13 『銀髪の尋問官』


 肉を打つ高い音が鳴り響いている。

 舞台は狭苦しい厨房である。

 とても清潔とはいえぬ床の上。エプロン姿の中年男が、膝立ちのまま頬を張られていた。


 もう何度打たれたものか。

 当の本人も憶えてはいまい。

 数える余裕があるはずもない。自身の頬を打つ音さえ聞こえているか怪しかった。


 息を整える間すら与えられない。

 頬を打つ間隔は手拍子を思わせて短く、その勢いたるや半端なものではなかった。

 一発一発が鞭のようにはやい。それでいて大鎚ハンマーの振りを思わせるほどに重いのだ。凄まじい平手打ちを浴びるたび、無精髭ぶしょうひげの中年男は上体を大きく仰け反らせた。


 が、けして倒れることはない。

 起き上がり小法師こぼしのごとく、叩かれては体勢を戻した。

 元の姿勢のままに。次の一撃をみずから待ち受けるかのように。

 自分に制裁を加えている男の眼から、彼はけして視線を離さない。離せない。逸らすこともできない。膝立ちで正対し、叩かれても叩かれても相手を見上げたままでいた。


 銀髪の極道――朔田市太郎さくたいちたろう――に睨まれた者は、誰もがそうなる。


 らえられてしまう。

 とらわれてしまう。

 ブラウンカラーの細眼鏡の奥。そのくらい眼光から逃れることはできない。鋭い視線をかわすことはできない。


 中年店主は銀髪の眼を見つめたまま頬を打たれ続けている。

 鼻の下も口周りも真っ赤だった。無精髭さえ血に埋もれて見えない。


 業務用冷蔵庫のステンレス壁には飛び散った血が広がり、次々と上塗りされていく。逆側の調理台も同様である。右も左も、そして床も。着用している黒いエプロンの下の白シャツも。中年男もその周囲も、鮮血で染まりに染まっていた。


「お、おい、朔田。やりすぎだ」


 見かねた相棒の声が後ろから投げかけられる。

 しかし朔田は手を止めない。

 躊躇ちゅうちょなく頬を張った。

 ぐらりと身体を傾けた中年店主が体勢を戻したところで、今度は逆方向から容赦のない一撃を浴びせる。切れた唇の間から大量の血が漏れ散った。


「やめろって。死んじまうよ」


 振り上げかけた銀髪の手が止まる。

 制止の声に従ったわけではない。

 背後から伸びた分厚いてのひらが、左手首をがっちりと掴んでいた。


「血が流れすぎてる。もうやめとけ」


 抵抗を試みた朔田だが、腕を引くことも押すこともできなかった。

 揺らすことすらかなわないのである。

 腕どころか、肩や背中、下半身、果ては全身の力をこめても微動だにしない。巨大な万力で固定されてしまった錯覚に陥る。まるで動かない。


「……まずは離してください。手首が折れる」

「お、おう」

 

 中年店主から目線を外した朔田にひと安心したらしい。 

 達磨ダルマじみた体型の短躯――胴真伸宜どうまのぶよし――は肉づき豊かな頬を緩め、握りしめていた手首を解放する。離れ際に相棒のベストの肩を軽く叩いたのは強く掴みすぎた謝罪のつもりだろう。

 

 朔田の視線は自身の手首へ向けられていた。

 薄墨色のドレスシャツの袖口、その先が赤く染まって色濃い。皮膚が太い指の形に深く沈んでいる。手指を握り開きしてみるも感覚がひどく鈍かった。


「……化け物め」


 ぼそりとつぶかれた低い声が耳に届いていたのだろう。渋い顔をしつつ胴真は問う。


「どうしたんだよ、朔田。激しちまったってわけでもないだろう」


 胴真の指摘するとおり、銀髪の極道に激高した様子はない。

 怒りや憤りに任せて滅多打ちにしたというわけではなさそうだ。呼吸に乱れはなく、叩く前も後も顔色に変化もない。表情も声色も平静といってよかった。


 ひとつため息をつき、朔田はふところからハンカチを取り出す。

 返り血の飛び散った顔を拭いながら、おもむろに口を開いた。


「この男、これだけつらを張られても心が折れない。……その理由を知りたい」


 ふたりの視線が血だるまの中年店主に集中する。

 床にへたりこみ、両腕もだらりと垂れて力ない。

 口は半開きで、ひゅうひゅうと辛そうに弱々しい呼吸を繰り返していた。ときおり咳が混じり、そのたびに少なくない量の血が口からあふれ出る。


「……そ、そうか? 折れないっていうか……こ、壊れちゃったんじゃないのか? 叩きすぎだよ」


 アロハシャツ姿の胴真が腰を曲げて近づき、心配そうに哀れな犠牲者・・・をのぞきこむ。

 

 わずかに開いた目は涙の膜で覆われて赤く、意味なく天井を見つめている。

 ぎりぎりのところで意識は保っているようだが、眼に意思の力が感じられない。ついさっきまで強烈な光を放っていた憎悪や憤りの色はすっかり消え失せていた。

 

「そもそも、朔田よ。……この店で大麻ハッパを売ってるってのは本当なんだな? まさか証拠もなしに痛めつけたわけじゃないだろう。だとしたら洒落にならんぞ」


 胴真の声はいつにも増して太い。

 なれ合いじみた柔らかさはなく、咎める響きを帯びていた。


「……極道に、証拠はいらない」

「なんだと」


 気色ばんで詰め寄る年上の相棒を、朔田は首を振ってやんわりとかわす。


「ふ。冗談です。……おい。いつまで突っ立ってるつもりだ。こちらの胴真さんに証拠・・をお見せしろ」


 声をかけた方向は胴真のさらに背後だった。

 しばらく存在感のなかった若い男。

 白い眼帯をつけた腰下エプロン。店のボーイである。


 命じられたボーイは引きった笑いで曖昧にうなずく。

 ちらりと血みどろの中年店主に目を向けるも、躊躇ためらったのは一瞬だった。厨房に背を向け、裏口へと続く通路へ足を進める。開きっぱなしの扉から、胴真は短い首を伸ばして様子を窺った。


 通路脇に山と積まれたほこりを被った段ボール箱の壁。

 通ったときには気づかなかったが、その最下段に小さな棚がひとつ混じっていた。ボーイは腰を低くして屈み、引き出しから何かを取り出している。


「ど、どうぞ」


 戻ってきた白眼帯から手渡されたのは小さなアルミパウチだった。

 密封できるタイプのもので、わずかに膨らみがある。不器用な指で開いて見ると、色褪いろあせた藻のような物体が詰まっていた。かすかな青臭さと甘さが混じった独特の匂いが鼻腔を刺激する。


「乾燥大麻か」

「ええ」


 朔田も同じ包みを幾つか手渡されたらしい。

 開封したアルミパウチを逆さにし、調理台の上にぶちまけていた。

 

「上物だな。染みも少ないし匂いも悪くない。腕のいい栽培者グロワーに育てられた証拠だ。再利用客リピーターが多いのも肯けるが……。これを何処どこで仕入れた?」


 銀髪頭の極道は緑色のかたまりをひとつまみすると、さんざん痛みつけた男の顔に投げつけた。

 

 虚ろだった中年店主の瞳に光が戻る。

 憤りも甦ったらしい。

 血にまみれた頬をぶるぶる震わせながら、よろよろと立ち上がる。視線は一点に集中して揺らぎもしない。睨みつける眼は血走って赤い。憎悪に満ちていた。


「りょ、リョウジ。……てめえ」


 怒りの矛先は自身に暴力の制裁を与えた朔田ではない。

 眼帯の若者へ向けられていた。


 従業員みうちによる裏切り。

 それが信じられないのだろう。だから許せないのだろう。ぞんざいな口調だったわりに信頼は厚かったのかもしれない。肩も背中も小刻みに揺れ、食いしばった歯から漏れる息は熱かった。


 猛る店主の前に朔田が立ちはだかる。

 困惑顔のボーイへの視線を遮った格好だ。


おいそむかれては逆上するのも無理はないが……。まずは質問に答えてもらおう」


 有無を言わさぬ口調ではあったが、中年店主は朔田と目も合わさなかった。

 さきほどの制裁リンチで悟ったのかもしれない。朔田に睨まれると視線を逸らせなくなることを。逃れられなくなることを。その恐怖を実感として。


 とはいえ、態度におびえの色はまるで見えない。

 返答代わりのつもりか、足もとへ向けて血の混じった唾を吐いてみせた。

 凄まじい暴行を受けた直後とは思えない度胸といえたが、銀髪の極道はかまわず尋問を続ける。


「おまえは甥にすら取引相手を明かしていない。仕入れ先には単独ひとりおもむいていたそうだな。それも栽培者グロワーから直接買い取っていたと聞いている。…………その場所は何処だ」

「う、うるせえ!」


 店主が吠え、朔田に背を向ける。

 動作が素早かった。

 身体の損傷ダメージを感じさせぬ勢いだ。振り返った先には調理台があり、その上に置かれたものへ手を伸ばす。出刃包丁だった。


「お、おい。馬鹿な真似はよせ」


 呼びかける胴真の声はしかし、店主の耳に届いているかどうかも怪しかった。

 眼は瞳孔が開き、呼吸は不規則に短い。

 腫れた頬や唇、血の跡を差し引いても尋常な様子には見えなかった。極度の興奮状態にあるのは疑いようもない。


「ふざけやがって、ふざけやがって。この街で大麻といったら、あいつ・・・しかいねえだろう! てめえみたいな与太者が元締めの存在を知らないはずがねえ!」


 片手に構えた刃物の先は銀髪の壮年へ向けられている。

 喉元まで10センチの距離もなかったが、突きつけられた朔田の態度に変化はない。声の調子もそのままに問いを繰り返した。


「知りたいのは元締めの名じゃない。おまえが取引した場所、栽培の現場だ。もちろん口止めされているだろうが……。吐いてもらうぞ」

「やかましい!」


 包丁が音をたてて空を切る。

 細眼鏡の数センチ先をかすめ、直後に勢いよく振り下ろされる。銀色の前髪がいくらか断たれ、朔田の眼前で宙を舞った。


「……終わりだ。口を割っちまったら、おれは終わりだ。あいつ・・・は許しちゃくれねえ。絶対に許すわけがねえ。おれを生かしておくはずが、ねえんだ!」


 怒鳴り声は裏返って高く、悲鳴に近い響きがあった。

 包丁を両手に構えなおした中年店主は、もはや錯乱状態にあるといってよかった。

 充血した眼は左右上下に泳ぎ、焦点が定まらない。口の端からは噴いた泡が膨らみ、呼吸は乱れに乱れて早い。意識を保っているのが不思議なくらいに見えた。


 だというのに、意思だけは明確に伝わってくる。

 殺意だ。


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