3. Amelia

 新しい司祭がやって来るまでの間、イルゼは教会の管理をなし崩し的に任されることとなった。とはいえ、日々の勤めに何か大きな変化があるわけでもない。変わったことといえば、アメリアの誘いで日曜日の夜には礼拝堂の祭壇に椅子と食事を持ち寄り、ランプと月明の中で晩餐するようになったくらいであった。

「信徒の話を聞いたかい?」

「いつものお爺様のことですか」

 司祭が不在のため告解室が使えず、聖母像に頭を垂れていた信徒を思い出しながら、イルゼはワインを一口舐めた。


「違う、あのボケ老爺は同じことしか話さないじゃないの。この酒をくれたご婦人方の噂話さ」

 アメリアはワイングラスをくるくる回しながら、深く赤く熟れた酒をうっとり眺めていた。

「司祭は悪魔に取り憑かれ、大聖堂で監視されているらしい、だとさ」

 悪魔憑き云々はあながち間違いではないのではと思いつつ、イルゼはそれを口には出さずに仔牛肉のトマト煮を少しずつ食べた。今日の食事のどれもこれも、司祭が豹変したことで、蔑みの矛先を変えた信徒がイルゼに恵んだものであった。

「みんな噂話に花を咲かせて楽しそうだし、お前はあの豚から非道い仕打ちを受けずに済む。あたしは隠れず、お前とこうしてワインを嗜む。こらしめがいがあったね」

 アメリアはいつもにまして饒舌だ。イルゼは彼女が酔いに鈍くなった舌を回して語る姿が、艶やかながらどこか幼くて、くすりと笑みを溢した。


「お、笑ったね」

「その、貴女があんまり楽しそうなので」

「楽しそうなのはあたしだけ? いけずなこと言わないでよ」

 拗ねた表情で口を尖らせるアメリアが、片手にワイン、もう片手で椅子を引いてイルゼのそばに寄った。

「もっと笑っていいんだ、イルゼ」

 酒のせいか、アメリアの瞳はステンドグラスに彩られた月明を反射して、湖面のごとく潤んでいた。

「お前ばかりが辛いんじゃ、不公平だよ。……笑っておくれよ」

 アメリアの両手がイルゼの頬を包み、ぐっと上に引き上げた。


「ほら、こんな風にさ」

「ふふっ……それじゃあ無理やりだわ」

 イルゼの心がほんの一瞬、母と戯れ合っていた幼少の頃に戻った。身をよじってアメリアの手を制すると、彼女は満足気に笑って、それからイルゼの後ろ頭に手を回した。

「………いけません」

「どうしてさ」

 イルゼが自分の口とアメリアのそれとの間にするりと手を差し入れると、アメリアの白い眉間に緩く皺が寄った。

「血も唾液も魂の一欠片。服従はもう……ごめんです」


「分かった、分かったよ」

 イルゼはほっとして手をどけた。すると今度は、アメリアがイルゼの手首を掴んだ。湿った柔らかい感触が、アルコールの混じった吐息とともにイルゼの口に重なる。ほんの一瞬の触れ合いの後、イルゼはにやりと笑うアメリアに呆気にとられた。無意識に舌で唇をなぞると、苦く辛く、ほんのり甘いワインの味がした。

「これならいい?」

「ええ。でも、もうダメ」

「どうしてさ」

「……もっと、触れたくなるからです」

 イルゼが顔を逸らすと、ぐいっと身体を引き寄せられて、イルゼとアメリアは椅子から落ちて床に倒れ込んだ。


「アメリアっ」

「いいでしょ? せめてしばらく、こうして抱いているくらい」

 イルゼが起き上がろうとするのを腕を絡めて妨げ、アメリアが低くアーチの連なる天井を仰いで呟いた。

「お前が笑ってくれないと、あたしは寂しいよ」

「アメリア。貴女はどうして、私の前に現れたのですか」

 問うと、アメリアは首だけを動かしてイルゼの方を向いた。イルゼもまたアメリアを見つめた。静まり返った堂内は、祭壇に置かれた二つのランプと、窓から入り込む細い月光だけが頼りだ。二人は長いこと黙って見つめ合っていたが、やがてアメリアが根負けして目を閉じ、語り始めた。


「あたしもお前と同じさ、イルゼ。……いや、あたしのは自業自得かな」

 ぼろぼろの修道服の袖から伸びる象牙の腕が、イルゼのブルネットの髪を掬って弄んだ。

「馬鹿な信徒にいたぶられた挙句、大事な大事な秘密を明かされてしまった、罪作りの修道女さ。主の定めた摂理に背く情炎を、私は隠し通すことができなかった。この背に這う蛇たちは、鞭で刻まれた私への罰の証なのさ」

 イルゼの髪を引き寄せて、アメリアはそこに唇を落とした。


「だからお前とあたしは同じなんだ。あたしもまた、あたしを取り囲む侮蔑と嘲笑に耐えられなかった。……あたしの場合は、もっと街の外れのおざなりな桟橋だったけれど」

「…………」

「泣いてくれるんだね、あたしのい乙女。けれど悲しまなくていい。お前はあたしと違って、抜け出すことができたのだから」

 目尻から滲む熱い滴をイルゼは袖で乱暴に拭った。

「でも、私は貴女にも————」

「そう思うなら笑っておくれよ、あたしと一緒に」

 そう言って、アメリアはまた、イルゼの頬を包んで引き上げた。二人の笑い声が、雲の影に明滅する薄明かりの中、密やかに響いた。

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