第40話

俺の選択は間違っていなかった。実家に戻ると少しは落ち着いた気がする。

母も久しぶりに顔を見せた息子を歓迎してくれた。大学のことは話せないでいる。いつか話さないといけないことはわかっているが下手に感情的になり余計なことまで口走ってしまいそうだった。

母は当然大学生活のことを根掘り葉堀り聞いてくる。

「友達、彼女は出来たか」「勉強は難しいのか」「サークルはどんなとこなのか」楽しそうに聞いてくる。

俺は母を落胆させないように、しかし下手な幻想を抱かないように嘘を適当に交えて説明した。

母を騙すのは心苦しく、過ぎてしまったこととはいえ的場殺し以上の罪悪感を覚えた。


それでも母との間で表面上は問題なく過ごすとなるとまた別の問題が浮上してきた。

葵から引っ切り無しに連絡が来る。今までになかったことだ。

特別用事が無ければ1日か2日くらいは音沙汰が無いことはざらだったし連絡に間が空いても急かすようなことはお互いしてこなかった。

電話に出る勇気も気力も今の俺にはなかった。俺が彼女からの連絡を返せない理由はそれだけではなかった。

彼女は風間さんの妹だ。もう気にし過ぎとかでは無く俺の中で風間さんは信用できない人間のカテゴリーに入っていた。


しかし完全に葵を敵方としてみる決断も情が許さなかった。今母を除けばただ一人瀬川虎児を見てくれる人もにも思える。

あの兄妹は一見仲が悪そう――妹が兄を一方的に厭っている――に見えるがあの二人は親が居らず唯一の肉親同士だ。

どうするべきかわからない間は結局連絡を返さないでいた。


それからしばらくは葵からの連絡は絶えていた。あればそれは迷惑なのだが来なくなってしまうと愛想を尽かされたように思えて寂しかった。

自堕落な生活で精神を養っているとある日スマホに葵からの音声メッセージが届いていた。

真っ先に浮かんだのは別れの言葉だった。安寧な生活は俺の罪悪を少しずつ薄めていた。この頃になると早まった退学届けを後悔するほどになっていたくらいだ。


音声メッセージを聞くのは怖かった。回復した俺の精神はもうYouTuberとしての活動を求めていた。もちろん彼女に捨てられるのは受け入れがたい苦痛だ。それは間違いない。だが打算的な面もあり、それは有力な経営者の親族に不快な思いをさせたかもしれないという危惧だった。

思い返すと狂気に苦しんでいた俺のほうがまだ同情の余地があった。実際これ以降の自分の行動を見るにあのまま狂っていたほうが幸せだった。


葵からのメッセージは俺の想像をはるかに上回る衝撃を与えるものだった。

「妊娠した」

くらくらと頭が揺れる感覚。しかし衝撃はそれだけで終わらなかった。

彼女は既に俺の殺人のことを知っていた。そのうえで共犯者になったということを告げた。共犯者の意味が当然最初わからなかった。精々犯人を隠匿した罪程度かと思っていた。

だが違った。彼女は俺の雇った脚本家の一人を殺してた。

彼女曰く「あの男はあなたの秘密を知っている」とのことだったが脚本家がそこまで思いつくとは到底思えない。俺の次は葵が狂ってしまった。

妊娠が彼女をこの凶行へ走らせた、そう考えた。


軽蔑されても構わない。俺は葵に子供を産んでもらいたくなかった。

俺は既に犯罪にを犯している。それに本人の言を信じるのあれば葵まで犯罪者だ。両親ともに犯罪者の子供はどう楽観的に考えても幸せになるとは思えなかった。

それに俺は……。


家に母がいないことを確認して葵に電話をかけた。

何とか産まない、堕胎すること説得しようと思った。何と言われようと俺は不幸になる子供を産んでほしくなかったんだ。

しかしいざ葵の声を聴くと考えが揺らいできた。この期に及んで俺は彼女に軽蔑されたくないという甘い考えを持ってしまった。ただそれだけじゃなかった。

彼女は様子がおかしかった。妊娠がそうさせたのか、凶行ゆえの動揺か判断できない。だが間違っても今堕胎の話をする雰囲気ではなかった。


結局決まったことは逃避行を模した旅行計画だけだった。

電話を切ってすぐに後悔した。情に流された。だがそもそも俺のアキレス腱を知っている彼女の感情を害することは自殺行為なのも事実だ。

俺は悩んだ。もう時間は少ない。

俺は再度狂気に身を落とすことに決めた。

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