第3話 H氏、書道検定を受ける

 私の大事な「ノラネコぐんだん」のタオルが、汚されていた。朝、お洗濯物を干すときに気がついた。H氏の仕業に違いない。昨夜の深夜活動は、書道だったか……。


 H氏、ほぼ定時に仕事から帰ってくる。しかも、彼は徒歩通勤。なんと、職場と家との距離は一キロも離れていない。子どもの学校よりも近いくらいである。「通勤時間が短いほど、人間はストレスが少ない」というのが、彼の持論だ。

 曜日によって違いはあるものの、ほぼ午後六時には、ご帰宅。夏ならば、これから何をしようかな、というほど外は明るい。H氏は、狭いお庭のパトロールを始める。

 「Hちゃん、パトってこよっかな~」

 ~かな、は、断言の語尾である。パトってくれたまえ。

 パトが終わると、H氏は、大好きなYouTubeチャンネルの視聴タイムに入る。子どもがピアノの練習をしているので、その邪魔にならないように、イヤホンを付けてのお楽しみタイムだ。

 「むふっ」

 H氏の、息でしかない笑いが、ピアノの音に混じる。基本、H氏は、しゃべり出さなければ静かな人である。出されたおやつを食べながら、YouTube視聴は続く。

 子どものピアノが終わると、

 「Hちゃん、ご飯~」

 と呼ばれ、H氏は食卓へやってくる。

 そして、H氏、ものの五分で食事をたいらげる。ものすごく、食事の速度が速いのだ。私が何時間かかって……、いや、これは今はよしておこう。

 食事が終わると、H氏、退散。再び、ソファへ戻ると、ゲームを始めたり、読書をしたり、趣味の時間を満喫し……、寝てしまう。すぐに、眠くなるH氏である。

 その間、私と子どもはおしゃべりをしながら、三、四十分くらいは、食事の時間を楽しむ。H氏、食卓には不在である。たまに、三分ほどおしゃべりに参加することはあるが、自分が言いたいことだけを言って(声が小さいので、半分は聞き取れない)、去って行く。

 私は、食事の後片付けを済ませ、子どもは勉強を済ませ、入浴後、寝室へ入る。


 こ・こ・か・ら・が、H氏の深夜活動タイムだ。

 私は、だいたい、H氏がどんな深夜活動を行っているのかを把握している。

 道路工事のような低音が寝室まで響き渡ってくると、H氏が好きなジャズ鑑賞。これまた、別の重低音が響いてくると、H氏の好きな、ハリウッド映画(ドンパチものと私が呼んでいる、人が次々攻撃されるものである)鑑賞、とだいたい決まっているのだ。

 そして、ここで、もう一つ、H氏が最近、傾倒している趣味がある。

 書道である。

 彼は、集中力がある上に、粘り強いので、次の書道検定に向けてちゃくちゃくと練習を積み重ねてきた。

 家には、どどんと重い半紙の束が、何度も宅急便で届いた。宅急便のお兄さんも、その不自然な重さから、何が入っているのか不思議そうだったが、中身は半紙である。薄い半紙も、束になればそれなりに重たい。

 H氏は、筆にも凝った。

 「これ、マカロンカラーっていうの」

 楽しそうに、軸がかわいいピンク色をしている筆を見せてきて、とてもいいから、と子どものNにも取り寄せてやっていた。


 そして前夜、私の「ノラネコぐんだん」タオルに、何カ所も墨を付けたのである。

 まさか、筆を拭いた?

 それは、あるまい。まさか……。

 H氏が、タオルを汚す前に、予兆はあった。洗面所備え付けの布巾が何枚か、墨で汚されていたのだ。それは、朝、神棚のお榊のお水を替えるときに使う布巾である。だから、あまり汚して欲しくはなかったのだが、そう言うと、代替え品を準備するしかなく、洗面所を布巾だらけにするのも嫌だったから妥協していた。そこからの、「ノラネコぐんだん」である。

 墨は、落ちない。……仕方がない。これは、本人に言うしかない。タオルが全部墨だらけになる前に。

 何日かして、再びその墨の付いた「ノラネコぐんだん」タオルがローテーションで回ってきた。

 その夜、私は、ソファで楽しくゲームをしているH氏のところへ、そのタオルを持参して言った。

 「Hちゃん、墨、付けないでね」

 無言を貫くH氏であった。



 それからの、とある日曜日。H氏は、書道検定を受検した。

 前日の夜の食卓は、珍しくH氏を交え、少しだけ盛り上がった。

 「ね、Hちゃん、書道部の女子高生が沢山来てて、Hちゃん、女の子たちに囲まれて受験だったら、どうする?」

 「んふっ」

 まんざらではない鼻息。

 「英検のとき、小父さんが、ひとりぽつんっていた」

 先日受験した英検の模様を語るN。

 「んふ。Hちゃん、独りぼっちか~」

 いつもより、声がかなり大きい。よく聞き取れる。H氏は、続けた。H氏、自分のことは「ちゃん」づけである。そして、私に尋ねる。

 「明日、Hちゃん、どうやって行くの?」

 明日は、Nの初めての本格的ネクタイとH氏のおズボンを買いに、午前中はデパートへ行く予定もしていた。

 「うーんと、一度帰ってこられたら帰ってくるけど、もし時間がかかったら困るから、Hちゃんのおにぎりを作って持って行こうかな。駐車場で食べてから、まっすぐ試験会場に行くかも」

 私は考えながら言った。H氏は、答える。

 「ふんっ」

 「お迎えは、何時に行けばいいの?試験、何時に終わるの?」

 「わかんな~い」

 困るな。ちなみに、私は、H氏に筆巻きとスリッパを用意し、証明書写真のプリントも準備しておいた。試験が終わる時間くらい教えて欲しいものである。



 結局、買い物は早々に終わり、一旦帰宅して食事を済ませ、再び私は、H氏を会場まで送り届けた。

 いつもなら、適当な場所で車を留め、降車してもらうにも、色々文句を言うのだが、今日は

 「ありがと~」

 と楽しそうに下車していった。女子高生がいっぱいいるといいね。


 さてと。私は、家に帰り着き、H氏に電話をかけた。

 H氏を送り届けたのは、試験開始時間35分前。その10分後に私は帰宅したので、丁度いい時間だろう、と思った。試験が始まるまでは、まだ余裕がある。

 「……もしもし」

 H氏、電話に出る。

 「あ、Hちゃん、会場の黒板に、時程が書いてあるよね?終わる時間だけど、何時って書いてあるの?」

 H氏、何度か私にお迎えの時間を聞かれたが、結局知らないままだった。受験票を調べてもくれなかった。だから電話したわけである。

 「わかんな~い」

 いつものH氏である。

 「そうなんだ~。じゃあ、終わったら電話してね」

 「ふんっ」

 「がんばってね~」

 結局、会場入りしても、本人に聞く意味はなかったわけだ。私は、検索をして、大体の終わる時間の目安を知り、その頃にはお出かけの準備をして待っていた。


 「もしもし、終わりました」

 H氏から電話が入る。私とNは、すぐに車に乗り込み、H氏のお迎えへ向かった。

 H氏とは、会場近くの神社で待ち合わせをしていた。6月の茅の輪をくぐらせていただき、お参りを済ませ、それから帰宅するまでの間、H氏は、受けた試験についてなにやら呪文のように話し続けていた。そのときにどうにかかすかに聞き取れたのは次の部分だけだった。

 「……一人だけ……」

 「えっ?」

 H氏は後部座席にででんと陣取り、私は運転に気をとられているので、とうぜん蚊の鳴くような声は聞き取れない。聞き返されて業を煮やしたH氏、普通の声の大きさで言った。

 「Hちゃん、一人だったの!」

 ええーっ!

 私とNは、その内容と言い方に笑うしかなかった。

 「えっ、一人ってどういうこと?」

 「あの、会場にカフェがあって、人が出入りしていて……」

 「カフェで、試験だったの?」

 「違う!」(怒)

 「え、で、どうして一人?他の級の人とかは?」

 「いない。おじいさんの試験管の人と、Hちゃんと、二人だけだった……」

 それはまた、ヘビーである。

 女子高生に囲まれての試験を夢見たはずが、現実には、おじいさんと二人きりの試験だったとは……。

 可哀想に、H氏、ちょっとしょぼくれている。が、時間いっぱいまでねばって書き上げたので、達成感はあったようだ。

 そしてなんと、帰宅してからも、することがなかったH氏は、再び筆をとって練習に入ったのだった。


 その夜、「ノラネコぐんだんタオル」に目をやると、またしても、新しい墨の汚れが付いていた。私は、それを持って、H氏のところへ行った。

 「Hちゃん、墨、付けないようにね」

 「……」

 やはり無言のH氏。

 「合格発表は、いつなの?」

 「さぁ。一か月後くらい?」

 試験が終わる時間も、合格発表の時期についてもよく覚えていないH氏である。大丈夫か。

 「はがきか、封筒なんだよ」

 なにが?私は、ここで質問をしたりはしない。サウナ石に、水は危険。

 「合格したらはがきが来て、不合格なら封筒なの」

 なるほど。私は合点がいった。

 「封筒に、次の受験について何か入ってるんだ」

 「ふんっ」



 そろそろ、はがきか封筒が届く頃である。だが、まだそれは届いていない。

 結果発表は、またそのうちに。

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