サイケデリックドリーマー

蛙鳴未明

序章 Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate.

序-1 不審者オンザ夢島

 銀縁メガネのあいつは言った。あそこでは人が消えるらしい。あそことはつまり旧都東京、今の名を夢島。十六句湾に浮かぶ灰色の影。いつも霧に覆われている島のことだ。

 それがどうした。人が消えるなんてどこでもありふれたことじゃないか。お前は授業を聞いていなかったのか? 

 と言うとあいつは、いやいやそうじゃない。比喩じゃないんだ。本当に消えてしまうというんだよ……目の前でパッ――奴は気障きざに指を鳴らしてみせた――と虚空に消えてしまい、二度と見つけ出せないそうなんだ、なんて真顔で言ってのける。

 戯言たわごともいい加減にしろ。例え夢島でもそんな妙ちきりんなことが起こるはずがない。百歩譲って起こっていたとしてもあそこは立ち入り禁止じゃないか。誰が誰を消せるんだ。誰がそれをお前に伝えたというんだ。狐と狸の馬鹿試合をイタチが触れ回ったとでも言うのか。あまり先輩を馬鹿にするなよ。

 そう言ってやると、奴はにやりと笑って言った。卒業の記念だ。見物しに行かないか。

 呆気にとられた僕に二枚の薄っぺらい紙を押し付け、一方的に時間と場所をまくし立てた後、奴は窓から抜け出し学校を早引けした。それじゃ立派な保安官になれないぞ、と後ろ姿に叫んだら、意味深にこっちを見てにやにや笑い、柵を乗り越えて姿を消した。


 僕は、あのバカの思いつく事なんぞに乗ってやるか、と実に二日ぶり五千二十四度目の大決意を固めたが、しかし悲しいかな、赤ん坊のころから続く十六年の腐れ縁は僕の五体にしっかり絡みついており、僕はまるでマリオネット。帰路をたどっているうちにいつの間にか小さな埠頭に着いていた。

 そこには奴の言っていた高速連絡船なんてものはなく、縄文の彼方を思わせるボロ漁船が一隻止まっているばかりだった。仕方がないのでしばらく待ったが奴は来ない。時間になっても来ない。悪態をつきながら帰ろうとした。帰ろうとしたのに……唐突に短く三度ぼっ、ぼっ、ぼっ、と鳴った汽笛に驚いた隙に、早く乗れ!と怒鳴り声がしたもんだから、慌てて船に乗り込んでしまった。将来は闇バイトの餌食えじきだろう。気付いた時には海の上。錆びたような腐ったような何とも言えない悪臭に、動く気力を完全に奪われていた。


 かくして僕はくだんの島を見上げている。写真で牢獄の塀のように見えていたのは幾重にも乱林立するビルだった。

 ビルってそんな風に塗っていいんだ? 新たな芸術の始まりを感じさせるめちゃくちゃな配色。

 そんな角度のビルがこの世にあっていいんだろうか? 物理の玄妙さを思わせる八度、十五度、三十二度。

 みっちりと壁を成す中、ところどころ人という字がビルとビルの支え愛でできていた。いや愛があるかは知らない。くたびれて仕方ないので嫌い同士でもどうしようもなくもたれあっているだけなのかもしれない。数えきれないほどあるビルは、絵具セットの三倍以上の色数があるくせに、皆一様にくすんで灰色がかっている。頭上を覆う雲に生気を吸い取られたのだろうか? あるいは蒸発した生気がこの奇妙な雲を作り出しているのだろうか? 何とも気が変になりそうな光景だ。

 赤、青、緑、ピンク、紫……この世のものとは到底思えない原色同士が、ちっとも交じり合わずに取っ組み合っている。広がる緑を赤が下から突き上げ、膠着こうちゃく状態になったかと思えばその途端内側から紫が噴き出してきて赤も緑もバラバラにしてしまう。しかしそれも長くは続かず――

「おーい!おーい新人!」

 誰だ一世一代の名勝負に無粋を投げ込む不届き者は。 顔をおろせば漁船の行き先、泡立つ水面の向こうにゴミかと見紛う小さな桟橋がある。その上でパンツスーツの高身長女性が、こっちに向かってぶんぶんと、発電機のように手を振っていた。

 なぜ人が? 遅ればせながら気づく。ぞっとした、が、混乱が勝った。あれはなぜ、かっちり黒スーツで固めておきながら、あんな針山のような金髪をして、おまけにイカしたグラサンをかけているんだ? きらめく銀のイヤリングはまるで――


「死ぬから跳べ! 今すぐ!」


 圧倒的、凪。何言ってるんだこのファンキー不審――写楽を超える衝撃と爆音に全てがバラけた。

 頬が焼ける音。

 時間の流れがの ろ く な る。

 緑の爆炎がコマ送りで立ち上り、甲板をたわめ、砕き、舷側をたわめ、砕き、破片が散る、散り、ねじ切れた鉄柵がハチャメチャに回転しながら迫りくる。ぎゅっと目をつぶったその瞬間ぐいと身体が引っ張られた。べっとりした冷風に目蓋をこじ開けられた時には宙を舞っていて――


「わ? わ! わ!?」


 一瞬後には灰色の水面に突っ込んでいた。目を開けた瞬間に失明しそうだ。鼻がハラハラびりびり死ぬ死ぬ死ぬ! 鉄と生ゴミと法に触れそうな諸々が混ざったような刺激的な臭いをかき分け、やっとのことで水面を割る。大きく深呼吸して強烈な味に咳き込んだ。なんとかテトラポッドに這い上がり、古びた電気ポットのようにあえいでいると、上から声が降ってきた。



「大丈夫か新人? なかなか楽しい洗礼だったな」


 新人ってなんの――とは思うものの喉が仕事をしない。差し出された手に甘えてなんとか立ち上がる。案外滑らかでしっとりしていて、日に焼けていない手だった。摺りガラスみたいな視界越しでも分かる、夏の太陽みたいな笑顔。これは比喩ではなく文字通り。四方八方十六方にとんがった輪郭の真ん中にグラサン。空に浮かんでない方がおかしいくらいの太陽っぷりだ。声もまた明るい。


「よろしくな新人。俺はアルトゥル、アルトゥル・ディームト。アルでいいぞ。君は?」


 知らない人に個人情報を教えちゃいけないって、情報倫理講習で習った。やたらと洋画くさい、夢島にいるような大人にはなおさらだ。当の彼女は答えがないことをどう思ってそうしているのか、握った僕の手をがくがく上下に振っている。どうも思ってないんだろうなきっと。腕につられて頭をがくがくさせながら思う。これだけのがくつきを生む筋力と配慮の無さ。きっとこの人は脳筋だ。


「いやあ新人が来てくれて嬉しいよ! 君はどこ出身? 趣味は? 実家は? 好きな食べ物は? 俺はチバババ抜きチバババロアバルバロッサグラタン! 新人はババ抜きやるかい? いい感じのとこでジョーカー引かせた時の快感ッ! 素晴らしすぎるよなあ! 今度百本勝負をやろう! 新人は新人だから十本勝負からがいいか? ババ抜き自体新人なら俺が丁寧に教えてやるよ。なんたって新人なんだから――」


「たくさん喋れるで賞」でも狙ってるのか? うっすら嫌いになりながらなんとか叫ぶ。


「新人って! なんのことですか!」


 瞬間、ビタッとアルトゥルとやらの手が止まった。最後にがっっっくん!として僕も止まる。サングラスの下に信じられない、という目を見た。


「君……新人じゃないのか? 五十嵐門いがらしもん

「多分違うと思います。ぼくはただ友達に無理矢理……てかなんでなま――」


 えっ? 訳も分からず僕は背後から殴り飛ばされていた。


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