第35話 メンヘラちゃんは紅茶を飲んでいる




【中性的な女 ゆう


 当たり前かもしれないけど、屋根に降りたこととか、あの長髪の男性と話したこととか、栗原さんに滅茶苦茶怒られた。般若みたいな顔で。

 大人になってこんなに怒られたことはなかったように思う。記憶がないけど、私はそんなに人に怒られるようなことをするタイプではないはずだ。

 私が大人になって、誰かに怒ったことはあったような気がするが、それがいつなのか、誰なのかは覚えていない。

 私は怒られた事を落ち込んでいたものの、次のアクションを起こそうと気持ちをなんとか持ち直した。

 とりあえず時計を見て時間を確認する。もう隼人が帰ってきてもいい時間なのに隼人は帰ってこなかった。


 ――今日あったこと話したら怒るだろうな……なんか、あの人と隼人はすごい仲悪いみたいだったし……もう……何が正解なのか解らないよ。携帯のロック解けないし……――


 ――俺の誕生日は? ――


 本当にもし、パスワードがあの人の誕生日だったとしたら、きっと私にとって、とても大切な人なのかもしれない。

 いや、誕生日が他の私の大切な人との誰かと同じで……いやいや、その確率はどの程度なんだろうか。

 それか、パスワードの下りはあの人の自作自演という可能性も考えられるし……。


 駄目だ。

 記憶が戻らないことにはどうにもならない。記憶を戻すために、自分の家に行ったり外に出たりしたいけれど……隼人もそろそろ許してくれるんじゃないだろうか。

 そうだ、記憶を戻す為とか、リハビリの為とか、そういう言い方をすれば隼人も私を家から出してくれるはずだ。


 ――……でも、携帯のロックが解除できないと、あの人に連絡することもできないし……


 携帯を渡されたことは隼人には言っていないから、音が鳴る設定にはできない。まぁ、私は携帯が鳴るのが好きじゃないからいつも好んでサイレントにしているんだが。

 でも、誕生日だったら……1万通りから365通りか閏年うるうどしでも366通りで解除ができるはず。最悪のケースでも12月31日になるが、それでも相当頑張ればできる。


 ――時間はかかるけど0101~1231まで試してみるか……


 0105まで入れて違った時に、携帯が入力制限という罠を発動させてきた。あと30分経たないと入力制限解除にならない。もどかしさに私は頭をガリガリひっかく。

 頑張ればできると思ったが、やはり面倒なので私はその携帯をポケットにしまった。


 ――暇だ…………


 その暇を切り裂くようにノックの音が聞こえた。


 コンコンコン。よりは、ドンドンドン! という音が近いだろう。激しく叩いているのが解る。


「悠、入っていいか!?」


 隼人の声だ。切迫しているような声がする。こんなに切迫している状況でも隼人は私の部屋を勝手に開けたりしないらしい。


「いいよー」


 扉が開いた方を見て、私は絶句した。

 

 服全体に血がついている。黒いから解りづらかったがズボンも血で濡れているのが分かった。それに、まだ乾いていないところを見ると、ついさっき血が付いたのだろうと想像できる。


「え、隼人……!? どうしたの!?」


 私は慌てて隼人に駆け寄り、隼人の身体に目を這わせる。あまりにも大量の血が身体中についていて、どこから出血しているのか解らない。これだけ出血しているのだから、太い動脈か何かが傷ついているのでは……――――


「私の血ではない。私の血であったらここまで走ってくることはできない」

「あ……そうなんだ」


 なら良かった。

 けど、血まみれのまま家に帰ってくるなんてどうしたんだろう。走って私を呼びに来るなんて、どういう状況なのかさっぱり分からない。


「なんでそんな息を切らして帰ってきたの?」

「お前が電話に出ないからだろうが」


 そう言われて隼人からもらった携帯の方を見ると、鬼のような着信があったのに気づく。私はサイレントにしてたから気づかなかった。

 なら、家か栗原さんに電話をすれば栗原さんが出たのに。あ、でも今は栗原さんは買い物に行っていていないんだっけ。

 そんなことを考えている中、隼人は複雑そうな表情をしていた。


「…………悠、一緒に病院に来てくれないか?」

「え……? はい」


 血塗れだし、息を切らしているし、差し引きならない状況であると感じた。明らかに普通の状態ではないことだけは解る。職業柄血塗れになることはあるだろうけど、でも手術のときとかは青いビニールのエプロンみたいなのをして手術をするはずだ。隼人は白衣が血まみれで、手術中だった訳じゃない。

 そもそも、隼人は内科の医師だ。手術をするような仕事はないはず。


 私が色々考えていても隼人は何を話す訳でもなく、玄関へと小走りで向かっていた。

 外に出ると、パトカーが敷地内に停まっているのが見える。


「え? 警察……? 隼人……?」


 人でも殺してきたの? とは聞けない。仮にもしそうだとしても、何故私を連れていく必要があるのだろうか。


「車の中で話をする。とりあえず早く乗ってくれ」


 私はおずおずとパトカーに乗った。隼人の乗るところに、シートに血液がつかないようにビニールが敷いてあった。


「こんにちは。君が悠ちゃん? 僕は赤羽あかばねのぞむだよ。よろしくね!」

「あ、どうも……松村悠です」


 隼人が血まみれで切迫しているのに、一方警察官らしい赤羽さんは緊張感のない人だと私は思った。赤羽さんはこの状況にまったく動じていない。


「早く出せ!」


 イラついた隼人の声が社内に響く。なんなら隼人は相当に焦っているのか運転席を蹴って催促していた。


「はいはい……まったくもう、職権乱用で僕が怒られちゃうよ、もう!」


 パトカーのサイレンを鳴らしながら、車は走り出した。隼人の病院に向かって。次々と他の車が両方に避けて止まっていくのは壮観であった。赤羽さんは「はいはい、緊急車両通りまーす! どいてくださいねぇ!」と乱暴にマイクで言いながら車を走らせていた。


「隼人……どうしたの…………?」


 どうしたのか聞いてしまったら、もう後戻りできなくなってしまうかもしれない。しかし、何があったのか聞かないことはできない。血まみれで血相を変えて(血だけに)パトカーで迎えにくるなんて。


「…………病院で会った……長髪の男を覚えているか?」


 ビクッと私は身体が震えた。


 ――え、昼間のこと……? もう栗原さんに聞いたの? もしかしてそのこと怒っている…………?


「はい……」


 ――え、なに、隼人が怒り狂ってあの人を殺したから捕まるとか?


 でも病院に行くわけだし……何の為? 私は後ろめたさを感じ、ビクビクと隼人の顔色を伺っていた。


「あの男が院内に入ってきた不審なギャル女に刺された。重体で危篤状態にある」

「え……」

「死ぬ前にお前にどうしても会いたいと言っているから、今病院に向かっている」


 それを聞いた私は、頭の中が真っ白になるような感覚に陥った。




 ***




【病院】


 横臥おうがしている長髪の男性を見て、なんて酷い有様なんだと思った。

 刺し傷も、一か所じゃなかった。腕も、脚も、そこら中包帯だらけ、そこから滲んだ血だらけだった。それを見た私は何も言えず、考えずに駆け寄った。

 そして、咄嗟に彼の名前を呼ぼうとした。


 ――あ……名前………………知らない……


 そのもどかしさが喉元を掻きむしる。


「悠……か……?」


 顔にも傷がある。綺麗な顔に、左目のところに切り傷があるようだった。包帯で隠れていて傷自体は見えなかったが、血が出ているのは解る。

 輸血用の血液に繋がれているその人は、息も絶え絶えで私の名前を呼んだ。


「はい、そうです」


 何もできない私は、返事をして彼の手を握る。それが、やけに冷たいと感じた。


「ごめん……な」


 精一杯の力を込めて手を上にあげ、彼は私の頭を力なく撫でる。

 どうしよう。この人が私のかけがえのない人だったら……どうして……どうして私はこんな場面になってもこの人の名前も思い出せないの……? 


「俺……お前……に……酷いことしたよな………………うっ」


 相当に痛いのか、彼は身体をよじる。悲痛な顔だ。話すのも辛そうで、私はどうしていいか解らなくなる。ただ、彼の冷たい手を握る事しかできない。


「あの……名前を……貴方の名前を教えてください……」


 せめて、名前くらい知りたい。記憶が戻ればきっと、思い出すだろうけど、それじゃ遅いかも知れない。


「……孝也だ……二度と忘れんなよ……?」


 辛そうに言った彼は力なく笑って見せる。

 まるで何もかもを悟ったかのような表情だ。


「たかやさん…………」


 駄目だ。どうしても……どうしても名前を聞いても何も思い出せない。

 私は涙が出てきた。

 記憶がなくてもこの状況が悲しいことは分かる。

 でもそれ以上に思い出せない自分の不甲斐なさに涙が出てくる。


「悠…………もっとこっち来い……」


 言われるがまま、近づくと弱々しく、そのかいなに抱きしめられる。私の涙が伝い落ち、たかやさんの血液と混じり合っていた。


「泣くなよ……やっとお前に会えた…………そこのクソ医者……ふざけやがって……」


 私は涙で前が良く見えない。


「だって……思い出せないのに…………こんな……っ!」

「ばーか……」


 痺れるような低い声だと思った。そして包帯の隙間から見える血の色の映える白い肌。長くて綺麗な黒い髪。

 訳も分からず、なんて言ったらいいのか、私は懸命に言葉を探した。


「お前はいつでも……俺の為に泣いてくれるよな…………」

「死なないでください……まだ……何も話せてないのに……!」

「別に……お前に看取られて死ぬなら……それでも…………うぅ……ぐ……ッ」


 神様なんていないって常日頃から思ってた。今も思ってる。

 それに都合の良い時だけ信仰していない神にすがる行為も嫌いだし、ましてそう祈ったところで全然助けてくれないってことも解ってる。

 でも、こんなの祈らずにはいられないじゃないか。


 ――神様……いるなら、たまには私の願いを聞いてくれてもいいじゃないか


 せめて、思い出したい。この人が私のなんなのかくらい。


「バカなこと言わないでください……何を言っているんですか……」

「ふ…………お前のこと……好きだ……ぜ」


 深く、重く、鋭くて、抉り込むような『好き』という言葉に私は余計に涙が溢れてきた。


「そんな、死んじゃうようなこと言わないでください!」


 ――なんだ……この状況……


 昼間まで、普通に話していたのに。どうしてこんなことになってしまうのだろうか。こんな、こんな状況に……。


 ――あぁそうだ……誕生日も聞いていない


 言葉を出そうとしても、私は言葉に詰まって言葉が出てこない。


「悠…………俺の……側にいろよ…………?」


 私を抱き留める腕の力が抜けていく。

 そして、腕はだらりと力なく私を手放した。



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