蟻地獄 後



 その異形は、手に羽団扇はうちわと呼ばれるヤツデの形をした物を持って、両腕を体の前に組んでいた。

 足元は、高下駄。服装は白Tシャツにデニムだが、なぜかしっくりきている。


「天……さん……」


 姿かたちは変わっていても、雰囲気で奏斗には分かった。


「よお。残念だったなぁ」

「……はい」

「しょうがねえよ。世界は狭いし、目の前の欲には流されるもんだ」


 ああ、何もかも見透かしていて、それでも黙ってくれていたのか、と奏斗は目を伏せる。じわり、と浮かんできた涙が思いのほか熱くて、自分は生きているのだなと妙に実感してしまった。


「なんだよ! こいつ!」

「バケモノ!」


 慌てる連中を見渡して、ククク、と天は面白そうに笑う。


「俺からしたら、お前らの方がよっぽどだよ。そんなに欲ばっかり喰らって、その先に何があるんだあ? ま、知りたくもねえけどよ。ただ、カナトを殴った分はきっちり返してもらうぜえ」

 

 すると、リーダー格の男が唾液を巻き散らしながら叫んだ。


「ち、なんだろうが関係ねえ! やっちまえよ!」

 

 ところが、仲間たちは動けない。


「おい!」

「……な、なんなんだよこいつ」

「は?」

「こええ!」

「な……」

「俺は知らねえ!」

「俺もだ!」


 そんな風に言い捨ててこの場を去ろうとするが、天は当然、眼力を飛ばして阻止する。


「だぁめぇ~」

 

 のほほんと発する低い声の方が、そら恐ろしいのはなぜだろう、と奏斗の身震いは止まらない。


「俺の大事なを、傷つけた奴らはぁ~~~~」


 天はそう言うと、組んでいた腕をほどいて、羽団扇で大きく一度あおいだ。

 

「お・し・お・きぃ~~~~~!」


 ぶわり! と生暖かい風が起こり、その場にねろねろと生まれだしたのは黒い大量の粘液のようなモノだ。おろろろ、おろろろ、と声を出して、鈍く動いている。動く度にねちょり、ねちょり、と音がする。あきらかに、生きていると分かる代物だ。


 ――ぎゃああああ!

 ――なんだ、これえええええ!


 途端にパニック状態に陥るビル内を、右往左往する奴らはしかし、なぜかこの場所からは出られない。

 窓は開かないし、どれだけ叩こうが扉も壁もびくともしない。もちろん、助けも来ない。

 しばらく逃げ惑った後でそのことに絶望し、コンクリートがむき出しになっている床に膝や尻もちを突いて、泣き喚き始めた。

 

 天はそれらを冷ややかに見つめて、

「つっても、このあやかしはお前らが生んだ代物だぜえ。俺は返してるだけだ。――おい、母親失格のお前。カナトは俺がもらってくぜ? いいよな」

 と告げた。

 言われた奏斗の母親は、

「ば、ば、ばけもの! ばけものなんか、いらないっ!」

 と叫び、白目を剥いて発狂した。


 奏斗は、呆然と立ち尽くす――あれほど懸命に守ろうとしてきた存在に、あっという間に捨てられたのだ。

 天は悲しげに眉根を寄せると、身体の前でいくつか指印を結び、仕草をした。

 

「……かーちゃん……」

「カナトッ! 下がれっ」

「かーちゃん!  かーちゃんっ!」

「巻き込まれるぞ!」


 走り寄ろうとする奏斗の二の腕を、天が背後から掴んで止めた。

 ジタバタ暴れてみるが、天狗の力には到底抗えない。徐々に力が抜けていく奏斗は、とうとう地面に片膝を突いて

「あああああーーーー!」

 泣き叫ぶしかできなくなった。

 

 その間にも、飛び散るドロドロの黒い粘液がそれぞれに分かれて、全員に容赦なく覆いかぶさっていく――もちろん、奏斗の母親にもだ。


「ああ……」

「ありゃあ、因果だ。自分の行いは、自分に還ってくる決まりだ」

「っ、俺がバケモノだっていうなら、俺がっ!」


 だか奏斗の頭上から降ってくるのは、意に反して冷たく優しい天の言葉だった。

 

「カナト。何度でも言うが、お前は人間だよ」


 抗い続けた奏斗がついに力を失い、意識を手放す直前。

 

「あ~わりぃ蓮花れんか。想像以上だったわ。あと頼む」

「……はあ。仕方ないですね」

 

 ――凛とした女性の声が、聞こえた気がした。


 

 

 ◇ ◇ ◇




 目が覚めると、カーテンの隙間から差し込む日差しが、奏斗の手首を焼いているのが分かった。

 夕日とは違ってやわらかな光で、寝た姿勢のまま手首をさすってみた。あたたかい。


「起きたか。おはよう」


 しゅたん、とふすまの開く音がして、顔をのぞかせたのは作務衣さむえ姿の天だ。

 

「あ……ざいます……」

 

 掛け布団をめくって身を起こし、きょろり、と周りを見渡すと見覚えのない部屋だった。

 窓には濃い青色のシンプルな遮光カーテン。畳の上の布団、小さな本棚とポールハンガー。

 

「安心しろ、俺の家だ。便利屋の二階」

「は……い……あの、かーちゃん……母、は……」

「自分の体より、あいつのことか。カナトらしいな」


 ほれ、と天が無造作に放り投げてきたのは、テレビのリモコンだった。

 顎で指されたので振り返ってみると、棚の上に小さな液晶テレビが乗っている。素直に電源を入れると――たちまち朝のワイドショー番組が流れ始めた。左上の時刻は、朝の七時三十分を示している。


『……こちらが現場となった、雑居ビルです。倒れていた七名は、命に別状はなく、病院に搬送されたものの錯乱状態で、何かしらの薬の影響ではと……』

『……供述が支離滅裂で、真相解明には時間がかかるとのことです……』

『……以前から、廃墟の無断使用が問題となっており、治安維持のためにも市職員と警察の巡回を強める検討を……』


 リポーターが一方的に垂れ流す情報を聞きながら、奏斗はぽつりと

「命に、別状はない?」

 と呟いた。天は、布団の上に胡坐あぐらをかいた奏斗の横にどっかりと座り、一緒にテレビを眺めながら告げる。

「おお。ただ自分たちがやってきたことを、そのまま返しただけだからな。一生心を喰らわれる。それだけさ。落ち着いたら、見舞いにでも行くか? もう喋れないけどな」

 

 行き場のない者たちだけで集まって、傷をなめ合うだけならまだ良かった。

 欲を金に換える者、搾取する者・される者のヒエラルキーができた瞬間――決して抜け出ることのできない、悪の連鎖に変わる。弱者がそこから解放されるには、死しかないように思われた。奏斗は、幼いころ公園で見た蟻地獄を想像して、頭をぶるぶると振る。


 自分は、捨てられた。相手は、死ななかった。今は、それだけでいい。

 

「天さん」

「ん?」

「俺、アパート追い出されました」

「おぉ」

「バイトも、クビになりました」

「うわぉ」


 ぐりん、と奏斗が全身で天に向き直り、敷布団から降りるや正座になって、頭を床につけた。いわゆる、土下座である。


「体で返します。住み込みで、働かせてください!」

「いいぜえ。今日からこの部屋、やるよ」

「!」

「その代わり条件がふたつある」

「はい」

「こき使うぜえ」

「もちろんです」

「あと、最低でも高校は出ろ。ほらよ」


 ばさり、と投げられたのは――通信制高校のパンフレットだ。

 

「え……なん……」

「天さんはなぁ、こう見えて大天狗なわけよ。だ・い・て・ん・ぐ。知らんで良いけど、そりゃあもう、めっちゃくちゃ偉い大妖怪なんだぜぇ? だから、人間には優しくするって決めてんだ。お前も他の困ってる奴見つけたら、優しくしてやれ。な」

「っ、それ、みっつめです」

「かっわいくねえなあ~~~~!」


 べし、と頭をはたかれた奏斗は、「ふは」と笑った。その初めての笑顔に、天はようやく肩の力を抜く。


「んじゃ~ダイキチの散歩行ってから、飯食いに行こうぜ」

「ねこしょカフェですか」

「お? 嬉しそうだねえ。気に入ったか」

「はい……飯、うまいし。猫、可愛いです」

「いいねいいねえ。そうやって、思ったことはどんどん声に出していけ」


 

 ――地獄から這い出るために、な。



「? 天さん、何か言いました?」

「なんでもねー。そいやお前、着替えもねえな?」

「あ……ないっす」

「とりあえず俺の貸してやっから、風呂入れ。飯食ったら、俺の行きつけの古着屋連れてってやる。ちゃあんと、このサイズもあんだよ」


 天が、親指で自身の胸を差す。

 

「まじすか」

「まじ。あ、柄は選べねぇけどな」

「あ~だからいつも白Tなんすか」

「バレたか。だってよぉ~パイナップル柄シャツとか、着てらんねぇよ~」

「パイナッ……プル……ぶふっ」

「バナナもあるぜぇ」

「バナナ! ぶはははは!」

「ふたりで着るかあ!?」

「……絶対嫌すね」

 


 こうして便利屋ブルーヘブンに、新しい店員が加わったのだった。

 

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