第36話 初めては怖い。童貞を捨て雄に成る時は尚更だ。

「だから俺が、相手になるよ」


 ギルドがしーんと静まった。


「今、なんて言ったのかな? 坊やが? 俺達の? 相手? 悪いが聞き間違えてしまったみたいだ」


 兎男の毛針が縮んでゆく。


「間違いじゃない。俺がそのオイタトッセさん、だっけ? その人の相手をするよ」

「くく、ふふふ。坊や、冗談は——」

「冗談でもない」


 兎男が目を剥いた。


「ふざけるなッッ!!」


 再び兎男の毛が立った。

 怒声と、そして殺気がビリビリと伝わる。

 ビビるな。


「ふざけても、いない。もしこのギルドに喧嘩をふっかければ、あんた達はこの街で生きていけない。そうなると、

「なに?」

「だから俺で、我慢してくれ。俺はギルドの人間じゃないし、この街に来て日が浅い。でも、このギルドのナンバーツーと、上の料理屋とは、仲が良い。あんたらには十分、この街に居る人達の『同胞』に見えるんじゃないのか?」


 仲が良いわけではない。世話になっているだけだ。


「……確かに」


 また兎男の毛が縮む。


「——身を挺して犠牲になろうとするそのサマ、確かにキミはそう見える」

「犠牲にはならないけどね」


 呼吸が早くなるのがわかる。

 悟られるな。


「む?」

「俺がオイタトッセさんに負けたなら、それは犠牲だろう。後でなぶり殺しにでもしなよ。それで少しは溜飲が下がるだろ? そして俺を殺しても、この街に喧嘩を売った事にはならない」


 大丈夫。ちゃんと喋れてる。


「……坊や、まさか、勝つつもりかい?」

「そうじゃなきゃ俺だって喧嘩は売らない。俺が勝ったなら諦めて、納得しなよ」


 そうだ。

 俺は勝つのだ。

 ウォーケンに成果を、見せつけるのだ。


「くくく、ふふふふ……良いだろう。万能感に取り憑かれた餓鬼を嬲り殺しにする。確かに、この上ない憂さ晴らしになる。坊や、キミの望み通りにしてあげよう————オイタトッセ!」


 牛男オイタトッセが完全に体を俺に向ける。

 デカい。

 距離が、間合いが離れていても伝わる。

 こいつは、強い。

 ビビるな。

 両拳を顎の高さまで上げて、俺は構えた。


「——やれ」

「ヴモォオオオオオオオッッ!!」


 突進して来る。

 デカいのに、速い。

 避けろ。避けろ。


「くっ……!?」


 体が、動かない。

 俺はウォーケンに二度も立ち向かったんだ。ビビるな。


 オイタトッセが腕を振り上げた。

 拳が来る。

 毎日パンチの練習をしていた俺には、こいつが腕を振り上げた意味がわかる。

 それを喰らえばどうなるかも、イメージ、できる。

 なのに、脚が、動かない。


「坊や、口ほどにもない。怯えてるじゃないか」


 くそ。

 口は動いたのに、なんで体は動かないんだ?

 

「——多少の自信はあったんだろう。恐らくそのナンバーツーとやらに鍛えてもらって。だからこその虚勢だ。しかし、闘うのは初めてなんじゃないのかね? まったく、ちゃんと憂さ晴らしになると良いが」


 戦った事? あるとも。

 

 

 拳が迫る。

 俺の手の、何倍もデカい。

 動け。

 ビビるな。

 くそ。

 やっぱり、デケェ。

 前に出していた脚の、力が抜けた。と膝が折れ曲がる。

 頭の上を風が、通り抜けた。

 だが——。


「ガッ!?」


 腹に衝撃を受けた。

 オイタトッセが遠ざかる——いや、

 運良く拳は当たらなかったが、オイタトッセの体のどこかが俺に当たったに違いない。

 たぶん膝だ。

 続いて、背中に痛みを感じる。

 後頭部にも。腕にも。肘にも。尻にも。

 全身だ。

 テーブルか、椅子か、それとも壁か。

 何かが俺にぶつかったようだ。

 頭から流れる何かが、顔やうなじをくすぐった。

 獣人の首を切らされた時、そいつらの血は確かに暖かかった。

 だが、自分から流れる時は逆に、冷たく感じるのか。


「坊や、降参しても駄目だからね? キミが言い出した事だ。最後まで、嬲り殺しにしてあげるよ」

「ヴ、モォオオオオオッッ!!」

 

 また来る。

 避けなければ。

 頭から流れる血の感触が恐怖を分散してくれた。

 ちゃんとした蹴りではなかったが、それでも、凄い威力だった。

 蹴られた腹が、ぶつけた背中が、肩が、腕が、脚が、全身が痛い。

 ——。


「それでも俺は、死んでない!」


 体が、動いた。

 力は入っておらず、また膝ががくん、となる。

 左に避けようとしたのに、無様に転んで床を前転した。

 、避ける事ができた。


 オイタトッセが俺のすぐ横を走り抜けた。

 すぐに俺は起きて振り向く。

 オイタトッセも壊れた椅子の破片を蹴散らし、壁にぶつかるギリギリで止まって俺に、振り向いた。

 

「死ぬんだよキミは。オイタトッセ、何してる? 続けろ」

「ヴモォオオオオオオオッッ!!」

 

 また突っ込んでくる。

 俺は今度こそ、横に動いて躱した。

 なんだ。ちゃんとわかるじゃないか。

 ウォーケンのそれと違い、動く、止まる、振り向く、その動作がちゃんと読める。

 攻撃を受けたとしても、俺は、一撃では死なない。

 だって、まだ、生きている。


 一度攻撃を受けた事。

 運良く避けられた事。

 最初から動き自体は読めていた事。

 それが俺に根拠のない自信をもたらしていた。

 まともに攻撃を喰らったなら、たぶん死ぬ。

 でも大丈夫。たぶん、死なない。

 理性と感情が俺に、相反する答えを想像させる。

 が、自信が俺に、ポジティブな答えを優先させた。

 

 また突っ込んできた。

 拳を振り上げている。

 頭を下げて躱した。

 脚が迫る。

 動いて躱した。

 

 無様に転んでわかった事がある。

 脚の力が抜けると、転ぶ。

 しかし、

 

 前脚の力を抜けば、前に倒れる。

 浮いた後脚の力を抜けば、後脚の膝が曲がり、後脚が上がり、勢いで前に出る。

 力は入れず、動かすだけで良い。

 その程度の力だけで、前に進める。

 実際には地面を蹴っているが、それでも、蹴らない。

 それでも、蹴っている。

 それで、良いのだ。

 横へ進むのも同じだ。

 意図した方向へ、意図した順番に、倒れる。

 倒れなくても良い。

 力を抜けば、倒れる。


 オイタトッセが近づく。


 頭に沸くイメージと実際の動きは違うかもしれない——だが、そういう実感が俺に、動きをもたらす。

 イメージ通りの動きを、変化を与えてくれる。


 オイタトッセを避けた。

 そして、蹴った。

 ふくらはぎと、踵の間。その右足首を、後ろから蹴った。


「——グ……ッ!?」


 前脚の力を抜けば一瞬、前脚が上がる。

 それを追う様に後脚を動かせば後脚が前に出る。

 教わった通りに腹に力を入れれば、蹴りになる。

 左の脛に、痛みを感じる。

 しかし俺が痛いという事は、相手も痛いという事だ。


「オイタトッセ! 何をしている!?」


 兎男が怒鳴る。

 ウォーケンは言っていた。

 相手の弱い部分を狙えと。

 蹴るなら膝裏か、ふくらはぎだ。

 太ももはやめろと。

 しかし、オイタトッセの膝裏もふくらはぎの肉も、俺より強そうだ。

 だから、狙ったのは足首。それも一番効きそうな部位、アキレス腱。


 オイタトッセが振り向く。

 速い。ダメージは薄い様だ。

 でも、早くない。

 ウォーケンみたいに、はやくない。


 オイタトッセがまた拳を振り上げる。

 俺は前に出た。

 オイタトッセの顔が近づく。

 拳を降ろされるよりも先に、俺の拳が当たる。相手の鼻先に。

 拳が痛い。

 肩が背中にめり込みそうだ。

 しかし、相手も痛そうだ。

 オイタトッセの鼻から血が出ている。

 ぶふっ、ぶふっ、と一定の間隔で。それは肩の上下とリンクしていた。

 


「オイタトッセッッ!!」


 オイタトッセが構える——む?

 オイタトッセは前屈みだ。

 俺の背が低いからか?

 そうだ。きっと闘いにくいのだろう。

 相手が前屈みになってくれてるからこそ、鼻に拳を当てる事ができた。

 しかし、それだけではない。

 きっと、おっくう、なのだ。

 オイタトッセの前脚は左脚。それを前に進める時、少しだけぎこちない。それは右足首への攻撃が有効だったという証明である。

 先ほどの俺の蹴りは、効いているのだ。

 

「ヴモォオオオオオオオッッ!!」


 オイタトッセが両腕を広げた。

 俺は後ろに倒れる。

 鼻先をオイタトッセの左手がかすった。

 オイタトッセは空間を抱きしめる。

 かすった俺の鼻からも、血が出ている様だ。口の中に流れた味でわかる。鼻詰まりみたいな感覚で理解する。

 鼻で息がしづらい。

 相手も同じだ。

 だから鼻から血を吹き出しているのか。

 再び前に倒れた。

 空間に置いてきぼりになった拳が、体を追う様に前へ出る。

 右のスウィングパンチ。

 再び鼻に当てる。

 高さが足りず、口に当たった。

 べき、っと何かを折った感触がある。

 きっと下の前歯だ。

 奴の下唇が切れている。

 俺の拳にも痛みがある。

 奴が体をひねった。

 俺から見て左に。

 またパンチがくる。

 拳を、


「ヴ、ヴ、ヴ、ムンッ!」


 床を滑る様に、真正面から拳が昇ってくる。俺のスウィングパンチと同じ様に、奴の体を追っている——アッパー!


 俺はすんでのところで後ろに倒れた。

 しかし、相手の拳が俺の腹を、胸を、顎を

 大丈夫、まともに食らっていない。

 吹っ飛んでいない。

 後ろに転んだけど、直ぐに立ち上がれ。

 なんだ?

 力が入らない?

 腕に、足に、脚に、力が。

 力が入らないと、力を抜けない。

 くそ。

 立てよ、俺。


「坊や、キミの負けだ。少し驚いたけど子供は大人に、勝てない」


 兎男の言葉は理解できる。意識はある。

 でも、体に力が入らない。

 もうビビってないのに、動けない。



 

 

 

 

 


 

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