第8話 人語を喋る猿

「あたしの知ってる三蔵法師はねぇゲボっ。水気たっぷりの体で、血は蜜の味オエェ……。ほどよく締まった肉は甘い脂肪と香草の香りが漂うぅえぇ、それはそれは、美味しそうな人間なのよおゲェ。なのにあんときたら、ガチガチのカスカスじゃないの! ウエッ」


 自分の血肉を喰らった女が、自分の腹の上で、自分の血肉の不味さに文句をつけながら吐血を繰り返している。吐かれているのは勿論、自分の血肉だ。

玄奘はそのような人物に対し、かけるべき言葉が見つからず困っていた。


「大丈夫ですか?」


 苦しそうなのでとりあえず、具合を聞いてみた。


「大丈夫なワケないでしょゲロマズよ! こんな毒みたいな血、蚊も吸わないわよ!」


 涙目でまくし立てられた。

 それにしても酷い言いようだ。

 誘拐されたのは自分である。喰われかけたのも自分である。なのに、何故か自分が責められている。

 釈然としなかった。


 だが目の前の娘が、自分の血肉のせいで苦しんでいるのも明らかである。ゆえに玄奘はひとまず、「すみません」と謝った。しかし――と続ける。


「あなたは人違いをしていると思います。私は三蔵法師ではありませんので」


「何言ってんの。あんたどっからどう見ても三蔵じゃないのよ」


 間髪いれず、自信満々に返されてしまった。

 玄奘は暫く沙羅と無言で見合った後、もう一度指摘を試みようと口を開く。


「いえその。三蔵というのは経・律・論の三つの蔵に精通した僧に与えられる僧官で、私はまだ――」


「御託はいいのよ宗教なんて大嫌い!」


 沙羅の言う“三蔵”の定義を論ずる事で人間違いの証拠を提示するつもりが、説明半ばで拒絶されてしまった。

 駄目だ聞く耳を持っていない。ついでに会話もかみ合っていない。そもそも根本的な所ですれ違っている気がする。

 玄奘は押し黙った。

 

 一方沙羅は、興奮気味ヒステリックにまくし立てる。

「とにかくあんたはね、体内環境が最悪なのよ。栄養失調と、心身疲労でボロボロじゃないの。それじゃそのうち死ぬわよ! 過労死よ!」


 話が通じないのは分った。

 玄奘は沈黙の中で考える。

 どうやらこの娘は、血肉の味で人間の体調が分るらしい。そして何故か自分を三蔵と信じて疑っていない。おそらくそれは、この娘が、常人とは異なった世界で生きているが故なのだろう。人知を越えた肉体を持ち、当たり前に人を喰らい、信仰を遠ざける世界で。

 ならばきちんと会話をする為には、こちらから歩み寄るしかない、と玄奘は結論付けた。

 玄奘はまず、沙羅の世界について理解を深める事にした。それが、沙羅とのまともな会話に繋がる近道だと考えたからである。


「あなたは日常的に人を食すんですね」


「そうよ。人肉はご馳走。それも、あんたみたいな高僧は珍味なの」


「何故、宗教がお嫌いなんですか」


「身体が受け付けないからに決まってるでしょ」


「僧侶の肉は好むのに?」


「だからそれは――」


 流れるような質疑応答の中で、最後の問いかけに対し何かを答えかけた沙羅だったが、途中で「あ」の口のまま固まってしまう。口を開けたまま眉を寄せ、首を傾げた。


「……そうね。言われてみたら妙だわ。何でかしら」


 口元に手を当てると、眉間に皺を寄せて考えはじめる。

 どうやら根は素直な娘らしい。ころころと表情が変わる様も見ていて面白いと感じた玄奘は、ほんの少し緊張を解いた。噛まれた腕がズキズキと痛むのは少々辛かったが。

 僅かに頬を緩めた玄奘の変化を察したのか、沙羅は威圧するように眦を吊り上げると、玄奘の両肩を鷲掴んだ。前歯をむき出し、鋭い犬歯をのぞかせる。


「とにかくあたしはお館様のお言いつけで、あんたを食べない事には元の世界に帰れないの! そんなわけだから我慢してイタダキマスあいやあっ!」


 今度は喉笛に噛みつこうとしてきた。心臓に近い場所であれば比較的血が清いと判断したのであろう。しかし言葉の最後で可愛らしい悲鳴を上げると、玄奘の胸元に頭突きをかました。

 そのまま腿のあたりまでずるりと滑り落ち、動かなくなる。


 一体何が起こったのか。


 玄奘が原因を探る前に、コロコロコロ、と硬質な音が正解を知らせた。どこかで見たような赤い鉄の棒が、沙羅の傍に転がっている。

 どうやらこの赤い鉄棒が沙羅の頭を直撃したらしいと判断した玄奘は、生死を確かめようと、沙羅を仰向けに寝かせた。心音を確認するまでもなく、緩やかな上下運動を繰り返している胸が目に留まる。気絶しているだけだ。


「よかった」


 安堵の息をついたその時、大岩の下からニョキリと手が伸び、岩の端をむんずと掴んだ。子供のもののような小さなその手は、純白の毛に覆われている。


「くぅぉんのクソ女がぁ~っ……! おっしょさんに何しやがる!」


 岩を掴む手から、怒髪天をついた声が聞こえてきた。その声に幼さはなく、どちらかといえば青年期を迎えた男に近い。

 せり上がって来た顔は、猿。黄金色の額飾りの下に並ぶ二つの赤い目が、これでもかというほど吊りあがっている。

 玄奘は思い出した。そうだこの赤い鉄棒は、空から降ってきた猿が持っていたものだ、と。確か、熊の獣人が、『そんごくう』と呼んでいた気がするが。

 猿がその全身を岩の上に持ち上げた時、玄奘は己の目を疑った。


「玄奘様!」


「ご無事ですか玄奘様!」


 慧琳と道整が、猿の背に乗っていたのである。猿の身長は十歳の子供程度。それが、背中に十五歳の慧琳と、十六歳の道整を負ぶっていた。つまりこの猿は、少年二人を背負いながら、山頂まで登って来たのだ。この、短い時間で。おまけに慧琳と道整の二人は、玄奘の錫杖を持ち、行李まで背負っていた。


「ご……ごくう?」


「はいよぉ、もう一人のおっしょさん」


 気絶している沙羅を睨みつける猿が、フウフウと憤怒の息を吐きながら返事をした。

 やはり『ごくう』というらしい。

 奇怪な事ばかりが立て続けに起きている。猿が人語を話した、という珍事など、もはやどうでもいいくらいに、玄奘は混乱していた。

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