七章「暗闇に沈む道化師」

 

 桂が【悪の此岸】の地下牢に囚われていたころ、同じように秋島純も牢獄の中にいた。

 しかし、『同じように』と一括りにするには彼女の場合、桂とはかなり違った点もある。

それは待遇の差である。

 その牢獄の中は、鉄柵に囲われた冷たい檻などではなく、高級なホテルの一室とでも呼ぶべき空間だった。必要以上に大きく豪奢なベッドがあり、個室で仕切られたトイレがあり、それとは別で風呂も用意されている。しかもその上、冷蔵庫やエアコンなんていう設備まで整えてあるというのは何かの冗談のようだ。

「…………」

 ただ、さすがにテレビや電話といった外の世界のことを知るための端末は設置されていない。暖色の光に照らされるその充実した生活空間にも、やはり、自分が囚われているのだと認識せざるを得ない部分は散見される。入口は見るからに重々しく無骨な鉄柵で――明らかに一筋縄では破壊出来ない素材で出来ているようだし、耳を澄ますと時折聞こえるジィという機械音は、部屋のそこかしこに監視カメラが仕込まれていることを表している。もちろんトイレや風呂なども含めて、だ。

「……誰か来たみたいだな」

 仰々しい鉄柵の向こうから聞こえてきた足音に、それまでベッドに寝そべっていた純は身体を起こした。彼女の行動を直接監視するために、部屋の外には常に看守が一人ついていたはずだが、どうやらそれとは別の人間のようだ。

 純は柵の方へ歩いて行って、すぐ横に立つ看守の男に声を掛けた。

「やあ、調子はどうだい。外はいい天気だね」

「この部屋に外が見える窓なんか設置されてない」

「あれ、ホントだ。気付かなかったよ」

 想像以上につまらない答えに純は少しだけうんざりしたような気持ちになる。

「で、そんな背筋なんか伸ばしちゃって、誰か来たのかい」

「黙っていろ」

 看守は純の問いを冷たく跳ね除ける。

 しばらくして現れたのは汚れ一つない白衣に身を包んだ一人の壮年の男だった。

「外せ」

 そう言うと、看守は頷いてどこかへ行ってしまう。

「……やっとお出ましか――父上殿」

 彼は【篝火】という二つ名で呼ばれる男。

本名を――秋島龍という。

 他でもない純の実の父親だ。

「おかえり、私の愛しい娘よ」

「愛しい? 気味の悪いことを言うな」

 純は彼を睨み付ける。

「僕はあなたのことを自分の父親だなんて思ってはいない」

「何を言う。それに、私がお前を愛しているのは本当だ。だから、一度は私の元からいなくなったお前をこうして取り戻したのだ」

「なるほどね。こうして僕を閉じ込めているのも、愛してるからってわけか。ちゃんちゃらおかしな理屈だね」

「……お前が反省したなら、すぐにでもここから出すさ。昔のお前はそんなことを言う子じゃなかった。お前に『純』という名前を付けたのはね、お前に何にも染まらない、心の綺麗な子に育ってほしかったからだ。だというのに、何だいその口調は。それに、その格好……。そんなものじゃなく、ちゃんと女の子らしい服を着なさい、ほら」

【篝火】はそう言って、手に持った衣服であるらしい布地を部屋の中に投げ入れた。

「……クソくらえだね」

 純はそれには目もくれずそう吐き捨てる。

「……【篝火】、あなたは相も変わらず【異能遣い】を利用して妙な実験を繰り広げているのかい」

「いかにも。それはひとえに大義のため」

「……何が大義だ。馬鹿馬鹿しい」

「何?」

「『【異能】の秘密を解明し、その強大な力によって、新たな世界の秩序を創造する』――だっけ? 父上殿、お言葉だけど、イマドキそういうベタな大魔王発言は流行んないぜ。それより、はっきり言いきってしまいなよ、これはただの個人的な目的のためだってさ」

「…………」

 龍は押し黙る。

「分かってるさ、【篝火】。あなたはやはり僕のことも愛してなどいない。あなたが僕をここへ呼び戻したのは、僕の【異能】を研究するためだ。昔と同じようにね。あなたは、あなたの私利私欲のために【異能遣い】を利用しようとしているだけだ。そして、僕はあなたの娘として――そして、かの戦争の引き金となった存在として――あなたを止める責任がある」

 その時、単調な電子音が辺りに響いた。

【篝火】が白衣のポケットから携帯を取出し、電話に応答する。

「――私だ。……何だと? 分かった。すぐ戻る」

「何か問題でも起こったのかい?」

「……いや、何でもない」

 彼の顔には笑みが浮かんでいた。それは不安感を煽るような表情だった。

「お前はやはりキキョウによく似ているよ――心の芯のところに折れないものを持っている」

【篝火】は電話を通話状態にしたままそう言って踵を返す。

「ではな」

 彼はそそくさとどこかへ歩いて行ってしまった。

「全く……子離れできない親には苦労する」

 純はやれやれと呟いて、父親の置いて行った服を手に取る。

 それは白色を基調としたカジュアルドレスだった。

「……うへえ」

 純は舌を出して嫌悪感を剥き出しにした顔をする。

 カジュアルとはいっても、シンプルで小綺麗なそのデザインには、妙な格調高さのようなものがあった。秋島純は高級なものに対する反感意識を持っている。それは、あるいは自分が父親の傀儡でしかなかった頃に、こういったものに囲まれ続けて生きていたことの反動なのかも知れない。贅沢な悩みだと我ながらに思う純だったが、だとしても、この清白なる布切れを着用するというのにはいささかの覚悟が必要とされた。

「――しかも、ちゃんとサイズまで把握してやがる。なかなか愉快な展開になってきやがったね」

 外にはいつの間にか、看守も戻ってきていた。


      Φ


【篝火】は早歩きで、長い廊下を進む。彼はまだ電話を掛けている最中だった

「ああ、【ヤナギ】と【死神】を出せ」

 先ほど純と話していた彼の元に入った連絡は、集団【悪の此岸】がこの拠点を襲撃しているという旨のものだった。

「一人たりとも生きて返すなよ」

 通話を切ると、彼は不敵に笑う。

「純、唯一の居場所を失えば――お前もここへ帰ってこざるを得まい」


      Φ


【悪の此岸】のアジトの地下深くにある牢獄。

 そこには今、二人の人間がいる。

「なるほどね――つまりは連中に見破られたわけか、君の嘘を」

 向かい側の牢獄に収監された男――黒瀬響の言葉に桂は目を丸くした。

「どうして、分かるんです?」

「なあに、君の顔を見て、想像し、そんな話だったら面白いなあと思っただけさ」

 どこまで本気でそんなことを言っているのか、桂には分からない。黒瀬はジッポの灯りだけが頼りの暗闇の中で紫煙をくゆらせている。そのタバコは世話役の人間が与えたものなのだろうか。それとも彼自身が何らかの手段で調達してきたものなのだろうか。

「良かったのかい。【に彼女の居場所を教えてしまって」

「まあ、彼らが行ったって最終的な結果に何も変わりはない。犠牲者がちょっと増えるってだけですからね」

「ふうん」

「……何です」

「君も行きたいか」

「どうでしょう」

 桂は仰向けに転がる。

「正直分かりません」

 一拍置いて、心の中で思っていたことを吐露する。

「俺にとって――秋島純は一体何なんだろう」

「おい、少年」

「もう少年なんて歳じゃないです」

「そうか、じゃあ、青年」

「あなたはもうおじさんですね」

「……はは、そうだな。俺もそれを否定できない年齢になってしまったよ。たかだか五年ぽっちでね」

 時の流れは残酷だなあ、と彼は呟く。

 そこで、桂はふと『似ている』と思った。目の前の男の飄々とした態度や、芝居じみた仕草、それからシニカルな口調――それらがどこか秋島純に似ているのである。

「俺がここに捕まってるのは何故だと思う」

「……どうしてです」

「おいおい、すぐに答えを聞き出そうとするなよ、まだ若いクセに気概が足りないな――当ててみせてみろよ」

 面倒くさいなと桂は内心でぼやく。

「あなたが【治安隊】に手配されたから」

「違う」

「あなたを捕まえろと誰かが依頼したから」

「違う。そんなくだらない答えは用意していないよ」

「秋島に楯突いたから」

「違う。確かに楯突きはしたが」

「秋島に危害を加えたから」

「違う。確かに加えたことはあるが」

「秋島に恨まれるようなことをしたから」

「違う。確かに恨まれることはしたが」

「あなたが――」

 桂は言った。

「とても危険な人だから」

 桂はぼんやりとした光に照らされる彼の口元が――薄い笑みをたたえているように感じた。

「まあそれも一つの事実だろう」

「…………」

「けど、正解というには惜しい。それは俺が用意した答えではない。それだけでは、俺が捕まる理由――捕まってやる理由にはならないからね。……仕方がない。君の平凡な脳味噌では答えに辿り着けないみたいだから、俺直々に模範解答を提示してあげよう」

 そして、彼は言った。

「俺は愛してるのさ。秋島純を」

「…………」

 本当に危険な人ではないか。

「つまりはそれが、俺がここにいる理由だよ」

「……変態」

「おや、奇しくもその指摘は正解だ。その通り俺は変態なのさ。世間に出ればロリコンとか言って罵られてしまうかも知れないね」

「……全く意味が分からない。このタイミングでそんな話をする理由も理解できません」

「まあそう慌てるなって、雨月桂くん。俺はね、君が回りまわってこんなところで不貞腐れるまでに至った経緯の根底に、俺と近い理由であったような気がしてならないんだよ」

「……俺が秋島に恋してるって言うんですか」

「恋だとは明言はしないし断言もしない。俺は『近い』と言っただけだ。でも、そうだな……それでもあえてそれを言葉として形にするなら、こうだろう――」

 よっくらせ、と彼は檻の中で立ち上がった。

「――君にとって秋島純は運命の人なのさ」

「…………」

「だから、君は彼女を排除しなかったんだろう?」

 そう言いながら、黒瀬はジッポを手に牢獄から出てくる。片手しかない彼は体当たりするようにして鉄の柵を開けた。

「……鍵、かかってなかったんですか」

「さて」

 そして、黒瀬は。

「よいしょ」

 そんな気の抜けた掛け声とともに桂の檻の扉を開けた。

「……へ?」

 光源を持ったままの手で、扉は何の抵抗もなくすんなりと開いていく。

「こ、これは……」

、だ」

 不敵な笑みを浮かべて、黒瀬は人差し指を立てた。

「君がここに来るのを見越していた秋島純は、この檻に細工をしていた。案の定、君はここに運ばれてきて、誰かが鍵をかける。しかし、細工をされたことによって、その鍵はかからなかった」

「でも……、それはあなたの方の檻が開いている理由にはならないでしょう」

「俺のは元々鍵なんてかけてないのさ」

「……何ですかそれ。恋がどうこうって奴で閉じ込められてるんじゃなかったんですか」

「そうさ」

 そう言いながら、起き上がった桂の縄をジッポで焼き切る。

「俺の檻の扉は秋島純が彼女自身の意志で開けなければ意味がない。だから、俺が自分で出たところで、俺はこの檻から解放されたことにはならない」

 桂の両手が解放される。

「彼らを行かせた時点で、君の選択肢はもう決まっていたはずだ――雨月桂くん。ただ犠牲者が増えるだけって分かっていて、それでも君は彼らの強い意志を尊重してその背中を押したんだ。ならば、そんな君がどうして今更迷う必要がある」

「……他人の背中は押せても、自分のは押せなかったんですよ」

 桂はどこかなげやりに言う。

「俺はもう――【悪の此岸】の一員じゃない」

 秋島純は。

 そういうやり方で、雨月桂という青年を押し込めたのだ。

「だから、俺は行けません」

 その声音には心からの諦観が混ざっている。

 これでは桂もこれ以上、手の出しようがない。

「……へえ。そんなの気にしなくてもいいと俺は思うけどな。『あいつの心が泣いてたんだ!』とか言っちゃって、思春期ならではの脇目もふらない愚直さで一気呵成に突き進んじまえばいいのに。意外とセンチな性格なんだねえ、君は」

「……余計なお世話です」

「そうかい。じゃあ、余計なお世話ついでに――せっかくだから俺からの質問に答えてもらっちゃおうかな」

 黒瀬は桂の前でしゃがみこんで胡坐をかき、座っている彼と目線の高さを合わせるようにした。それは五年前のあの日と同じ行動だった。

「――なあ、雨月桂君。君にはきっといろいろな葛藤があったよね。例えば、生まれながらにしてその身に宿した〝鬼〟という肩書に対する葛藤。例えば、自分が他人とは根本的に違う存在だと知って突き付けられた現実に対する葛藤。例えば、最終的に何にもなりきれなかったが故に孤高の存在となってしまった自分自身の居場所に対する葛藤――」

 その――自分自身の語りに酔うような饒舌さに、桂の心の中で誰かの姿を重ね合わせた。

「――でもね、雨月桂君。俺は葛藤が起こるのはその人に意志がある証拠だと思うんだよ。意志ってのは、人間の証明にはなり得ないけど、その〝生〟の正当性くらいは保証してくれるものだ。君のその葛藤に答えを出すなんて真似は俺には出来ない。出来るけど、やりたくない。でも、君は〝鬼〟でありながら、意志なんてものを持ち合わせている存在だ。だから、あえて質問という形で、君に答えを求める」

 そうだ。彼女は――そうだった。あの変わり者の少女は――秋島純は――長ったるくて難しい講釈を垂れた上で、最後の最後で――最初からそう言えと文句を言いたくなるような、あまりに簡潔な言葉でもって話を締めくくるのだ。


「――なあ、雨月桂くん、君にとって〝鬼のなりそこない〟とやらになるってことは――自分に嘘をつくってことなのかい?」


 桂は自分の中で何かが揺れ動くのを感じる。

「……そんな言葉は何の決定打にもならないですよ」

「そうか」

 そう言って、意地悪そうに笑う黒瀬の顔が、桂にとってはこれ以上ないくらいに腹立たしかった。

「でも、そうして立ち上がってくれたってことは、決定打とは言わないまでも、送りバントくらいにはなったと考えていいのかな」

「上手いこと言ってやったみたいな顔をしないでください。俺は答えたくありません」

「そ。じゃあ、言葉じゃなく行動で示してくれ」

 黒瀬は立ち上がって、汚れを落とすように尻のあたりをはたいた。

「俺に何が出来るわけでもないだろうが、健闘くらいは祈っといてやるよ」

 彼は自分の牢獄の方へ戻って言ってしまう。

「黒瀬さん」

「ん、どうした? 最後に文句でも言いたいのかい」

「その……」

「何だよ、煮え切らないな。はっきり言ってくれ」

「ありがとうございます」

「……ぶふっ」

 彼は盛大に噴き出した。

「……何で笑うんですか」

「……いや、秋島純かのじょが言っていた通りだと思ってね。君、なかなか面白いな」

「……」

 桂は無言で不満そうな顔をした。

「じゃあな、青年。ご縁があればまたいずれ会おう」


      Φ


 エレベーターを使って、桂は地上に戻った。上るときも林檎のやっていた特殊な操作が必要なのかと思ったが、そんなことはなく、彼はすんなりとエレベーターに乗り込めた。あれは単に他の住人が偶然使ってしまうことのないようにするためのものなのだろう。

 エレベーターが地上に出ると、日の光に目が眩んだ。エレベーターにも電灯はついているのだが、それはとても強い日差しだった。

 一階に着き桂はエレベーターの外へ一歩踏み出す。

「――あら、遅かったわね」

「――っ!」

 その声に、とっさに身構えた。

 エレベーターのすぐ隣に、壁に背を預けて立っていたのは――瀬名鬼灯だった。

「安心して。別にあなたの脱走を止めにここに来たわけじゃないわ」

「なら、何の用です」

「はい、これ」

 そういって手渡されたのは【枝霧】と桂の携帯電話だった。

「必要でしょ?」

「……純と言い、あの男と言い――それからあなたと言い、どうしてこう、俺の思惑は周りに筒抜けになっちゃうんですかね。誰にも話した覚えはないんですけれど」

「あなた、分かりやすいのよ」

 瀬名は口元に手をやってクスクスと笑う。

「……ここへ来てから、からかわれてばかりだ」

 そう毒づきながら、桂は渡された携帯を使ってどこかへ電話を掛けようとする。

「ありがとうございます」

「いいのよ」

 端末に番号を打ち込む。彼が再び顔を上げると、もうそこに瀬名はいなくなっていた。

「……もしもし」

 携帯を耳にあてると、そこからは十何年聞き馴染んだ声が聞こえてくる。

「お疲れ、ハルガ。唐突なんだけどさ、こないだお前の仕事の進捗について聞いたとき、確か、準備はもう整ってるって言ってたよな。あれ、どうして終わらせられないんだ。何か障害でもあるのか」

 電話口から桂の想像した通りの答えが返ってくる。

「そうか。それじゃあ、最後の一手も打ちようがないよな」

 そして、彼は一呼吸置いてから、はっきりとした口調で言った。

「――【地獄】にある『ファイアフライ』ってビルだ」

 それは、今、林檎たちが戦っているだろう場所。

「そこで、全部が終わる。俺は先に行ってるよ」

 桂は携帯をポケットに仕舞い、代わりに【枝霧】の鞘を強く握りしめた。

「……秋島、お前は俺のことを分かってるって言ったけど、俺だって、お前のことくらい分かってるんだぜ」

 だからこそ、だった――桂がどうしても一歩を踏み出せなかったのは。その所為で、これから自分のやろうとしていることは正しいことなのかと、迷ってしまっていたのだ。

 桂はそこで考え込むように額を押さえる。

「いや、あいつは信じてるって言ったのか、そうか」

 しかし、彼はやっと踏ん切りがついた。

「まあ、俺は、俺の意志って奴でやりたいようにやるだけさ」

 そして、雨月桂は。


 秋島純の〝思い〟を踏みにじることに決めた。


      Φ


「ちょっと、君」

 看守は呼びかけられて、檻の方を向く。

 そこには白いドレス姿の秋島純がいた。

「何だ、余計なことをしゃべるな」

「つっけんどんな奴だな。一つ頼みがあるんだ」

「頼みだと?」

「背中のファスナー、手が届かないんだ。閉めてくれないか」

「何故俺がそんなことをしなきゃいけない」

「そう言わずにさ」

 純は柵に擦り寄ってきて、そのまま振り返る。

 そして、看守は釘付けになった。そこには大きく露わになった彼女の背中があった。

「――ほら、お願い」

 着ているドレスに負けないような神秘的な白色の肌。その表面はかすかに輝いて見えるほどになめらかで艶っぽく、つい指先でなぞりたくなってしまうほどに――本能的な欲求に訴えかけてくるものがある。少し瘦せ気味のその身体にはところどころ骨が浮き出ているが、その凹凸が作りだす陰影がかえってその全体に繊細な美しさも与えており、少しだけ覗いている清潔そうな下着も、湧き出る支配欲に対する彼女自身の気の許しを晒け出している。

 彼女が常に浮かべている笑みは――今はどこか妖艶だった。それはまるで、どこか遠い世界へ人を連れて行ってしまうような、悪魔的な微笑みだった。

 ゴクリ、と看守は生唾を飲んだ。

「……もう少しこっちに近づいて来い」

「ふふ、ありがとう」

 そして、彼は檻の中に手を差し入れて、目の前にある彼女の背中に手を伸ばす。

「――なんちゃって」

「!」

 その瞬間、看守の手が強く掴まれた。彼は秋島純の悪魔的な笑みが――さらなる邪悪な笑みに変わるのを見た。

 しまったと思った時には、もう既に遅かった。

 思い切り腕を引かれた看守は、鉄の格子に頭を強くぶつけ、その場で意識を失った。


      Φ


「……ふう」

 純は目の前に倒れ伏した哀れな男を見下ろして髪をかきあげた。

「こんなベッタベタな手に引っかかるとは。うん、それでこそ男だ。その正直さは、桂くんにも見習わせたいところだね」

 言いながら、その場にしゃがんで、男の懐に手を伸ばす。

「あったあった」

 純の手には牢獄の鍵が握られていた。彼女は立ち上がり、自分の身体を見下ろす。

「これも、邪魔だな」

 そう言うと、彼女はおもむろにドレスのスカート部分に手を伸ばし、それを思い切り引き裂いた。

「ふふふ、こういうドレスをいつか思い切り引き裂いてみたいと思っていたんだ」

 そして、純は鍵を開けて、悠然と檻の外へ出る。

 外から檻を眺めると、鉄格子の向こうの豪勢な部屋というのはやはり奇妙な光景だった。自分がここにいた頃はこんな場所はなかったはずなので、改装して新しく作られたということなのだろう。それも、多分このようにして彼女が帰ってきたその時のために。

「……とにかく、ここまでは計画通りだ」

 彼女はそう言いながら、これまでのことを思い出して少し浮かない顔をする。

「桂くんには……少々悪いことをしたね」

 それでもすぐに気を取り直して、彼女は歩き出す。

「しかし、何だ……妙に静かだ」


「――ああ、みんな今下の方に出ずっぱりになってるからね」


「――!」

 純は声のした方を振り向く。

「【死神】っ……!」

 そこにはいつの間にか現れたミコトが苦々しい顔をして立っていた。

「何を馬鹿な真似をしてるんだ、あなたは」

 ミコトは純の脱走のことを咎めているらしい。

 すると、彼は普段は笑顔を絶やさない彼としては珍しく、本当に怒っているように眉をひそめた。

「……君も、そんなふうに感情を露わにすることがあるんだね」

「……そうさ、僕だって人間だからね」

「そうかい」

 純は内心で身構えながら、余裕そうな態度を取る。

「君に言われた通り直接話を付けようと思ってね」

「なるほど。つまり、わざと捕まったってことかい」

「そういうことさ」

「そうか。それじゃあ……そういうことなら、彼も――」

 彼は、口元を押さえる。どうやら、笑っているらしかった。

「彼も――ここに来るということか」

「それはありえない」

 純はきっぱりと言い切る。

「君に連れていかれる前にしていた話はそういう話さ。彼は絶対にここへは来ない」

 もしもあの後、一つの可能性として桂が【悪の此岸】のメンバーの手によってアジトに連れ戻されていたのだとしたら、今は地下牢の中に囚われているか、あるいは純の思惑によってそこから抜け出している頃合いだろう。あれらの工作は、純が桂に彼の目的を果たさせるために講じたことである。もしも、彼が順調に事を進めているのだとすれば、まずここへ来ることはない。その必要がないからだ。

「ははは、あなたは、彼を全然分かってない」

 しかし、それでもミコトは愉快そうに言う。

「あなたんとこの連中が来てる」

「……何だと?」

 純は目を見開いた。

「助けに行くかい?」

「…………」

 一度見せた動揺は、もはや隠すことは出来なかった。

「……いや、いかない」

 その言葉は、胸の奥から絞り出すようなそれだ。

 苦渋の選択を彼女はする。

「そんなに、うちのボスが憎いのかい? 秋島純」

「憎いとか、そういうことじゃない」

 彼女は言う。

「――これは僕が背負った業だ。自分の目的のために【異能遣い】たちを思いのままにしようとするあの男を、僕は看過することは出来ない」

「ふうん――しかし、君の方だって僕たち【篝火】を打倒するために【異能遣い】たちを自分のチームに勧誘したと聞いているよ。君もまた【異能遣い】たちを自分の目的のために利用しようとした張本人なんじゃないかな」

「……確かにその通りだよ。返す言葉もない」

「親が親なら、子も子ってことだね。僕もこの集団に長いこといたから分かるよ。『仲間』や『絆』なんて言葉はおめでたい人たちが贅沢で口にしてるだけの――ただのきれいごとだよ」

「そうだな」

「……否定しないのかい」

「ああ、否定しない。だってそもそも僕たち【悪の此岸】は仲間なんかじゃないもの――僕らは仲が良くって集まった――志を同じくする味方同士じゃない。そんな綺麗なものであるはずがない」

「……じゃあ、何だっていうんだい」

友だ」

 純は言う。

「僕が自分のことだけしか見ない人間だと知って、自分のしたいことしかしない人間だと知って――それでも尚一緒に来てくれると言ってくれた、馬鹿どもだ」

「…………」

「でも、僕は結局、自分からは彼らを利用することは出来なかったけどね。本当に、我ながら、どこまでも身勝手な人間だよ――秋島純って奴は」

「……【悪の此岸】か」

 ミコトは肩を竦める。

「噂にたがわぬ、ヘンテコ集団みたいだね」

「ほめ言葉さ。ただ、まあ――」

 純も、笑った。

「僕は彼らを心の底から愛している」

 ミコトは肩を竦めると、懐から、何かを取り出す。

 それは純の銃だった。

「ほら」

 純は戸惑いながらも、渡されるがままにそれを受け取る。

「……何のつもりだい」

「僕は、立場上、君を通すわけにはいかない。しかし、このまま戦ったら、得物のないあなたを、僕は圧倒してしまうだろう。あなたを、僕にも、そして、あなたにさえ、傷一つつくことなく、捕らえてしまえるだろう。だが、それでは駄目なんだ」

「どういう意味だ」

「あなたが傷つかなきゃ、雨月桂は本気を出さない」

 彼はとても真剣そうに言う。

「……【死神】、君も思うところというのはあるみたいだね。昔ここにいた頃、それこそ僕は君のことを感情のない機械のように思っていたんだけど。――ただ、この選択を君は後悔することになる。僕は、君を倒し、あの男の元へ行く」

「……秋島純、仕合う前にこんなことを質問したら間が抜けてしまうかも知れないけど、それでもあなたに訊きたいことがある」

「何だよ」

「あなたは【悪の此岸】を愛してると言ったけど――雨月桂のことはどう思っているんだい」

 その問いに、純は銃の弾丸を確認するようにして――隠すように顔を伏せた。

「……愛しているさ」

 その頬は赤く染まっていた。

「彼は不器用なんだ。本当なら不器用でもやっていけるだけの〝強さ〟を持っていたのに、それすらも捨てちまうくらい不器用な男だ。言い知れない悪だよ。そして、そのあり方を美しいと確かに僕は思った。だけど、それでも僕は一人でここに来た。彼のことを、僕は踏みにじった。今更引き返すことは出来ない」

「ここは十五階。この一つ上の階――つまりは最上階の音楽ホールに、僕たちのリーダーはいる。そこまで辿り着けるかは知らないけれど、せいぜい死ぬことだけは無いようにしてよ」

 そして、【死神】と【道化】の戦いがはじまった。

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