【第二章 異郷】 第10話 世を統べる珠 前編(全三回)

 麦の酒、米の酒、一夜にたらふく飲んだらば、

 宝珠ほうじゅを練りて、空を飛び、いつか力のたまとせん。

 

 ある少年の日の夜である。

 ようえんと私、程適ていてきは、南西地方からの帰り道、森の中で迷った。

 彼が十七、私と程適が十六の年である。


 三人とも、ずいぶん腹が減っていた。滅んだ仙人国の大臣から餞別せんべつとして、いくばくかの路銀はもらっていたのだが、いかんせん、店の一つも見当たらない。

 森は深い。行きにも迷ったのだが、また別の森に入り込んでしまったらしく、あちこちで猿の鳴き交わす声や、けものの遠吠えが聞こえてくるのだった。

 私たちは月明かりを頼りに、獣のふんのある場所を避けて、木々の間を歩き続けた。

 丸一日、経った夜のこと、獣たちの声のしない場所に出た。足元には踏み固められた土の道があり、木々の向こうには、赤い光が見えた。

 一見すると、酒屋のようである。だが、しばらく待っていても、出入りする客もなければ、店主の声もしない。

 楊淵季と私は、疲れていたのだろう。獣たちから離れていることに安心して、木の根元に座り込んでしまった。


「いけません。何か、買ってきまさぁ」


 程適が私たちを覗きこんだ。私はちらりと楊淵季を見た。楊淵季がうなずき、首を振る。


迂闊うかつに近づいちゃだめだ。こんな森の中にある客の気配のない酒屋なんて、盗賊のねぐらになっているか、よからぬ取引の元締めに違いないさ。日が昇ってから、また、歩こう。なあ、欧陸おうりくよう


 私も、淵季の意見に賛成だった。

 

「そうだよ。玄安げんあんにたどりつけば、まともに食えるはずだ」


 玄安はこのあたりでいちばん大きな港町である。あそこに行って、食事ができないということはないだろう。だが、程適はうなずかなかった。


「そんな悠長なこと言ってられませんや。旦那がたは弱ってるし、玄安にはお二人を追ってる役人どもが待ち構えているかもしれねぇ」


 程適の反論に、私は暗い気持ちになった。確かに、私と楊淵季は通っていた塾の学長殺しの疑いをかけられている。仙人国まで行って、自分たちが殺したのではないという証拠はつかんできたが、説明は困難を極めそうだった。この空腹では、その説明をし尽くす気力はでない。


「まいったな。もらった品を役人に差し出して、懐柔かいじゅうするか」


 淵季らしくない、乱暴な策だった。


「だめだよ、淵季。私たちのような子どもが宝物を差し出したって、役人はふところに収めてなかったことにするだけだ」


 当時、役人については私のほうが数段詳しかった。父や兄を見ていたからである。


「じゃあ、どうする」

「そうだな、人の少ない夜間を狙って商売の船に潜り込んで、の近くまで運んでもらうしかない」

「めしは」

「船の者が食事を作っているときに、こっそり盗む」

「陸洋からそんな言葉が出るとは思わなかった」


 淵季と私は、二人同時に深いため息をついた。


「それにしたって、玄安までご無事で到着しなきゃ、意味がありません。お待ちくだせぇ」


 程適が木の陰から酒屋の様子をうかがう。


「旦那がたが、ここでめしを食えれば、問題なしでさぁ。行ってきます」

「おい待て、だから危険だって。止めろ陸洋。おまえの従者だろう」


 淵季は立ち上がりかかり、そのまま膝から崩れた。私に至っては、もう、立ち上がる気力もなかった。

 私は木の幹に頭を当てたまま、程適が酒屋の扉を開けるのを見ていた。


「ごめんくだせぇ」


 程適がうわずった声でそう言ったとき、店の中から、ふわり、と白い湯気が漂い出た。湯気は扉が閉まると同時に夜の空気に消えたが、香りだけが残っていて、私たちのところまで届く。

 肉ちまきを巻く、竹の皮の匂いだ。

 仙人国に向かう途中、私がどれだけ肉ちまきを恋しく思ったか知れない。あのときも、飢えていた。腹に餅米と豚肉の甘辛い香りごと、放り込んだ。

 私は思わず、両手を地面に突き、店に向かってふらりと進んだ。


「おい、何をしている」


 楊淵季が肩をつかみ、引き戻そうとする。私は思わず手を払い、つぶやいた。


「だって、肉ちまきなんだぞ」

「肉ちまきか……思い出したくないな」


 淵季が顔をしかめる。私が行きに玄安あたりで肉ちまきに魅せられていたのに対し、淵季は仙人国で食べた記憶しかないだろう。もともと、主に米を食べるのは南方だ。華都では、小麦を練ったものであんを包んだ肉包がよく食べられている。


「わかるけど。きっと、今食べると、おそろしくおいしいと思うよ」


 だが、淵季は表情を和らげなかった。私たちはしばらく沈黙した。辺りにはまだ、肉ちまきの香りが漂っている。

 二人の腹が、同時に鳴った。


「仕方ない」


 淵季が立ち上がった。私も木の幹に手を突きながら立つ。


「そうだよ、食べるしかない。それに、程適が心配だ」


 扉が閉まってからも、店の中は変化がない。まるで、店に程適が飲み込まれたかのようだ。


「そうだな、木の枝でも拾っていくか。強盗か、密売人か、妖怪か」

「……妖怪!」

「驚くな。おまえだって仙人国で見ただろう。理屈ではどうにも説明できない宝物もあった。世の中の多くは論理的に説明できる。だが、ああいうものも、あるにはある」


 きっぱりと前を見た淵季の表情は引き締まっていて、棄てたばかりの王の権威を帯びている。私は、かえって彼が目立ってしまうのでは、と恐れた。


「私が先に行ってこよう。程適が無事で、私も安全だと判断できたら、一度、窓か扉を開けて手を振る。淵季はそれから来い」

「ばか言え。俺を一人にしてみろ。あっという間に仙人国の残党にさらわれるぞ。そうしたらふりだしだ」

「何だって?」

「気づいてないのか? さっき、猿が鳴き交わす声が聞こえていただろう? あれは、仙人国の者が、自国以外の者に気づかれないように話すときのものだ。やつら、俺を連れ戻して元の国をつくるつもりだ。この瞬間は居場所が知られていないが、あいつらのことだ、すぐに見つけ出す」


 私は身を震い、彼のそでを握りしめた。


「戻っちゃ駄目だよ、淵季」

「誰が戻るか。何のために、あんな邪悪な国を滅ぼしたと思っているんだ。……とはいえ、妖怪のすみか、というのはあながち間違いじゃないかもしれないぞ。妖怪ならば、人の目を逃れる術くらいは身につけているはずだ。ここにあいつらが追ってきていないということは」


 淵季がそこまで言ったとき、店の扉が開いた。程適が何かを抱えて戻ってくる。


「旦那あ、ほら、肉ちまきです。肉包もあります」


 白っぽい布の敷かれた籠の中に、肉ちまきと肉包が二つずつ並んでいる。私は肉ちまきに、淵季は肉包に手を伸ばした。指先が触れ合った。私たちは顔を見合わせたが、もう、妖怪の作ったものかもしれないから気をつけよう、などという理性は意味がなかった。

 次の瞬間、私は竹の皮を指で裂きながら肉ちまきをほおばり、淵季はほぼ二口で肉包を食べ終えていた。久々の食事に、腹がきしむ。痛みとも睡魔ともつかぬものに意識を支配されそうになる。しっかりしろ、と自分を励ましながら、肉包に手を伸ばす。淵季も、竹の皮を素早くいで、肉ちまきを口に放り込んだ。

 ごくん、と飲み下してから、淵季が神妙な顔で腹を押さえた。


「食べてしまったな」

「そうだね。私もだ。おいしかった」

「ああ、美味だ。しかたない」


 淵季と私のやりとりを、程適がきょとんとした顔で見下ろしていた。


「程適は、肉包や肉ちまきを食べたの?」


 私は立ち上がり、程適の顔をのぞき込む。ふわりと肉包の香りがした。


「ええ、あの、腹が、いちまって。まずは、旦那がたと思ったけども」


 しどろもどろになる程適に、私は、妖怪がつくったかもしれない肉包を食べたのか、確かめたかっただけだ、と言おうとした。

 そのとき、後ろから楊淵季がぶつかってきて、私たちの肩に手を当てた。


「食べてしまったなら仕方ない。妖怪も何もあったものか。店に入ろう」


 程適が、「妖怪?」と言って私を見た。私は無理に微笑ほほえみ、「大丈夫」とだけ返した。

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