第3話 矛盾の副作用

「先に動くと、そこから隙ができて、却って身動きが取れなくなる」

 という話を、未来の坂田も榎本も聞いたことがあった。

 しかも、その話をしていたのは、お互いに知り合ってすぐだったこともあって覚えているのだ。その話がきっかけで二人の仲が深まって行ったというのも事実であり、今から思えば皮肉なものであった。

 未来においての榎本と坂田では結構話が合っていた。お互いに基本的なところでは、

――混じり合うことのない平行線――

 を描いていたのだが、話が噛み合わなかったわけではない。意見が違っていても話が噛み合うのは、それぞれに新鮮な風を吹き込むことで、いい傾向にあると言っても過言ではないだろう。

 未来においての二人の距離が離れていったのは、教授の方からだった。

 元々二人は、

――人とは一定の距離を置くものだ――

 という考えを持っていた。お互いにそのことを話すことはなかったが、一緒にいるうちに、相手も同じことを考えていることが分かってくるというものだった。お互いに学者肌なところがあり、それぞれに牽制し合っているのを感じていたのは、本人たちよりも、まわりの方が敏感だったに違いない。

 そういう意味でも、二人には誰も近づいてこようとはしなかった。確かに教授と学生という関係では、まったく遠ざかっているわけにもいかないだろうが、学生のほとんどは、最初から割り切って、教授と付き合っていた。

 榎本も、同じだったが、他の学生のように近づかないというわけにもいかない。榎本ほど微妙で中途半端な距離を取っている人はいなかっただろう。

 意識しなくても、距離が中途半端というだけで、気持ち悪いものだ。吐き気を催すくらいに気持ち悪くなったり、急に頭痛が襲ってきたりした。その原因が教授にあるとは思わなかった榎本は、その時、自分の記憶が薄れてくるのを感じていた。

 だが、記憶がなくなることはなかった。薄れて行っていると感じたのは、気のせいだったのかも知れないと思うほど、薄れが消えてくると、マヒしていた感覚が戻ってくることで、またしても、気持ち悪さが戻ってくる。

 教授との関係が変わらない限り、このまま同じことを繰り返してしまうと感じた榎本は、どうしていいのか分からないまま、教授を気にして見ているしかなかった。見ているうちに教授は自分が思っているよりも、さらに危険な人間であることに気付いてきたのだ。

 そこに現れたのがはづきだった。

――一体どこから来て、教授の実験台になったのだろう?

 さすがに人間扱いされていないほど、酷い扱いではなかったが、

――今の世の中にこんなことがありえるのか?

 と思うほど、はづきに対して露骨なまでの同情を感じていた。

 だが、榎本にはどうすることもできない。

 坂田教授が何をしようとしているのか、ハッキリしたことも分からない。助手である自分に内緒で何かをする教授はそれまでになかったことだ。つまりは、それまで何とか切り抜けてきた均衡を、教授の方から破っていたのだ。その時のような中途半端な距離ではどうにもならない。その時は榎本よりも、坂田教授の方が、苦しかったに違いない。

 坂田教授は、二人がいなくなったことに気付いていた。

 いや、いなくなるのではないかという予感めいたものがあった。今までの坂田教授であれば、何としてでも妨害を企てたかも知れない。しかし、今回だけは、なぜか気力が湧かなかった。

――はづきのいない世界を覗いてみたい――

 と、感じていたようだが、それが本心からなのか分からない。なぜなら二人が過去に戻ってすぐに、坂田教授は意識不明に陥り、しばらく動けなかった。

 命に別状はなく、一旦回復に向かうと、思ったよりも回復が早く、退院できるようになるまで、半年とかからなかった。

 だが、その間の半年が長かったのか短かったのか、当の本人には分からない。意識が戻ってからというのは、記憶のほとんどは消えていた。坂田教授を知る人の間では、

「あれほど意識が詰まりすぎるくらいだった記憶なので、一か所が崩れると、音を立てて雪崩落ちるようなものだったのかも知れない」

 という意見がもっぱらだった。

 飽和状態というのは、そういうことを言うのだろう。飽和状態という意味では、榎本も時々自分の中で飽和状態になっていることを感じることがあった。

――空気が濃すぎるとでもいうんだろうか?

 空気が薄い時と違って、濃すぎる時も、呼吸困難に陥ってしまう。同じ結果になる場合でも、原因がまったく正反対であることも珍しくはない中で、飽和状態にその思いを感じたのは、息苦しさが感覚をマヒさせることと密接に関係があることに気付いたからだった。

 ただ、そのことにいち早く気付いていたのは、坂田教授だった。

 心理学を研究する中で、

――精神的な息苦しさ――

 というのを避けて通ることができないものだという意識があった。精神的な息苦しさというのは、時間を感じさせないほど感覚をマヒさせるもので、背中や額から、無意識のうちに汗がしたたり落ちるなどということも、決して嘘ではないようだ。

 それは心理学を研究している人間に限ったわけではなく、誰もが感じることであり、そのことに疑問を持つか持たないか、それが研究している人間かどうかの違いのように思えるのだった。

 坂田教授の記憶は意識が戻った時、すでになくなっていた。以前にも記憶喪失に陥ったことがあっても、少しすると記憶が戻ったこともあって、

「今回も体調が回復に向かうにつれて、記憶も戻ってくるだろう」

 というのが、大半の意見だった。

 さすがに教授としての復帰にはまだまだ時間が掛かるようだった。だが、大学側は教授を除籍にする予定はない。むしろ教授の帰参を待ち望んでいるようだった。

「彼にはやってもらわなければいけない研究がある」

 というのが大学側の意見で一致していた。ただ、一つ気がかりなのは、その研究に必要だと思われた榎本助手とはづきの行方が分からなくなっていることだった。

 二人が過去に行ったのではないかという思いは坂田教授だけが持っていた。しかし、その坂田教授も記憶喪失状態である。榎本とはづきのことをまわりは気になりながら、どうしようもない状態だったのだ。

 ただ、坂田教授がはづきのことを、

「失敗作だ」

 と触れ回っていたことは、耳に入っていた。

「失敗作というのはどういうことなのだろうか?」

 研究を依頼している側からすれば、気になるところだった。昔に比べれば大学での実験に対しての権利や特権は、昔に比べればかなりの部分で優遇されているが、さすがに人体実験には微妙だった。

 もちろん、心理学の実験なので、身体に対しての危害が加わることはないだろうが、意識や記憶という部分で、どのような研究が施されたのかは、キチンと研究結果として残しておかなければならない義務があったのだ。

 しかし、坂田教授の意識がなくなってから、研究室を捜索した大学側や依頼主は、研究過程の資料を発見することができたが、実際にどのような結果が現れているかということまでその資料には記されていなかった。

「これじゃあ、判断ができないじゃないか」

「きっと、教授がどこかに持っていて、その記憶を持ったまま、意識がなくなり、その時に意識とともに、記憶も飛んでしまった。教授の記憶が戻らない限り、ハッキリとしたことは分からないのではないでしょうか?」

 というのが、依頼側の意見だった。

「気長に待つしかないのかな?」

 本当は、さほど気長に待っていられるわけでもないのだろうが、中途半端なことをすれば、却って墓穴を掘ってしまう。あくまでも、依頼主側は表に出ることはなく、静かに目的を達成できるプロセスを踏むのが、教授の研究だったからである。

 そういう意味では、はづきに対しての、

――彼女は失敗作――

 とい表現は、何に対しての失敗作なのかが問題だったのだ。

 榎本助手は、そこまでの話を知らない。どこかから依頼があって、教授が何かの研究をしているのは分かっていた。そのためにはづきが選ばれたのも分かっているつもりだったが、肝心の研究に関しては、

――完全極秘――

 だったのだ。

 助手にも秘密にしなければいけない研究が存在するということは、それだけ坂田教授が一目置かれているということだ。榎本は、まわりから一目置かれているような人間には、自分は逆らうことができないということを自覚しているつもりだった。

 坂田は、退院してからしばらくは研究室に戻ることもなく、田舎町で温泉療養をしていた。

「記憶が一日も早く戻るのを願っているよ」

 という依頼主の坂田教授への言葉だったが、坂田教授には、研究者としての気概はすでに感じられなかった。

「ありがとうございます」

 屈託のない笑顔を見せるが、

――これがあの神経質で融通の利かないと言われ、人を寄せ付けないような雰囲気を持った坂田教授なのか?

 と思うと、依頼主の方も、一瞬のことだとは言っても、自分たちの任務を忘れてしまいそうになったことにハッとしてしまうほど、坂田教授の変わりようには、ビックリしていた。

 具体的な依頼内容に関して、実は依頼主側でもすべてを理解している人は限られた一部の人たちだけだった。坂田教授と実際に会っている人は数人いたが、彼らは依頼内容の一部しか知らない。

「お前たちは自分の知らされている部分だけを、教授に達成させることを目的にすればいいんだ」

 という指令を受けていた。

 したがって、自分たちが一部しか知らないのを理解している。理解している上で、教授に接してきたというのは、決して楽なことではなかったはずだ。そういう意味でも、命令や指令に対して忠実にこなすことに長けている人間たちであることに違いはない。

 坂田教授も実はそのことは分かっていた。それぞれに主張が違うのだから当たり前のことなのだが、なぜそのような回りくどいやり方になるのかは分からなかった。ただ、それだけ極秘が絶対条件になるほどのことなのだという意味で、教授が受けていたプレッシャーはハンパなものではなかったであろう。

 教授は一時期、鬱状態に陥っていた時があった。それは榎本が陥った鬱状態が収まった後だった。坂田教授が鬱状態に陥るなど本当に久しぶりだった。以前には何度かあったが、ここ最近は鬱状態に陥ることはなかったのだ。

――それだけ依頼が僕の神経を痛めつけているのかな?

 とも思ったが、それよりも、目の前で鬱状態になっていた榎本を見ていると、いつの間にか自分にも伝染してしまったのではないかと思うようにもなっていた。

 榎本の鬱が移ったと思う方が気は楽だった。それほど依頼というのは神経を使うもので、本人が意識している以上に頭を悩ませていたのかも知れない。

――榎本を見ていると、躁鬱症だということがすぐに分かるな――

 最初から分かっていて、そんな榎本を助手に引き入れたのは、研究材料になるという思いと、自分があまり人の影響を受けることがないという自負があったからだ。榎本と話をしていると榎本が実直な人間であることが分かってくる。真っ直ぐであまり人を疑うことがない。それだけ危険な臭いもするが、憎まざるべき相手だと言えるのではないだろうか?

 教授が記憶を失う前に会っていた依頼主は、大きな組織に属しているのではないかということを、榎本は何となくだが分かっていた。

――何か危ないことなのかも知れない――

 教授が信じて行っている研究なら、何も言わずについていくだけなのだが、榎本には信じられなかった。

 しかも、教授は公然と、

「失敗作だ」

 と、はづきのことを口にしていた。そのことははづきの耳にも当然入っている。

 榎本はそれからすぐにはづきから、

「今度、夕食をご一緒しませんか?」

 という誘いを受けた。

 それまでは教授から、

「はづき君は、私の研究に欠かせない人なので、なるべく個人として会うことのないようにしてくれないか?」

 と言われたことがあった。

「どういうことですか?」

 教授がそんなことを言うなど、最初は信じられなかった。その頃にはまだ組織の存在を知らなかったし、はづきに何か研究の手助けをしてもらおうと思っていることが分かっていたのだが、ハッキリと教授の口から聞いたことはなかっただけに、理由を聞かないわけにもいかなかった。

 その時、榎本ははづきのことを気になりかけていた。本人には自覚はなかったようだが、実際には濃い心を抱き始めていたのは、ちょうどその頃だったに違いない。

 榎本のはづきに対する恋心は、一進一退だった。一気に気になって身体が震えることもあれば、翌日になると、何事もなかったように、前の日に感じた思いが冷めてしまっていることが何度もあった。

 もちろん、告白などしたことはない。どうせ次の日になれば感情が薄れてくるからだった。

――これを本当の恋心と言えるのだろうか?

 榎本はそんな思いをずっと抱いていたが、結局、本当に恋心なのかどうか分からないまま、はづきを過去に連れていくことになる。

 ただ、自分が本当にはづきに恋心を抱いているというのを感じたのは、はづきが過去に戻って交通事故に遭った時だった。記憶を失ってしまったはづきを見て、

――俺は、はづきを愛しているんだ――

 と思ったことだ。

 はづきが記憶を失ったことに、榎本はその時、余計な意識は持っていなかった。

 しかし、考えてみれば、ケガの功名でもあった。

 未来からやってきたはづきにはこの時代の「戸籍」はない。正体不明の女性が交通事故に遭った。記憶があれば、どうしても、そのことを言及されるに違いない。確かに彼女が誰なのか、必死に探すだろうが、見つかるわけはないのだ。

 はづきの記憶は完全になくなっていた。それはまるで、

「誰かの手によるものではないか」

 と言われても不思議ではないほど、綺麗に消えていた。

 まるで、切れ味鋭い刃物で削り取った石を、やすりで研ぎ澄まされたような感じであった。断面図も芸術のように鮮やかで、ここまで見事に記憶がないなど、今まで知っている記憶喪失の人には見られない状況だった。

 榎本もこの世界に戸籍はなかったが、何とかなった。はづきが、記憶のないはづきだったが、彼女の特殊能力で、

――今この瞬間に亡くなった人――

 というのが分かるようで、その人になり替われば、この世界で自分の戸籍を作ることができる。

 それは未来の世界で可能となった。

――戸籍の売買――

 を応用したものだった。

 ノウハウさえあれば、やり方は未来から持ってきたマシンを元にすれば簡単にできることだった。

 ただ、

「そんなことはしてはいけない」

 という団体とのし烈な争いが未来に待っているのは事実なのだが、

――戸籍の移動を作為的に行った史上初の人間――

 それが榎本だったのだ。

――はづきの能力がこんなところで活かされるなんて――

 と、思ったのも事実。榎本はこの世界で、「別人」となって生まれ変わったのだ。

 戸籍を移動したと言っても、本人は死んでしまったのだから、本人を知っている人は、本人の戸籍はとっくに消滅していると思いこんでいる。そういう意味ではしばらくの間、榎本の存在はこの世界で確立されていたのである。

 しかし、そういつまでも欺きとおせるものではない。それまでに未来に戻る算段をしなければいけないだけだった。榎本は自分が何をすべきなのか、早く見切る必要はあった。幸か不幸か榎本は、過去と未来を自由に行き来できた。まずは、記憶を失ったはづきのことを気にかけながら、未来の教授の言った、

――はづきが「失敗作だ」――

 という言葉の意味を探る必要があったのだ。

 榎本は、教授に依頼主が何を依頼したのかということが気になって仕方がなかった。未来にいる時は、

――教授のすることだから、俺がいろいろ言うわけにはいかない――

 と思っていたが、それも教授と同じ時間を過ごしていたからだ。

 元々榎本はタイムマシンの存在が嫌いだった。確かにタイムマシンに対してのいろいろな疑念が解消されたことで、タイムマシンの研究が公に許されるようになった。それまでは倫理の問題、物理的な問題として、パラドックスが解決されない限り、タイムマシンの研究は禁止されていた。

 タイムマシンの研究には莫大な費用が掛かる。とても民間の会社では無理なことだった。ましてや、大学の規模だけでできるはずもない。そこには秘密組織が、国家ぐるみのものがなければ、研究に取りかかることさえできなかったのだ。

 研究すること自体を国家が禁止していた。しかも、それは一国家だけの問題ではなく、国連でも禁止事項の一つになっていた。国際法でも禁止条項が盛り込まれていたくらいである。

 ただ、そんな状況でも水面下で研究されているのが世の常。まるで映画の題材にでもなりそうな発想だが、榎本はそんな時代背景をしっかりと把握していた。

 水面下で続けられているという噂は、そこからともなく伝わるもので、榎本は半信半疑だったが、実際に解禁になると、結構早い段階で、タイムマシンの試作機が出来上がったと新聞に書かれていた。

――やはり、秘密組織の噂は本当だったんだ――

 と思ったが、それほど興味を未来では持っていなかった。

 しかし、過去にやってくると、

――そういえば、このタイムマシンを秘密で開発している組織があったんだよな――

 とふと感じたことをきっかけに、それから結構気になり始めて。頭の中で次第に思いが深くなっていった。その思いは消えることなく、榎本の頭の中にこびりついていくのだった。

 はづきは、榎本が何を考えているのか分からないと思う時が時々あった。交通事故で記憶を失ったはづきを榎本が引き取って、密かに二人だけの生活をしていた。

 まわりの人は、それほど二人のことを気にしない。元々この時代の人は、

――隣は何をする人ぞ――

 ということで、他の人のことを気にする人などさほどいなかった。自分たちだけのことで精一杯というのがこの世界の人の生き方で、榎本から見れば、

――潔い――

 と見えていたが、中にはその気もないのに、

「私は、まわりのことを気にしている人なのよ」

 と言わんばかりに、まるで親切の押し売りのような人もいたりして、あまり気持ちのいいものではない。それでも自分が近づかなければいいだけなのだが、そんな人に限って、変なところでおせっかいだったりする。

 最初は、

――鬱陶しい人だな――

 と思っていた。

 その人は中年のおばさんで、人懐っこい人なのだが、よく観察してみると、彼女には友達はいないようだ。

 この世界の人は、基本的に人に関わることは嫌だと思う人ばかりだった。それでも少々の社交辞令ならまだいいのだが、彼女の場合はさらにしつこいところがある。鬱陶しいというのは、そういうところがあるからだ。

 そんな彼女が興味を持ったのは、榎本にではなく、はづきにだった。

「私も気にして見ていますからね」

 と言ってくれたが、やはり最初は信じられなかった。

 なぜなら、榎本が自分で考えても、自分もはづきも、この世界ではよそ者。いかにも、

――怪しい人たち――

 と言われても仕方がない。

 それなのに、そんな自分たちにわざわざ構おうというのだ。よほど暇で、暇つぶしにしたいのか、それとも変な意味で興味があって、探求心から、二人を探ろうとしているのか、どちらにしても、気を許せる相手ではないと思えたのだ。

 しかし、一緒にいると情が移ってくるとでもいうのか、次第に彼女のことが信用できるようになってきた。

 彼女は名前を真奈美という。年齢としては三十歳代後半、いやもう四十歳代に突入しているだろうか。興味津々なところがあるわりに、急に落ち着いた顔になったかと思うと、目が座っているように見え、

――この人になら、少々のことなら任さられるかな?

 という風に見えてきた。

 それは、年齢からくる落ち着きだけではなく、何か話していない中に、彼女の真髄に近づけるものがあるのではないかと思えてきた。普段の彼女は何も隠すところがないと思うほど、あけっぴろげに話してくれる。しかし、落ち着いた時に見せる顔を見ると、

――この人にも、誰にも言えない心の奥にこびりついた何かがあるんだ――

 と感じさせられたのだ。

 榎本は、真奈美に対して、少しずつ信頼感を持てるようになってきている自分に気付いていた。本当は聞いてみたい彼女の中にある、

――人に言えない何か――

 を抱えていると知った時、

――彼女も同じなんだな――

 と感じた。

 同じ相手というのが誰のことなのか、ハッキリとは分からなかった。自分なのか、はづきなのか、それとも坂田教授なのか……。しかし、誰もが持っているというものではないと思う気持ちを少なくとも彼女が持っていると感じた時、榎本は彼女のことを、

――他人とは思えない――

 と思うようになっていた。

――本当は真奈美のことをもっと知りたいな――

 という思いを持っていた。

 そう思うようになると、今度はこの時代の人がどうして真奈美に興味を持たないのかということに疑問を感じるようになってきた。

――この時代の人がそれだけ冷たいということなのか?

 と思ったが、元々冷たいという概念が、今までいた時代と過去である今とでは、どこまでが同じなのかそのあたりから考える必要があるのではないかと思うようになっていた。

 真奈美は、榎本にも優しかった。

「あなたを見ていると、弟のように思うんですよ。でも、何だか不思議、弟というよりも子供と言ってもいいような感じもするんですよね。どうしてなのかしらね?」

 真奈美には元々男の子がいたが、その子が交通事故で亡くなったらしいという話をしばらくして聞いた。

 交通事故に遭って記憶を失ったはづきのことを他人とは思えなかったのだろう。

 はづきが過去に来て、

――次第に記憶を失っていったのには、何かわけがあるのではないか?

 とずっと感じていたが、そこに坂田教授の思惑が大きく関わっていると思うのは無理のないことだと感じるようになっていた。

――そういえば、教授は催眠術についても研究していたな――

 というのを思い出した。

「心理学を研究する上で、遠い過去から今に至るまでの催眠術の研究は、大いに興味のあることだからね」

 と、言っていることは至極当然だったので、何も疑いを持たなかったが、そう言っていたわりには、研究をしているのを感じたのは最初だけ、

――本当に研究しているんだろうか?

 と研究を感じなくなってから少しして感じたことだったが、それもすぐに忘れてしまった。

――あれだけ気になっていたのに――

 と、今から思えば、どうしてそんなにすぐに教授が研究をしなくなったのかを疑問に感じることのなかった自分に違和感を感じた。

 催眠術を研究するというのは、教授独断で行っていることのようだった。依頼主からは催眠術についての依頼があったわけではない。今から思えば、

――はづきにわざと記憶喪失を植え付けて、何か暗示があるたびに忘れていくように仕向けた――

 と思った。

 そしてさらに、

――失った記憶のその後に、何か教授が忘れてはいけないことを埋め込むようにしていたのかも知れない――

 という発想の発展があった。

――確かに、一度失われたと思っている記憶の奥に、教授自身が忘れてはいけないことを隠し、これも解き明かすキーワードを唱えるだけで、はづきの中から取り出すことができる――

 と考えた。

 もちろん、そのキーワードを知っているのは教授だけで、だから、教授ははづきを自分だけのものにして、さらにははづきを「失敗作」と言って、まわりに言いふらすことで、さらに、自分だけのものにしてしまおうという目論見があったのかも知れない。

 それなのに、はづきを過去に連れてきてしまった。未来の坂田教授はショックから入院してしまう。それも無理のないことだった。

 榎本は、時々はづきに内緒で未来に少しだけ戻っていた。

 その理由は、榎本の時間に対しての思いがあったからだ。

――もし、過去での俺やはづきの行いから未来に続く世界が極端に変わってしまっていたら恐ろしい――

 という思いがあるからだ。

 タイムマシンの研究に携わっているが、未来のノウハウを知っている榎本は、本当なら自分の知識を表に出せば、タイムマシンの完成はすぐにでも発表にこぎつけるだけのものだった。

 しかし、榎本は自分の中の意識を封印していた。誰にも悟られないようにしようという思いがあったのだが、そう思えば思うほどボロが出るもので、一緒に研究を続けている人の中には、

「榎本という男は、どこか違う。まるで未来のことを知っているような気がする」

 と思っている人もいた。そしてそれを他の同僚に打ち明けると、

「俺も同じようなことを感じているんだけど、何かを必死に隠そうとしているように思えてくるんだよね。でも、普通なら意地でもその隠そうとしているものを覗いてみたくなるのが人間の心理のように思うんだけど、彼に対してだけは、そんな風には思えない。どちらかというと、やつが隠したいと思っているのなら、とことん、隠しておいていてほしいような気がするくらいなんだ」

「それは俺も同感だ。彼のことを知ってしまったことで、俺たちが気を病む必要はないんだ。藪を突いてヘビを出すような真似はしたくないからな」

 と、二人は榎本の存在自体に対して、慎重になっているようだ。それが、榎本特有の性格で、榎本が自分の考えていることをわざと表に出すことで、まわりに自分に対して疑念を抱かせ、その抱いた疑念を恐ろしく感じさせることができる。それによって、まわりが自分に対して一線を画すようになるのだが、その微妙な距離が、榎本にとっては大切なことだった。

 榎本のことを、真奈美も疑問に感じていた。しかし、真奈美は榎本が画策した研究員たちとは違い、自分の気持ちを隠しておくことのできない性格だった。正直者だと言ってしまえばそれまでなのだが、感じたことは聞かないでおかなくなったのは、

――死ぬ前の子供と、もっと話をしていればよかった――

 という意識があるからだ。

――言葉にしないということは罪なんだわ――

 と思うようになっていた真奈美の気持ちは榎本にも分かる気がした。真奈美の考えているその気持ちは、そっくりそのまま、自分がはづきに対して感じているものに近いような気がしたからだ。

――恋心とは違うが、暖かい感情であることに違いない――

 と思ったが、その思いは、実際に感じる暖かさではなく、まるで青白い炎を見ているような気持ちにさせられたのだ。

 真奈美は、榎本に対し、恋心とは違うが何か大きな興味を覚えていることは分かっていた。それが何なのか最初は分からなかったが、途中から、

――これは同情なのではないだろうか?

 と思うようになっていた。

 自分は子供を交通事故で亡くした。そのことが頭にあるので、はづきのことをじっと見守っているように見える榎本を見ていることが、

――自分を写す鏡――

 でも見ているかのような感覚に陥っていたのだ。

 次第に、真奈美は榎本から目が離せなくなってきた。もし、警察に通報されれば、ストーカーとして認識されるくらいに、真奈美は榎本を観察していた。

 榎本はある場所にタイムマシンを隠し、そこから、時々未来に戻っていた。自分たちの行動がこれから起こる未来に対してどのような影響があるかを見定めるためだ。

 未来に戻っている時間は数日だった。

 未来では、榎本は自分が戻ってきたということを誰にも知られてはいけない。自分とはづきがいなくなったことをどのように未来の人たちが認識しているかということも問題だった。だが、何度も帰っているたびに、榎本とはづきがいないということが問題になっていないことに対して、ホッとはしているが、一抹の寂しさも感じていた。

 ホッとするのは、もちろん、目的のために未来が変わっていないことでホッとしているのであって、感情的なものではない。ただ、一抹の寂しさは、完全に感情だけによって浮かんでくるものであり、

――俺たちにとって、元いたこの世界は一体何だったんだ?

 と、自分の気持ちが折れてしまうくらいの感覚に陥ってしまいそうになるのを、必死で堪えていた。

――これ以上未来にいると、鬱状態に陥ってしまう――

 と感じた榎本は、そうならないうちに、はづきの元に帰ってきた。

 つまり、未来に戻ってから、はづきのところに戻ってくるまでの期間は、回数を重ねるごとに短くなっていったのだ。

 何度も未来に戻るうちに、未来を観察することにも慣れて、変わったか変わっていないかという未来をどこで抑えるかというポイントも分かってきた。鬱状態に陥りそうになる間隔も短くなってきたので、過去に戻る周期が早いのも当然というものだ。

 ただ、戻ってくる時代は、飛び立ってからすぐのところである。

 誰も見ていないので分からないのだろうが、榎本がタイムマシンで旅立ってからすぐに、戻ってくるのだから、もし、誰かが見ていたとしても、タイムマシンの存在を信じられないと思っている限り、榎本がその瞬間に何かをしていたということすら、分かるはずもないだろう。

 榎本のことをずっと観察している真奈美は、この時の行動も何度も目撃している。

――どうしてこんなところに来るのだろう?

 という疑問も持っている。

――何もしないで、通りすぎるだけの場所には思えないけど――

 タイムマシンを隠しておくのだから、誰かに見つかるような場所であるはずもない。もちろん、車を隠すように、見えているものを木の枝で覆うようなそんなことはしない。未来の科学力では、タイムマシンを見えないように隠すことくらいは朝飯前だ。それを分かっているのは、この時代では榎本とはづきだけのはずである。

 榎本は、真奈美が自分のことを気にして、ストーカーのように付きまとっていることに気付いていた。最初は、

――撒いてしまおうか?

 とも思ったが、撒いてしまうと却って後がややこしい。真奈美の性格をまだ計り知れていない榎本は、撒いてしまうと、自分に対し、余計な誤解を与えてしまうようで、それが鬱陶しかったのだ。

――それならば――

 と榎本は、別に何かの計算があったわけでないが、タイムマシンが存在し、自分が未来から来た人間であることを、真奈美に隠そうとはしなかった。

――見たことをそのまま人に話しても、誰からも信じてもらえないことくらい、彼女にだって分かっているはずだ――

 と考えたからである。

 その思いは間違いではなかった。真奈美は決して見たことを誰にも話そうとはしなかった。それを見て、

――よかった――

 と感じたのと同時に、

――彼女は、賢い人なのかも知れない――

 と感じるようになった。それが年の功なのかどうかまでは分からないが、少なくとも、未来で知っている人の中にいるようなタイプの女性でないのは確かだった。

 しかし、真奈美が悲しみに包まれた存在であることに違いはない。悲しみに包まれているからこそ、自分と同じような寂しさや悲しさを持った人間に対しては敏感で、

――彼女が自分と同じような人を引き寄せているのかも知れない――

 と思うようになったのも、分からなくないことだった。

 榎本は、未来と過去を何度も往復するたびに、自分が何を考えているかなどということに対しての感覚がマヒしてきたような気がしていた。

 本当であれば、未来人のはずの自分なのに、過去に来て暮らしてみると、案外と過去の水に合っているように思えてきた。

 真奈美はそんな榎本に対し、最初に感じたほどの興味は湧かなくなってきたが、それはきっとタイムマシンを見たからかも知れない。

 興味を持ったというのは、

――相手が何者なのか分からない――

 という意識から派生したと考えて間違いないだろう。少なくとも、不思議に思っていたことが、

――彼が未来から来た未来人である――

 と思うことで納得できることもあったからだ。

 もちろん、未来からタイムマシンに乗ってやってくるなどということを、そう簡単に受け入れられるものではないという思いはあるが、それでも、最初に抱いていた彼に対して納得できないと思っていた思いが解消された方が、幾分か気は楽になったと言えるのではないだろうか。

 真奈美は、はづきのことも気になっていた。子供を亡くした真奈美にとって、榎本がはづきのことをどのように見ているかというのも、興味があったからだ。榎本ははづきに対して恋心とまでは思っていないまでも、自分が父親の代わりのようには考えていない。

――あまりにもおこがましい――

 という思いがあったからで、年齢的にも父親とは考えにくかった。

 しかし、真奈美には榎本がはづきの父親代わりに見えて仕方がなかった。そしてできることなら、

――私も彼女の母親代わりになれたらいいな――

 という思いを抱いていたのも事実だった。

 その思いは日に日に深まって行った。それは、榎本に対して感じている思いとは別のものであることに、本人は気付いていないようだった。それでも、榎本に対しての目線とはづきに対しての目線は明らかに違う。はづきの方が真奈美本人よりもしっかりとその意識を持っているようだった。

 はづきは、真奈美になついていた。今まで記憶を失ってからは榎本のことしか考えたことがなかったが、真奈美に対する思いはさらに新鮮なものだった。

――何も考えずに、見ることができる――

 と感じていたが、それは逆に自分が今まで榎本のことを、まるで何かの計算が働いていたかのように思っていたことに気付かされた。

――無意識というのは、知らない方がいいから無意識なのかしら?

 と、はづきに思わせた。榎本を余計な目で見ることのない方が、自分は幸せだと思ったのだった。

 はづきは、榎本を父親として見ているわけではなかったが、真奈美には母親を見ているようだった。やはり子供を亡くした母親の目を記憶を失ったはづきは敏感に感じ取ることができたのだろう。真奈美になついているのは、

――今までに知り合った誰とも違う――

 という思いがあるからで、それが肉親への思いであることに気付かないまでも、暖かさを心地よさとして感じることを、思い出したようだった。

――以前にも同じような思いがあったはずなんだわ――

 はづきが自分を母親のように慕ってくれているのを感じると、真奈美は嬉しくて、有頂天になっていた。極端に言えば、

――榎本がいなくても、はづきだけがいるだけで、それだけで私はいいと思っているんだわ――

 と感じていたのだ。

 榎本もそのことを分かっていた。分かっていることで、余計に自分が自由に動けることを確信し、過去と未来を行ったり来たりしやすくなったことを感じた。はづきのことは真奈美に任せておけばいいのだ。安心感がこみ上げてきた。

 しかし、本当にそれでいいのだろうか?

 何のために、わざわざタイムマシンを使ってまで、この時代にやってきたのか、榎本は当初の目的を忘れかけているような気がした。あまりいい傾向ではないのは分かっている。そういう意味では、真奈美の出現は、榎本にとって、決していいことのはずがないのではないだろうか。

 それでも、未来が変わっていないことを気にしておかないと、自分たちが未来から来た人間であるということを忘れてしまいそうになる。いくら過去の世界がいいと言っても、ずっとこのまま過去の世界にいるわけにはいかない。どこかで未来に戻ることになるだろう。

 それは、自分の意志に関わらずであり、もしその時にこちらの世界に未練を残していたとすれば、未来に戻ってからの自分たちは文字通り、過去を背負って生きることになるのだろう。

 だが、未来に戻ってから、自分たちの記憶は残ったままなのだろうか?

 記憶が残っていれば、それなりに辛い思いが待っていることは分かりきっている。しかし、だからと言って、このまま過去の記憶が消滅してしまうことを望んでなどいないのだ。

 榎本は、未来に帰るのをよそうと思うようになっていた。今さら未来に帰って、変わっていない未来を見ても、未練などないはずの未来に、未練を残してきたのではないかという思いを抱くだけだからである。実際に、どうして過去に戻ってきたのかという思いを次第に忘れかけていたが、それならそれでいいと思うようになってきた。

 だが、はづきは過去に戻ってきて、よかったのかも知れない。真奈美という母親のように慕える人ができたのは、記憶を失ったことを補って余りあることである。いや、下手に記憶を持っている方が不幸な場合だってあるのだ。はづきは、自分の失くした記憶を思い出したいとは思わない。きっと、ロクでもない記憶だったに違いない。

 榎本は、坂田のメモ帳から、はづきにわざと記憶喪失になるような暗示を植え付け、暗示があるたびに忘れていくという狙いを知っていた。未来では坂田教授が記憶喪失になっているので、その後どうなるのか、タイムマシンを使えば分かるはずなのに、どうしても榎本はそれ以降の未来に行くことができないでいた。

 行こうと思えば行けるのかも知れないが、見たくないものを見るために、タイムマシンを使いたくないと思うのは、

――もし、見てしまえば、はづきのいる過去に戻ってくることができなくなるのかも知れない――

 ということだった。

 榎本は、タイムマシンを使うことを封印していた。隠し場所は最初から隠している場所に置いておけば、見つかることもない。過去の人間には見えないような装飾を施す発明が、タイムマシンには備えられていた。もっともその発明は、タイムマシンが実用化されるようになった時には、オプションとしてではなく、最初から装備されているものだった。それだけ、タイムマシンを使う上で、他の時代の人間に対しての気配りが込められていたのだ。

 榎本がタイムマシンを使わなくなってしばらくして、無事にその場所にあるかどうか確認にやってきた時のことである。一月ぶりに見るタイムマシンは、頻繁に使っていた頃には感じなかったほど、大きなものであることに、今さらながら、気が付いた。

――こんなに影が長かったっけ――

 というのが、第一印象だった。

 以前頻繁に使っていた頃は、ゆっくりと外見を見ることなどなかったので、影の存在すら意識していなかった。

――ひょっとすると影などなかったのかも知れない――

 そう思うと、以前に未来で聞いた話を思い出した。

「タイムマシンはパラドックスを支配しないと、機能しない機械なので、どこかに矛盾を感じさせることがなければ、成立しないのさ」

 誰から聞いた話だったか覚えていないが、確かにそんな話を聞かされた。

 その話を思い出した時、

――タイムマシンに影がないことがパラドックスだったのではないか?

 というのを思い出した。

 その時榎本が感じたのは、

――俺も何か記憶が欠落している部分があるのではないか?

 はづきも、坂田教授も記憶喪失に陥っている。ここで自分だけ記憶が完全だというのも、考えてみれば、逆に不思議ではないか。つまりは、はづきにしても坂田教授にしても、

――記憶喪失は、誰かの手によって意識的にさせられてしまったものではないか?

 という思いが頭をよぎった。目に見えない組織によって記憶喪失にさせられたと思う方が、二人が偶然に、それぞれのパターンで記憶喪失になったというのは、あまりにも出来過ぎていることである。感覚がマヒしていた榎本には、その疑問が浮かんでこなかった。はづきのことを考えているつもりで、実際には自分のことだけで精一杯だったのかも知れない。

 榎本は、自分が未来に帰りたいと思うのは、未来が変わっていないかどうかの確認だけではないような気がした。自分では意識をしていなかったが、未来に戻ることで失われた記憶の何かを思い出せるのではないかという思いがあったのかも知れない。考えてみれば、未来にはいつも一人で戻っていた。必要以上にはづきに気を遣いながらである。最初ははづきへの遠慮のように思っていたがそうではない。自分も記憶喪失ではないかという無意識な思いを知られたくないという思いが意識の裏にはあったのかも知れない。

 過去と未来を繋ぐトンネルは、次第に短くなって行ったような気がしていた。最初に過去に戻ってきた時は、まるで、地球の果てまで来たような気がしたものだった。タイムマシンに乗るのは初めてではなかったが、片道切符は初めてだったからだ。過去に着いてから落ち着くまでの期間、まだタイムトラベルが続いているような気がしていたのだった。

――タイムトラベルの終わりっていつなんだろう?

 目的地に着いてタイムマシンから離れた瞬間が終わりだというのであれば、過去に戻ったという意識が本当にあるのかどうか疑わしい中で、自分の居場所を見つけることができるのであろうか?

 過去に戻るというのは、時間の瞬間移動なので、身体に危害がないか大きな問題だった。タイムマシンの研究が遅れたのはパラドクスの問題もあったが、切実という意味では、

――肉体がタイムトラベルに耐えられるかどうか――

 という問題も大きかったに違いない。

 それらもすべて網羅されて開発されたタイムマシンだが、途中までが時間が掛かったわりに、何かをきっかけに急に開発が軌道に乗り、あれよあれよという間に、実用化されるようになったという。ただ、未来でも実際に使用できるのは一部の限られた人間だけだ。研究者であることが必要で、もちろんのこと、タイムマシンにも「運転免許」が必要だったのだ。

 榎本は、実際に免許を取得してすぐだった。教授は大学から免許取得に通わせてもらっていたが、榎本はそんなルートが存在しない。裏ルートを教授が探してくれて、何とか免許を得るところまで来たのだが、そのため、タイムマシンを安全に運用するためのマニュアルや教育を受けていたわけではない。もちろん抑えるべきところは抑えているが、それも研究に必要な必要最低限の部分であった。本来ならはづきを乗せて、独断で過去に戻るなどできることではなかった。それを可能にしたのは、榎本の記憶の欠落した部分に隠されていることなのかも知れない。榎本が自分も記憶の欠落があったことに気付いたのはこの時で、それまで、忘れっぽくなっただけだと思っていたのだ。

 ただ、榎本がタイムマシンを自在に操れているのは事実だった。榎本の意識していないところで、ちゃんとした教育を受けていたのかも知れない。

――これが欠落した記憶に繋がる部分なのかも知れない――

 タイムトラベルが矛盾によって引き起こされることだとするならば、無意識に操縦できるようなことがあっても、別に驚かない。その代わり、記憶の欠落は如何ともしがたく、それこそ、

――矛盾の副作用――

 を引き起こしているのかも知れない。

 矛盾の副作用は、タイムトラベルとは切っても切り離せないものだと思っていたが、ある研究をきっかけに、矛盾は解消されたという。ということは矛盾に矛盾が重なると、マイナスとマイナスを掛ければプラスになるように、相関作用は働いているのかも知れない。考えてみれば、矛盾も副作用も、どちらも何かの「対象物」と言えるのではないだろうか、影の部分を掛け合わせることで、光を見出すことになるのではないだろうか。

――光がなければ影は存在しない――

 と言われることもあって、光が影を支配しているように思いがちだが、光がなくとも影は存在しているのではないかという考えを持てば、どこにあるのか分からない影に恐怖を感じるという考えも成り立つのではないだろうか。

 光が恩恵となって今の世界が成り立っているのは周知のことだが、暗闇だけの世界が存在するという本を読んだことがあった。

 それは星になぞらえた発想で、星というものは、自ら光を発するか、他の天体の光の恩恵を受けて光っているものだというのが基本である。

 しかし、その星は、自ら光を発することはなく、逆に光を吸収してしまう特徴を持っている。

――近くにいても、その存在を意識することはできない――

 生命体ではないので、息吹を感じることもない。光がなければ、その存在を認識することはできないのだ。

 考えてみればこれほど怖いものはない。そばにいるのに、その存在が分からない。その星がどんな形をしていて、どんな危険を孕んでいるのかがまったくの未知数なのだ。

 榎本は、タイムトラベルをしている時、そんな暗黒の世界を通り抜けているような気がしていた。タイムマシンが開発される前のSF映画やアニメなどでは、トンネルの中で、時計が歪んで見えたり、創世紀からの時間をまわり巡って、目的の時代に辿り着くような世界を描いているが、もちろん、それはタイムトラベルをトンネルとして、その中で時代のうねりを見せることで、イメージを視聴者に植え付けているのだ。確かに分かりやすい発想ではあるが、それ以外に広がる無限の発想として、

――暗黒の星の世界――

 を創造するのも、ありだろう。ひょっとすると、暗黒の星を最初に創造した人は、時間の歪みに対してのイメージを抱いていたのかも知れない。それだけ暗黒の星の世界という発想は、無限の可能性を秘めているような気がした。

 ただ、残念ながら、榎本が経験したタイムトラベルでは、目的の時代に到着するまで眠っているようだ。夢を見ているという意識があるからだ。しかし、

――夢を見ているという夢を見ることもある――

 という発想が頭を過ぎった。夢だと思っていることも、本当に夢なのか信じられるものではない。目が覚めて目的の時代に着いてしまうと、夢の内容を忘れている。それは普段の睡眠と変わりないことだが、タイムトラベルの中で見る夢は、

――何かの副作用ではないか?

 と感じるようになっていた。

 そんな夢の中で一つだけ残っている意識があった。

――タイムマシンには影がない。影がないことが矛盾となって、タイムトラベルを可能にしている――

 という発想だ。

 しかし、タイムトラベルが暗黒の星の世界の発想を伴っているという思いも捨てきれない。どちらも矛盾を孕んだものだが、タイムトラベルには強大なエネルギーが必要で、そのエネルギーは、

――一瞬の煌めき――

 にあると思っている。

 暗黒であり、影がない世界であればあるほど、一瞬の煌めきは強大なエネルギーを発揮する。一瞬なので、次の瞬間に目の前には暗黒の世界しか残らない。タイムトラベルが終わるまで意識として残っていないのは、この時のショックがあるからなのかも知れない。

 榎本は、自分が何度もタイムトラベルを繰り返していることで、

――自分の寿命を削っているのではないか――

 ということまで考えるようになった。もちろん、何ら根拠があるわけではないが、一度のタイムトラベルで受ける強大なエネルギーの影響が身体を蝕んでいるように思えてならなかった。

――次回でやめよう――

 と、何度も思ったが、どうしてもやめることはできなかった。

 ただ、身体に危害が加わらないように開発されたはずだった。だが、それも限度がある。何度も短期間にタイムトラベルを繰り返すということを想定しているわけではないだろう。そう思うと、榎本の不安も、あながち取り越し苦労というわけではないはずだ。

 榎本がタイムトラベルに一段落をつけたのは、未来から持ってきた教授のメモを解読することに専念しようと思ったからだ。未来に戻っていたのは、メモの解読のために少しでも坂田教授の考えに触れることができればと思ってのことだったが、メモを書き綴っている時の坂田教授は、思ったことを羅列しているだけで、それを積み木のように組み立てる作業をしているわけではなかった。

――どこかで、整理することがあるはずだ――

 と思って探っていたが、どう見ても、坂田教授がメモを整理しているところに行き当たることはなかった。読み返している時間さえないようだった。

 それは、この時代にいる坂田助教授を見ていても分かることだった。

 坂田助教授はメモ魔であることはまわりから知られているが、坂田が自分の書いたメモを読み直すことはほとんどない。そのことは助教授のまわりで研究している人も分かっているようだった。

「坂田助教授はよくメモを取るけど、それはメモを取ることで安心したいだけで、読み直したりしませんよ。メモを取ることで、満足してしまうんでしょうね。本人にとってはそのメモがお守りのようなものじゃないんですか?」

 という答えが返ってきた。

 だが、榎本がはづきを連れてこちらの時代に来ることになった時、確かに坂田教授は自分の書いたメモを読み返していた。

――ひょっとして、メモを読み返すようなことをしたので、教授は記憶喪失になったのだろうか?

 という思いがふと頭をもたげた。

――いや、記憶を失う予感があったので、少しでもメモを見ておきたいという意識が働いたのではないだろうか?

 発展した考えだったが、こちらの方が説得力があるような気がした。

 それは、榎本が自分の記憶が欠落していることを意識しているからで、その欠落した部分を解き明かすヒントが、坂田のメモにあるような気がしたのだ。

 坂田は元々はづきのことを考えて過去にやってきたはずなのに、いつの間にか、

――俺は一体何者なんだ?

 という思いが自分の中にあって、それを解明しようとしている自分がいたのだった。

 榎本は、はづきが坂田助教授にスナック「メモリー」で声を掛けた時、すでに自分の中である程度の目星はつけていた。

 はづきが持っている能力として、

――その人が誰の生まれ変わりなのか分かる――

 という力を彼女がいつ手に入れることになるのかというのも一つだったが、未来にいるはづきと、過去にいるはづきが同じ人間で、このまま年を取ることもなく、坂田助教授の元にいると思うと、今度は、

――はづきは誰の生まれ変わりだというんだ?

 と思うようになった。

 タイムトラベルで感じた暗黒の星の世界。その中にはづきの世界が存在しているように思った。

 そこまで考えてくると、発想が一周して、元の場所に戻ってくるような思いがした。

――それが、年を取らず、坂田助教授と一緒に時間を消費していくはづきなのではないのだろうか?

 という思いに至ってしまう。

 矛盾だらけの世界だが、これも、まるでカルタのような無数の一見、何の繋がりもないような坂田教授のメモ帳を思わせる。どこかにキーワードがあり、書いた本人ではないと開くことのできない扉は、そこにはあるのだろう。

 榎本は自分が誰なのかということに疑問を持ち始めた。疑問を持ち始めたのは急に感じたことではない。こっちの時代にやってきて、すぐに感じるようになった。そして過去と未来を何度となく往復することで、その思いがさらに強くなった。

 教授のメモを見ていると、何かハッキリとはしないが、結論めいたことが書かれているのを分かっている。ただ、そのことを最後の最後で理解できないのは、榎本が教授の理論にどうしても納得がいかないからなのかも知れない。今までの状況や事情を考慮すれば、納得できてしかるべきなのに、何が榎本を納得させないというのだろう?

 一つ言えることは、榎本のまわりで、記憶を失うという人が多いということである。自分を含めてのことであるが、少なくとも、未来の坂田教授、そしてはづき、

――自分に関わっている人はどうして皆記憶を失うという状況に陥るのだろう?

 これをただの偶然として片づけることは榎本にはできない。ただ、はづきのように特殊な能力を持った人、教授のように、研究に明け暮れ、特殊な力に似た発見をしたであろう人、そして自分と、一体この三人にどんな共通点があるというのだろう?

――待てよ――

 よく考えてみると、特別なのは我々三人だけではなく、他の人も記憶を失い時期が一生のうちにどこかにあるのかも知れない。それが数分で終わる人もいれば、数か月記憶を失っている人もいるかも知れない。だが、その記憶喪失状態が、すべての記憶を失っているとは限らないではないか。人知れず記憶喪失だということを隠し、気が付けば記憶喪失状態を抜けていたということだってあるかも知れない。なるべくなら自分が記憶喪失になったなどということを他の人に知られたくないと思うのが人情であろう。

 そう思ってみると、今度は記憶喪失になるには、何かの共通点があるのではないかと思うようになった。そこまで考えると、

――教授の研究って、こういうことだったのかも知れない――

 確かに教授は、記憶や意識について研究していた。それらしいメモも散見することができる。しかし、それが一つに繋がらないのは、メモは残しても、

――それに対して、他の人が見ても、想像がつかないようにしておかなければいけない――

 という作為が込められているからだ。

 ただ、その作為が教授の手によるものだけとは考えにくかった。他の人の考えがここには含まれていた。

 しかし、教授のメモをうまく改ざんするとしても、そう簡単にできるものではない。教授も警戒していただろうから、教授を無傷で意識させることなく改ざんするには、それだけ教授が信頼を置いている人の手によるものでなければいけないだろう?

――まさか、はづき?

 と、一瞬考えたが、すぐに打ち消した。この時一瞬でも感じたことで、真相に近づくのがかなり遅れてしまったことを榎本は分かっていないだろう。

――過ぎたるは及ばざるがごとし――

 という言葉があるが、まさしくその通りなのだ。

 自分の正体に疑問を持ったのは、自分の記憶が薄れていくのを感じたからだった。もし、自分の記憶が薄れていくことを感じなかったり、

――忘れっぽくなった――

 と考えただけであれば、自分の正体に疑問を持つことはないだろう。それは榎本に限ったことではなく、他の人も同じである。記憶が薄れてきたと感じ、記憶喪失を連想するのか、それとも、ただ、忘れっぽくなったとだけしか感じないかの違いによって、見えてくるものもまったく違ってくる。普通であれば、

――記憶が薄れてきた――

 という意識よりも、

――忘れっぽくなってきた――

 と感じる方が多いだろう。特に年齢を重ねていくことに、そして忙しくなるごとに、忘れっぽくなるというのは不思議なことではない。自分を納得させるには十分な考え方である。

 榎本は、そんなまわりの状況を冷静に見ることがすぐにはできなかった。自分も記憶が薄れてきた時、

――忘れっぽくなった――

 と感じたからだ。

 その方が考える方も楽だし、ただ、学者を志す助手としては、あまりいい傾向ではないことは確かだった。

 もう一つ気になっていたのは、はづきの記憶が定期的に失われることだった。自分のことを躁鬱症だと思っている榎本は、定期的という言葉に、自分の躁鬱症を重ね合わせてみた。

 躁鬱症は定期的に躁状態と鬱状態が入れ替わる。躁状態と鬱状態の期間は総合するとあまり変わりはない気がするが、実際に躁状態から鬱に変わる時よりも、鬱状態から抜け出す時の方が意識としては残っている。まるでトンネルを抜ける時の感覚だからだ。それはタイムトンネルを抜ける時に感じるものとはまた違ったもので、鬱状態のトンネルの中は、オレンジ色の光で覆われている。その場所から逃げ出したくなるのが分かる光景だった。

 鬱状態から抜ける時、表の青い光が差し込んでくるのを感じるのは、

――夕暮れに昼の明るさが戻ってくる感覚だ――

 と、それは時系列に対しての「矛盾」を感じさせる。もちろん、あくまでも自分だけが感じるイメージなので、「矛盾」を想像するのがおかしいと一概には言えないだろう。しかし、時間の「矛盾」はどこかタイムトンネルの発想に繋がるものがある。躁鬱症の人の感覚は、タイムトンネルの発想には一番近い存在なのかも知れない。

――躁鬱症の自分だから、タイムマシンで何度も行ったり来たりができるのだろうか?

 そんな発想まで抱くようになった。

 それでも、「矛盾」がどれほど今の自分に大きな影響を与えるのかを、はづきを見ることによって図ることができるなど、思ってもいなかったのだ。

 時間というものに矛盾があるとすれば、それ以外にも矛盾だらけの世界があってもいいのではないかと思うようになった榎本だった。

 榎本は、自分の中で無意識に、

――はづきを操りたい――

 という思いがあったのを感じた。

 それまでは、

――はづきを教授の手から救いたい――

 という思いを持って、過去にやってきたはずだった。教授がはづきを「失敗作」と読んだことで、何かの研究にはづきを使っていることが分かったわけだが、その研究をするための元になる場所にはづきと一緒に来ることで、

――研究の原点を知ることができるかも知れない――

 という思いがあったからだ。

 しかし、この時代にやってきて感じたことは、

――教授は、まっすぐで曲がったことが嫌いな性格である――

 ということだった。

 未来の教授からは信じられない性格だったが、

――これなら、今の俺の方が未来の教授に近いかも知れないな――

 と、どこかで何かが違っているのを感じた。

 そして、自分たちがタイムマシンで過去に戻ったことで、未来がいかに変わっているかということばかり気になってしまい、どうしても、過去と未来を何度も行ったり来たりしなければ気が済まなくなってしまっていた。

 その間に、真奈美という女性とも知り合った。

 彼女には包み隠さずにいたいと思っていたが、それは、彼女が自分の子供を交通事故で亡くしていたことで、はづきのことがまるで自分の子供のように思っているからに違いない。そんな目を見ていると、自分もはづきに対して、

――親のような目で見ているのではないか――

 と思うようになっていた。

 最初は、恋心を抱いているのではないかと思っていた。それを打ち消そうとしていた自分がいるのも事実だった。しかし、途中から打ち消そうとするのをやめた。別に恋心を持っていたとしても、それのどこに問題があるというのだろう。

 逆に恋心がなければ、こんな思いきった行動に出ることもない。自分の行動の証明として、はづきに対しての恋心を否定しない自分がいるのだ。

 だが、真奈美を見ていると、自分の中にあるものが、本当に恋心なのか疑問に思うようになってきた。自分が親で、娘を見ているように感じるのも、おかしなことではない。

 そういえば、榎本は今まで誰かに嫉妬したことがなかった。誰かから嫉妬されたことはあったが、、

――嫉妬とは、どういう感情なのだろう?

 と思っていた。

 失恋経験は一度や二度ではないが、そのたびに大きなショックに襲われて、立ち直るためにかなりの時間を要していた。

――それなのに、嫉妬した経験がないというのは、どういうことなんだろう?

 それは、最近分かったことであるが、

――何かショックを受けると、自分からそれを避けようとして、その間、一種の記憶を失った状態になるようだ――

 というものだった。

 しかも、そのショックというのが、実に中途半端な大きさのもので、失恋ほど大きなものにが、記憶を失うという作用が働くことはなかった。人に対して嫉妬したりするような、精神的に心が揺れ動く時に、記憶を失うのだった。

 本当にショックな時は、精神的に心が揺れ動く余裕がない。揺れ動くだけの余裕があれば、いろいろな発想が生まれて、立ち直りまでにもう少し早くなっていたはずである。そういう意味では榎本は不器用な性格だと言えよう。

――俺は自分を欺くことができないんだ――

 それだけに苦しみをまともに受けてしまう。

「お前は自分の考えていることが、すぐに顔に出るからな」

 と言われたことがあった。その時に、

「俺は一つのことに集中すると、他のことが見えなくなるんだ」

 と答えた。

 その性格をその時までは、真面目で実直な性格は悪いことではないと思っていた。しかし、

「それが自分を損な立場に追い込むんだ」

 と言われて、ハッとしたのを思い出した。この時の会話の相手が他ならない坂田教授だったことは、よかったのか悪かったのか、榎本は思い出しながら、額の汗を拭ったのだった。

 ただ、この時代にやってきて、はづきと真奈美に嫉妬するようになった。これがどういう感情なのか分からない。ただ、

――嫉妬というものに一番近い気がする――

 と感じたのだ。

 実際には違うのかも知れないが、真奈美に対しても、はづきに対しても、まず最初に感じたのは、

――自分にはない「悲しみ」を持っている――

 と感じた。

 榎本は自分の中に「寂しさ」を持っているのを感じていた。その寂しさは、はづきにも真奈美にもあり、

――同じものがあるからこそ、二人と一緒にいるのだ――

 という感情を持っていた。

 しかし、実際に二人にあるのは自分と同じ「寂しさ」ではない。しいて言えば。もっと深いところにあるものだ。それを自分も二人と同じ位置まで潜って見てみようと思ったことが間違いだったのか、潜ってしまうと抜けられなくなりそうだった。

 しかも、その場所に二人はいなかった。それは、二人には自分にない「悲しみ」を持っているからだということに気付かなかった。

 しかも、二人は同じ悲しみを持っていても、少し種類が違っていた。

 はづきの場合は、「寂しさ」の中に「悲しみ」を持っていて、逆に真奈美の場合は、「悲しみ」の中に「寂しさ」を持っていた。どちらが深いものなのか一概には言えないのだろうが、二人を見ていると、はづきの方が真奈美を見上げているように思えることから、深いところにいるのは真奈美の方だと思うようになった。その裏付けとして、真奈美には、子供を交通事故で亡くしたという事実があることだった。それがどれほど奥の深いもので、立ち直るために何度も何度も精神的に堂々巡りを繰り返していたのだということを考えさせられた。

――本当に真奈美にはづきを任せてもいいのだろうか?

 と、思うようにもなっていた。ただ、はづきを精神的に分かってあげられるのは自分ではなく真奈美しかいないことは間違いないだろう。そういう意味で、榎本は何とも言えない言い知れぬ歯がゆい気持ちになっているが、

――嫉妬のようなものが自分の中から湧きあがっているのではないか――

 と感じていた。

 榎本は今のこの感情が、未来にどのような影響を与えるのか、この間まであれほど、未来への影響を考えていたのに、今はその感情がマヒしてしまっていることに気付かなかった。

 榎本は記憶が欠落しているのを分かっていたが、完全に記憶を失うところまで行くことはなかった。ただ、一度欠落した記憶はしばらくするといつの間にか戻っている。記憶が欠落していたなどという意識すら感じさせないが、また気が付けば記憶が欠落しているような気がする。

――俺も定期的に記憶が薄れてくるのだろうか?

 記憶が薄れるというのと、忘れっぽいというのでは明らかな違いがある。

 忘れっぽい時というのは、たいてい何かを考えていて。覚えることに集中できないことで、忘れっぽいと思うのだ。しかし、記憶が薄れていると感じる時は、何かを考えている時もあれば、何も考えていない時もある。突入契機は曖昧なだけに、いつ突入するか分からないところがあった。それだけ防ぎようはないのだ。

 しかも、記憶の欠落に関しては、いつも気が付けば薄れていたり、記憶が戻っていたりする。それだけ自分自身で意識していない証拠なのかも知れないが、ふとしたことで、急に気になったりするもので、同じ思いがはづきの中にもあるのかどうか、はづきの頭の中を覗いてみたい気がした。

――教授がはづきに興味を持ったのは。そのせいかも知れない――

 教授にも同じようなところがあり、はづきを研究することで解明しようとしたのか、それとも元々教授には同じようなところがなくて、はづきと一緒にいることで、自分も記憶が薄れてくることになっていったのかも知れない。もし、そうなら、伝染するということであり、榎本の記憶の欠落も、はづきからの伝染の可能性は大いにある。そう考える方が、可能性としては高いように思えた。

――伝染もある意味では、副作用の一種なのかも知れない――

 ただ、はづきが記憶を失うように暗示が掛かっているとすれば、暗示を掛けたのは教授のような気がする。教授の後ろに何らかの組織が暗躍しているのは何となく分かっているが、教授の研究と記憶喪失、そしてその副作用がどのように影響し、はづきや榎本に作用しているのか、謎のままだった。

――この時代にいては、そのあたりのことは分からないな――

 と思ったが、今この時代での生活に不満があるわけではない。

――できることなら、このまま平和にこの世界で暮らしていけたらいい――

 と感じる榎本だった。それははづきも同じ思いのようで、寂しさや悲しさは相変わらず引きずっているが、この世界で知り合った真奈美もいることだし、未来に戻りたいとは思っていない。

 副作用による矛盾がこの世界にどのような影響をもたらしているのか考えていたが、記憶を失うということが、何かの共通点ではないかということを考えるに至って、榎本の中で、

――本当はこの世界にずっととどまっていたいが、どうやらそうもいかないようだ――

 と考えるようになっていた。

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