第7話 5年前──①

 躊躇なく覆い被さって来た大きな体と鋭い熱を孕んだ瞳、そしてずぼっと寝間着の隙間に突っ込まれた滑らかな手を慌てて押しのけようとする。

 身長のわりに腰は細いと思っていたが、意外と肩幅があるな、なんて感心している場合じゃない。


「おい、こら! 琉笑夢……ってめぇ」

「っせえな、黙れ」

「おまっ、その態度はなんだ」


 ばっちりキレた琉笑夢にこんな風に乱暴にベッドに縫い留められたのはこれで二度目だ。というか一度襲われかけた。

 解禁となった就職説明会やらゼミの発表やら卒論やらバイトやらサークルでの最後の合宿やらで予定が詰まりに詰まり、忙しさのあまりなかなか琉笑夢にかまってやれる時間が取れず、顔を合わせるのも数か月ぶりだったあの日、初めて唇を奪われそのまま組み敷かれたのだ。


 まだ実家暮らしだったのだが、道子は単身赴任の父親の所に遊びに行っていていなかった。


「マジで、やめろって! い、痛えってばっ──ぁッ」


 両手首を片手で押さえ付けられ、あの時と同じように服を捲り上げられて胸の先に噛みつかれて仰け反る。


「ひゃっ……」


 あれから5年経ったがあの頃と違うのは、4センチほどだった身長差が一気に18センチ(正確には18.3センチ)にまで開いたことだ。

 もともと春人も細身でガタイがいい方ではないので、それと相まって体格差も広がってしまった。細いくせに引き締まった筋肉を持つ琉笑夢に今じゃ簡単にねじ伏せられてしまう。


「琉笑夢……ルゥ! ひぁ、この……」


 ちゅ、と吸われ、べろりと胸を舐められる。その唇が鎖骨、首に向かい、首筋へ。

 本格的に脱がされそうになり大声を張り上げても琉笑夢は止めようとしない。

 完全に寝る体勢に入っていたので上下のスウェットだが、下すらもパンツごとずり降ろされて縮こまり萎えた男性器が琉笑夢の眼前に晒される。

 羞恥のあまり体が硬直した。

 手が剥き出しの下腹部にするりと這わされて、今まで以上に声を張り上げた。


「またかよ、いい加減にしろよ嫌いになるぞ!」


 ぴたりと琉笑夢の手が止まり、力が緩んだ。

 今の発言はちょっとずるかったかもしれない、琉笑夢にとっての禁じ手だ。

 けれども、なぜ琉笑夢の機嫌が下がる一方なのかがわからない限りは一方的に組み敷かれるわけにはいかない。

 今がチャンスだと手を素早く引っこ抜きわたわたと琉笑夢の下から這い出ようとしたのだが、春人の首筋から顔を上げた琉笑夢と目が合った途端、一気に怒りや抵抗心が萎んでしまった。


「な……んつー顔してんだよ、琉笑夢」

「ずりぃ」


 伏せられた長い金色の上睫毛が下睫毛と重なり、照明の明りに照らされてキラキラと光っている。

 気分屋の琉笑夢は普段は毛並みが艶やかな大型の猫のようなのに、こうして時々、春人には金色の頭からぺたんと垂れた犬の耳、いや狼の耳がしっかりと見えてしまうのだ。


「春にいは、ずるい」


 ああもう、なんでこんな時ばかり昔の呼び方で呼んでくるかな。わざとだろうか、例えそうであっても春人はこの顔と声に弱かった。

 子どもの頃に比べたら彫りも深く顎もシャープになり精悍な顔付きにもなったわけだし、変声期もとっくの昔に迎えている声は春人よりも低くて張りがある。

 もう彼は子どもなんかじゃない。それはわかっているのだが、こうしていじけるように胸に鼻を押し付けられると先ほどの所業にも目をつぶってしまいそうになる。

 例えパンツから性器も露出した間抜けな格好にさせられてしまっていたとしてもだ。

 ほら、もうこの手だって一発ぐらいは頭を殴ってやろうと思っていたのに、目の前にある金色の頭を優しく撫でてやりたくてうろうろと彷徨ってしまっている。

 ぐっと堪えて、ぽんと琉笑夢の肩を叩いて圧し掛かっている体をどかそうとする。


「と、とにかく降りろって。そしたら怒んねえし、話も聞いてやっから……な?」

「へえ、で、なに。今俺がやろうとしたことも許してくれるって?」


 吐き捨てるような笑い方に棘が混じっていた。その棘は春人に向けられており、同時に琉笑夢自身にも向けられているようにも感じられた。


「琉笑、夢?」

「──は、そういうとこだっての。いつもいつも子どもの癇癪だと思って。許す? 天然も大概にしろよ、んなの別に求めてねえから」


 ここまで掠れている琉笑夢の声を聞いたのは久しぶりだ。

 拘束は解けたが春人は動けない。琉笑夢も何も言わない。


 二人の間に暫しの沈黙が下りる。


「あの、さ」

「げーのーじん」

「……は?」

「で、モデルで、俳優で、歌手で、SNSでも人気があってフォロワー500万人くらいで、一般人なんかじゃ到底手が届かなさそうな感じの人間」


 唐突に変わった話題に、一瞬ついていけなかった。


「なんだその、いきなりの自己紹介は」

「そーだよ自己紹介してんだよ。自分の言ったことに責任持て」


 頭がはてなマークでいっぱいになる。責任ってなんだ。

 というか自己紹介とは言ったけれども、琉笑夢は俳優業にはまだ手を出していなかったはずなのだが。


「言ったよな、俺。逃げるなって」

「なんのはな──」


 しだ、と問う前に、とん、と喉仏の辺りを指で突かれた。

 その瞬間、ざっと脳裏を駆け巡ったと昔の光景に開いた口がふさがらなくなる。

 ぼんやりとだが思い出し、あれから何年経ったのかと年数を数えてみて愕然とした。

 まさか。もうずっと前の話なのに。


「……おっせー、やっと思い出したとか」


 首下からつうと這ってきた指先に、顎をくいと上げられる。


 ──そうだなーあとは、芸能人とか? モデルとか俳優とか歌手とか、SNSでの人気も凄くて500万人くらいフォロワーがいるとかそういうすっげー有名で一般人のオレなんかじゃ到底手が届かないような人じゃないと結婚したくねえかな。


 そういえば確かにそのようなことを言った、が。


「あとはなんつったっけ。自分より背がデカくて手足が長くてかっこいい人がいいんだっけかおまえ」


 なんだっけといいつつしっかりと一語一句覚えていらっしゃるようで。

 春人は今思い出したというのに。琉笑夢の結婚したい攻撃を躱すため適当なことを言ってなあなあにしたことで、子どもは約束をちゃんと覚えているものなのよと母親に諭されたことを。

 芋づる式に、琉笑夢が伯母と暮らすため数か月世話になった鈴木家を去る最後の日に、ベッドで一緒に眠りながら大きくなったら結婚してと言われて、琉笑夢の大粒の涙にほだされてわかったわかったと頷いてしまったことも記憶の底から引きずり出してしまった。

 そうだ確か、琉笑夢に結婚できるようになったら迎えにくると宣言もされたのだ。


 けれどもそれは10年飛んでもう13年も前の話だ。

 昔の話、なんだけれども。


「俺、おまえより背もでかくて脚も長くなったんだけど」

「そう、だな」

「俺かっこいいし、春より確実に、かっこいいし」

「……おっしゃる通りです」


 そんな一字一句確かめるように言わなくとも、しかも二回も。

 ざくっと言葉の刃が心臓に突き刺さり痛みに泣きそうになったが、真実なので認めざるを得ない。


「モデルで、俳優で、歌手で、SNSでも人気があってフォロワー500万人くらいで、一般人なんかじゃ到底手が届かなさそうな感じの人間になったけど」

「……まだ俳優はやってねえだろ」

「は? ああそれ。今度主演映画決まったし」


 さもどうでもよさげに邪魔な前髪をするりとかき上げた琉笑夢に、これまたどうでもいいことのように重要なことをさらりと吐き捨てた。目が点になる。


「しゅえ……はぁ!? 主演、 え、映画の主演?」

「いや声でか」


 呆れられたがこんなの驚くなという方が無理だろう。

 映画っておまえ、主演っておまえ、まだドラマにも出たことがないくせに演技なんてできるのか。

 にこっと笑えない、あの琉笑夢が。


「未発表だけどもう撮り始めてる。俳優の肩書きもこれで付いたってことでいいだろ」

「いつからそんな……全然知らなかった」

「言ってねえし」

「もしかしてここんとこずっと忙しかったのって、それ?」

「それ。まあ映画っつってもネット配信だけどな」

「いやそれでもすげーって……監督だれ」


 疎い春人ですら薄っすらと聞いたことのある有名な監督の名を教えられて慄いた。

 なんでも、歌手デビューを果たした琉笑夢のPVを見て、新しいことに挑戦したいから君を使いたいと直接声を掛けられたらしい。

 本当にそんなことがあるのか。何が何やら、とんとん拍子過ぎる。


「おまえ、演技なんかできんのかよ……」

「さあね。あっちで齧った程度」


 琉笑夢の言うあっちというのは、海外のことだ。

 彼は高校に上がる前に実父の所へと行き、そして3年ほどで帰って来た。

 そこから芸能の道へ入り、たった数年で頭角を現し今や若者の間ではカリスマ的存在だ。


「監督には粗削りっぽい所がいいって褒められはしたけど、つまりまだまだってことなんじゃねーの。流行りの服着てメイクしてポーズ決めて撮らせときゃいいモデル業とは全然ちげえし……」


 途切れた語尾に仕事の大変さが滲み出ている。

 よくよく見れば琉笑夢の顔はどこか影を帯びているし、目の下に刻まれた隈も濃い。頬も少し痩けただろうか、仕事中であれば化粧で隠せる程度のものなのかもしれないが、今の琉笑夢は何もしていないため目に見える疲労が顕著だった。


「おまえ、疲れてるよな……?」

「別に。慣れないことしてんだからこんなもんだろ」


 琉笑夢はモデルかつタレントと言う立ち位置ではあるが、多くの有名企業が多用しているためほぼブランドであると言っても過言ではない。

 せっかく甘い物は苦手です朝はブラックコーヒー派ですなんて無理のある設定にしたというのに、もしも酷い演技を晒してしまえば琉笑夢がここ数年必死に築き上げてきたイメージが一気に崩れ去ってしまう。

 そりゃあ琉笑夢はなんでもできる男なので心配はないとは思うが、未知の世界に飛び込むことに恐怖はないのだろうか。


「それでも……それでもやってんのか? そんな無理してまで」

「……へえ、おまえがそれ言う? じゃあどうやったら春、俺のこと見んの」


 あ、と春人は既視感に目を見開いた。

 今の琉笑夢の台詞や表情が、あの日のあの瞬間の彼と完全に被った。



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