第二章:眼差す人形(3)

 あつくて、さむい。





 マリィは再び覚醒の世界を訪れた。

 現地時間の十八時より少し前。今回のライブハウスは地下にあり、地上階のパブと接続されている。入り口自体は外にあるが、既に開場しているためか、昨日のような行列は見えない。

 解像度を落として入り口に近づいたところで、妙なにおいを感じた。微かだが、確かに感じる不快で厭わしいにおい。


 ――屍臭。


 ミキの時と同じだ。

 マリィは身構えた。まだ、悪夢は展開されていない。それなのに、におい立つ屍臭は既に周囲に拡散している。

 階段を降り、チケットカウンターを通り過ぎる。まだロビーにいる客に交じって会場に入り込んだ。客は昨日と同じくらいいる。ここでリオが神性に顕現したら、被害は以前の比じゃない。

 いや、そもそも彼女の悪夢はどこまでを対象とするのか。

 ミキの対象は明確だった。マリィのみをねらい、悪夢に取り込まれたのもマリィ一人だった。夢中で逃げていたから空間の正確な範囲は分からないが、全力で十分以上走ったから、二キロメートル以上あったはずだ。

 もし、彼女の対象が無差別だったら?

 背筋が凍り付く思いだった。一体どれだけの人間が被害に遭うか見当もつかない。

 戦慄するマリィをよそに、客たちはボルテージを上げていく。会場の扉が閉まり、音楽のまとう熱が一層高まる。

 そして期待値が最大に高まったとき、場内に静寂が訪れた。

 ぷつりと途切れた無音の空間で、幕が切って落とされる。

 そこに現れた『彼女』を見て、何人が違和感に気づけただろう。


「こんにちは、みんな。今日は来てくれてありがとう」


 音楽も歌もなく、彼女はその場でお辞儀をした。この時点で、客の大半がざわめき始める。恐らく予想外のことなのだろう。舞台裏からも困惑の雰囲気が感じられる。

 彼女は、マイクを手にステージの際まで歩いてきた。舞台女優のごとく、大仰な身振りで聴衆に向けて両腕を広げる。

 再びしんと静まりかえった観客たちに向けて、彼女は語りかけた。


「ここに集まったみんなは、何を見に来てくれたの?」


 マイクを通していないのに、朗々と通る声。

 彼女の問いかけが、困惑の渦を生む。観客たちにとって、ここに来た理由など一つしか無いはずだった。に会うために。のライブを観るために。

 しかし、彼女は問いかける。


「みんなが見に来てくれたのは、『アイドル』の『葉月リオ』? それとも――」


 とは、『何か』。


「――『アイドル』の皮を被った、『お人形』?」


 屍臭が、一気に濃くなった。





 ひとが、たくさんいる。

 みんなが、舞台の上に注目している。

 わたしは、みんなの前に立っている。


 目の前の幕が、落ちる。

 みんなが、舞台の上に注目している。

 わたしは、みんなの前に立っている。


 わたしは、みんなに挨拶する。

 こんにちは、みんな。今日は来てくれてありがとう。

 みんなが、舞台の上に注目している。

 わたしは、みんなの前に立っている。


 わたしは、みんなの前に移動する。

 わたしは、みんなに問いかける。

 ここに集まったみんなは、何を見に来てくれたの?

 みんなが、舞台の上に注目している。

 わたしは、みんなの前に立っている?


 わたしは、みんなに問いかける。

 みんなが見に来てくれたのは、アイドルのわたし?

 みんなが、ぶたいのうえにちゅうもくしている。

 わたしは、みんなのまえにたっている?


 みんなのまえにたっているのは、ほんとうのわたし?

 あいどるの、きらきらしたわたしをみて。

 あいどるのかわをかぶった、つまらないわたしをみないで。

 ねぇ、みんな。


わたしを見てわたしを見ないで





 この世ならざる絶叫が響き渡り、世界が一変した。

 視界の全てが黒に染まり、観客たちは虚空に放り出される。

 マリィは即座にペンダントを閉じ、神性に変身した。阿鼻叫喚に乱れる観客たちを飛び越え、ステージがあった方へと躍り出る。

 しかし、そこにいるはずのリオはいなかった。それどころか、ステージに着地した感覚すら足下に感じられない。

 ミキの悪夢とは違う。マリィは屍食鬼グールと神性の力の違いを思い知らされた。

 リオの悪夢は、既存の空間とは全く別の空間として形作られている。

 散り散りに逃げていた観客たちが特定範囲内で不可視の壁に阻まれているのを横目に、マリィは辺りを見渡した。必ずいるはずだ。どこに。

 唐突に悲鳴が上がり、そちらを振り返る。観客の一人が、自分の頭上を指さしていた。

 そこに、それはいた。


「……ウソでしょ」


 その異様に、マリィは思わず呟く。

 巨大な水母くらげ、あるいは中身をくり抜かれた烏賊のような半透明の怪物がそこにいた。何十本もの触手を伸ばし、五メートルはある巨体をゆっくりとうごめかせるそれは、内側に無数の眼球を抱えている。

 その中心に、膝を抱えた状態で内側の触手によって宙づりにされた、かおのない少女がいた。無数の眼球の視線が、その少女に注がれている。


『わたしを見ないで……つまらないわたしを見ないで……』


 貌のない少女のか細い声が、あたりに響いた。宙づりにされた少女の体が、苦悶に身をよじる。

 怪物の体に、波紋のように光が広がった。同時に、狂ったような咆吼が轟く。


 ――いいぃぃぃぃぃぃああぁあぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!


 思わず耳を塞ぎそうになるのをぐっと堪え、マリィは怪物と対峙した。大鎌を構え、怪物に向けて跳躍する。

 怪物の眼球たちは、興味が無いとばかりに少女の方を見つめている。マリィは構うことなく大鎌を振りかざし、水母のような体躯に向けて振り下ろす。

 刹那、眼球の一つがマリィの方を見た。


「!?」


 大鎌が、空を切った。怪物が、どこにもいない。

 移動した様子はなかった。眼球の一つと目が合った瞬間、怪物の姿が瞬時に消え失せたのだ。

 ひゅ、と風切り音が聞こえ、マリィは咄嗟に大鎌を音のする方へと振り切った。再び大鎌は空を切り、彼女の背部に衝撃が走る。

 彼女の遥か下から伸びた触手が、マリィの体を薙ぎ払った。弾き飛ばされた彼女は、そのまま不可視の壁に叩きつけられる。


「カハッ……!」


 痛みよりも呼気が無理矢理押し出された息苦しさに苦悶しつつ、マリィは大鎌を構え直した。下方にいた怪物はゆっくりと上昇し、巨体を蠕動するように蠢かせる。

 再び、怪物の体が光った。


『わたしを見て……キラキラかがやくわたしを見て……』


 貌のない少女が、今度は恍惚に身を震わせた。同じくして、怪物の体も自らを誇示するかのように数多あまたの触手をひらめかせる。

 相反する、二つの言葉と感情。

 マリィは朧気に理解し始めていた。リオが心の中に秘めていた恐怖を。

 彼女は言っていた。自分のことを覚えていて欲しいから、会いに来てくれた人を全員覚えるようにしているのだと。

 彼女は自信を失っている。自分に魅力が無いと思い込んでいる。だから、そんな自分を見られるのを恐れている。しかし同時に、彼女はアイドルとしての自分を見て欲しいと願っている。覚えていて欲しいと祈っている。忘れ去られるのを、恐れている。

 相反する二つの恐怖が、怪物を形作っている。

 無数の眼球に捕縛される貌のない少女と、光り輝く巨大なドレスを模した、水母のような怪物を。

 またも怪物が吼えた。神経を抉るような不協和音に耐えながら、マリィは怪物に突進する。振り払った大鎌が怪物を切り裂く寸前で、やはり怪物は音もなく消え失せた。

 すぐさま周囲を警戒し、次は襲いかかる触手を弾きかえすことに成功する。そのまま怪物を捉え続けるが、結果は同じだった。

 眼球がこちらに目を向けると、怪物が姿を消す。


「それなら……!」


 今度は遥か頭上に現れた怪物が高速で触手を振り回すのを避け、斬り伏せ、大鎌に力を込めて叫んだ。


「狂える星辰、闇夜に鏖せ!」


 五体に分身したマリィが、それぞれ別の方向から怪物に襲いかかる。

 しかし、怪物の眼球は一つではない。


「!?」


 五つの眼球がそれぞれのマリィを捉え、怪物は消えた。五本の斬撃がむなしく火花を散らすと同時、襲い来る触手たちがマリィの分体を薙ぎ払っていく。

 辛うじて逃れた本体はそのまま触手の先を追うが、やはり眼球に捉えられると逃げられてしまう。このままではイタチごっこだ。他に手は。


『わたしを見ないで』

『わたしを見て』


 貌のない少女が、声を響かせながら触手に囚われた体をよじる。怪物は、無数の眼球で少女を縛り、無数の触手で踊り狂う。

 あぁ、そうか。

 マリィは心の中で独りごちた。

 そして、腰だめに大鎌を構え、勢いよく宙を蹴って突進する。

 ただまっすぐ、まっすぐに、貌のない少女だけを見つめながら。

 彼女は、最初から答えを言っていた。


「気づいてあげられなくて、ごめん」


 貌のない少女に肉薄し、彼女から視線を反らさぬまま、マリィは大鎌を振るった。

 怪物が、両断される。

 潰された眼球たちは連鎖するように次々と爆散し、怪物の体を引きちぎっていく。狂乱の絶叫を撒き散らしながらボロボロと崩れ落ち、儚い光を帯びながら虚空へと消えていく。

 縛りを失った貌のない少女が、ゆっくりと逆さまに落ちていく。マリィは大鎌を背に負うと、彼女を抱き留めた。

 そのまま、ぎゅっと抱きしめる。


「ちゃんと見てるよ。あんたは、どんな姿だって、アイドルの葉月リオだ」


 貌のない少女から、水がこぼれ落ちた。

 それは、彼女から絞り出された、最後の『恐怖なみだ』だった。

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