかも自分たちによる創造物である人間が、自分たち神に近づくことを嫌い、天罰と称して、罰を与えるのである。そのいい例が、

「バベルの塔」

 の話ではないだろうか?

 さらに、人間が自分たちの思っていたのと違う成長をすることで、人類、いや、その時代の生物の一部を除いて、世界を滅ぼそうと考えた、

「ノアの箱舟」

 の話もしかりであった。

 神が人間を作ったと書かれた聖書も、結局はその人間が創造することに遡る。堂々巡りを繰り返すのは、しょせん創造された神は架空でしかないということであろうか。

 以前、神々の興亡をテーマにしたアニメを見ていたことがあったが、その中に一人気になる神がいた。実際にそんな神が存在するのかどうなのかなど、棚橋つかさは知らなかったが、最初に見た時の感想は、

「わっ、気持ち悪い」

 というものだった。

 これは自分以外でも他の人のほとんどが気持ち悪いと感じるレベルのものであるが、彼のように見た瞬間、反射的に感じるほどではないに違いない。

 その神というのは、顔面が半分に割れていた。その半分に割れた顔の右側は男性で、片方の左側は女性になっている。だから、右側から見れば男性で、左側から見れば女性になっていた。

 しかも、その神の登場シーンで、正面からの画はあまりなく、ほとんどが左右のどちらかの画だった。

 女性側から見た時の声は女性になっていて、男性側から見た時の声は男性になっている。数少ない正面からのカットの時は、男女の声が共鳴したように響いていたのだ。

 子供心に、これほど気持ち悪いと思ったことはないと思ったほどだった。ホラー映画などで、妖怪や化け物のグロテスクな描写も、このアニメの神のような気持ち悪さを感じない。そもそものレベルの次元が違っているのだろう。

 一番気持ち悪いと感じたのは、正面からのカットで、男女の声が篭ったように共鳴して聞こえてくるのが、嘔吐を催しそうなほどの気色悪さであった。

 棚橋つかさがそのアニメを見ていたのが中学生の頃、姉への思いは消えることはなかったが、引きづった感情はある程度なくなっていた。

――もし、姉への思いを引きずっていた頃、こんなアニメを見た時、どう感じただろう?

 きっと、見るのをやめていたに違いない。

 しかし、中学生の頃は、気色悪いと思いながらも見ていた。

「好奇心が旺盛な時期」

 というだけで片付けられない何かがあるとは思っていたが、それがどこから来ているのか分からなかった。

 棚橋つかさが、

――自分の中にもう一人別の誰かがいる――

 と、最初に感じたのはこの頃だった。

 実際には、中学時代のどこかだという確信があったが、ピンポイントで確定できるほどの材料は持っていなかった。

 自分の中にいる人が女性だと最初に感じたのはいつだっただろう? 

 最初に自分の中の別人を感じてから、少しは経っていたように思う。すぐではなかったと思ったのは、

――自分の中に誰か別人がいるなんて――

 という疑いの時期があったのと、そのもう一人というのが、姉ではないかと考えるようになったからだ。

 姉だと思うようになってからもすぐに、

――別人が女性であるーー

 という思いに駆られるようになったわけではなかった。

 姉は死んでからかなり経っている。自分の中で姉の成長は止まっていて、自分だけが成長している。

――姉なのに、妹みたいだ――

 イメージは妹なのだが、やはり姉は自分にとって追いつくことのできない存在だ。

 しかも、死んでしまっているので、追いつけたのかどうか、判断材料がないため、永遠に追いつけなくなってしまった。

 もし、追いつける時があるとすれば、

――それは自分が死ぬ時だ――

 ということになるのであろう。

 そんなことを思っていると、姉が帰ってきてくれたような安心感を胸に抱いた。その時、ハッキリと、自分の中にいる別人が姉ではないことを確信したのだった。

――お姉ちゃんじゃなかったんだ――

 という思いは、ホッとした感情なのか、残念な思いなのかハッキリとしていなかったが、ハッキリとしていないということは、おそらくそのどちらも気持ちの中にあるからではないだろうか。

 それから、姉のことを感じることはたまにあったが、自分が姉の死を引きずっているという感覚はなくなっていた。スッキリした気分にもなったが、少し寂しさもあった。この寂しさが、残念な気持ちの裏返しでもあったのだろう。

――じゃあいったい、もう一人の別人って誰なんだろう?

 自分の中にいるのだから、自分以外のはずはない。

――気のせいだと、何度思おうとしたか――

 実際に気のせいだと思うと、一時期、もう一人の別人を感じることはなくなっていた。

 しかし、すぐにもう一人の別人を感じたのは、明らかにもう一人の自分が別に存在していて、自分の中に二人の人物がいることを思い起こさせた。

 その時に感じたのが、アニメで見た左右に男女の顔を持った神だった。他のアニメで、首から上に三つの顔がある悪魔を見たことがあったが、それは完全な顔が三つ、首から上に乗っているのだ。

 それは、仏像の中にある、

「阿修羅増」

 のごとくであり、その三つの顔にはそれぞれ喜怒哀楽の感情が司られていた。

 三つの顔はまったく違った感情を持っているが、元々は一人の人格が形成されたものであり、一つの顔しか持たない人が、感情を表情で表す代わりに、それぞれの表情を最初から持っているのだ。

 そうやって考えると、阿修羅面も納得がいく。人間のように、表情で感情を表すという方が、考え方によっては難しいことなのかも知れない。最初から感情ごとに顔を持っていれば、顔が脳と連動して、表情を変えるということをしなくてもいいからだ。

 だが、ほとんどの動物は、一つの身体に一つの顔しか持っていない。考えてみれば、感情ごとに表情を変えるのは人間だけであり、そもそも感情など人間にしかないものだと思えば、人間以外の動物に顔が一つでも不思議はない。

 人間だけが特別なのだ。

 感情を持っているということも特殊なことだし、それを元にコミュニケーションが取れるというのも特殊なことだ。もっともそれは他の動物が、

――本能でのみ動いている――

 という仮説を正しいとして考えたことであろう。

 棚橋つかさは、

――人間の頭は一つしかない。だから感情を表情に出すと思っているけど、表情をうまく使いこなせない人はどうしているんだろう?

 と考えるようになった。

 阿修羅面や、左右で男女の神のように、同時に感情を表に出せればいいのだが、そうでない人は、感情が一つだということだろうか?

 それも無理があるような気がした。

 だったら、無理があるついでで、もう少し無茶な発想をしてもいいのではないかと考えた。

――もう一人の別人は、本人が知らない間に、勝手に表に出ているのではないか?

 この発想を思い浮かべた時、さらにすぐ思いついたのは、

――これって、ジキルとハイドの発想ではないか?

 と思うと、

――人間、皆似たり寄ったりの発想をするものなんだな――

 と感じた。

 時代も違えば、地域も違う。育った環境がまったく違っている二人がたまたま同じような発想をするということは、この発想も実は無理のない発想なのかも知れないとも感じるのだ。

 そう思うと今度は、

――今、こうやって考えている自分って、本当にこの身体の主なんだろうか?

 とも考えられた。

 自分の意識をしていない時、もう一人の他人が表に出ているとすれば、その人はこの身体の主を自分だと思っているかも知れない。

――でも、自分の中にいるのが女性であれば、身体は男性なので、そこで何かおかしな矛盾を感じるはずだから、自分がこの身体の主だとは思わないだろう――

 と思うのは、

――この身体の主は自分でしかない――

 という思いを確信に近い形で持っているということの裏づけにはならないだろうか。

 やはり、人間にとって身体も大切だが、それを司っているのは精神であるというのは、誰もが感じていることだろう。

「身体が一つなら、精神も一つ」

 当たり前のように感じているが、そのことに疑問を抱くと、抱いた疑問が解決されることは決してないように思えてきた。

 人間というのは、死ぬまでに一回は、必ず自分の中にもう一人、誰かが潜んでいることを意識するに違いない。

 その人を意識するようになってから、今まで想像することができなかった、

「姉が今生きていれば、どんな顔をしているんだろう?」

 という思いを、イメージとして浮かべられるようになった。

 その顔は両親とは似ていない。両親に自分が似ていると思っている棚橋つかさにも、当然似ているという意識はなかった。

――どうして、こんなに両親や自分に似ていない顔をイメージしてしまったんだろう?

 子供の頃は、姉と似ていないなどと考えたこともなかった。

 もっとも子供の頃は自分の顔が嫌いで、鏡などほとんど見たことのなかった棚橋つかさだったので、目の前にいる姉とを比較してみようなどとも考えたことはなかった。

 両親はいつも見ていたので、比較しようと思えばできたのだろうが、両親も姉もいつも見ているのに、なぜか三人が一緒にいるところをあまり見た記憶がなかった。

 姉は姉の顔、そして両親は両親の顔と単独でそれぞれ注視していただけに、余計にその三つの顔をすり合わせることはできなかった。いわゆる、

「次元の相違」

 とでも言えばいいのか、それが遠い距離なのか、ニアミスなのかも分からない。

 ただ、一緒に見たことがなかったと感じているのは自分だけで、実際には同じ空間で見ていたのかも知れない。それぞれにシンクロしない何かが棚橋つかさの中であったのだろう。

 それが何なのか想像にも値しなかった。そんな考えはすぐにでも消し去りたいと思うほど、自分の中で気持ち悪いものだったからだ。

 姉が生きている頃は、一時期、露骨に姉をえこ贔屓している時期があった。今から思えば姉は病気だったので、それも仕方のないことだろう。両親の頭の中には姉のことでいっぱいだったはずだ。子供の棚橋つかさに理解できないのは当たり前だとしても、何となくではあるが、姉の病気を気遣っていることくらいは子供にも分かった。

 分かっているからこそ、許せないこともある。

――両親は自分が姉のことを分かっていると感じているのだろうか? もし分かっていなかったとすれば、それだけで罪だが、分かっているとすれば、確信犯として、もっと大きな罪だ――

 と思っていた。

――だったら、どうすればいいのか?

 両親に分かるはずもない。

 分かっていれば、もう少し状況は違っただろうし、死んだ姉のことに対して、今まで成長した姉の姿を想像しようとしても想像できなかったなどということはなかったのかも知れない。

 人の死に対して、死を体験した人にしか何かを言う資格はないのかも知れないが、少なくとも死に関わったまわりの人にも少しは何か報われるものがあってしかるべきではないかと棚橋つかさは思っていた。

 姉が死んでから少しの間、家庭内はギクシャクしていた。

 それは分かっていたことではあったが、

「家にいたくない。息をするのも苦しいくらいだ」

 というレベルのものであった。

 姉が死んでからというもの、母親は完全に憔悴状態になっていて、感情が表に出てこない。

 父親も仕事と称して、家に帰ってこなくなった。ひょっとして、家の外に誰か他に女性がいるのかも知れないし、どこか、癒されるところを探し歩いているのかも知れない。どちらにしても、両親の確執は決定的で、離婚も秒読み状態に近い感じだった。

 だが、子供を亡くした家庭というのは、大なり小なり、そんな状態に陥るものなのかも知れない。気が付けば父親も家に帰ってくるようになっていたし、母親も家事を無難にこなしながら、近所付き合いも復活しているようで、子供の棚橋つかさが見ても、

「ああ、よかった」

 と、安堵の溜息が出るほどであった。

 そこまで回復するまでの棚橋家は、半年近くかかっただろうか。つかさにとっては、その期間を長かったと感じていたが、過ぎてしまえばあっという間だった。

 ベタな臭いセリフのようだが、

「雪は必ず解けるものだ」

 ということなのだろう。

 姉のいない家庭は、以前とは明らかに違っていた。

 明るさはなかったが、姉の病気を気遣うこともなく、皆が自由な時間を持つことができるからなのか、緊張感はなかった。

 だが、棚橋つかさは、

――俺が望んだ家庭って、こんなものだったのかな?

 というものだった。

 病気になった姉が悪いわけではないと思ったが、

――お姉ちゃんがいなければ、もっと普通の家庭だったのに――

 と何度感じたことか。

――じゃあ、普通の家庭って?

 と今ではそう思う。

 その時はそこまで考える余裕はなかったが、何を持って普通だと言えたのかということを、棚橋つかさは分かっていない。

 友達の家には何度か夜まで行っていたことがあった。家に帰っても誰もいるわけではない。母は姉の入院している病院につきっキリ、父は仕事で遅くなる。その時の父は本当に忙しかったようで、残業を余儀なくされていた。しかし、

「残業している方が、嫌なことを考えなくていいから気が楽だ」

 と、つかさが聞いているとも知らずに、母と話をしているのを、立ち聞きしてしまった。

 つかさの名誉のために言っておくが、その時の立ち聞きは、したくてしたわけではない。トイレに入っていて、出ようとした時、キッチンから両親の会話が聞こえてきたのだ。

 声のトーンは低くしていたが、つかさの方もなるべく音を立てないようにしていたので、少々の声は聞こえてくる。

――ここまで我が家は、ギクシャクした家庭になってしまったんだな――

 と、つかさは感じざる負えなかった。

 父親と母親が子供に気を遣えば遣うほど、子供に負担になっているということを、両親は気付いていないのか、それがもどかしかった。

 確かに姉のことで頭がいっぱいなのは分かるが、もう少しは自分のことも見てほしいと思うつかさだった。

 姉が死んでからの半年は前述のようにギクシャクした家庭で、崩壊も考えられた家庭だったが、普通に戻ってからは、今度はつかさのことをやけに気にする母親になっていた。

 過保護とはまた違っていて、かといって、英才教育のような極端な構い方をしてくるわけでもない。

 ただ、一言多いだけだった。

 言わなくてもいいことをどうしても一言言ってしまう。母親を見ていれば、言わなければ自分の気が済まないと思う何かがあるのだろう。

 後で分かったことだが、その時の母は、父の浮気を密かに感づいていたようだ。そこでいざとなった時、息子のつかさを味方に引き入れることで、自分の立場を強固にしようと思っていたのだろう。

 それとも息子を理由にして、父親を責める材料にしようとでも思ったのか、母親の露骨とも言える構い方は、次第に億劫に感じられるようになってきた。

 父親はそんなこととはつゆ知らず、家には普通に帰ってくるようになった。母親に文句の一言も言わない代わりに、口数はまったくなかった。喧嘩にもならないが、一触即発の緊張感が、以前の崩壊危機の家庭とはまた違ったものがあり、

――もう、うんざりだ――

 と、棚橋つかさに感じさせ、

――どうでもいいから、どっちが得をして損をしてもいいから、早く決着をつけてくれないかな?

 と思った。

 離婚ということになると、どちらかについて行くことになるのだろうが、普通であれば母親について行くことになるだろう。つかさはそれでもいいと思った。父親がいなければ、自分と二人きりなら、母親もそんなにプレッシャーも感じないだろうと思ったのだ。

 だが、つかさの思いは、考えすぎで終わってくれた。二人は離婚などするとこもなく、普通の家庭に戻った。だが、つかさはさすがに今度の平和な家庭も信用はしていなかった。――いつか近い将来、何かが起こる――

 という思いがあり、安心することができなかったが、今度は本当に落ち着いたようで、両親が喧嘩をすることもなくなった。

 会話もそれなりにしていることで、その状態が半年も続けば、つかさの方も安心して、家庭の憂いを断つことができたと思ったのだ。

 その頃から、つかさは姉の顔を思い浮かべるようになった。それは自分の知っている姉ではなく、

「生きていたら」

 という但し書きのつく年齢の姉の姿だ。

 生きてさえいてくれれば、どうやったって、姉においつくことはできない。分かりきっていることが当たり前のはずなのに、今では姉の生きていた年齢をはるかに追い越してしまった。

 そんな姉の姿を追いかけることで、姉の顔が次第に分からなくなった。

「永遠に追いつくことができない」

 という思いが嵩じてしまったのか、棚橋つかさには姉の後ろ姿しかイメージできなくなっていた。

 年齢的には追いついてしまって、すでに追い越してしまっているので、姉の後ろ姿しか見えないというのはおかしな話なのだろうが、姉が死んでしまっているという事実を認めたくはないという気持ちとは裏腹に、

「姉はもうこの世にはいない」

 という思いはハッキリとあった。

 その思いからか、姉が生きていた年齢まで自分が振り返ることはできないという勝手な思い込みからか、それとも振り返るのが怖いからという理由からなのか、後ろ姿しかイメージできなくなってしまったのだ。

 どうして振り返ることができないと思ったのかは、その時には分からなかった。だが、振り返ってみて、そこにいる姉の顔が確認できないという思いが強かったのは否めない。その思いからか、彼にはしばらくの間、道を歩いていても、後ろを振り向くのが怖いと思う時期があったのだ。

 そんな彼を、

「まるで子供みたいだな。そんなに後ろを振り向くのが怖いのかい?」

 と言われたことがあったが、

「うん、なぜか後ろを振り向くことだけは怖いんだ」

 と言った。

「おかしなやつだな。お化け屋敷とかそういうたぐいのものを怖いと感じることはないくせに」

 と言われたが、それは事実だった。

 棚橋つかさは確かにお化け屋敷のような、明らかな脅かすだけのための作られた世界を怖がることはなかった。それだけ現実主義なのかも知れないが、そのために、まわりからは、

「淡泊だ」

 と思われていた。

 しかし、そんな彼が後ろを振り向くことだけは怖がるので、

「やつも、普通の人間なんだな」

 と、まわりから少し見直されていたのも事実で、しかもその理由が本人にも分からないというところが、まわりにも好感が持てたようだ。

「棚橋君は、お化けが怖くないのに、後ろを振り向くのが怖いという理屈、先生には分かる気がするわ」

 と、中学の時の担任だった、女性の先生はそう言った。

「どうして?」

 と聞くと、

「私ね。大学の時に、弟を亡くしているの。病気だったんだけど、最初は弟が死んだ時、それまで感じていたほどの悲しみがなかったのよ。葬儀の時なんかも、涙が出てくることもなくてね。そんな自分が嫌で嫌で仕方がなくなったんだけど、ある時から、急に弟のことを思い出すようになったのよ。きっと夢に出てきたからなんだって思うんだけど、弟が自分のことを忘れないでほしいって訴えているような気がして。でも、私は忘れるなんて感覚はなかったんだけど、どうしてそのタイミングで弟が夢に出てきたのかって、いろいろ考えてみたわ」

 と先生は話してくれた。

「それで、考えはまとまったんですか?」

「いいえ、まとまらなかったわ。少し考えるとまた考えが元の場所に戻ってきて、堂々巡りを繰り返すのよ。だから何度か繰り返すうちに、最初に何を考えていたのかが分からなくなって、繰り返しているということすら自分でも分からなくなってね。そんな状態で考えがまとまるわけはないわよね」

「そうかも知れませんね。僕も同じようなものかも知れません」

 というと、

「そうね。棚橋君も私と同じように肉親を亡くしているんだからね。ただ、棚橋君を見ていると、自分とは違う感情に抱かれているように思ったの。でも、もし棚橋君の気持ちに一番近づけるとすれば、それは私なんじゃないかって思うのよ」

 と先生は言ってくれた。

――俺の気持ちなんて分かる人、いるわけない――

 とずっと思っていた。

 それなのに、先生はいきなり彼の心の中に踏み込んできて、自分の気持ちを言い出した。以前の棚橋つかさだったら、

――余計なことを――

 と思うのだろうが、先生も同じように肉親を亡くしたことからの経験を話してくれたことに怒りを感じる道理もなく、嫌な気はしなかった。

 それよりも先生の言うように、

――先生だったら、俺の気持ちを分かってくれるようになるかも知れないな――

 と感じたほどだった。

 中学生という思春期であれば、女性と二人きりになれば、男性としての本能が出てきてしかるべきだろう。その感覚は多岐に及ぶものだと思っている。

 男として女を見ているという思いから、恋心のようなものが芽生えてくるパターン。

 大人の女性というイメージで、母性を感じさせられるパターン。棚橋つかさの場合は、姉を亡くしているので、年上の女性イコール姉というイメージに結びつきかねないとも言える。

 さらに、年上である相手に対して「癒し」を感じるパターンである。これは相手が女性だからという癒しであって、男性であったら、頼もしさに近いものであろう。年上であるだけに、癒しと頼もしさの違いは、余計に鮮明なものではないかと感じるのだった。

 棚橋つかさが感じた先生に対してのイメージは、最後の「癒し」だったような気がする。恋愛感情もあったのかも知れないが、

「恋愛感情ではない」

 という思いを言い聞かせる自分がいるのを感じ、ただ、そのうちに言い聞かせているのが本当の自分ではなく、自分の中にいる別人であるということに次第に気付くようになった。

 自分になら疑いを抱く棚橋つかさも、自分の中にいる他人のいうことにはなぜか従う気持ちになっていた。完全に表にいる他人の言うことは、ほとんど疑って掛かるのに、自分の中にいる他人には従順になれた。

 そういう意味では、自分の中にいる他人は、自分にとって必要不可欠であることを感じていて、それを確信に変えたのが、中学の時の女性の担任だったのだと思うのだった。

「棚橋君は、先生のことをどう思っている?」

 一度だけ、そう聞かれたことがあった。

「好きです」

 とでも言ってほしかったのだろうか?

 先生がそんな自己顕示欲の強い人だとは思えなかった。そんなことを口にするのは衝動的なことだと、すぐに感じた。

「いえ、いいの。今の言葉は忘れて」

 と、すぐに先生が今の一言を否定したことで、棚橋つかさも、

――やっぱり衝動的だったんだ――

 と感じた。

 しかし、先生がすぐに否定したことで、却ってその言葉を忘れられなくなった。もし先生が否定しなければ、自然に忘れていく程度のことだったように思う。先生の否定した気持ちは、何か他のことを隠したい一心でのことではないかと思うようになった。

「木を隠すには森の中」

 という言葉や、

「一つの真実を隠すには、ウソの中に紛れ込ませればいい」

 という言葉を聞いたことがあった。

 先生がすぐに否定したことで、棚橋つかさは、

――何かを隠したい一心がそこにあったのではないか?

 と思うようになった。

 言葉というと、

「棚橋君は、言葉についてどう思う?」

「というと?」

「言葉が人を動かすって言われることがあるけど、本当なのかしらね?」

 と言い出した。

「その人の感じ方なんじゃないですか?」

 と言うと、

「でも、言葉って難しいから、相手の受け取り方でイメージが変わってしまうのよね。そういう意味で同じ時間の違う次元では、別のことをしているとすれば、動いたと感じるのもありなんじゃないかって思うわよ」

「先生って、理想主義者かって思ったけど、案外と現実主義なんですね?」

「現実主義というよりも、理論で考えてしまうのかも知れないわね。堅物なのかしらね」

「そんなことはないですよ。先生は僕の憧れcですから」

 と言うと、

「あら、そう? そんなこと言われると照れちゃうじゃない」

 本気ではないのだろうが、そう言われると嬉しかった。

 先生はどちらかというと、はぐらかすのがうまい方だと思っていた。しかし、この場でははぐらかすというよりも、正直に話しているように思えてきた。先生が正直に話をしてくれていると思ったのは、その気持ちを素直に信じると、生徒として信頼関係が持たれているという先生の立場からの考えに思えてきた。冷静になっているからこそ、感情を隠そうとせず表に出している様子。それはおどけているようにも見えることで、こちらが真剣にならないようにという配慮からの行動なのかも知れない。

 しかし、相手が調子に乗りやすい人だったり、感情に身を任せるタイプの相手であれば、余計な勘違いをしないとも限らない。そう思うと先生の態度には単純に図ることのできない何かがあるように思えてならなかった。

 どう思っているのかって聞かれて、それに答えないでいると、言葉について聞いてくる。先生の得意とする分野なのだと考えると、術中にはまってしまったのかも知れないとも思うが、憧れているというと、好きという言葉をこちらからはぐらかせたような言い方に対して、素直に、

「照れちゃうじゃない」

 と返してくるのは、素直な気持ちなのか、それともはぐらかしなのかが分からない。

 両親は、以前の仲良くしていた頃を思い出したようで、家庭内は平然としている。

 姉の死に対して、お互いに気を遣うあまり、その思いが考えていたほど相手のためになっていないことに気が付いて、その憤りから衝突してしまっていたのだろう。その距離が近ければ近いほど、衝突は激しいのだろうが、落ち着いてくると、元々近いことから、繋がりを取り戻すまでにはそんなに時間が掛からなかったのだろう。

 棚橋つかさは、そんな両親を見ながら、

――人って、あんな風に落ち着いてくるものなんだな――

 と感心した。

 今まではそんなことを考えたこともなかった。子供心に大人になってきた自分を感じたものだ。実際に大人になってきたと感じると、その時まで考えたことのなかった理由として、自分が他人事のように感じていたからだと思うようになった。

 先生に自分の考えを話すと、

「他人事って甘えから来ているんじゃないかって思うのよ。それは自分で考えられないという甘えを相手に押し付けているという感覚ね。だから、私は他人事に思うことはあまりいいとは思わないんだけど、それを下手に咎めることはしないの。咎めるとしてもその理由が他人事だとすれば、どう言えばいいのか分からないでしょう? つまり、その人が甘えているのであれば、甘えないように仕向けてあげるのが必要だと思うのね」

「どうやって?」

「甘えている人って自分が甘えていることを分かっていないのよ。でも完全に分かっていないわけではない。心の中でもしかしてって思っているのかも知れない。そう思うと、少し時間をおいて、甘えの正体を突き止める。それがこちらに対しての甘えなのか、それともまわり全体、つまりは成り行きに対しての甘えなのかによって違ってくると思うのね」

 確かにそうかも知れないと思った。

「どう違うんですか?」

「特定の人に対して甘えが出ている時って、意外と自分が甘えているということに気付いているものかも知れないわね。逆にまわりに漠然と甘えている時は、自分に甘えが出ていることを本当に知らない。甘えを感じている人は、自分への反発心から、甘えを認めようとはしない。まわりに対してもそうだけど、特に自分で自分から認めたくはないと思うのよ」

 先生の言うことは半分分かっているつもりだが、半分は分からない。

 それは、最初の半分が分かっていて、後半が分からないというわけでもなく、半分半分というよりも、理屈の中に、自分では完全に認めることのできない何かがあると感じたことだった。

「百里の道を進むのに九十九里を行って半ばとせよ」

 という言葉があるがまさにその通り、普段ならほとんど理解できているように思えることも、全体から見渡せば、ほぼ半分くらいしか理解できていないと考えるのが普通ではないだろうか。

 棚橋つかさは、自分が甘えていると、ハッキリと言われた気がした。誰からも言われたことのない言葉だったが、考えてみれば、今までに一度も言われたことがなかった方が不思議なくらいであろう。

 それこそ、他人事だった。

――俺に甘えなんかないんだ――

 と、ハッキリと感じたわけではないが、

――甘えなんて言葉は、考えを及ぼすほどのものではない――

 と思っていたのだ。

 人が他人事のような態度を示した時、それが他人事だとすぐに分かるようになっていた。分かるようになったことから、

――自分に甘えなんかない――

 と思いこんでいたのだろうが、普通に考えれば、

「甘えがあるからこそ、他人事なのかどうか分かる」

 という考えも正解ではないだろうか。

「そういえば、棚橋君にはお姉さんがいたんだって?」

 とふいに聞かれた。

 棚橋家に姉がいたことは普通なら知らないはずだ。棚橋つかさが中学に入学する前に姉が死んだのだから、家庭環境に姉の文字は出てこないはずだ。

「どうして、先生は知っているんですか?」

「あら? そうだったの? 先生、一瞬別の生徒と勘違いして言葉にしてしまったので、今謝ろうと思ったんだけど、やっぱりいたのね?」

 本当なら、学校には関係のない家庭の事情は、プライバシーの侵害に当たりかねない問題なので、デリケートな問題のはずである。先生とすれば、

「申し訳ないことをしてしまった」

 とばかりにどうやって生徒に詫びを入れて、事を荒立てないようにしようかということを考えるだろう。

 しかし、先生はそんなことはお首に出すこともなく、

――本当は天然なんじゃないか?

 と思わせる態度をつかさに取る。

 しかし、それ以外の場面では、先生はやはり凛々しい態度を取っていて、憧れに値する人だった。それを思うと、

――先生の本質はどっちにあるんだろう?

 と考えさせる。

 先生が本当に自分のほとんどを曝け出して接してくれているのか、それとも半分も曝け出していないのかが、気になってくる。ここでの半分の違いは、普通に考える半分よりも大きなものではないか。たまに感じる阿修羅面のように、すべてを半分で割り切ることはできないと思っていた棚橋つかさだったが、先生はどっちなのかと疑念が残ってしまった。

 半分という考え方は、夜と昼をまず思い浮かべてしまう。それは半分半分という考えよりも、まず考えることとして、

――循環性のある半分――

 という考え方だ。

――昼が来て、夜が来る。夜が明けてから昼を迎える――

 というような循環性だ。

 しかし、他の思い浮かぶ半分という考えに、循環性はあまりない。唐突に思い浮かんだことというと、それが循環性のある昼と夜ということである。

 だが、他の半分というと今まではあまり考えることはなかったが、阿修羅面を思い浮かべるようになって、

「男と女」

 という発想に繋がった。

 元々、男女は別の人種と言える肉体的にもまったく別の生き物なので、半分というのはおかしいとも思った。しかし、男女というのは、世界の人口でも微妙な差こそあれ、ほぼ半分半分ではないか。男が生まれる確率と女が生まれる確率は半々だと言っても、ここまで半分にうまくできているものだろうか。そこに何かの力が加わっていると思っても無理もないことなのかも知れない。

「じゃあ、男女は元々一緒だったという考えは成り立つんだろうか?」

 阿修羅面のイメージがなければ、そんな発想をするはずもなかった。

 男性も女性もお互いに思春期になれば惹かれあうようにできていて、成人すれば、子供を生める状態になる。何ら疑いを持つことをせずに、二十歳前後で結婚したり、結婚できなくても、してみたいと普通なら感じるのだ。

「元々の姿に戻ろうとするんだろうか?」

 と考えてみたが、ハッキリとは言いきれない。

「お姉ちゃん」

 と、半分半分を思い浮かべていると、死んだはずの姉の姿が思い浮かぶようになった。

 sれほど後ろ姿しか見えていなかった姉がこちらを向こうとしている。まるでコマ送りのような映像だった。

 かすみが掛かったように視界はぼやけている。視界などハッキリしていない状態だったのだ。

 姉の顔を思い浮かべるようになった棚橋つかさは、その時になって自分の中にいるもう一人の別人が、女性であることに気付いた。姉ではない誰か、それが本当の自分だと気付くまでにはそこから少し時間が掛かったのだった……。

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