第2話 隣の庭先

 綾乃がやってきてからの老人、表札には杉下と書かれていたので杉下老人と呼ぶが、杉下老人は、今までと少しずつ雰囲気が変わってきているのを感じた。

 息子夫婦がいなくなって最初は寂しさを感じていたのだと思っていたが、綾乃が来て、今少し変わり続けている中で感じたのは、息子夫婦がいなくなって、せいせいしているのではないかと感じたことだ。だが、綾乃が来たことで変わってきた雰囲気の中に、息子夫婦がいた時の雰囲気は微塵も感じられない。今ではさらに解放されたような気がしているのは、相手に馴染んだからなのかも知れない。ということは、杉下老人は、肉親に対して窮屈な思いを感じていたということになる。

――それじゃあ、俺と同じじゃないか――

 と感じた。

 杉下老人にとって綾乃は、今までずっと肉親以外の誰とも接することのなかった長い間の空白を埋めてくれる救世主のような人になったのかも知れない。

 綾乃と杉下老人との間は寡黙だった。少なくとも縁側から見ている限りでは、会話らしい会話を見たことはない。発する言葉も単語であり、後は忖度するだけのことであった。二人の間に存在するのは無言の会話であり、無言なのにどこからその意図をくみ取るのか、武明には分からなかった。二人はあくまでも無表情、たまに笑顔を浮かべることはあっても、それ以外は表情を決して変えようとはしなかった。

 杉下老人は前から見ているので、無表情には慣れたものだったが、綾乃のような女性の無表情には、あまり馴染みはなかった。学生時代に誘惑してきた先生も無表情なところがあったが、それは武明から見ると、大人の色香だけではなく、自分に対しての露骨な誘惑を、他の人に知られないようにするための意識が働いていた。

――綾乃にも、杉下老人に対して、そんな気持ちがあるのだろうか?

 武明は想像してみたが、すぐにピンとくるものではなかった。お互いに目を見つめ合うだけで分かることがあるのだとすれば、それを他人が気づくことはまずない。そんな二人の関係は、武明になら分かる気がしたのだ。

 綾乃が来てからの杉下老人は、雰囲気は変わってはきていたが、行動パターンに変化はなかった。相変わらずいつもの時間に縁側に出ては、庭を見つめていた。その視線の先にいつもあるものは、一本の柿の木だった。

――どうして、他には何もないのに、柿の木だけが存在しているんだろう?

 庭のレイアウトとして、何もない中に柿の木があるだけの風景は決して違和感を感じさせるものではない。しかし、それは武明だけのことであって、他の人から見ると、違和感がありありなのではないかと思えていた。

 何に違和感があるというのだろう?

 武明は自分が見ている角度からだと違和感がないだけだと最初は思っていた。もし少しでも違う角度から見れば、違和感を感じることもあるかも知れないが、最初にこの角度から見た光景が頭の中に残っている以上、少しでも角度が変われば違和感を感じてしまうのは仕方のないことだと思っていた。

 だが、違和感を感じないのは、杉下老人が自分を意識していないからだと思うようになった。老人が、自分の見られていることを知ると、意識が柿の木だけに行くものではなくなることを考えると、まず庭の広さから、武明の中での感覚が変わってくる。下手をすると、今見ている柿の木の位置が違って見えてくるかも知れないとさえ思うのではないかと感じるほどだった。

――だけど、俺もどうして柿の木をそんなに意識するんだろう?

 確かに、庭には柿の木しかないので、庭を意識していると嫌でも柿の木を意識しないわけにはいかない。しかし、柿の木を意識するのはそれだけではないような気がする。

――何か過去において、柿の木と俺の間に因縁があったのだろうか?

 何とか思い出そうとしていた。

――そうだ、あれはいつのことだったか思い出せないが、確か柿の木の前に土管のようなものがあって、そこでかくれんぼをしていたような気がしたな――

 という記憶が残っていた。

 あれはやはりまわりに何もない空き地でのことだった。整備されている児童公園で遊べばいいのに、なぜ自分がそんな土管のあるような昔にしかなかったはずの空き地で遊んだ記憶があるのか、自分でもよく分かっていない。ただ、記憶にあるだけなのだが、それがいつのことだったのか分からないにも関わらず、思い出してくると、まるで昨日のことのように感じられるから不思議だった。

 何がどうなったのか、その日、土管の中で一夜を明かした武明だったが、土管から出てみると、そこに見えるのが柿の木だった。

「こんなところに柿の木なんかあったかな?」

 しかも、実が生っているいるわけではないのに、よく柿の木だと分かったものだ。武明は今までに柿の木を意識したことはなかったはずだ。思い出した記憶も思い出さなければ、柿の木を意識したことがあったなどと考えることはなかったに違いない。

 土管から出てしばらく柿の木を見上げていたが、我に返るとそのまま家に帰ったような気がする。その日、親からこっぴどく叱られた。

「お前は一体どこに行っていたんだ。心配させやがって」

 と罵声を浴びせる父親を、

「まあまあ、お父さん、無事だったからよかったじゃないですか」

 と、警官が宥めるほどだった。

 両親はいなくなった息子を探してもらうように警察に届けていたのだ。まさかそんな大げさなことになっているなどと思ってもいなかった武明に、いきなり罵声を浴びせてきた父親の言葉は、怒りともショックともつかないもので、ただ、その場に立ちすくむだけしかなかった。

 金縛りに遭ってしまった気がしていた武明を見て、完全に委縮してしまっていると感じた警官は、ビックリして止めに入ったのだろう。しかし母親は何も言わなかった。武明が何も考えていないのが分かったからではないだろうか。元々武明はどんな時でも何かを考えている少年だったので、何も考えていない時というのは実に貴重でレアなケースだった。母親はそれを分かっていて、ただじっと武明を観察していたのではないだろうか。

 どこに行っていたのか、結局詳しくは聞かれバカった。武明もそれからすぐに何かを考えるようになったのだろう。それからの記憶は曖昧だった。

 だが、一つだけ言えることがあった。

「ここにあったはずなのに」

 土管のある公園に少しして行ってみた。そこに土管は存在していたのだが、柿の木は消えていた。土管がなくなっているなら理屈も分からなくもないが、柿の木が消えているなど考えられない。もちろん、土の状態も見てみたが、最近まで何か木が植わっていたものを引っこ抜いたような跡は、どこにも見当たらない。

――あの時に見た柿の木は幻だったのだろうか?

 という記憶だけが最後に残った。

 ただ、その記憶がいつのことだったのか、それはどうしても思い出すことのできないものだったのだ。

 杉下老人が庭先から見つめる柿の木、そして、向かいの部屋のベランダから見下ろす形になる柿の木、そして記憶の中に存在している土管の中から見上げた柿の木。それぞれに武明には三本の違った柿の木が存在しているように思えてきた。

 じっと柿の木を眺めていた杉下老人は、後ろに気配を感じたのか、一瞬柿の木から視線を逸らした。

 その瞬間、一瞬だけのことだが、柿の木が移動したような気がしたのは、気のせいだったのだろうか?

 目の前の柿の木が移動するなど考えられないことだ。一度移動して、また元に戻ったのか、さっきと位置はまったく変わっていないように思えた。

 そんなことは当たり前のことだった。

――一瞬の錯覚――

 人には誰にでもあることで、

「よくあることさ」

 と考えている人も少なくないだろう。

 武明は、そんな一瞬の錯覚を今までに何度もした覚えがあった。特に子供の頃に多かったことで。大人になってあらためて考えてみると、

――あれは、記憶の間に別の記憶が嵌り込んでしまったことで起こる、事後の錯覚なのではないだろうか――

 と感じていた。

 つまりは、実際に見た時に錯覚を感じたわけではなく、記憶の中に収まった時に、その記憶を思い出そうとして、他の似た記憶まで引き出しから持ち出してしまったことで、時系列を無視した意識が働いてしまい、微妙と思えるような記憶の錯覚を、事後において感じさせるものではないかということだ。

――錯覚なんて、案外そんなものなのかも知れないな――

 と、感じた。

――あまり深く考えすぎない方が理解できることもある――

 この思いは、錯覚を解決するために至った自分の考えだったが、誰にも話したことはなかった。

 しょせん誰かに話しても、信じてくれる人は少ないと思った。これを口にする人が有名な学者さんだったりしたら信憑性もあるのだろう。しかし、自分のような一般人の話など誰がまともに聞いてくれるというのか、友達だとしても、どこまでまともに聞いてくれるか分かったものではなかった。

 人に対しての不信感は、親に対しての不信感から生まれたものだ。そういう意味でも自分が引きこもりになった理由は親に責任があると考えるのも無理もないことだ。

「そんなのはただの責任転嫁だ」

 と人は言うだろう。

 しかし、それはただの一般論であって、その人それぞれの状況によって変わってくるというものだ。一般論を話す人の多くは、

――しょせん他人事なんだ――

 と考えている人が多く、そんな人に自分の気持ちなど分かってたまるものかと思っていた。

 そもそも、そう感じさせたのも、親であり、元凶が親なら、発想の起点も親である。そう思っている人に責任転嫁を解いても、

「釈迦に説法」

 というものだ。

 一般論を公然と口にしている人を見ると虫唾が走る。

「偉そうなことを言っても、しょせん机上の空論でしかない。実際に苦しんでいる人の近くで一緒に身になって考えてやったことがあるのかよ」

 と言いたかった。

 もし、そばにいれば、相手は毛嫌いして寄せ付けない雰囲気を作り出すことになるだろう。そんな時、一般論でどこまで言い訳ができるのか見ものである。ここからが、一般論を言う人のごまかしの真骨頂と言えるのではないだろうか。

 杉下老人が気にした後ろに佇んでいたのは綾乃だった。立ち竦んでいたわけではなく、座って三つ指をついている雰囲気である。どこかにお使いにでも行っていて、帰ってきたという雰囲気だった。

 もうその頃には、綾乃が出かけたのを意識して追いかけたりしなくなっていた。やはり武明には相手がどんな人であっても、飽きがこないわけはなかったようだ。

――それにしても早かったな――

 綾乃に関しては、そんなに早く飽きがくるとは思っていなかった。むしろ、

――この人なら、飽きが来るということはないかも知れない――

 と思っていたほどだったが、やはり飽きがやってきたことを思うと、飽きが来るために何かきっかけがあるということに間違いはないように思えた。

 飽きが来るというのは、字が示すように、気持ちが飽和状態になったことから起きるものであるのは間違いないようだ。

「もう食べられない」

 一気に食べ過ぎて、見るのも嫌になるという感覚、そして、毎日同じものを食べることで次第に身体が慣れてきてしまい、見るだけでお腹が満腹になることで感じるようになる飽きというもの。そのどちらも普通の人なら経験があると思うのだが、武明には、一気に食べて、それ以上食べられないという記憶はなかったのだ。

 確かに好きな食べ物は子供の頃からあり、

――腹いっぱいに食べてみたい――

 という欲求は持っていた。

 しかし、食べているうちに、

「もう食べられない」

 という感覚になったわけでもないのに、食べるのをやめていた。

 見るのも嫌になったわけでもない。なぜやめてしまったのか自分でも分からない。ただ、無意識のうちに、

――これ以上食べると、吐いてしまう――

 という思いに至っていたのではないかと、後から思うと感じるのだった。

――俺って、そんなに聞き分けのいい子供だったんだろうか?

 欲求を抑えたという意識はないのに、達成半ばでやめてしまうという心境は、今となっては分からない。

 ただ、嘔吐したことは実際にはなかったはずなのに、その苦しさを知っているかのごとくに怖がっていた。今までに味わったことがないはずなのに、経験があるような錯覚に陥るというようなことは、武明には何度かあったのだ。

――それが今の俺の性格を形成しているのかな?

 という思いがあり、綾乃という女性は今までには知らないタイプだと思っていた感覚が、実は錯覚ではなかったのかと考えるようになっていた。

 老人が毎日のように縁側を見ていることに、何ら違和感のなかった武明だが、ある日、急に飽きを感じるようになった。今までずっと見てきた相手に対し、いまさら飽きを感じるなど、おかしな話ではあったが、それは、今まで老人がそこにいることをまったく不自然に感じなかったからだ。

 それなのに、ある時、その老人がその場所にいないことの方が自然な感じがした。

――ここには最初から、誰もいなかった――

 と思うのが自然な気がしてきたのだ。

――あんな老人、本当にいたのかな?

 という思いまで抱くほどになっていたが、縁側は老人が佇んでいる時と、まったく変わっていない。

 老人の姿を見なくなって一週間くらい経った頃だっただろうか。綾乃が縁側に姿を現した。老人が佇んでいた決まった時間、来ないとは思っていても、ついつい気になって縁側を覗いていた武明の目に、その場に佇んでいる綾乃の姿が飛び込んできたのだ。

 老人がいた時と変わらず、まるでその場に以前からいたのは綾乃だったのではないかと思わせるほど、実に自然な佇まいだった。

 老人がこの時間に縁側に来る時は最初から武明がずっと見ていたので、老人がいつも同じ時間に来ることは分かっていた。しかし、老人を見かけないようになって数日後から、元々飽きを感じていたこともあり、いつも老人が来ていた時間に合わせるように、縁側を見ていたのだ。

「今日もいないか」

 いないことを確認し、ホッとした気分になる。

 もし、その場にいたとすれば、また毎日今までと同じように老人の様子を窺わなければいけないという使命感が湧き上がってくるのだ。

 嫌なはずなのに湧きあがってくる使命感ほど辛いものはない。ホッとした気分になるのも、無理もないことである。

 しかし、肝心なことを忘れているのではないか。いや、忘れているというよりも、意識して考えないようにしていると言った方が正解かも知れない。

――一体、老人はどこに行ったというのだろう?

 このことを考え始めると、夜も眠れなくなる。

 考えてみれば、隣の観察を始めてかなり経っているにも関わらず、武明は隣のことを何も知らないのだ。

 それは当たり前のこと、人様の家のことを、そう簡単に分かるはずもない。交流があるのであれば少しは分かるのかも知れないが、何も知らない相手の家を勝手に覗いているだけの一人の引きこもりの男に、何が分かるというのだろう。

 だが、想像や妄想するのは勝手なことだ。妄想したいから隣の家を覗いていたようなものである。しかし、今思い返してみれば、何を一体妄想したというのだろう。何か妄想で完成したものなどないではないか。佇んでいる老人を毎日同じように見つめているだけだった。

――一体、俺はどれくらいの間、老人を観察していたんだろう?

 観察を始めた最初の頃の記憶は、ほとんどなくなってしまっていた。

――あれは夏だったのだろうか? 冬だったのだろうか? 一年は一周したのだろうか?

 などと、いろいろなことを頭に描いてみた。

 ゆっくりと冷静に思い出せば、分かってくるのだろうが、ゆっくり思い出そうとすると、却って思い出せなくなってしまうような気がする、なぜなら、一つのことを思い出そうとするには、ほかの妄想も連携させなければ思い出せない。一つの妄想がさらなる妄想を呼んで、結局最初に何を思い出したかったのかが分からなくなってしまう。いわゆる、

――堂々巡り――

 を繰り返してしまうのではないだろうか。

 武明は、ずっと杉下老人が一人で佇んでいるところばかりを見てきたはずなのに、意識の中に、女の存在が見え隠れしているのが気になっていた。それは綾乃ではない別の女性だった。

――綾乃には似ても似つかないオンナだったな――

 その女性は、老人のそばにずっといて、話しかけるわけでもなく、時々膝枕をする程度だった。その時の彼女は、恍惚の表情を浮かべていた。膝枕をされている老人が恍惚の表情になっているのなら分かるが、女性の方が恍惚の表情を浮かべているというのも、おかしな気がした。

 老人は、あくまでも無表情だった。

 膝枕をされながら、彼女の顔を覗き込んでいる。その視線を浴びるたびに彼女は恍惚の表情を浮かべている。恍惚の表情の後は、哀れみの表情を浮かべたような気になったのだが、それは一体誰に対してであろうか。

 彼女の哀れみの表情を見た時、老人はしてやたったりの表情になっていた。本当なら恍惚の表情の時にする表情である。それを見た時、おかしな発想が頭に浮かんだ。

――二人の間には、距離だけではなく、時間差のようなものが立ちはだかっているのではないだろうか?

 と感じたのだ。

 二人は同じ時間に同じように存在しているはずなのに、本当はそうではないのかも知れない。隣の家の縁側には、そんな魔力が存在しているのかも知れない。ただ、それを感じることができるのは、自分だけではないだろうか。特殊な力を持っているというべきか、この場所にいるから、特殊な力が身に付いたのか、武明はその瞬間だけ、自分が人間ではなくなってしまったかのような錯覚に陥っていた。

――だから、ずっと老人から目が離せなかったんだ――

 目を離すことで、自分の神通力のようなものがなくなってしまう。

 本当はそんな力、自分は望んだわけではないはずなのに、

――もったいない――

 という思いを抱いていたのも事実だ。

 他の人にはない力を得ることができたとすれば、怖いとは思いながらも、失いたくはないという気持ちが人一倍強いのも武明ではないかと自分で感じていたのだ。

 そのオンナを見たのは、一度きりだった。しかし、今残っている記憶は一回だけだったとは到底思えないほど、たくさんの記憶で溢れていた。

 ただそれは、

――同じ時期ではなかったはずだ――

 という意識が強いからで、そんな意識さえなければ、一度きりの記憶だと言われても、一切の疑問を感じることなどないはずだった。

 武明はそんなことを思い出しながら、縁側に姿を現した綾乃をじっと見ていた。

 綾乃は、まったくの無表情で、老人の時と同じように、庭に生えている木をじっと眺めていた。

――おや?

 武明は、おかしな違和感に包まれた。

――何かが違う――

 綾乃が見つめたその先にある木が、どこか昨日までと違っているように思えた。

 そこにあるのは、明らかに昨日まであった柿の木に間違いない。しかし、その柿の木の様子が変わっているのだ。

――昨日までより大きくなっているような気がする――

 柿の木だけを見つめていると、昨日までと変わらないような気がするのだが、双眼鏡から目を離して庭全体を見つめていると、昨日までよりも木がかなり大きくなっているように思えた。

 倍の大きさとまではいかないが、庭がかなり小さく感じられるほど大きくなっていた。

 庭が小さくなるというのも、木が大きくなるという現象も、どちらも信じがたいことではあるが、まだ木が大きくなるという方が信憑性がある。垣根がたった一日で移動するわけもない、目の錯覚であっても、一番信憑性のあることに目を向けることで、その信憑性を自分に理解させる必要があるのだ。

――以前に感じた老人とオンナの間で時間差が生じているという発想を裏付けるような信憑性だな――

 冷静になって考えれば、そのとれも信じられることではないのに、一つでも信憑性に近づけるような関連性が見つかれば、強引にでも納得させるだけの発想に結びつけようとする。

――老人がいなくなったことに、何か関係があるのかな?

 そう思った時、自分が老人に対して、

――飽きてしまった――

 という発想を抱いたことが悪かったのではないかと思い、それでも、本能から感じたことなので、仕方のないことでもある。

 本当なら、自分が隣の家に乗り込んでいくくらいの度胸があればいいのだろう。しかし、老人がその部屋で見かけなくなったことで、自分が隣の家に入ることは不可能になったように思えてならなかった。

 それは、不法侵入などという法律的な問題ではなく、入ろうとしても入ることはできないというオカルトめいたものがあると感じたのだ。

 そういえば、武明は表で老人に出会ったことがない。息子夫婦やその子供とは毎日のようにどこかで出会っていたのに、老人とは出会うことはなかった。

 その頃は、それを不思議に感じなかった。縁側から見える老人の姿を見止めることで、満足していたのかも知れない。

 綾乃が縁側で佇んでいると、そこに一人の男が現れた。

――あれは確か、以前綾乃が最初にここに来た時、綾乃を連れてきた男ではないか――

 というのを思い出した。

 あの男の存在があったので、綾乃は派遣されたヘルパーだと思っていたが、実際にはどうなのだろう?

 綾乃は縁側で佇みながら、その男が現れてすぐには男の存在に気づいていないようだった。

 男が話しかけるが、綾乃は答えない。

 男がもう一度話しかけると、やっと綾乃はその男の方を振り返った。

 綾乃の表情には安心感があったが、男はあくまでも冷静で、綾乃の笑顔に答えてあげるつもりはないようだった。

 男は綾乃のすぐ横に座った。何かを話しかけているようだが、綾乃は柿の木を見つめながら、答えようとはしない。

 すると、男は綾乃の視線に気づき、綾乃と同じ視線を柿の木に注いだ。

 男は満足そうに微笑んだが、綾乃はさっきまで以上に、嫌な顔になっていた。まるで苦虫を噛み潰しているかのような表情に、武明はゾッとしたものを感じた。

「また来るよ」

 男はそう言った。

 さっきまで、二人の会話はまったく聞こえなかったはずなのに、最後の男の言葉だけハッキリと聞こえた。

 しかも、それは男が声を張り上げたわけではない。むしろ呟いたような感じだった。

――最後だけ聞こえたというのはどういうことなんだろう?

 考えられることは二つだった。

 一つは、

「途中、縁側の世界は幕が張られたように、まわりに声や音を遮断していて、最後だけベールを外したような感じ」

 だと思うことと、

「武明の方が、二人の会話を聞きたくないという思いがどこかにあり、わざと聞こえなかったのか、夢のように我に返っていく間に、忘れてしまったか」

 のどちらかではないかと感じていた。

 普通であれば、前者の方が圧倒的に信憑性を感じるのだが、この時だけは、どちらともいえないような気持ちになっていた。

 武明は、隣の庭に思い入れがあり、老人に対して飽きたと思いながらも忘れられない思いが残っていることを感じていた。

 飽きが来たように感じたのも、本当は老人を見ている時は、まるで夢を見ている時と同じように、

――忘れなければいけないと思っているのだろうか――

 と感じていた。

 しかし、忘れようとしなくても、自然と忘れてしまうことが、夢であるならば、自分は隣の老人を夢として忘れたくないという思いがあるのだ。

――老人は本当に、見つめられていることを何も知らなかったのだろうか?

 という思いは、覗いている間、いつも持っていた。

 いくら鈍感な人であっても、毎日のように見られていれば気づきそうなものである。そう思うと老人は、わざと分かっていないふりを続けることで、武明の関心を次第に強くしていこうという作為があったように感じられた。

 息子夫婦に対して、かなり露骨に嫌な態度を示していて、奥さんの方は、息子と違って自分の意見をしっかり持っているような人だった。老人を置いて家族で出て行こうとしたのは、ハッキリとした性格である奥さんが決めたことではないだろうか。

 ハッキリとした性格であるがゆえに、今まで家に住まわせてくれた老人に対しての敬意を表することなく出て行くことは自分に対して許せない気持ちがあったのだろう。躁考えれば一人残された老人にヘルパーがつくというのも分かる気がする。

「立つ鳥後を濁さず」

 ということわざがあるが、まさにその通りだろう。

 ただ、一人取り残された老人はどうだったのだろう?

「一人でせいせいしているのに、ヘルパーをつけるなど、息子夫婦も余計なことをしてくれた」

 と思っているかも知れない。

 ただ、そんな感情はお首にも出さずに、老人はいつもの通り、縁側に佇んでいた。

「これでお義父さんは安心」

 と思い、息子夫婦は出ていったのだろう。

――そういえば、杉下老人と綾乃さんが一緒にいるところって、最初の一回しか見たことがなかったな――

 いまさらのように武明は思い出していた。

 思い出してみれば、杉下老人がいつも縁側の中心だったが、息子夫婦がいる間でも、老人は目立つことをしたわけではなかった。露骨な態度をしていたと言っても、奥さんも態度がハッキリしていたので、お互い様と言ってもいいだろう。それを傍目から見ていて、まるで他人事のように旦那は感じていたに違いない。

「俺は、二人に挟まれて、被害者なんだ」

 と、他人事のような意識を持っていたことだろう。

 奥さんとすれば、こんな旦那の方が操縦しやすい。出て行くタイミングを見計らい、綾乃を雇うことで、旦那を納得させたに違いない。

 綾乃は老人と一緒にいる時、庭の柿の木を意識したのだろうか。老人の姿を見なくなってから、元々老人がいた位置に座り込んで、まるで柿の木の番人を引き継いだような雰囲気だった。

 武明は、自分が熱しやすく冷めやすい性格だということを、いまさらながらに思い出したのは、綾乃に飽きが来たからだった。綾乃は相変わらず柿の木を見つめているが、老人が見ていた時と雰囲気が違っている。最初はどこが違っているのか分からなかったが、すぐに分かった。

「そうだ。老人は柿の木を見る時、心ここにあらずという雰囲気だったのに、綾乃の場合は、明らかに柿の木を穴が開くほどに見つめている。見つめていれば、土の中に何があるかが透視して見えるかのような熱い視線だ」

 そんなことを思っていると、自分が綾乃に飽きが来た理由が分かってきた気がした。

 一つのことに集中している人を見ているのは、最初はいろいろな発想を思い浮かべることができるのだが、次第に限界があることに気づいてしまう。自分が興味を持ったのは綾乃という女性なのか、それとも柿の木を見つめている綾乃なのか、次第に分からなくなってくる。

 老人がいた時のイメージから、綾乃がいない時にその場所にシンクロさせてみると、綾乃をかぶせて見ることができなかった。明らかに綾乃と老人は別の意味で、何があるか分からないその場所に興味を持ったのだ。

――やはり、同じ場所であっても、二人が同じ次元に存在していたという感覚を持つことはできない――

 老人が消えてしまったのは、

――別の次元に行ってしまったのではないか?

 などという、バカげたSFチックな発想を抱いてみたりした。

 すぐに、

――そんなバカな――

 と打ち消すことで、今度は老人が、予期せぬところに現れるような気がしてきたから不思議だった。

 そんなことを考えながら、武明はいつもの喫茶店に朝食を食べに出かけた。

 相変わらず表に出るパターンは決まっていて、毎日の日課としては、馴染みの喫茶店でのモーニングは欠かせなくなっていたのだ。

「いらっしゃい」

 マスターともすっかり顔馴染みになっていて、会話のほとんどはマスターとだった。アルバイトの女の子とも時々話をするが、すぐに話題が切れてしまって、気まずい雰囲気になる。それでも懲りずに彼女は話しかけてくれる。会話をするといっても、いつも話しかけてくれるのは、彼女の方からであった。

 名前をふうかちゃんと言う。どんな字を書くのか分からなかったが、話しかけてくれる時、甘えられているようで、くすぐったい気分になっていた。そのうちに、

「風に香るって書くのよ」

 と、自分が聞いたわけでもなかったのに、風香ちゃんの方から教えてくれた。まるでこちらの考えていることが分かるかのようだった。

 武明は、どちらかというと、まわりの人に考えていることを看破されやすいらしい。大学の時の先輩からそう言われて、

「大学時代はそれでもいいけど、就職してから百戦錬磨の先輩たちを相手に相手に看破されやすいと、やりにくくなったりすることもあるので、気をつけないとな」

 と言われた。

「それならそれでもいいですよ」

 半分、やけ気味に返事をしたが、今となっては、その言葉が予言となってしまったのだった。

 杉下老人の姿を見なくなってから二週間が経った頃そんな時だった。綾乃に対してはまだ興味が薄れる前だったので、家にいる時と、喫茶店に来てからの自分は、まるで別人のような気分になっていた。

「ねえねえ、須藤君。須藤君はじーっと人のことを観察したことってある?」

 風香ちゃんからそう言われて、ドキッとした。

 まるで自分が隣の庭の縁側を観察しているって分かっているかのように感じたからだ。

 そんな様子を見て、

「いやあね。そんな怖い顔しないでよ」

 きっと目をカッと見開いて、風香を見つめていたのだろう。我に返った武明は、

「あ、ごめんごめん。急にそんなことを言い出すので、少しビックリしてね」

 というと、無邪気な表情をそのままに、視線だけは興味本位で武明に向けていた。

「ごっくん」

 思わず、喉を鳴らした武明は、風香の視線に、オンナの色香を感じてしまったようだ。

 今までは女の子としての無邪気さばかりを見ていたはずなのに、オンナの色香を見てしまうと、風香のことが忘れられなくなるのではないかと思えてきた。

 しかし、その時急に、隣の家の綾乃の顔が瞼の裏に浮かんできた。風香に見つめられながら、自分が別のオンナを想像しているなどということを看破されたくないと思い、思わず目を逸らした武明だった。

「どうしたの?」

 あどけない笑顔を浮かべていたはずの風香の顔に、ふいに不安がよぎったように見えた。

「風香ちゃん」

 質問には答えず、なぜか名前を呼んでしまった武明は、急に恥ずかしくなった。真っ赤に紅潮した頬がはちきれんばかりになってくると、目尻の下にしわができてくるのを感じた。そのしわは痛みを伴っていて、明らかに普通ではない表情をしているのが分かっているのに、それがどの感情からきているものなのか、まったく分からなかった。

 武明は、感情は豊富だと思っていた。表に出さないので、他の人に分からないだけではなく、自分でも分かっていない。どんな感情を抱いた時、どのような表情になるのか分からないのだ。

――他人だったら分かるのに――

 自分の顔は、鑑のような媒体を通さない限り、見ることができない。他の人の顔は見ることができるのにである。

 時々武明は自分が無意識に何かを考えているのを感じているが、本当は何かを考えているのではなく、自分がその時、どんな表情をしているのか、想像しているのだ。

 そのためには、自分を客観的に考えなければいけない。他人から自分を見ているような目を持たなければ、自分の表情を想像することなどできない。

 自分が何を考えているかということと、自分が今どんな表情をしているかということは、同じ次元で考えるべきことだと思う。しかし、この時の武明は、自分が何を考えているかということは二の次だった。まずは、自分がどんな表情をしているかということが大切だった。

 自分の表情を想像することで、その後に自分が何を考えているかということを考えることはできるが、逆に何を考えているかが分かったところで、その時の表情を想像するのはできっこないと思っていた。

 その時の風香は武明が自分から何かの結論を導き出すまで、根気よく待ってくれていたようだ。ただ、その時の目力は他の人には絶対に感じたことがないほど強いもので、まるで無言のプレッシャーを受けているようだった。

 だが、自分の表情を想像するには、それくらいのプレッシャーが必要なのかも知れない。

「須藤さんは、本当に素直なんですね」

 武明が何となく自分の表情を垣間見た気がしたその時、風香は言葉を掛けてくれた。

 そのタイミングは絶妙で、入り込んでしまった自分の世界の殻を、風香の一声が破ってくれたのだ。

「素直って言われるのが一番嬉しいよ」

 その言葉にウソはなかった。

 しかし、それはその時までで、それ以降、素直だと言われると、何かバカにされているように感じるようになっていた。自分が素直と言われて喜ぶことへの引導も、その時の風香が渡してくれたのだった。

 それから一ヶ月が経った頃だった。

 武明が綾乃に飽きを感じてきた頃で、綾乃への興味が薄れたことで、今度は風香への重いが強くなってきたことを感じていた。

――綾乃さんと風香ちゃんでは、まったく別人のような性格なのに、俺にはどうしても別の次元で考えることはできない――

 と感じていた。

――もし、風香ちゃんが隣の縁側に佇んでいたら、どう感じるだろうな――

 と、武明は思った。

――きっと、すぐに飽きるかも知れない――

 綾乃の場合は最初からあの場所からスタートしたのだ。相手のことを少しだけ知った上で、その人があの縁側に佇んでいる姿を考えてみると、じっと見つめていることに疲れてくるに違いないと感じたのだ。

「そういえば、私ね。子供の頃に井戸に落ちかけたことがあったの」

 と、出し抜けに風香は言った。

「どういうことだい? 井戸なんて残っている家と言えば、田舎の旧家でもなければないような気がするんだけど?」

「ええ、でも確かに私の中の記憶にはあるのよ。それがどこだったのか、いつ頃だったのかということは、ハッキリとしてはいないんですけどね。でも、人はそんな記憶を一つや二つ持っているものなんじゃないかしら?」

 と言われて、武明も考えてみた。

「なるほど、確かにそうかも知れないね。でも、今の僕は急に言われて思い出すことはできないような気がするな」

 人から言われなければ、思い出したかも知れない。

 それも、ちょうどその時にふっと思ったような気がする。もし、その時自分の方が先に何かを思い出し、風香に告げたとすれば、風香は井戸に落ちかけたなどという記憶を思い出すことはなかったかも知れない。

 しかし、その時武明が感じたのは、綾乃のことだった。

 綾乃が柿の木をじっと見つめながら涙を流している姿である。

 ここしばらく、ずっと見てきた綾乃に、涙を流すなどという雰囲気はまったく感じられなかった。涙どころか、哀れみを感じさせるその表情は、明らかに上から目線で、自分が殺した相手に哀れみを感じているかのようなイメージだった。

 他の人なら、人を殺した人が、殺した相手に対して哀れみの表情を浮かべるなどというシチュエーションを感じることはないだろう。

 今までの武明なら他の人と同じ発想だったに違いない。

――綾乃と風香の間には結界があり、その結界を通して二人を同じ次元で見ることができるのは、自分しかいない――

 と、武明は思っていた。

 風香が、

「井戸に落ちそうになった記憶が残っている」

 と言ったのを想像していると、それまで想像もつかなかった庭にある井戸を想像することができた。

 その井戸は、人の家ではなかった。どこかの裏庭にある空き地にある井戸で、その奥に生い茂っている森が、日の光を遮断して、昼間でも真っ暗な光景であった。

――家の近くにあった神社の裏庭だ――

 子供の頃には確かにあった井戸だった。

 武明は一度だけ、その井戸を見たことがあった。井戸には落ちないように鉄の網のようなものが張り巡らされていて危険はなかったので、その井戸を覗きこんだ。下から冷たい風が舞い上がってきて、震えを伴いゾッとした気分では、そこからすぐに立ち去ることはできなくなっていた。

 その日はそれからどうなったのか次の日には覚えていなかった。

「夢だったんだろうか?」

 と思うと、もう一度その場所に行ってみなければ気がすまなかった。

 武明はその場所に行ってみたが、あるはずの井戸が消えていた。

「やっぱり夢だったんだ」

 と言って一言で片付けられない気持ちになっていた。

 神社の人に聞いてみればいいのだろうが、急に怖くなって、聞くことはできなかった。最初に聞くことができないと、どんどん恐ろしさは増幅されていって、もう、考えることすら恐ろしくなっていた。

「早く忘れてしまわないと」

 と思いながら、別の夢を見ることを望んでいた。別の夢を見ることで、うわっかぶせで打ち消されるように感じたからだ。

 風香に井戸の話をされてドキッとしたのは、この記憶があったからなのだが、いきなり井戸という言葉が風香の口から出てきたことで、一気に記憶の手前にあったであろう井戸への思いが、奥深くまで追いやられてしまった。

 なぜその時、風香は井戸の話をしたのか、武明には想像もできなかったが、風香が武明の中に、井戸に関する意識を感じたのだとすれば、理屈は通る気がした。

――井戸のことは思い出してはいけない――

 とっさにそう感じた。

 井戸の中に、何か光るものを見たような気がしたからだ。真っ暗で何も見えないはずの井戸の奥、最初はその光るものが、

――水が溜まっていて、そこに光が当たって、波打っているのが見えていたに違いない――

 と感じていた。

 しかし、そんな反射による光ではなく、自ら光ったものだと子供心に感じた。確信があったわけではないが、怖がっている証拠が反射によるものではないと思うことで、自分を納得させていたのだろう。

 そこまで考えてくると、いろいろ思い出してきた。

 井戸の底から吹いてくる風は冷たいと思っていたのに、生暖かさを感じた。その音は、

「ゴォー」

 という音ではなく、

「モォー」

 という音だった。音というよりも、声のように聞こえたことがさらに恐怖を煽ったのだった。

――急いでこの場から立ち去らないといけない――

 と思いながらも、一度覗き込んでしまった井戸から身体を起こすことができなくなっていた。

――このままでは吸い込まれてしまう――

 井戸には鉄の網が敷かれているので、落ちることはないはずなのに、その時は落ち込んでしまうことを真剣に恐れていた。落ちるというよりも吸い込まれてしまうことが恐ろしかったのだ。

 吸い込まれてしまっては、二度と這い上がることはできない。自分も井戸の底から、叫ぶことになるのだろうか?

 テレビでやっていた妖怪モノの映画番組で、井戸を覗き込んでしまったために、井戸の中にいる「井戸の精」と入れ替わることになる話を見たのを思い出した。

「俺は、三百年もここで、誰か俺の身代わりになってくれるやつを待ち続けていたんだ。君が覗き込んでくれたおかげで、俺はここから出て行くことができる」

 と言って、覗き込んだ人間を井戸に引っ張りこんで、「井戸の精」は、表に出てきた。

「俺も、三百年前に君と同じように好奇心からここを覗いてしまったんだ。そのため、この井戸の精にさせられて、元々の井戸の精は喜んで表に出て行った。そいつはここに二百年いたと言っていたっけ。俺はそれ以上かかってしまったけどな。それだけに喜びはひとしおなのさ」

 と言って、鬼気迫る表情で、喜びをあらわにしていた。それだけに、まるでこの世のものとは思えないその表情に何も言えず、自分の運命を呪うしかなかったのだ。

 元々の井戸の精は、そう言って立ち去っていった。

 一人残された、「新しい」井戸の精は、諦めが付かないまま、次第に冷静さを取り戻してきた。

 そして、いろいろ疑問に思うことが生まれてきたのだ。

 一番大きな疑問は、

――どうしてあの男は、自分が三百年もいたことを分かったのだろう?

 ここには時計もなければ、何もない。太陽が差し込んでくるわけでもないので、一日の感覚などあったものではない。それなのに、どうして時間や日にちの感覚が分かるのか、まずそれが一番の疑問だった。

 考えてみれば、まだまだ疑問はたくさんある。

――あの男だって人間なんだから、どうやって生き延びたのだろう?

 という疑問。

 そもそも当然、人間なんだから、三百年も生きているなど、ありえる話ではない。食事だって摂らなければすぐに死んでしまう。飲食がどうなっているのか、まずそれが死活問題だった。男は暗闇の中で、いろいろなことを考えていた。

 どれくらいの時間が経ったのか、たったこれだけの時間なのに、すでに分からなくなっていた。もう一つ気になったのは、いくら真っ暗な井戸の中とはいえ、目がなかなか慣れてこないことだった。

 人間は、いくら暗闇でも、時間が経ってくれば、目が慣れてくるものである。

 そんなことは分かっているので、

「そのうちに目が慣れてくるはずだ」

 と思っていたことが、この状況の中での一つと言っていい安心感を与えるものであった。それなのに、一向に目が慣れてくるふしはない。まるで自分に安心感を絶対に与えないという見えない力が働いているかのようだった。

 目が見えないと、その場から動くことはできない。

 さっきまでいろいろな疑問や不安に感じることも考えていたが、目が慣れてこないことで、それどころではなくなっていた。

――一体、どうすればいいんだ――

 恐怖が次第に死に直結する気分になってきた。逃げ出したいという思いはすでにどこかに行ってしまっていて、まずは自分の置かれている状況を知ることができればと、それだけしか考えられなくなっていた。

 そこまで追い詰められてくると、やっと目が慣れてきた。

 目の前に白いものが転がっているように見えた。どうやら井戸の底には水が溜まっているわけではないようだ。

 目が慣れてくるのを感じると、さっきまでまったく見えなかったのがウソのように、井戸の底の様子が手に取るように分かってくる。さっき見えていた白いものは、白骨で、頭蓋骨など、ひび割れしていて、明らかなこの世の地獄絵図だった。

 白骨死体は山のようにあって、一体どれだけの人、あるいは動物のものなのか、分からなかった。

――白骨の山――

 まさにそんな言葉がピッタリで、よく見ると芸術作品のような不気味ではあるが、綺麗に見えていた。

「ひょっとして、さっきの井戸の精が毎日食べつくしたのが、この白骨なんだろうか?」

 そう思うと、白骨の数を数えることで、それだけの年が経ったのか分かるのだろう。

 しかし、一年や二年なら何とか分かるかも知れないが、三百年などという期間を月日に置き換えるなど、実に気が遠くなるというものだ。どこか現実離れした感覚に、男は次第に何も考えられなくなっていった。

 さて、井戸から出て行った最初の井戸の精はどうなったのであろうか?

 意気揚々と井戸から出てスキップでもするかのように井戸を囲んでいる森から出てみた。するとそこは見たこともない世界が広がっている。三百年も経っているのだから当たり前のことだ。

「ここは、俺の居場所ではない」

 男はそう感じ、

「さっきの井戸に戻りたい」

 と思い、踵を返そうとしたその瞬間、身体の自由がまったく利かなくなった。

「俺はどうなってしまったんだ?」

 男は石になってしまった。

 その時に感じたのは、

「振り返ってしまったことが命取りだったんだ」

 今度こそ、男は石になって死んでしまった。しかし、それは三百年も生きてきた男にとっては、寿命だったと思えば何ら不思議のないことだ。

 男がどんな思いで死んでいったのだろう? その思いを考えるのは難しいことなのだろうが、武明は今なら分かる気がする。

「人間なんて死んでしまえば皆同じなんだ。思い出なんかあってもなくても一緒さ」

 と思った。

 世の中にある宗教は、そのほとんどが、

「死後の世界で幸せになるため、この世で修行しているようなものだ」

 と思っている。

 ということは、

「この世では幸せになれないので、あの世で幸せになることを祈る」

 それが摂理ではないか。

 子供の頃に見た映画で、子供の頭でそこまで考えられるとは到底思えない。映画の印象が深く、成長するにつれて、最初は分からなかったことも、次第に思い出しながら考えることで少しずつ考えが固まってくる。

 特に夢を見た時など、普段ではできない発想を夢の中で育むことで成長させていくことは可能だろう。

 しかし、夢というのは

「潜在意識のなせる業」

 という言葉があるが、実際にこの世でできないことを夢とはいえ、想像することはできない。そのために、過去に見た映画の内容を自分に置き換えてみることで、不可能だと思えることを可能にできる発想を持つことができるのだろう。

 夢と映画と現実と、それぞれに思い入れがあって、別の次元で考えていたものが、どこの世界で一緒にすることができるのか、夢だと思っていることが現実だったり、現実だと思っていることが夢だったりすることで混乱する自分の頭を冷静にすることができるのも、それぞれに違った発想の中にも、必ず共通点があるからだ。

「もし、そこに自分以外の誰かが関わっているとすれば?」

 普通に考えれば、そんなことはありえない。しかし、考えていく中で、人は誰かを意識しなければ生きていけない時期というのは、絶対に存在している。

 武明のように、誰も意識しないようにしながら生きていこうと思いながらも、隣の老人が気になったり、綾乃や風香が気になったりしているのはそのためだろう。

 肉親に対しては、まったく「意識する」という感覚はなかった。

 自分が意識するよりもまわりが意識している。しかも、子供や家族のためという思いではなく、まずは自分のためから始まっている。

「親や家族というのは、そんなものではないぞ。自分よりもまず子供だって思うものさ」

 ということを言う人がいた。

 当たり前のことを当たり前のように説教しているが、当たり前だと思っている人には通用しても、疑問を持っている人には通用しない。

「そうですか」

 相手の押し付けがましい説教を軽くかわしても、相手はそのことに気づかない。それだけ自分の説教に「酔っている」のか、それとも当たり前のことを話しているのを分かっているので、相手も当たり前に聞いているはずなので、軽くかわされても、悪いことだとは思っていないのかも知れない。

 井戸から出た男は、そこで寿命が終わっていたのだ。

 いや、本当は井戸の中で寿命が切れていたのに、井戸の近くにいることで生きることができていた。井戸を出てしまうと、その神通力は消え失せてしまい、死は必然となるのである。

 考えてみれば当たり前のことだった。

 しかし、男が死んだのは、本当は後ろを振り返ったからではないだろうか。本当はそのまま何も考えずに元いた世界に戻ることだけを考えていれば、少なくとも、未来の世界に戻ることはなかったのかも知れない。三百年などという時間は、彼が井戸の精だった時期に過ごした時間ではなく、本当はもっと短かったのかも知れない。錯覚を植えつけられたのは、男が元の世界に戻っても、この世界のことを話すか話さないか、それを確かめるための、三百年という期間を頭に植え付けたのかも知れない。

 だから、男が本当の三百年後の世界を垣間見た時、元の井戸に戻ろうとしたことが、男の命運を尽きさせることになったのだろう。

 もし、振り返らずに元の世界に戻れたら、彼は井戸の精だったことを忘れて、井戸の精になる前の自然な自分に戻っていたかも知れない。そう思うと、

――彼のような井戸の精は、結構たくさんいるのかも知れないな――

 と感じてしまう。

 同じ時代に数人が存在していたとしても、不思議はない気もしている。同じような井戸が世界にはいくつもあって、人間を惑わしている。それが何のためにされているのか分からないが、井戸というものに興味を示す人間がいれば、その人はいつでも井戸の精になることができる。そんな危険性を孕んでいると思うと、映画を見たという記憶だけで、よくもここまで発想できると感じる自分も、

「本当は以前、自分も井戸の精だったのかも知れない」

 と感じてしまった。

――まるで堂々巡りを繰り返しているようだ――

 井戸の精だった記憶などあるわけはないのに、井戸の精の発想は忘れることができない。そう思うと、自分は本当に生きているのか、それとも意識だけの存在で、肉体と切り離して考えることもできるのではないかという勝手な想像すらしてしまっていた。

 武明は今でこそいろいろな発想を思い出していたが、以前から一つだけ井戸の話と繋がっているという意識もない中で、目を瞑れば浮かび上がってくる光景があった。その光景というのは、

――白骨死体のオブジェ――

 だった。

 まるで本当の山のようになった白骨死体。歩いて登ることもできそうなのだが、それが白骨だと思うと、どうしても越えることができなかった。

「白骨を超えていくということは、その向こうに広がっている世界というのは、死の世界以外の何者でもない」

 と考えていたからだ。

 別に武明は死というものを怖いと思っているわけではないが、

「死んでしまうと、もう何も想像することはできない」

 と思うことが一番怖かったのだ。

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