第2話 心理学

 黒崎が大学で心理学を専攻し、そのまま研究室に残って新宮教授の助手として勤務するようになったのは、就職活動もうまく行かず、どうすればいいかと思いあぐんでいた時、新宮教授に、

「一緒にここで研究してくれないか?」

 と言われたからだった。

 ちょうど、助手の人が別の大学からの誘いを受けて、そちらに移動することになったので、ちょうどいいタイミングだったようだ。黒崎自身も卒業して一般企業に就職するという道に少し疑問を持っていたので、いわゆる渡りに船だったのだ。

 教授の研究は、心理学という学問だけにこだわらず、物理学や化学、生物学にまで特化したものだった。

 新宮教授は、教授というイメージにそぐわないほど、人付き合いの苦手な人だった。普段からブスッとした表情は、人を遠ざけるには十分で、表情に感情がそのまま出ているかのようだった。一緒に研究に従事している研究員も、教授には絶えず気を遣っているようだった。

 しかし、教授は誰にでも気難しい顔をしているわけではなく、自分の気に入った人には普段からは想像もできないほど、気を遣う人であった。

 黒崎が教授室に顔を出すと、いつも笑顔で迎えてくれ、自らコーヒーを入れてくれるほどの機に遣いようだ。

 最初こそ、普段の教授から信じられない雰囲気にたじろいでしまい、後ずさりしてしまうほどであったが、慣れてくると、却って遠慮が失礼になることが分かってくると、教授室ほど居心地のいい場所はないと思えるほどになっていた。

 そんな教授から、

「君さえよければ、私と一緒に研究してほしいんだ」

 と懇願されると、どこに断わる理由があるというのだろう。

「はい、喜んで」

 と、二つ返事で了解したのも、自分で納得できるものだった。

 教授の研究が多岐に及んでいるということは、大学時代には分からないことだった。それはあたかも、自分が大学時代に読んだ本を研究で証明しようとでもいうようなものだった。

 恋愛小説以外に、SF小説などをよく読んだ。

――同じ日を繰り返している――

 と言っていた女性を思い出しながら読んだのだが、SF小説を読み込むうちに、恋愛小説をそれまでとは違ったイメージで読むことができたのも事実だった。

 時々、教授は助手の黒崎にも黙って、席を外すことがあった。

――どこに行っているんだろう?

 気にはなったが、先生を尾行するような野暮なことをしようとは思わなかった。

――もし、自分にも関係のあることであれば、そのうちに話してくれるさ――

 と思うほど、教授に対しての信頼は絶大だった。

 心理学の勉強に嵌ったのは、教授との出会いがあったからだったのだが、最初に感じた教授のイメージは、

――とても心理学を研究しているようには見えない――

 というものだった。

 心理学の専攻を選択する前の一般教養の授業の中で、新宮教授の第一印象は、

――なんて、頼りない教授なんだ――

 というものだった。

 大学の講義というものはえてしてそういうものなのかも知れないが、広い講義室に学生が疎らな講義だった。

 分布とすれば、前の方で真面目にノートを取っている連中が数名と、それ以外は最後列で、好き勝手なことをしている連中だった。我が者顔でだべっている連中もいれば、寝ている連中もいる。ゲームをしていたり、スマホをいじっている連中もいる。

――一体、何をしに来ているんだろう?

 と思えてならなかった。

 そんな中で黒崎は、最前列でノートを摂っている連中にまぎれていた。皆仲間というわけではなく、個別の連中で、きっと黒崎のように、群れを作ることを嫌っている連中なのに間違いないだろう。

 黒崎が最前列でノートを摂っているのは、群れに乗っからないためでもあった。真面目にノートを取っているというのは、根が真面目だというだけではなく、人と群がりたくないという思いからだ。

 二年生になってくると、授業を受けないことも増えてきたが、一年生の間は真面目に授業を受けてきた。

――せっかく苦労して大学に入ったのに――

 という思いが強かった。

 他の連中は、

「せっかく大学に入ったから、高校時代を取り戻すために遊ぶんじゃないか」

 と言って、友達作りに躍起になり、人とつるむことで自分の存在を自分自身で納得させようとしているのではないかと、黒崎は分析していた。

 大学一年生というと、まだ専攻する学科が決まっておらず、一般教養の時間であった。そんな中で選択した心理学の先生が、新宮教授だった。

 教授は、学生がどんなに何も聞いていないとしても、決して叱ったりしない。まったくお構いなしに、自分のペースで講義を進めている。

 最前列でノートを取っている連中にとっては、分かりやすい講義で、興味をそそる内容も少なくはなかった。事実、最前列でノートを取っていた連中の仲の何人かが、新宮教授のゼミに後々参加することになるのだ。

 しかし、他人事としてこの状況を見れば、何とも教授は情けなく写った。学生に怒りを感じることもなく、淡々と講義を進めている姿は、イライラするほどで、

――最後列で遊んでいる連中も何を考えているのか分からないが、教授も何を考えているのか分からない――

 と感じさせた。

 しかし、何度目かの講義の時に、ふと黒崎は気付いた気がした。

――ここまで学生にバカにされているのに、まったく感情に出さず自分のペースで講義を進めているというのは、ある意味すごいことだ――

 それは、絶対に自分にはできないことであり、よほど根性が座っていないとできないことだろうと思えた。人にイライラさせて自分だけ涼しい顔をしているというのは、大物の証拠ではないだろうか。

 黒崎の新宮教授を見る目はその時に変わった

 実際に三年生になってゼミを選ぶ時、黒崎は迷うことなく新宮教授のゼミに参加した。知っている顔も数人いたが、全体的な人数からすれば少数精鋭。言い方を変えれば、

「マイナーなゼミ」

 だと言えるだろう。

 そんなゼミの今までに見たことのなかった学生のほとんどは、何を考えているのか分からないような連中だった。

 普段は気にしていないように見えるが、こちらが相手から気を逸らすと、こちらを気にして探るような目をしてくる。油断ならない連中と言えるのではないだろうか。

 しかし、これも考えようで、

――相手もこちらのことを同じように見ているかも知れないな――

 と思うと、彼らの目を気にする必要はないと思えてきた。

 同じゼミであっても、彼らとは関わらないようにすればいいだけで、幸いにもこのゼミでは、班を作って、そこで研究をすることが主な活動のようだった。

 そこで黒崎が組んだ班というのは、一年生の時に最前列で講義を受けていた連中だった。班分けは自由で、誰と組んでもいいという話だったので、やりやすかった。班を形成している他の連中も、このメンバーが一番いいと思って形成しているので、あっという間に班は決まった。

 彼らは班は形成していても、班の中での行動以外ではまったく干渉することはない。これも黒崎にとっては願ったり叶ったりだった。

 班を決めたとはいえ、実際の研究は個人にまかされていた。決まった班では行動をともにすることが一番多いというだけで、何かテーマを共同で研究するというわけではなかった。

 ただ、皆似たり寄ったりのメンバーで形成されているので、おのずから似たような研究になっているというのは、皮肉なことなのかも知れない。

 教授が班を形成させたのにはもう一つの理由があった。

 それは、学生個人と自分との間に班というグループを置くことで、直接関わることを嫌ったからだった。そのことを知っているのはきっと限られた人だけであろう。皆他人のkとには関心を持っていなかったからだ。

 そういう意味で、一番他人に関心を示さないのは黒崎だったのかも知れない。他の連中は、自分に馴染みのある人を除いて、関心がないだけで、黒崎のように、同学年の連中すべてに関心がないというのは、実に珍しかったかも知れない。

 一年生の頃は、高田という友達もいたが、三年生になる頃には、高田はアルバイトが忙しくなり、黒崎とはあまり付き合わなくなった。もし、これが黒崎と高だの間でなければどちらかが寂しさを感じ、孤独の真っ只中にいたかも知れないが、二人は疎遠になってもさほど気にするところはない。お互いに尊敬し会うところがあったからこそ、できたことではないだろうか。

 尊敬しあうというと少し大げさだが、

――一目置いていた――

 と言えば適切なのかも知れない。

 それが自分にはないところを相手に見つけたからで、すぐに一目置くという感情に至ったのは、元から相手に敬意を表して付き合っていたからなのではないだろうか。

 ゼミの間の研究が、大学卒業の時に、教授をして、

「一緒に研究してくれないか」

 という誘いになったのだと黒崎は思った。

 黒崎の研究は、他の人とは違い、人間の心理に直接関わる話ではなく、心理が及ぼす現象などについての研究だった。

 夢の世界であったり、オカルト的な話の探求であったり、ホラー小説など読んだこともない黒崎にとって、どうしてそんな研究になったのか、自分でもよく分からないと思うようなことだった。

 そういう意味では教授の研究と似たところがあったのだろう。

 そして、他の人が教授の研究の行き着く先がどういうところなのかを知らなかったのは、教授自身で悟られないようにしていたはずなのに、それを看破したのが黒崎だということも教授は分かっていたのだろう。それを踏まえた上で、

「一緒に研究してほしい」

 という考えに至ったのだと黒崎は感じた。

 黒崎が就職できずに苦しんでいたのを、教授はどんな目で見ていたのだろう?

 ひょっとすると、

――このままどこにも引っかからなければ、自分のところで一緒に研究してくれるのではないか――

 と考えたのではないだろうか。

 もし、そうであれば、黒崎にとっては溜まったものではない。

 しかし、結果的に研究室に残って研究が続けられ、そのまま就職したのと同じことになるのだがら、実にありがたいことだ。それこそ、願ったり叶ったりである。ひょっとすると、黒崎は心の中でそう願っていたのかも知れない。それを思うと、

――いい方に事態が進むというのは、自分の人徳なのかも知れない――

 という自惚れのようなものが生まれてきた。

 しかも研究室に残ることになってからの教授は、学生としての黒崎に対してとはまったく違っていた。

 学生にも自分にも。自由に研究させ、ある意味好き勝手にやっていたこともあって、会話もなければ、意志の疎通もなかった。やりやすい反面、息苦しさがあったことは否めなかった。

 しかし、研究室に残ってからの教授は違っていた。

 それまでの突き放すような雰囲気ではなく、すべてを一緒に研究しようという意志が現われていた。

「一緒に研究してくれないか」

 この言葉は本当だったのだ。

 最初は、

――社交辞令なんだろうな――

 と口説くための言葉として、あまり重く考えていなかったが、実際に残って一緒に研究をするに至って、その言葉が本当だったことに驚かされた。

 いや、驚いただけではない。喜びもあった。それまで感じたことのなかった人の温もりを、まさか教授から与えられるとは思ってもいなかったのだ。これはビックリさせられたという次元の問題ではないだろう。

――いよいよ、ベールに包まれた教授の研究の一片を、垣間見ることができるかも知れない――

 と感じた。

――別に知りたくはない――

 と思っていた学生時代とは反対に、知ることへの喜びが、教授に感じた人の温かさが本物であるかという証明にもなるのだ。

 黒崎は、教授を尊敬しているということに、いまさらながらに気がついたのだ。

 教授にとって、黒崎を助手にすることは、最初から決まっていたことのような気がしたのは気のせいであろうか? 教授は自分の研究をまるで引き継ぐかのように、個別に黒崎に話していた。

 最初は、よく分からないほど難しい話であったが、直接マンツーマンで聞かされると、それまで分からなかったことも、分かってくるというものだ。

「難しいと思うのは、すべてを点で見ているからだよ。一つの線にしてみると、そんなに難しいことではない」

 というのが、教授の口癖だった。

――そんなものなのだろうか?

 と、最初は半信半疑だったが、騙されたつもりで線にして考えてみると、一つ何かが繋がった気がした。その繋がりの延長線上に何があるのかを想像していくと、おのずとそれまで分かっていなかったことも分かってきたような気がした。

「教授の仰っていた言葉の意味が、少しずつ分かってきたような気がしました。確かに線にしてみると、見えてこなかったことが見えてきたような気がします」

 教授に連れられて行った居酒屋で、一杯呑みながら教授にそう言うと、教授は満足そうに、

「そうだろう。そうだろう」

 と言って、笑みを浮かべていた。

「今夜、終わったら一緒に呑みに行かないか?」

 と、いきなり教授に誘われた。

 教授が誰かを飲みに誘うなど、今までに聞いたことがなかった。人から誘われても、ほとんど一緒に呑みに行くことなどないと言われていた教授が、どうした風の吹き回しだろう。

 そう思っていると、教授の楽しそうな表情を垣間見ることができ、今までに自分の知らない教授を知ることができると感じ、ワクワクしていた。

 教授が連れて行ってくれたお店は、いかにも居酒屋という雰囲気で、住宅街の入り口に位置しているお店で、

「十年来の贔屓にしているお店なんだ」

 と言う教授の後ろからついて行った。

 入り口には縄のれんと、赤提灯が架けられていて、いかにも昔からある居酒屋の雰囲気だった。

 それでも、中に入ると、思ったよりも広めの店だった。こじんまりとしているような店しか知らない黒崎は、教授の雰囲気に似合う店ではないので、少しビックリした。

 教授の雰囲気は、どちらかというとバーが似合うような雰囲気だった。

 年齢的には、他の会社であれば、定年退職を迎えてもいいくらいであり、黒崎から見れば父親か、それ以上の年齢だった。まさか、差しで飲むことになるなど思ってもいなかったので、嬉しいと感じた反面、緊張しているのも確かだった。

 研究室では、いつも白衣を着ていた。心理学の研究に白衣は関係ないように感じたが、心理学も神経内科の類になるからなのか、医者のようなイメージと言っても過言ではない。そういえば、カウンセラーの先生も白衣を着ているというイメージがあったので、教授も同じ考えなのかと思ったほどだった。

 しかし、よく聞いてみると、教授が白衣を着るようになってから、心理学を志す人や、カウンセラーの人が白衣を着るようになったのだという話だったが、どこまで信憑性のあるものなのか分からなかった。それでも教授を見ていると、その言葉を信じてしまう自分がいて、黒崎は、

――新宮教授といえば、白衣だ――

 と感じるようになっていた。

 黒崎は、そんな新宮教授が白衣を脱いで、スーツに着替えた時の雰囲気を最近知った。それまでは研究室と、講義でしか見ることのなかった教授で、しかも講義でも白衣を着ていた。スーツで講義をすることはなかったのだ。

 初めて教授のスーツ姿にドキッとしたのは、教授に付き添っていった学会だった。

 学会には、それぞれの大学から二、三名が参加していて、うちの大学からも教授と黒崎助手が参加することになった。

 場所は東京だったので、二泊三日となった。学会は二日間催され、一日目は午後から、二日目は終日の開催だった。そのため、スケジュール的には過密だったが、教授からだいぶ心理学の考え方についてを伝授されていたので、学会の難しい話にも何とかついていけた。

 さすがに二泊の過密スケジュールで夜、呑みに行くという余裕もなく、出張はあっという間に終わった。

「今夜、呑みにいかないか?」

 と誘われたのも、学会から帰ってきてから少ししてのことだったので、あの時の慰労を兼ねてのことと黒崎は考えた。

 白衣を脱いでスーツ姿になった教授は、

――渋い――

 というイメージだった。

 いつも白衣が眩しいだけに、顔まで光って見えるような感じだったが、黒いスーツを着ていると、顔も光っているわけではなく、むしろ白髪が目立つだけだった。今まで教授の年齢をあまり意識することがなかったのは、やはり白衣に照らされた顔が眩しかったことで、白髪すら目立たなくなるほどの若い雰囲気に、魅了されていたからなのかも知れない。

 スーツ姿の教授は、年齢相応ではあるが、普段の教授を知っているために、老けているというイメージよりも、落ち着いて見えるという雰囲気の方が当たっているようだった。

 講義の時は本当に目立たない先生で、ゼミに入ってから見た教授と、

――本当に同じ人なんだろうか?

 と思わせるほどだった。

――こんなに渋い中年の男性なら、バーのような雰囲気が似合うのに――

 と感じたのだが、それを口にすることはなかった。

 ただ、居酒屋の中に身を置いた教授を見ていると、講義の時の教授が思い出されて、

――まんざらでもないのかな?

 と感じさせるものだった。

「黒崎君は、私が居酒屋に来るのが、そんなに不思議なのかな?」

 見透かされているかのようにドキッとしたが、

「いえ、そんなことはありません」

 もし見透かされているのだとすれば、これは言い訳でしかない。

 他の人であれば、こんな言い訳をすれば、相手の気分を害するのではないかと思うのかも知れないが、教授に対してだけは、自分の直感から判断するのが一番だと思うようになった。

 直感と言っても、いろいろ考えを巡らせた上で、結局元に戻ってくるという意味で、

――すべて考えられることを考えたんだ――

 という自負があることで、先生の考えに正面から対峙しようと思ったのだ。

 最初は一周まわって戻ってくるまでに少し時間が掛かったが、そのうちに、時間をかけることなく、あっという間に元に戻るくせがついてきた。

 しかし、今度は一周すらすることもなく、直感で勝負するようになっていた。

――どうせ、結局戻ってくるんだ――

 と感じるからで、戻ってきたと自分で思い込むことが大切だと思った。

 先生はそんな黒崎の考えを分かっているように思えてならなかったが、それでもよかった。先生はお世辞を言ったり、知っていてあえて何も言わないようなことはしない。他人であれば気を遣うことはあっても、研究員には容赦をしない。しかし、それが教授の研究員に対しての気の遣い方なんだと思うと、納得できるところはたくさんあった。

「黒崎君は、私が講義の時に、学生たちから舐められているのを分かっているんだろう?」

「ええ、でも、研究室での教授を見ていると、まるで別人に思えてきます」

 というと、教授はニッコリと笑って、

「その通りさ、別人なんだよ」

 冗談ではないことは分かっていた。

 ニッコリ笑っている時に冗談が言えるような教授ではないことは黒崎でなくても、研究員なら分かっていることだろう。

「別人というと、別の人格が自分の中に備わっていて、それが表に出るということですか?」

「それに近いんだけど、私は講義に出ている時の記憶がないんだよ。まるでジキルとハイドのようではないか」

「そうですね。でも、どうしてないんですか?」

「最初は、ちゃんとあったんだよ。でも、講義に出ている自分はいつも学生を見ながら、皆自分の実験台なんだと思うようになっていたんだよ。そうでもなければ、あんなにバカにされたような状況に自分の身を置くことを到底容認できるわけがないからね。でも、講義をしないと、大学での研究もできない。講義はまるで自分にとっても拷問であると言えるんだ」

「先生がそう思われているように、他の先生も同じなのかも知れませんね」

「そうだね。皆我慢してるんじゃないかな? でも、彼らには意識があるから苦しいんだよ。私は意識をなくすことで、その苦しみを逃れることができたから、講義の間の記憶はないのさ」

「それは、教授が何かそういう薬のようなものを開発されたということですか?」

「その通り、ただ薬というよりも、自己催眠に近いものかも知れないね。自分に催眠を掛けることで、自分を鼓舞したり、意識を失わせたりする。そのうちに別の人格を作ることができるようになったんだ」

「別の人格を作るんですか? 自分の中にある別の性格を表に出すわけではなくてですか?」

「ああ、その通りだよ。自分の中にある性格を表に出すだけなら、講義の時間の自分を覚えていないというわけではないからね。どちらかというと、起きている間に夢を見ているという感覚かな?」

「夢ですか?」

「ああ、夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものだっていうだろう? それを自分の潜在意識のように思われている。確かに夢というのはそうなんだけど、それは寝ている時に感じることなんだ。人間もその気になれば、起きている間に夢を見ることができるんだよ。それが、自分の性格を作ることができるという感覚で、この感覚を持つことさえできれば、起きている間に夢を見ることができる。その時は、嫌なことでも我慢することなく、もう一人の自分にやらせればいいんだ。自分にない性格なので、もう一人の自分は文句をいうこともなく、今の自分が嫌だと思っていることを、喜んでするんじゃないかな?」

「まるでもう一人の自分は、今の自分の分身というよりも、召使いのようではないですか?」

「その通りさ。人間は自分の中にあるもう一つの性格を気付いている人もいると思う。自分の中の性格が一つしかないなんて人間はいないからね。だから、もう一人の自分を作ることだって可能なんだよ。それを可能にするには、考え方を変えなければならない。そのためには超えなければいけない壁があって、それが自分の中にある常識というものであり、その常識は、ずっと昔から培われたものなのさ。それが遺伝子の力であって、自分だけのものではない。先祖代々受け継がれてきたものだと考えると、自分の先祖にもう一人の自分を創造することも可能ではないのかな?」

「なるほど、平面を立体的に見ることも必要であり、立体から見れば、時間を超越し、もう一人の自分を創造できるというわけでしょうか?」

「乱暴な言い方をすれば、その通りだね」

 と、教授はニッコリ笑って、話していた。

「ところで教授は、どうして僕を今日誘ってくれたんですか? この間の学会の慰労の意味なのかと思いましたが、それだけではないような気がするんです」

 というと教授は少し黙って、おもむろに話し始めた。

「私は、君に私の研究を少しずつ伝授していこうと思っているんだが、君はよくこんな私についてきてくれていると思っているよ」

「いえ、そんなことはないですよ。ついていくのが必死で大変ですよ」

 これは黒崎の本音である。

「今までに何人もの助手を私は使ってきたけど、君はその中でも別格なんだ。さっき話をしたもう一人の自分というものを君は持っているような気がするんだ。君にはその自覚はないかね?」

 そう言われて、黒崎は考え込んだ。

 確かに、今までに気がついたら、時間が経っていて、その間の記憶が飛んでいるということもあったような気がした。そんな時に何か共通したものが存在しているわけではないので、気のせいだと思ってきたが、教授にあらたまってこの話をされると、それまで感じていたことが、まんざら気のせいではないように思えてならなかった。

「言われてみればですが、記憶が飛んでいたことがたまにあったのは、そういうことだったんですかね?」

「そうかも知れない。私にはそれをハッキリと『そうだ』と言えるだけの根拠がないんだ。だから私は君に興味を持った」

「でも、どうして僕にそんな感覚があるのを分かったんですか?」

「それは君が私の講義を受けている時、もう一人の私が感じたことpなんだ。もう一人の私が表に出ている時、私は意識がないのだが、もう一人の私が気づいた感覚は、今の私と共有できるものなんだよ」

「じゃあ、講義中の先生が僕に何かを感じたということですね?」

「そのようだ。ひょっとすると、講義中の君は、今の君ではないのかも知れないよ」

「えっ。でも、僕は講義中の意識が残っていますよ」

「じゃあ、君の抱いているもう一人の自分は、私の抱いているもう一人の私への感覚とは違うものなのかも知れないな。そう思うと、もう一人の私を感じているのは我々だけではないのかも知れない。そして私と君とでは今の話だけでも少し違っているのだが、他の人の感じている距離よりは、限りなく近いものなのかも知れないね」

「まさか、皆もう一人の自分を抱えているという考えも成り立つのかも知れませんね」

「そうだな」

 教授と黒崎は、少なからず興奮していた。それだけでも今日一緒に呑みに来た甲斐があったというものだ。

 だが、実際にはそれだけではなかった。予想もしていなかった出会いがあったのだ。それを黒崎は知ることになる。

 呑み始めると、あまり酒が強くはない黒崎は、少し酔いが回ってきたような気がした。黒崎の場合、他の人と違って、弱いくせに、顔にはすぐに出てこない。

 そのため、他の人から見れば、

「まだまだ呑めるじゃないか」

 と言われて、呑まされてしまうことが多い。

 もちろん、すぐには顔に出ないだけで、酔いは確実に身体を駆け巡っているのだから、酔っ払ったあとにめぐってくるのは、意識の喪失だった。

 だが、自分では酔っているという意識がすぐには訪れないのだから、

――まだまだ大丈夫だ――

 という意識が頭にあって、実際に酔いが回ってきた時には、制御不可能になってしまう。

 そんな自分をずっと、

――僕がいったいどんな悪いことをしたというのだ――

 と思ってきた。

 自分にとって不利な状況を生むということは、何か今までに自分が行った行動が災いしていると思っていた。

 それは宗教の考え方に似ているが、自分では決して固定の宗教とは関係ないと思っていた。しいて言えば、自分独自の宗教に近い考え方であった。

 しかし、その方が危険であるということを意識していなかった。心理学を志すようになったのも、何かをしてその報いが自分に返ってくるという考えを宗教とは切り離して考えたいという重いから生まれたものだ。

 つまりは、宗教を否定して、その代わりに何を肯定するかと考えると、心理学を勉強することで、自分が納得できる結論を求めることが一番だと考えたのだ。

 新宮教授は、黒崎のそんな考えを実は見抜いていた。

 黒崎には変に真面目なところがあった。

 自分が真面目であることをいいことだと思ってはいたが、それが自分を納得させることにはならないという、中途半端な状態の神経が存在していた。

 精神としては、自分が真面目であってほしいと思っているのに、神経はそれを納得していないとでもいうべきなのか。精神とは心を伴った考えで、神経は内臓をつかさどる、いわゆる脳から発信される身体の反応のようなものだと思っていた。

 こお考えは誰にも話していないが、黒崎の中では確立された考え方であった。

――もう一人お自分の存在は、この神経と精神が同じでないところから生まれてくるものなのかも知れない――

 と考えると、

――やはり、もう一人の自分を抱えているのが特別な人間ということではなく、誰にでももう一人の自分は存在していて、神経と精神が同じ人には、もう一人の自分を意識することができない――

 という考え方である。

 しかし、もう一人の自分の存在を、意識しないのであれば、それに越したことはない。ほとんどの人が自分の一生の中で、もう一人の自分を意識することなく生涯を終えるのではないかと思っている。

 だが、本当にそうなのか?

 特に、酒に酔って、前後不覚に陥り、意識がなくなってしまう時など、その間、もう一人の自分が表に出てきていないと誰が言えるだろう。

 だが、自分の身体は眠っている。目を覚ますこともなく活動を停止しているはずなのに、どうやって表に出るというのだろう。

 目が覚めてから、意識が戻るにしたがって、その間、時間の感覚がなくなっていて、意識がなくなってしまってから、いきなり目が覚めたと思うことがある。どちらかというと、こちらの方がまれな気がしたが、そんな時、自分の知らない間にもう一人の自分が出てきたのではないかと思うのだ。

 もう一人の自分が何かをしたというわけではないが、表に出てきたことを、眠っている自分に意識させないために、いきなり目が覚めたような気にさせたのかも知れない。つまりは、時間を抹消しなければいけないほど、もう一人の自分の存在はデリケートであるということであろう。

 時々、人から声を掛けられないと意識できないほどに、深い眠りに就いていることがある。そんな時、夢を見ていたという意識はあるのだが、もちろん、どんな夢なのか覚えていることはまれだった。

 しかし、そんな中で酒に酔った時だけは、機がつけば、夢の内容を覚えていることが多い。

――それだけ眠りが浅いんだろうか?

 眠りの浅い深いが、夢の記憶にどのような影響を及ぼすのか、一般的には、

「眠りが浅いと夢を見る」

 と言われているようだが、夢を見たという意識が残っているということは、夢の内容と覚えているのかどうかとは別問題である。

 黒崎の場合は、

――怖い夢だけしか記憶に残らない――

 と感じていたが、本当は、

――怖い夢だけしか見ていないのではないか?

 と考えたこともあった。

 しかし、夢を見たという意識があっても、内容を覚えていないというのは、夢は見ているに違いないが、目が覚めるにしたがって忘れてしまうからだ。

 忘れてしまうというのは、

――覚えているだけの価値のないような他愛もない内容だから――

 というのか、それとも、

――覚えていると、現実世界と混乱してしまうようなものだからなのか――

 というものなのか。

 もし後者だとすれば、それだけ夢の内容が希薄なものではないという証拠でもあり、本当は覚えていてほしいと思っているような内容なのかも知れない。

 だが、夢というのが潜在意識が見せるものだという一般的な考え方から鑑みれば、現実世界と混乱してしまうものであると考えるならば、自分の発想というのも、底が知れているものであるように思えてならなかった。

 黒崎が変に真面目なところがあると考えるのはこのあたりであろう。

 本当は、もう少し破天荒な性格であってほしいと思いながらも、どうしても限界を先に見てしまうことで、いくら夢でも、

――できないものはできない――

 と自分が納得できるかできないかをボーダーにしているのだろう。

 たとえば、

――夢であれば、空だって飛べるはずだ――

 と思っても、実際には、夢の中であっても、飛ぶことはできないでいる。

 そんな時、

――夢と言っても潜在意識なんだ。潜在意識と言っても、意識には変わりはないので、自分が納得できないものはできっこないんだ――

 と思わせた。

――自分の納得できることだけが意識だとすれば、納得できないものはいったい何になるのだろう?

 そんなことを考えていると、夢には、潜在意識だけでは説明のできない何かがあると思わせた。

 つまりは、それが、

――覚えておくことのできない夢――

 ということになるのではないだろうか?

 そんな夢が多ければ多いほど、自分を納得させられないものがたくさんあって、それを夢として見るだけ見せて、現実世界に引っ張らないように、忘れさせる機能を有しているのだという考え方だ。

――じゃあ、何のために夢って見るんだろう?

 忘れてしまうのであれば、夢なんか見る必要はないように思える。覚えている夢だけでいいのではないか?

 そんなことを考えていると、夢というものが、どこまで架空の存在なのかを詮索してしまう自分に気づいた。

――他の人も、覚えていない夢が自分と同じように、圧倒的に多いのだろうか?

 と考えたことがあった。それは大学に入った頃のことで、そんな時に話を聞いてもらえる人間というと、高田しかいなかった。

「高田君は、どう思う?」

 あらかたの考え方を話すと、

「うーん」

 と唸って、しばらく考えていたが、

「俺は、夢をそんなに見る方ではないと思っているので、確かに君のいうとおり、夢を忘れてしまうのは、現実世界と混乱しないようにするためだという意見には一理あると思っている。でも、君はどこか真面目すぎるところがあるから、考え方に遊びの部分がないんだよ。もう少し自分を納得させようなんて考えないようにしてみたらどうだい?」

 といわれたが、

「そうも思うんだけど、自分を納得させないと、どうにも考えていることが自分で自信が持てないんだ」

「何も自信を持つ必要なんかないじゃないか。夢なら夢に任せてみるというのも意識が楽になっていいんじゃないか?」

「それだと曖昧な考えにしかならず、次に考えが進まないんだ」

「次に考えが進むって、何をそんなに段階的に考えているんだい? 君の話を聞いていると、時間が先に進む時、心臓の鼓動のように刻むものがあるという考えではないかって思うんだ。つまりは、年輪のように、刻んだ証が形になって表れることが、君にとっての納得ではないかって思えるんだ」

 高田の話は、信憑性がある。

 信憑性というよりも、説得力があるというべきなのだが、彼のように人を納得させるだけの力があるのだから、当然、自分も納得させているに違いない。その理屈が、黒崎には何かあった時に一番に相談する相手が黒崎だという考えに至っているのだろう。

 そんなこともあって、黒崎にとって高田という男の存在は、

――自分の知らないことを知っている男――

 という印象が強く、尊敬に値する男だとも思っている。

 高田の方も、自分の中で、

――俺は不真面目だ――

 という意識があることで、黒崎に一目置き、こちらも尊敬に値する男だとして見ていたのである。

 だが、不真面目だと思っているのは高田だけで、黒崎の方はまったくそんな風には思っていない。

 不真面目という定義がどこにあるのかということであるが、高田から見れば、黒崎の真面目さは、苛立ちに値するものであった。

――意識しないようにしよう――

 と感じているくせに、実際には意識しないわけにはいかない。それが、高田には自分が忌々しいと思っているところであった。

 そのため、口では黒崎のことを、

「お前は真面目すぎる」

 と、皮肉をこめたつもりで話しているのに、高田から見て、決して真面目だということに後ろめたさを感じている様子のない黒崎に、余計に苛立ちを覚えるのだった。

 黒崎の方はというと、高田に真面目だといわれることを心外だとは思っている。しかし、真面目だと言われることに対しては、それほど嫌ではない。

 もし、相手が高田ではなければ、嫌な思いはしていないかも知れない。なぜそう思うのかは分からないが、それだけ尊敬の念を抱いている相手だから、しょうがないと言えるのではないかと思っていた。

 夢の中での黒崎は、決して真面目ではない。普段から苛立ちを隠せない性格の黒崎は、真面目すぎることで、少しでも自分の真面目な範疇を犯している人がいれば、意味もなく苛立ちを覚えることがあった。

 たとえば、歩いている時に見かける咥えタバコなどがそうである。

 今の時代では、歩きながらタバコを吸う人は、ほとんどいなくなった。そのため、咥えタバコは実によく目立つ。

 黒崎はタバコは吸わないので、実際には分からないが、ルールを守らないやつが一人でもいれば、タバコを吸っている人皆が悪者に見えてくるのだ。

――きっと他のルールを守っている喫煙者も、わずかな不心得者がいるために、皆から白い目で見られているという意識を持っているはずだ――

 と思っていた。

 実際に、嫌煙者からすれば、タバコを吸っている人すべてがうっとおしく感じるのだが、実際に不心得者さえいなければ、苛立ちを覚えることもないと思っていた。

――夢を見て、目が覚めて覚えていない夢というのは、そんな苛立ちも入っているのかも知れない――

 夢であれば、どうせ覚えていないという認識の中で、いくらでも苛立っている相手に制裁を加えることができるという思いからで、目が覚めてから覚えていたとすれば、その感覚が錯覚に変わってしまうことを無意識に恐れているからであろう。

「黒崎君は私の研究をどう思うかい?」

 急に教授から言われた。

「どうって言われましても、僕のようなまだ新人にはよく分かりません」

 これは本音だった。

 教授は自分の研究の内容を、助手と言えども、そう簡単には話さない。

「あれをしなさい。これをしなさい」

 という指示を出すが、それがどんな目的で使われるのか、なかなかすぐには分からないのだ。

 もちろん、最後にはその理由を明かしてくれるのだが、教授の指示のほとんどは、情報集めだった。いわゆる「足」として使われるのだ。

 それでも、研究の一端を担っているのだから、助手としてはやりがいのある仕事なのだが、自分が表に出ることのない黒子としての存在だと思うと、少し寂しく感じられるものだ。

 そのことを先輩に話すと、

「余計なことを考えなければいいのさ。助手は助手としての仕事をしていれば、そのうちに自分も上に行ける」

 という人もいれば、

「今の仕事をポジティブに考えれば、自分の肥やしになるわけだから、それはそれで充実しているんじゃないか? 下積みというのは、大切なことだよ」

 と言う人もいる。

 黒崎には、どちらの意見も納得のできるものだ。前者は消極的だが、余計なことを考えないということは大切なことだと思う。邪念があってはせっかくの仕事も雑になってしまう。雑になった仕事であれば、自分で納得できないのも当たり前だ。それが自分の中で堂々巡りを繰り返すことになり、それこそ余計なことを考えてしまう要因になりかねないだろう。

 後者はもう少し積極的な考えだ。

 しかし、黒崎には納得できるものではない。その理由は、

――当たり前すぎるんだ――

 当たり前すぎる説教は、説得力よりもう鬱陶しさしか生まない。

 説教というのは、それだけで当たり前のことなのだ。当たり前のことと言うのは、言われた本人にも分かっているものであり、ひょっとすると、当たり前のことがその人にとってはトラウマになっていることだってあるかも知れない。それをまるで鬼の首でも取ったかのように「ドヤ顔」で言われれば、これほど忌々しいものはないというものだ。

 だから、人は説教されることを嫌う。

 自分がどこかの宗教に入信していて、そこの教祖様が行う説教であれば納得できるものだろう。なぜなら、相手に対して、絶対的な優劣を感じているからだ。

 しかし、相手に対して優劣を感じない相手、つまりは尊敬のできない相手であれば、説教という名で説得されても、鬱陶しいだけでしかないのだ。

 それは相手が親であっても同じこと。尊敬できないと思っている相手であれば、いくら親でも、その説教には苛立ちしか覚えない。

 昔の親は、封建的なところがあるので、

――子供に対しては、自分が圧倒的な優越を持っている――

 と思っているに違いない。

 しかし、実際には親と言えども、人に説教できるだけの技量や才覚を備えていない人が世の中にはたくさんいる。

 子供の頃は親からの絶大な勢力圏内にいるので、子供にも親に対しての優越を感じているに違いない。それは子供が子供であるがゆえのことで、大人としての判断がつかない時である。

 しかし、子供もいつかは大人になるもので、大人としての技量が備われば、親に対して疑問が湧いてくるというものだ。

 それが思春期の反抗期というものではないだろうか。

 親を中心にした大人はそのことにどうして気付かないのだろう?

 親だって、子供の時があり、その時の子供と考え方が違ったとでもいうのだろうか?

 自分がどうして反抗するのか、大人になると忘れてしまうということなのか、それほど大人になるまでに超えるために犠牲にしなければならない何かがあるということなのか、黒崎はいつも感じていた。

――大人って、本当に自分勝手だ――

 と思っていた時期が確かにあった。

 それは中学時代であり、その対象のすべてが父親に向けられた。

 黒崎が心理学の道を志そうと思った遠因に、父親との確執があったのも事実だった。黒崎自身はあまり認めたくないと思っていたが、大人になればなるほど、その思いに自分の正当性を感じるのだった。

――本当にあの親父は当り前のことを当たり前にしか言わなかったな――

 と感じていたが、そのくせ、会社では同僚や後輩から慕われていると豪語していた。

 そのくせ、家に客を連れてくることはほとんどなかった。黒崎がまだ小さかった頃にはあったのだが、いつの間にか誰も連れてこなくなってしまったのだ。

 あれは黒崎の中学時代のことだった。

 黒崎は数人の友達と仲良くしていた時期があったが、いつもそのうちの一人の家に集まっていた。

 そこの父親は出張が多く、あまり家に帰ってこないという。友達は母親と二人暮らしで

そのため、

「今日は、もう泊っていきなさい」

 と、よく言われていた。

 友達の家に集まって遊ぶ時は、結構時間を感じることなくわいわいとやっていた。気がつけば、夜になっていることがほとんどで、友達の母親がそう言うのも、無理もないことだった。

「日が暮れて暗い中を、中学生と言っても、一人で帰すわけにはいかないからね」

 と言ってくれた。普通はその考えが当然ではないかと思えた。

「でも、皆ちゃんとお家の人の許可を取らないといけないわよ」

 と言われて、それぞれ自分の親に連絡を取り、そのほとんどが、

「それならしょうがないわね。ご迷惑のならないようにしなさいよ」

 と、ちゃんと許可を取っていた。

 しかし、黒崎だけはそうはいかなかった。家に電話を掛けるとまず母親が出るが、

「私では判断できないわ。お父さんに聞いてみる」

 と言って、父親に聞いているようだった。

 まず、この時点ですでに苛立ちを隠せない。

――どうしてお母さんは親父のいいなりなんだ?

 厳格すぎる父親にたいして、黒崎は苛立ちを覚えていた。両親のうち、どちらに最初に苛立ちを覚えたのかというと、父親の説教よりも、むしろ抗うことのできない母親に対してだったのだ。

 父親は決して電話に出ようとしない。

「お父さんは、早く帰ってきなさいって」

 と、父親の言葉をそのまま伝える母親、その言葉には覇気の欠片もなかった。

 しかし何が一番苛立つかというと、そんな状況でも、親に逆らうことができずに、親に言われた通り、友達の家から一人、家に帰らなければいけないと思う自分に対してであった。

「お母さんには、私の方から話してあげようか?」

 と友達のお母さんは言ってくれたが、そこで、

「お願いします」

 と言ってしまうことはできなかった。

 これは、プライドを持った人間としての最後の抵抗のようなものだった。もし、このまま友達のお母さんに言ってもらえれば、その日は帰らずに済むだろう。しかし、それでは今後の自分と両親の間には、決して破ることのできない結界が生まれてしまうと思ったからだ。

 そんなものができてしまっては、もう親との確執は決定的になってしまう。それだけはできなかった。いずれもう少し大人になれば、親から独立することもできる。それまで我慢すればいいだけのことだったのだ。

 もし、このまま怒りに任せて親との確執を決定付けると、家出でもしなければ収まりがつかない。そう思うと、もうどうすることもできないのだ。

――だけど、そこまでして親にしがみつかないといけないのか?

 中学生という中途半端な年齢での悩みは比較的に深いものだっただろう。次第に人間不信に陥り、人と関わることを拒絶してしまったのだ。

 それは今でも変わりはないが、大人になってくるにしたがって、少しずつ緩和されていった。その思いから、少し親に対しての確執は消えていたのだ。

 黒崎はそんなことを思い出していた。

 当たり前のことを話している人間を信じられなくなっていたのも事実で、全面的に信じないわけではないが、最初から疑って掛かるというのは、中学時代から変わっていない。

 教授を見ていて、

――この人は当り前のことを当たり前に話すことはしない人だ――

 と思っていた。

 教授はたまにテレビにコメンテーターとして呼ばれることもあったが、決して当たり前のことを推奨しようとはしない。常に反対意見を持っていて、その話が視聴者に受けるのか、たまにではあるが、コメンテータ―をしていた。

「教授のコメントって面白いよね」

 と研究員は口にしていた。

 しかし、黒崎は面白いとは思っていない。普段の教授の態度から見れば、モニターの奥にいる教授は実に大人しく、まるで、

――借りてきたネコ――

 のようであった。

「心理学の観点から、新宮教授のご意見を伺うのは楽しいです」

 とテレビのメインMCはそう言って、教授を持ち上げようとするが、教授は苦笑いの一つも浮かべず、相手を見下ろすような態度を取っていた。

 その様子は、教授のことを知っている人間にしか分からない。

 研究室では教授の出演している番組を研究所員が見ている。全員というわけではないが、希望者は見てもいいことになっていた。

「何か相手に訴えるような表情なんだよな」

 研究員の一人がテレビを見ながらそう言うと、

「そうなんだよ。しかも、それは俺たちのように教授のことをずっと前から知っている人でなければ分からない」

 と言うと、もう一人が、

「それも、初対面だったり、まだまだ馴染めていない人に対してこそ、そんな態度を取るんだよね」

「どうしてなんですか?」

 まだ新参者だった頃の黒崎が聞くと、

「それだけ教授が天の邪鬼だってことなんじゃないか?」

 と言って笑っていたが、最初に黒崎は、

――そうなんだ――

 と新人なるがゆえの納得を感じたが、そのうちに、

――そんなバカな――

 と考えるようになっていた。

 それは少し、

――自分が教授に慣れてきたからだ――

 と思うようになったからで、

――実際には自分の考えがまともに戻ったからではないか?

 と感じたからではないかと思うようになり、それまで自分がこの研究室のように異様な雰囲気に惑わされていたのか、それとも教授自身に惑わされていたのかのどちらかではないかと思うようになっていった。

 だが、さらに教授を深く見ていくようになると、

――やはりそうなんだ――

 と教授が天の邪鬼であるということを再認識したように思えてきた。

 教授がいきなり、

「黒崎君は私の研究をどう思うかい?」

 と聞いてきたのも、何か教授なりの裏があるのではないかと思えてきた。

 心理学を研究しているわりには、人が何を考えているかなどということは、あまり分かっていなかった。しかも、今回のように二人きりで刺しで飲んでいる場面でいきなり聞かれたのだから、ドキッとしないわけにはいかなかった。

――まさか、今日誘った目的がここにあるのだとすれば?

 と思うと、迂闊な返事はできない。

 教授を見ていて、

――教授が自分の父親だったら、どうなんだろう?

 と思うことがあった。

 本当であれば、教授と父親を比較しようと思うのだろうが、黒崎にはそんな考えはなかった。

――それだけ教授と父親では、まったく違う人間なんだー―

 と思ったのだろう。

――一体教授は何を考えているのだろう?

 と思うと、いつか先輩が話していた。

「教授が天の邪鬼」

 という言葉を思い出していた。

――天の邪鬼って一体何なんだろう?

 と思うようになったのだ。

「私から見ての教授の研究は、正直に言って、よく分かりません。教授はなかなか本心を明かしてはくれませんし、最後になって結論だけを教えられるからです」

 と正直に答えた。

「なるほど、君にしては、面白くない答えだね」

 と教授に言われた。

 黒崎としては、自分の思っていることを話すと教授に嫌われるかも知れないと思ったが、それでも勇気を持って正直に感じていることを話したつもりだった。

――やはり教授に嫌われたかな?

 と、唇の端を思わず噛んだ。

 その様子を見て、教授は少し苦笑いをして、

「別に君のことを嫌っているわけではないよ」

 と心を見透かされているかのようだったが、きっと今の唇を噛んだ仕草が教授の目には、苦虫を噛み潰したように見えたのだろう。

「私がいつも君たちに最後しか話さないのは、君たちなら、最後だけを話しても、そこからいろいろ想像して、自分たちの勝手な想像を膨らませてくれるだろうと思ったのさ。その発想は当然人それぞれで、一つとして同じものはないはずさ。本当は最初から明かしていても、誰として同じ考えをしていないだろうとは思うのだが、結論からの帰納法は、私にとっても、これからの研究材料になりうるのさ」

 と教授は語った。

「ということは、教授は我々研究員の考えが分かると言われるのですか?」

 というと、

「そこまでは言っていないさ。そんな簡単に分かるほど、人間の心裏は簡単なものではない。今私が言った『しんり』という言葉は、漢字で書くと、『心の裏』と書くのさ。皆が私に対して、少なからずの不信感を抱くことになると思うが、その気持ちも『心の裏』に潜んでいるものだろう? その不信感が心の裏に潜んでいるからこそ、その内容が表に出やすいんだよ。しかも、その場合の内容というのは、相手の心を読もうとしている人間には看過しやすいものなんだ。それこそ私の狙いでもあるんだよ」

 という教授の言葉に黒崎は愕然とした。

――そこまで考えていたなんて、さすが教授だ――

 と、自分がこのような教授の下で働けることを、黒崎は誇りに感じたほどだ。

 しかし、その時黒崎は、教授の本心がどこにあるのかを計りかねていた。

 いや、正確に言えば、教授の考えを分かっていたつもりだったのだ。それが落とし穴であり、教授の最初から考えていた策略でもあった。

 もちろん、そんなことがすぐに分かるはずもなく、教授の言葉を信じてしまったことを後になって後悔するのだが、それはまた後のお話だった。

 教授は黒崎の気持ちを知ってか知らずか、また話し始めた。

「心理学というのは、答えは一つではないというのが私の持論なんだよ」

 という言葉に、黒崎は一瞬、どのように反応していいのか考えていたが、

「そうなんですか? 僕にはよく分かりません。それは結論が出ないということを言われているようにしか聞こえないんですけど」

 と、少し訝しそうに怪訝な表情で聞き返すと、

「そんなことはないさ。それだけ心理学というのは奥が深いということさ、僕は『心理学』ではなく、『心裏学』だと思っているくらいさ」

 と、教授はカバンの中からメモとペンを取り出して、心理学と書いて「×」をし、心裏学と書いて「○」を書いてみせた。

「なるほど、教授の話を聞いていると、それだけ奥行きが深いということは、学問という可能性には、まだまだ伸びしろがあるということでしょうか?」

 というと、

「伸びしろは確かにあるが、私はインフィニティという発想もありではないかと思うんだよ。いわゆる『無限の可能性』だね」

 教授はそう言って、口にビールを注ぎ込んだ。

 黒崎もそれを見ながら自分も口にビールを流しこんで、

「だから、学問や研究というのは、太古の昔から続いているわけですね」

「その通りさ。過去から積み重ねられた無数の結論だけでは、まだまだ研究に可能性は残されている。どれほどの可能性なのか分からないが、少なくとも、終点が見えているわけではない。それは、見えているのに見えていないわけではないから無限なんだって思っているだろう?」

 と教授に聞かれ、

「えっ、だから無限の可能性なんじゃないですか?」

「そんなことはないさ。先が見えているからこそ、無限の可能性があると言えるのではないかと私は思っている」

 という話を聞いて、

――教授も僕に負けず劣らずの天の邪鬼なんじゃないかな? 天の邪鬼でなければ、きっと学問の研究なんかできやしないんだ――

 と感じた黒崎だった。

「どういうことでしょうか?」

「無限の可能性なんて言葉は、結局は人間が作っているということさ。人間はそのことを分かっているから、無限の可能性というのを人間以外のものが作り上げたものだと思いたいと感じる人たちがいる。それが神様を信じるという信仰であり、神様というものも、所詮人間が作り上げたものなんだよ」

 と、サバサバとした様子で教授は語った。

「じゃあ、教授は神様や宗教は信じないと言われるのですか?」

「そうじゃない。確かに宗教の考え方というのは無理があると思っているけど、決して人間だけが偉いという考えではないんだ。人間には不可能かことが、過去にはたくさん起こっていることを遺跡が証明しているじゃないか。私はそのことも信じているつもりなんだよ」

 と教授は言いながら、また一口、ビールを口にした。

「僕は、教授が人間嫌いなんじゃないかって時々思うことがあるんですが、僕の思い込みなのでしょうか?」

 教授が人間嫌いだというウワサは、黒崎だけが考えていることではなかった。誰も口にしないだけで、そう思っている人はたくさんいると思っている。実際に最初にそのことを口にしたのは高田だった。彼は笑いながら話をしていたので、意識しなければ、そのときだけの戯言として忘れ去られていたことだったのかも知れない。

 しかし、黒崎はその時の高田の話が忘れられなかった。唐突に何かを口にする時の高田の言葉には説得力があった。高田という男が思いついたことをとにかく口にしておかないと気がすまない性格であることは分かっていた。いや、高田がそのような性格であると確信した時が、この時だったような気がしたくらいだ。

 黒崎もきっとあの時の高田と付き合っていたことで、唐突に何かをいうことが多くなったような気がする。そして、その時に口にしたことは、間違いなく自分を納得させるために口にすることであった。この時も教授にいきなり尋ねたのも、教授の性格を自分なりに納得させたいという思いがあったからに違いない。

 すると、教授はおもむろに答え始めた。

「人間嫌いねぇ。確かにそうかも知れないね。心理学を研究しようと思った時点で、私は他の人とは違うという思いに駆られたからだって感じたからね。私はこの時、心理学を心さ像とした人は、必ず一度は人間嫌いになるものだと信じていた。その思いは今も変わらないし、一度でも人間嫌いになった人は、元々人間嫌いという持って生まれた性格を抱えて生きていると思っているんだよ」

 教授は、ため息をつきながら、まるで自分に何かを言い聞かせているかのようだった。

「実は僕も人間嫌いだと思っています。人間嫌いというよりも、他の人と同じでは嫌だという思いが強いので、それが人間嫌いだといえるのかどうか、よく分かりませんでしたが、今の教授の話を聞いていると、僕も人間嫌いなんだって感じました」

 教授を尊敬しているからだという思いからではなかった。むしろ、自分以外にも人間嫌いの人がいるということがハッキリしたことで感じたことだった。だから、相手は教授でなくてもよかった。むしろ教授よりも高田に対して最初に感じてみたかった。

 高田という男は、どこか他の人と違うという面を持っていた。ただ、その内面を決して人に見せようとはしない男で、決して自分から真面目な話をすることはなかった。こちらから真面目な話を投げかけると、いつも反対意見を返してくる。彼が自分から話をする時というのは、あまり真面目な話ではないのだが、いつの間にか彼の話に引き込まれていて、術中に嵌ってしまったという意識が強い。

「高田君は、心理学とか専攻した方がいいんじゃない?」

 ゼミを選ぶ時、自分が心理学に進みたいと思っていたので、高田にも同じように進んでほしいという思いから、そういって誘いかけたことがあった。

「心理学は興味がないな」

 黒崎には意外な気がしたが、なぜかホッとした気分になったのも事実だ。

 自分から誘っておきながら、どうしてそんな気持ちになったのか、逆にその時、

――どうして高田を誘ったりしたのだろう?

 と感じたほどだった。

 そう思っていると、今度は高田がどうして心理学に興味がないと言ったことに対して興味が湧いてきた。

「どうして、興味がないんだい? 高田君なら興味を示してくれそうな気がしたんだけどな」

 と聞くと、

「心理学というのは、人間の心を研究するものだろう? 俺は人間の心というのは科学だって思ってるんだ。科学というものは、人間が足をどこまで足を踏み入れていいものなのか、そこが難しいと思うんだよ。たとえばタイムマシンの問題や、ロボット問題のように、研究すればするほど、踏み入れてはいけない問題に直面してしまう。そこには結界があって、絶対に踏み込めないんだよ。でも、ある一定の瞬間に、踏み入れることのできる時があると思うんだ。その時に足を踏み入れてしまうと、二度とこちらの世界には戻ってこれない。そんな世界なんじゃないかって思うんだ。そういう意味では、科学というのは人間にとっての両刃の剣じゃないかってね。だから、俺は最初から興味を持たないことにしているんだ。特に科学の中でも人間の心理というものは、絶えず蠢いているもので、生き物なんだよ。それを犯すことは俺にはできない」

 その話を聞いていると、高田はしっかりと自分で自分を納得させながら話していると思えた。

「なるほど、それが高田君の意見なんだね」

「ああ、そうだよ。でも、心理学の研究というもの自体を否定はしない。だけど、心理学を研究する人にはそれなりの資格がいると思うんだ。俺にはその資格はないと思ったから、興味がないと言ったんだよ」

 その話を聞いて、

――果たして、僕はどうなんだろう?

 黒崎は自分に問うてみた。

 自分は何も答えてはくれなかった。肯定もしないし、否定もしない。自分を納得させるだけのものはなかった。

 しかし、結局は心理学の道に進んでいた。肯定も否定もしない自分を納得させるには、やはり心理学を専攻しなければいけないと感じたのだ。根拠もなければ信憑性もない。思いつきと言われればそれまでなのだが、やめる理由もなかった。

 確かに高田の言葉には説得力があったが、それはあくまでも高田自身の問題である。自分に当てはまるものではないと感じた黒崎は、最初に感じた、

――自分は他の人と同じでは嫌だ――

 という思いに正直にいようと思った。

 そのためには、自分を納得させるのが一番だと思い、

――科学としての心理学――

 を追求してみたいと思ったのだ。

 心理学の勉強は難しく、なかなか頭に入るものではなかった。いくつか興味のあることはあったが、その部分については、必死に研究した。しかし、研究すればするほどたくさんの可能性が頭の中に浮かんできて、そのどれもが正しいように思え、間違っているかのようにも思えた。

――心理学というのは、永遠のテーマを捜し求めるようなものなんだろうか?

 と考えると、高田の言っていた、

「心理学というのは、人間の心であり、人間の心は科学なんだよ」

 と言っていたのを思い出した。

 黒崎は、心理学を勉強を続けていくうちに、次第に自分が人間嫌いになっていくのを感じた。

「心理学というのは、人間の心の裏も表も見ることになるからね」

 という、心理学の原点のような話を教授がしていたのを考えるたびに、どんどん人間嫌いになっていったのだ。

――僕だって人間の一人なのに――

 と思ったが、次の瞬間、

――自分を人間だって思いたくないんだろうか?

 と感じると、

――ではいったい人間って何なんだ?

 と思うようになった。

 まるで三段論法のように感じ、三段論法というと、必ず最後には元の場所に戻ってきて、どこをどのように巡ってきたのか、そして、その場合の近道があったのかなかったのか、それを探している自分に気がついた。

「人間は、輪廻転生という言葉のとおり、一度死んでも、また生き返るという考えがある。これは、心理学でも同じことであって、その究極の考え方を何だと思うかい_」

 と、教授に聞かれたことがあった。。

「何なんでしょう?」

「私はそれを、人間の限界だって思うんだ。魂の数に限りがあるから、転生するんだってね。心理学も同じさ。考えれば考えるほど奥深く入り込むけど、最後には同じところに戻ってくる。結局、堂々巡りを繰り返すのが人間であり、その内面をつかさどっているのが、心理だということさ」

 と話してくれた。

「人の心に裏と表があるとおっしゃいましたが、果たしてそれだけなんでしょうか?」

 と、黒崎が言った。

 黒崎はその言葉を言った後、

――あれ?

 と感じた。

 その理由は、自分で口に出しておきながら、自分の考えたことではないように思えたからだ。どこかの誰かが黒崎の口を使って言わせたかのように感じた。

 教授はその言葉を聞いて、ニヤッと微笑んだ。

「やはり、私の目に狂いはなかったかな?」

「どういうことですか?」

「黒崎君なら、そういう奇抜な発想をしてくるんじゃないかと思っていたが、まさしくその通りだったね。今君が言った話は、まさしく今私が考えていたことなんだよ。裏と表以外に何があるというんだ?」

 と言われて、たじろいでしまった。何しろ、自分が考えて口にしたわけではないと思っているからだ。

 しかし、勝手に口から言葉が出てきた。

「人の言葉を聞いて、いつもではありませんが、時々その裏に考えていることを探ってみたくなることがあるんです。そんな時、浮かんできた発想があるんですが、その発想から今度は表を見返そうとして、裏の裏を読んだ時、本当に最初に考えたことだったのかどうか、分からなくなることがあるんですよ」

「つまりは、裏の裏が表ではないということだね?」

「ええ、その通りです」

「なるほど、私がさっき言った言葉を覚えているかい? 人の心も科学だと言っただろう? その言葉の意味の一端がここに隠れているんだよ。つまりは、裏の裏が表であるという発想は、何も動いていないという前提があってこそ、ありえることなんだよね。でも実際には、時間というものが動いている。そして、時間に対応して人の心だって動いているんだよ。つまりは、発信地店と着地地点ではかなりのずれがあっても仕方がないということだね」

 と教授がいうと、またしても、黒崎は思いもしないことを口にしていた。

「まるで、アインシュタインの相対性理論のような感じですね。時間と速度の関係を思い出したのですが、速度が光速を超えると、同じ時間でも、ゆっくり過ぎていくという発想ですね。つまりは、光速で進んでいる自分は数分しか経っていないのに、普通のスピードの人間には、一年以上経過しているというような発想ですね」

 それを聞いた教授は、

「そんなに大げさな話でなくとも、慣性の法則というのがあるだろう? あれも同じではないかと思うんだ。たとえば、電車に乗っていて、そこで飛び上がっても、着地するところは、電車の中なんだよ。電車の中という世界は、他の空間とは別の空間を形成している。だから電車の中独自の着地点があるんだよ」

 黒崎はその話を聞いて、

――なるほど――

 と感じた。

 さらに教授は続けた。

「だから、裏からその裏を覗こうとすると、そこが電車の中のような特殊な空間であれば、同じところに着地するので、表に戻ってくるのだろうが、他と同じ一般の空間であれば。裏から裏を覗くと、時間が経過している分、違うところに着地する可能性が高いと思うんだ」

 と言って、微笑み返した。

「それでは数学のような公式は、人間の心には通用しないということですか?」

「そうだね。人間の心だって科学だと思っていると言っただろう? それは間違いないんだけど、人間の心という科学は絶えず動いていて、決まった答えなんか存在しないのではないだろうか?」

「じゃあ、答えはいっぱいあるということでしょうか?」

「それこそ、無限の可能性というのは、このことを言うんだろうね」

 他の人から、

「無限の可能性」

 などという言葉を聞かされると、まるで絵に描いた餅のように、薄っぺらいものに感じられるが、教授がいうと、説得力がある。それを感じることができるのも、黒崎は自分の中に自分以外の誰かを感じたからであろう。

――自分以外の誰かって誰なんだ?

 最初は、高田がいるような気がしていた。

 高田という男、非常に気になる男であった。彼のような男こそ心理学を研究するにふさわしい男なのだろうが、どうして心理学をそんなに嫌がるのだろう?

「先生、僕の中にもう一人、誰かがいるような気がするんですが、それが誰なのか分からないんですよ」

 というと、教授はニッコリと笑って、

「心当たりがあるんじゃないかい?」

 と言われて、一瞬ドキッとしたが、すぐに、

――教授くらいになれば、これくらいのことを見抜くのは、朝飯前なんじゃないだろうか?

 と感じたが、教授はそれを見越してか。

「私には君が考えていることを分かるほどの力はない。人が考えていることが分かるというのは、洞察力だけではダメなんだ。相手との相性がピッタリでないと考えを見抜くことなんかできやしないんだ」

「そんな都合のいい人がいるはずもないですよね」

 と黒崎がいうと、

「そんなことはない。世の中には自分にソックリな人が三人はいると言うじゃないか。外観がソックリな人が三人もいるんだったら、相性がピッタリの人はもっとたくさんいてもいいはずだよね。そういう意味では、自分にピッタリの相性の人は、意外と身近にいたりするものだよ」

「でも、さすがに、相手の考えていることを見抜ける人となると、確率はぐんと下がってしまいますよね」

「それはそうだろうね。でも、自分が相性がピッタリだと思うと、相手も何となくそのことに気づくというもので、お互いが相性を分かち合えれば、気持ちを感じることができる確率はかなりのものではないだろうか」

 教授の話にはいちいち納得させられる。

――ひょっとして、教授が自分にとっての相性がピッタリの相手ではないか?

 と感じたが、教授を見ていると、黒崎との相性を合わせているようには思えない。そう思うと、やはり相性が合う人間は他にいるに違いない。

 教授の話を聞きながら、高田のことを思い出していた。

 高田という男は、実は現在行方不明になっていた。一緒に大学を卒業して、彼は建設会社に入社したはずだった。

 しかし、その頃の高田は、大学に入学した頃のような、黒崎から見ての、

――頼もしさ――

 がなくなっていた。

 就職が決まって、卒業前あたりからであろうか、急に高田の方から黒崎を避けるようになっていた。

「一緒に呑みに行こう」

 と黒崎の方から誘っても、

「いや、俺はいい」

 と言って、黒崎の誘いを断っていた。

 以前は、高田の方が黒崎の予定を構うことなく誘ってきたにも関わらず、こちらから誘うと、けんもほろろに断りを入れるというのは、少し虫が良すぎるように感じた。

 だが、高田を見ていると、黒崎から怯えを感じるようになった。ただ、それは苛められっこが苛めっ子に感じているようなそんな怯えではない。寄ってくる相手を反射的に避けているようなそんな雰囲気だ。目線を下から上に向けていて、今までの上から目線ではない高田に対して、黒崎の方も怯えを感じるようになっていた。もし、黒崎の中に誰かが潜んでいるとするなら、その時に感じた怯えから、

――高田なんじゃないか?

 と感じたのも無理もないことだった。

 黒崎はそのことを教授に話そうかどうしようか迷った結果。話すのを躊躇してしまっていた。すると、教授の方から、

「自分の中に誰かがいるという感覚を持つ人は結構多いんだけど、すぐに、『そんなバカな』と言って否定するんだよ。あまりにも一瞬で否定してしまっているので、本人も誰かが自分の中にいるということを感じたということも、それに対して何かを考えようとして、すぐに否定してしまっていることに気づかないものなのさ」

「まるで夢の中のようですね」

「ああ、そうだね。夢はどんなに長く見ていたように思ったとしても、目が覚める前の一瞬で見たと言われているからね。だから、夢は目が覚めるにしたがって忘れていくものだって思うんだよ」

 教授の話はよく分かった。この意見は、黒崎も普段から感じていることだったからである。

 黒崎が三年生の頃、高田が行方不明になるという夢を見たことがあった。まさかそれが正夢になろうなどと思ってもいなかった。しかし、その時の夢やいやにリアルで、このことを本人に話していいかどうか悩む必要がないほど、黒崎には不気味な内容だった。

 もちろん、夢の内容を全部覚えているわけではない。しかし、目が覚めるにしたがって忘れてしまうのが夢だと思っているわりには、目が覚めてからもしばらくは意識から離れないほどのリアルさがあった。

 当の本人から、

「どうしたんだ、黒崎。そんなに怯えて」

 と言われたほどだったが、心の奥を見透かされているようで怖くて、何もいえなかったものだ。

 だが、実際には高田は黒崎のことをよく分かっていたようだ。

 高田がいなくなる夢を見てからしばらくして、高田は、

「俺がいなくなったら、お前は俺のことを気にしてくれるのかな?」

 と言われたことがあった。

「それはそうだろう。大学に入ってからずっと友達じゃないか」

 と言うと、高田は軽く首を横に振りながら、

「君は、そんな男じゃない。俺のことなんかすぐに忘れるさ」

 と言ったが、その言葉を否定するだけの力が黒崎にはなかった。

――こいつ、僕のことを看破しているようだ――

 見透かされていると思ったが、ビックリはしなかった。

――お互い様じゃないのかな?

 と、黒崎も高田のことをだいぶ分かってきているように思ったからだ。

 そう思うと、黒崎は自分の目の前からいなくなる高田を想像することができた。それは高田のことではなく、自分のことのように感じられたからだ。

――もし僕が今、行方不明になったら、誰か気にしてくれる人っているんだろうか?

 彼女がいるわけではないし、親は一応は気にしてくれるだろうが、どこまで本気で気にしてくれるか分かったものではない。

 親も今、実は離婚調停中とのこと。子供にかまっている暇などないかも知れない。

 黒崎が心理学を志すようになった理由のひとつに、親との確執があった。大学に入ってから一人暮らしを始めると、余計に親との距離は決定的になり、

「子供は親を選べないんだから、子供が大人になれば、親と距離を置いてもいいじゃないか」

 と思うようになった。

 実際に親の方も、それぞれでよろしくやっているようで、父親の不倫が発覚してから、家族はバラバラになってしまった。

「遅かれ早かれ、こうなることは決まっていたんだよ」

 と、母親は黒崎に話したが、それは開き直ってからのことだった。

 開き直るまでの母親は、惨めなほど、父親への執着があり、不倫相手と愛憎絵図を描いていた。

 あれだけ厳格だった父親が、取り乱した母親を止めることができずに、オタオタしている。そんな姿を見ながら、

――遅かれ早かれ、どうせ親父はこうなる運命だったんだ――

 と感じたが、母親も開き直ってから、自分と同じような感覚になるとは思ってもいなかった。

 なぜなら母親は、性格的に自分とは似ても似つかないものだと思っていたからである。

黒崎にとって母親という存在は、実に薄っぺら存在であり、厳格な父親の傀儡でしかないと思っていた。そこに感情はなく、すべて父親のいいなりになっていて、何があっても怒らないと思っていた。

 それなのに、父親の犯した不倫で逆上してしまうなど、想像もしていなかった。

 だが、少ししてから母親の逆上の意味が分かった気がした。

――母親は、父親のいいなりではなく、自分の考えている通りに父親が動いてくれればそれでよかった。自分の思った通りであれば、自分が影に隠れていたとしても問題はない。要するに自己満足を父親の行動に求めていたのだ――

 と感じた。

 しかし、そんな父親が、他の人に気持ちを奪われれば別である。父親が自分の思った通りに動くというのは、気持ちが母親にあるからありえることで、大前提として成り立っていることであった。

 その大前提が崩れると、母親は逆上してしまっても無理もないだろう。今まで自分を犠牲にしてでも自己満足を最優先にしてきた母親にとって、父親の不倫は、

――裏切り行為――

 である。

 しかし、この場合の裏切りという感情は、他の人が感じる裏切りとはレベルが違っている。何しろ、父親を影で操っていたとまで思っていた母親にとって、容認できるものであるはずもない。

 もちろん、父親は必死で謝っていた。まわりの人から見れば、あれだけ亭主関白に見えた人が、体裁を考えずに必死に謝っているのである。こんなに情けないことはないだろう。

 内情を分かってきた黒崎にとって、

――他の人の視線は所詮、好奇の目でしかないんだ――

 と思えていたので、自分も他人の目で見るようにしていた。その方が両親に悟られることなく、先を読むことができる。

 さらに、自分の心理学の研究材料としても使える。今まで自分に対して行ってきた封建的な対する復讐でもあった。

 すると、開き直った母親の行動は、想定外でもあった。

 てっきり、相手の女に慰謝料を請求し、父親と離婚するものだろうと思っていた。

 しかし、母親は離婚を承諾しない。もちろん、相手の女から慰謝料をもらおうとも思っていないようだ。

 ただ、想定外だったのは、最初だけで、表から見ていると母親の行動は別におかしなことではなかった。

 別に父親に未練があるわけではないのは分かっている。本当なら開き直ったのであれば、相手からお金をもらって、さっさとあんな父親と別れてしまえばよかったのだ。しかし、どうやら母親は父親に対して執着しているというよりも、自分の思った通りの行動をとってきた、

――パートナー――

 としての父親を手放したくないようだった。

――父親がいてこその母親なんだな――

 母親の生きがいがどこにあるのか、息子の黒崎には分からない。

 だが、父親を手放すことは、母親にとって自分の生きがいを手放すことになると分かったのかも知れない。開き直ったというのは、父親への決別を感じたわけではなく、父親が手放すことのできない相手であるということを再確認したという意味だったようだ。

――これじゃあ、父親は飼い殺しじゃないか――

 ひょっとすると、父親は自分が母親に操られている傀儡だということに始めて気づき、その思いが不倫に繋がったのかも知れない。

 ということは、母親にとって父親の不倫は予見できたことではないだろうか。

 確かに予見はできても、目の前で不倫という事実を突きつけられると、女としての母親の血が燃焼したとしても、それは無理もないことだ。

 そういう意味では、父親を気の毒に感じることもできるだろう。本当に恐ろしいのは、父親を糸で操っていた母親なのだ。

 それなのに、自分は母親を、

――父親のいいなりになっている――

 として、軽蔑していた。

 それだけ軽視していたというべきだろう。

 しかし、息子にすら軽視されるほど自分を隠すことができた母親は、末恐ろしい存在ではあるが、心理学の研究には絶好の材料でもあった。

 しかし、黒崎は自分という人間の存在を、両親を見ていて不思議に感じられた。

――僕はこれからどうすればいいんだろう?

 心理学の研究だけをしていていいのだろうかという思いもうっすらと現れるようになった。

 そんな時、教授に声を掛けられ、研究員として教授の助手をしている。それはそれで自分を納得させることができるのだが、何かひとつ物足りない気がした。

――もし、教授が僕を何かの実験台に使うといえば、引き受けるかも知れないな――

 と勝手な想像をしたりした。

 これが本当の科学者だったら、冷凍装置に入れられて保存されることで、何十年か後に蘇生させられるのを想像してみたりした。

――小説の読みすぎか?

 と感じた。

――僕にもあの両親の血が流れているんだろうか?

 表から見た両親は、その実、二人の間では立場が正反対だ。

 ただ、それはあくまでも二人の間でのことであって、どうしてまわりの誰にも悟られることはなかったのだろうか?

 息子の黒崎に対してすら分からなかったのだ。他の人に分かるはずもない。

――いや、逆かも知れない――

 息子の黒崎だからこそ、どう見ても、父親の威厳に母親が黙ってついていっているという思いを間違いのないものだと考え、疑う余地がなかったのだ。

――だが、なぜそんな演技をしなければいけなかったのだろう?

 まず、誰に対して偽りの夫婦を演じなければいけなかったのか、黒崎には分からない。父親は自分が苛まれている状況にいるのに、自分が威厳を持っているように演じるなど、普通の精神ならできるはずもない。逆にそれができる父親に一目置けるほどだ。母親に対しても、あんなに卑屈な態度を取りながら、実は目で指示をしているということなのだろう。その蔑んだ目は、本当は誰に向けられていたのか、相手は父親だけではないだろう。

 考えれば考えるほど分からなかった。最初は相手が自分だと思った黒崎は、そんなことをされる理由が思いつかない。両親にとっての共通の知り合いもそれほど多くなく、後は自分にとっての祖父、祖母などの、身内に限定されるかと思うが、それも見当たらなかった。

 ただ、二人が共謀していたとも考えにくい。共謀していたのであれば、父親の不倫で、離婚調停などありえない。考えれば考えるほど、ありえないことばかりである。

 だが、実際に偽りの夫婦を演じていたのは事実なのだ。どこかに理由があるはずで、黒崎は消去法でしか、その答えは見つからないと思えた。

 しかし、消去法を用いるほど、二人のことを知っているわけではない。消去法とは、百パーセントであることが前提で、すべてを知った上で消去していかないと、何にもならない。

――結局、二人の間のことは、二人にしか分からないんだ――

 という結論にしか行き着かない。

 そう思うと、中学時代に友達の家から一人帰らされたあの屈辱から、両親に対して一歩下がって見ることにしたことで、両親とはかかわりがないと思うようになった黒崎だが、――完全に、もう自分の知ったことではない――

 と思わせるほど、肉親に対して冷めていた。

 その頃から、誰に対しても冷めた目で見るようになり、たとえ誰かに裏切られたとしても、

――僕の知ったことではない――

 と思えるようになりたいと思っていた。

 そうなるには、誰も信じられないという気持ちを持つことしかなかった。そんなことを誰かに話でもすれば、

「そんな寂しいことを言うなよ。自分が孤立するだけだぞ」

 と言われることだろう。

 しかし、黒崎は両親からの仕打ちを、屈辱だと感じるようになってから、寂しいなどっという感情はなくなっていた。

 つまりは、

「孤立も孤独も、別に悪いことではない。寂しいなんて感情を持たなければいいんだ。ただ、それだけのことじゃないか」

 と言えたのだ。

――僕のこんな感情を知っている人はそうはいないだろうな――

 と感じていた。

 もし、いるとすれば、二人だと思っている。

 一人は、高田である。彼は誰に対しても同じ態度しか取らない。そこに優先順位は存在せず、まるで形式的だというべきか、血の通っていないロボットのようなところがあった。それなのに、なぜか黒崎に対しては感情をむき出しにしてきた。何か通じるものがあるのだろう。

――そういえば、高田と話をしている時、まるで電流が走ったかのように感じることが何度かあったな――

 と感じていた。

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