二人きり、まんまる

「ふぅ。お風呂気持ち良かったです」


 白のパジャマ姿で、間借りしている三階の自室へ向かう途中。入浴を済ませた睡蓮は、うっとりとした表情になる。

 老朽化のため一部は建て替えられてはいるが、当時の趣きを感じさせるレトロな廊下を、睡蓮は首に提げたタオルで濡れた毛先を挟むように拭きながらのんびりと歩いていた。


「わぁ。綺麗なまんまるお月さまです」


 左手にある窓の外に広がる夜空を見て、睡蓮は思わず立ち止まった。

 満月を映す瞳が揺れている。美しい輝きに当てられ、睡蓮は少し感傷的になっているようだ。


「きっとお父さんとお母さんも、仲良く並んでお月さまを眺めているのでしょうね……あっ」


 ガラガラと玄関が開く音に、睡蓮ははっと我に返る。振り向くと、少し離れたところにある玄関から上がってきた昂が見えた。昂は見る見るうちに頬を染めていく。


「す、睡蓮。風呂に入っていたんだな。こんなところフラフラしてないで早く髪乾かせよ、風邪ひくぞ?」

「はい。今お部屋に戻るところです。昂くんは、こんな時間までお祭りの準備ですか? お疲れさまです」


 両手を身体の前に重ね合わせて、ぺこり。睡蓮が丁寧にお辞儀をすると、昂は色を重ねたようにもっと顔を赤くした。

 パジャマが少し大きいようだ。サイズ感がちぐはぐな睡蓮のパジャマ姿は、思春期男子には刺激が強いらしい。

 ちなみにこのシンプルなパジャマは椿に用意してもらったものである。入浴後キャミソール一枚で歩いていた睡蓮に、寮生たちの視線が集中してしまったためだ。暑いので自室に着くと着替えてしまうが、それまでは着ているようにと椿に言われているのである。


「あああ、ありがとう。でもまぁまだ祭りまで一週間はあるからな。時間がかかる甘酒の準備は出来てるし、蔵から出した竿とかの掃除してたんだ」


 祭りと言えば、稲荷祭が有名だろう。

 穀物の神様・稲荷大神が稲荷山いなりやまに鎮座したという二月初めの午の日に盛大に行われ、五穀豊穣を祈るのが恒例だ。だが夏祭りも地元で古くから親しまれている、とても重要な年中行事である。

 氏子である椿の孫の睡蓮は、今回からの参加。前日の食事や、売り子の手伝いを任されているのだ。


「そうです、見ましたか? まんまるですよぉ」


 睡蓮はトコトコと昂のすぐ傍までやって来た。

 身長差もあって、上目遣いになる睡蓮。かえって今は、この幼げな仕草が色っぽさを助長させているだろう。


「まんまる……?」


 昂はそう呟きながら、テーラード襟のV字から覗くに、ついつい目が向いてしまう。

 お留守になる睡蓮の胸元に、夏の夜の蒸し暑さとは違う熱が昂に襲い来たであろう。だが睡蓮は無邪気に瞳を輝かせて「はいっ」と頷くばかりで、昂の視線には全く気付く様子がない。


「ほら昂くん、空を見てくださ――ひゃっ」

「どうした睡蓮!?」


 嬉しそうに見上げた窓から突然顔を背け、睡蓮は床にへたり込む。昂は慌てて睡蓮の前で膝を着くと、触れはしないものの、介抱するように腕を回して睡蓮の身体を気遣った。

 しかし昂の声に応えるように顔を上げた睡蓮の表情には、持ち前のあっけらかんとした明るさが感じられない。


「大丈夫か?」

「は、はい、すみません。驚かせてしまいました……」

「いいよ俺のことは。ん? 何かあったか?」


 昂自身も動揺をしていたのだろうが、悟られないようにしていた。優しい眼差しを向けて、睡蓮の返事をそっと待った。


「は、はい。きっと気のせいだと思うかもしれませんが、こちらに向かって来る、黒い何かが見えたんです……」

「黒い、何か?」


 昂は反射的に眉をひそませて訊き返した。


「はい……まるで、お月様から飛び出してきたようでした。そうですね……カラスさんみたいでした……」

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