第5章 嘘と真実と愛憎と狂気

第26話 メンヘラちゃんは隔離されている




 【ひょろメガネ 隼人はやと


「あなた……どちら様ですか?」


 その言葉を聞いて、私は目を見開いた。頭を強く殴打されたことによる一時的な記憶障害という事象が私の脳裏によぎる。


「私のことが、解らないのか……?」


 悠は私のことをジッと見て、首を横に傾ける。悠の身分証明を見るまで、私はこの女の苗字すら知らなかった。苗字は松村、名は悠。特に変わった名前でもないし、男なのか女なのか名前からも、見た目からも良く分からない。


「はい……ごめんなさい。解りません」


 と悠は言った。

 頭部外傷による記憶喪失。どこまで悠が覚えているのかは解らない。それを確かめる必要がある。


「あの……すみません。ここはどこでしょうか? 記憶が少し……ないような気がします。私は交通事故にでも遭ったのですか?」


 私は、本当のことを話そうと口を開きかけたが、こいつが本当のことを思い出したら私のことをまた忌み嫌うようになるだろう。

 それを考えると、私は声が出なかった。


 ――なら……――――


 初対面の時に私は大きくしくじった。何故しくじったのか、私なりに考えたが、どうにもこの悠という女は金にも興味はなさそうだし、権力や地位などにも興味はなさそうだった。怒ったタイミングを考えるに、見下されることに対して癇に障ったようだ。つまり、対等な関係のように話せば問題ないはずだ。


「あぁ、交通事故に遭ったんだ。ずっと目が覚めなくて心配していたんだぞ」


 私は患者にするように自然な笑顔を作り、悠に嘘をついた。


「ずっと……!? ずっとって、どのくらいですか?」


 慌てた様子で、私を食い入るように見つめ返してくる。

 こんな態度の松村悠は、出会って数秒程度しか知らない。まるで別人と話しているかのように感じた。

 まぁ、頭を打って本当に別人になってしまったのかもしれないが。


「あ……あぁ、一週間くらいだ」

「一週間か……そんなに……」


 悠は、正面の壁をぼんやりと見つめた。

 こんなことを言うのは、正直気が引けたが、私はこの女に嘘をつき通すことにした。


 この女を自分のものにしたい。


 どんな卑怯な方法でも構わない。

 あの生意気な挑発の男にこの女は渡さない。私の方があんな男より優れている。

 地位も、名声も、金も、権力も、容姿も、家柄さえも全て。


「それに、私はお前の婚約者だぞ」


 悠はワンテンポ遅れて、私以上に目を見開いてこっちを見た。




 ***




【中性的な女 ゆう


 白い天井と、白い壁、白いカーテン、白いシーツ、白い包帯……。

 ぼやける視界、はっきりしない頭身体中にある鈍い痛み。身体を動かすと、ギシギシと身体が軋む。それに頭と手と……よくみたらそこら中怪我をしている。

 どうしたんだろう。交通事故にでも遭ったのだろうか。思い出せない。と、考えていたらひょろメガネが入ってきて色々言われたが、こともあろうか私の婚約者だと言った。

 驚きが隠せない。そんなことあるのだろうか。


 ――私が結婚?


 色々覚えていないことがあるのだろうが、忘れてしまっていることを思い出すことはできない。


「恐らく、頭部外傷による記憶障害だな。改めて自己紹介しよう。私は隼人だ。ここの病院で医師をしている」

「え……医者……?」


 隼人さんは少し照れているようなそぶりを見せて、視線を逸らした。

 よく見ると、その医師は端整な顔立ちをしている。


 ――この人が婚約者なのか……


 なんて、私は悠長に思った。 

 そういえば仕事はどうなっているんだろう。アパートの支払いとか。アパート以外の支払いも色々あるはずだ。税金とか、携帯の支払とか、色々。

 急に現実に引き戻された感覚が戻ってきて不安になってくる。


「あの……つかぬことをお聞きしますが、私のアパートの支払いや仕事なんかは……どうなっているのでしょう?」


 不安げにそう聞くと、その医師は落ち着いた様子で私に返答する。


「一緒に住むから、アパートも引き払い仕事も辞めていいという話をしていた。これを期に退院したら私の家に住めばいい」


 ――もう結婚間近なのか……?


 名前も先ほど知った医師と結婚するなんて、まったくピンとこない。


「ごめんなさい、覚えていなくて……家のこと心配になっちゃいました。あ、あと私の携帯電話知りませんか?」


 一週間も眠っていたのなら、誰かから連絡が来ていてもおかしくない。職場とか、あとは…………あとは、誰だろう。

 なんだか、ものすごく連絡を待っていた人がいた気がする。


「携帯か。事故の時に壊れたと聞いた。新しいのを私が買おう」

「そ、それは悪いですよ! 自分で買いますから!」


 いくらなんでも携帯電話を買ってもらうなんて、そんなことしてもらったら悪い。


「こんな状況だ。退院したら退院祝いに買ってやるから心配するな」


 ――なんて……なんていい人なんだ……!


 私はどんな経緯なのか解らないが、とてもいい婚約者を見つけたのだろう。


「その……ゆ……悠……」


 先ほどとは違い、優しく抱擁される。その行動に私は身体が強張った。痛みもあったし、それに、何か、上手く説明はできないが強い違和感がある気がする。


「本当に……目が覚めて良かった…………」


 強く抱きしめられると、身体が痛い。

 こんなに心配かけてしまい、悪いことをしたなと思った。

 嗅ぎ慣れない、隼人さんの匂いを感じながら、この先のことをぼんやりと考えた。




 ***




【ひょろメガネ 隼人はやと


「松村悠は記憶喪失になっている。いいか、本人には交通事故ということで話をしてある。事件のことを覚えていないし、今それを伝えても混乱させるだけだ。まず身体の方の療養が済んでから話を進めたい」


 私は看護師やほかの医師、そして取り調べをしたそうにしている望にもそう言った。望は、


「なんかよからぬこと考えてるんじゃないの~?」


 と、私の目論見を見抜いていた。望は悠の取り調べをしなければならないのは分かっている。しかし、記憶喪失の悠から何か聞き出そうとしても無駄だ。それに、今は事実治療が優先される。担当医の私の意見を無視して事情聴取はできない。


「お前には関係ない。黙って運転しろ」


 私と望は、共に警察署に向かっていた。


「ユウちゃんのどこが好きなのか教えてよ。やっぱりあれ? 自分になびかない強気なところとか?」


 軽薄にそう尋ねてきて、望はヘラヘラ笑いながらそう言う。

 こんな調子のいいやつだが、仕事はきっちりやるできる男なのが腹立たしい。


「あいつは……悠は、他に好きな男がいるんだ」


 いけ好かない、長髪の男だ。どうせホストか何かだろう。そんな男に私は何一つ負けていない。悠が私よりもあんな男が好きで、劣っていると感じることの事実が腹立たしい。


「えっ、そうなの!? 勝ち目ないじゃん!」

「…………でも多分、今のあいつは覚えてない」

「なんでそんなこと解るのさ?」

「…………悠に、私はお前の…………婚約者だと言ったらそれで納得していたからだ……」

「コンヤクシャ!?」


 望は驚いたからなのか、運転を大きく見誤り、危うく前の車に追突する寸前までアクセルを踏みこんだ。しかし直前でブレーキを踏んでぶつかる前になんとかスピードを殺して追突を免れた。こんな無茶苦茶な運転をするパトカーがあるか。


「お、おい!? 危ないだろうが!」


 九死に一生を得たかのような感覚になり、冷や汗が出てくる。当然、望に怒りをぶつける。


「危ないのは隼人だろ!? なんだよ婚約者って!? 頭おかしくなったんじゃないの!?」


 前を走っていた車は驚いたのか、急にスピードを上げて私たちから遠ざかって行った。


「いくらなんでも……恋人くらいだったらまだ可愛いもんだけど、婚約者って! 隼人、詐欺罪って知ってる?」

「………………金銭詐取がなければ詐欺罪にはならないだろ……? ただの嘘だ」

「嘘だって……酷い嘘だな。あーあ、僕は何も聞いてませんー存じませんー知りませんー」


 望は「あーあー」などと言いながら呆れ果てていた。

 そんなこと、言われなくても解っている。私がおかしいことも理解している。記憶が一時的になくとも、戻る可能性も十分にある。咄嗟の嘘だったせいもあり、かなり杜撰ずさんな作戦だ。だが、あの酷い頭部の外傷からして、記憶野の部分に障害が起きていても不思議ではない。とはいえ、CTやMRIを見た限りでは脳に目視可能な異常は見られなかった。

 そんな話をしているうちに、警察署の前についた。車を停めて望が口を開く。


「僕は隼人にどうこうって言うつもりはないけど、派手なことやって捕まらないようにね。流石に僕も立場があるから。彼女の連絡先とか教えたのが不味かったかな? 隼人もお偉いさんだからってなんでもかんでも許される訳じゃないんだからさ、僕にできることも限界があるし」

「私に説教か? 私の方は私の方でなんとかできる。さっさと『あの女』のところまで案内しろ」

 私は髪をかき上げながら、警察署の中に入って『その女』がいるという部屋にたどり着いた。


 ――まったく……手を焼かせる……


「はいはーい、失礼しますよー」


 扉が開いたと同時に、私はその金髪と黒髪のツートーンカラーの、派手な格好をしている女と目が合った。いつ見ても頭の悪いところを前面に押し出しているのが見て取れる。


「おい、いつまでグズグズしているつもりだ? 亜美。いい加減にしろ」


 女は……――――亜美はおびえた表情で私を見た。

 私を見るときはいつも同じ目をする。怯えきった、小動物のような目だ。


「お……お兄様…………」


 愚妹は私をそう呼んだ。



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