辻褄合わせの世界

森本 晃次

第1話 第一章

「先生、ちょっと来てください」

 病室に、一人の看護師の声が響き渡った。この部屋には他に入院患者はおらず、明るさだけがやけに気になっていた。

 個室に入院しているのは、一人の少女だった。病室の前には、

「山下美奈」

 という表札がかけられていて、一人では少し広すぎるように思える病室の奥のソファーに、一人の男性が眠っていた。

「お兄さんも起きてください」

 看護師に「お兄さん」と呼ばれた男性は、最初眠い目をこすりながら、何が起こったのか分からないという表情をしていた。たぶん、自分がどこにいるのかすら、分かっていなかったのかも知れない。

 だが、そこがソファーの上で、身体に痛さを感じる目覚めを覚えた時、自分がどこにいて、何を待っていたのかを、次第に思い出してきたようだ。

「看護婦さん、妹はひょっとして……」

 と声が裏がっていたが、それと同時に、医者が他の看護師を連れて入ってきた。ただ、その様子に若干の興奮はあったが、切羽詰ったような感じではない。テレビでよく見るような修羅場は、そこにはなかった。

 時計を見ると、午前五時を差していた。早朝の街であれば、朝日が差し込んできてもおかしくない時間だが、この部屋は遮光カーテンになっているので、朝日を感じることはなかった。ただ、日差しを浴びてはいけないというわけではないので、任意にカーテンを開けても構わない。寝ている時は部屋を真っ暗にして寝ることがくせになっているようで、電気もすべて消されていた。そのため、「お兄さん」と呼ばれた男性は、付き添いには結構不自由していた。それでも、兄妹の絆が固いのか、文句一つも言わず、仕事が終わってから付き添っているのだから、優しい兄なのだろう。

 医者は、患者の下の瞼を軽く指で押さえ、さらに、片方ずつの目に懐中電灯を当てた。

「何か、思い出したことがあるなら、聞いてあげよう」

 と、優しく語り掛けた。

 少し白髪の混じった医者は、優しく声を掛けた。決して焦ることはしない。彼女が話を始めるのをじっと待っている。その様子を三人の看護師と、お兄さんと呼ばれた男性が固唾を呑んで見守っている。この環境に一番慣れていないはずのお兄さんだったが、決して焦ることはしないどころか、優しく妹に向かって微笑んでいる。患者はこの状況をどう感じているのか、誰を見つめるというわけでもなく、その場の空気は凍り付いていたが、冷たいものではなく、湿気を含まない乾燥した状態が、心地よく感じられるほどだった。

 次第に呼吸の荒さが感じられてきたが、やはり最初に緊張感というバランスが崩れたのは、患者の女の子だった。

 それにともなって、次に緊張から解き放たれたのは、お兄さんだった。呼吸の荒くなった妹を見て、心配しているのかと思えば、そうではないようだ。どちらかというと、安心した表情になっている。まわりの看護師たちも、少しずつ緊張感が薄れていくようだったが、医者だけは、相変わらず、彼女を見つめていた。それが、彼の医者としての感性であろう。

「呼吸が荒くなってきたのは、だいぶいろいろ思い出したからなのかも知れませんね。ただ、焦ることは決してしないでください」

 と医者が、お兄さんに向かって言った。それは、お兄さんが緊張感のバランスを崩してから、しばらく経ってからのことだった。

「分かっています。少しずつでもいいので、元に戻ってくれれば、私は嬉しいと思います」

 お兄さんが言った、

「元に戻ってくれれば」

 という言葉に、違和感を感じた人が、その場にいただろうか? 逆にその場で違和感がなかったということは、それだけその場の雰囲気が異様だったということに違いない。

 美奈という妹が、記憶を失った。ケガはほとんど治っていて、精神的なショックと、記憶の欠落だけが、美奈の中には残ってしまった。

 兄はそのことを甘んじて受け入れ、記憶を失う前の妹に戻ってほしいと思っている。

 しかし、記憶を失う前に戻るということは、本当に美奈にとっていいことなのだろうか?

 兄は、美奈がここに運ばれてきた時の状況を分かっている。警察でいろいろと聞かれたりもした。

「妹は自殺を企てるような娘ではありません」

 と答えたが、ふと、自分が妹のことをどれだけ知っているのかと言われると、何とも言えなかった。

 兄は、大学を出てから都会に就職したが、妹は、最初から都会の大学を目指し、見事合格。昨年、無事に卒業し、OLとなって二年目を迎えていた。

 妹が、一年生の時、三年生だった兄の紹介で、同じ研究室で研究をしている男を紹介してやったことがあったが、その彼と半年ほど付き合っていたようだが、破局を迎えてからお互いに連絡を取りにくくなったのは事実だった。紹介した手前、紹介してもらったのに別れてしまった手前、お互いに気まずい思いになったのだろう。

 兄からすれば、その妹が、ケガをして入院、しかも、記憶が欠落しているというではないか、しかも警察に呼び出されたことで知るなど、ショック以外の何物でもない。

「妹さんは、交通事故に遭われたんですが、フラッと、道路に飛び出したという目撃者の話もあります」

 相手をした刑事の声は、あくまで冷静で、

「どこに感情が含まれているんだ?」

 と思ってしまうほどだった。

 それが取調室であれば、さすがに萎縮してしまうだろうが、別に容疑者を相手にしているわけではないので、刑事課のソファーで事情を聞かれた。まわりの喧騒とした雰囲気の中で二人の会話は静かなものだったが、それだけ心臓の鼓動の激しさが感じられるほどだった。

 兄は、妹の記憶が戻ったと聞いた時の感覚と、警察で刑事と対峙した時の印象が似通っていたのを感じた。患者の女の子は、兄と呼ばれるその男性に対して、一度も笑顔を見せることはなかった。記憶が戻ってきたと言っても、まだまだ意識できるところまでは行っていない。それでも、病室には明るさが戻ってきたようで暖かさが感じられたが、兄と呼ばれたその男性が、この病室に来ることは、二度となかったのだ……。


 そろそろ夏が近づいてきたというのに、夜の風は冷たかった。

「肌を刺す寒さっていう言葉があるけど、そんな感じなのかも知れないわね」

「さすがに美奈は詩人よね」

「そんなことないわよ」

 美奈は、趣味で学生時代からしていたポエムを書くことを続けていた。学生時代にはサークルに所属していて、同人誌にもいくつか投稿したり、コンテストにも応募したりした。表に出るような結果は得られなかったが、趣味としての継続が、今の美奈を支えているのは間違いのないことだった。

 そうでもなければ、照れたりなどしない。美奈の性格からすれば、表に出ないような作品しか書けないのであれば、まわりの人に、恥かしくて、

「ポエムを書いている」

 などとは言えない。それでも話をしてしまったのは、継続というものが貴重な経験に繋がることを知ったからだった。

 美奈は、その日デートの約束をしていた。相手は学生時代の同級生で、いつもの場所でのいつもの時間、それはずっと変わっていなかった。

 どちらかが残業や急用ができればすぐに連絡をするというのは約束の鉄則なので、いつもの場所で、いつもの時間が成立した。

 彼とは、趣味で話が合った。

「ポエムの話をしている時の二人は、普段の二人とは違う」

 と言われるほどで、二人の世界には、他の誰も入りこむことはできなかった。

 それだけに、お互いに信用しきっていたに違いない。

 美奈は、そこに安心と油断があった。彼が浮気をするような男性ではないという思いと、自分との仲に何者も入り込む隙間はないと真剣に信じていた。

 そんな美奈の性格を一番よく知っているのは、兄だった。その頃の美奈は純情で、

「私が信用している人のいうことであれば、すべて信じられる」

 と思っていた。

 しかし、そこに利害関係が存在したり、駆け引きなどが存在すると、すべて信じるなどということは不可能になる。美奈はそのことを理屈では分かっているつもりでも、

「私のまわりには、そんな感情は存在しない」

 と、思うようになっていた。

 それは自分が逃げに回る性格だったのも原因だったのかも知れない。自分に理解できない発想が出て来れば、自分で考えたことであっても、誰かの考えだとして、自分からの責任転嫁をしようとする。

「自分から逃げても、どうしようもないのに」

 まわりの人が見れば、すぐに分かりそうなことなのに、すぐに逃げに回ってしまうと、自分が信じられなくなる前に、他人が信じられなくなってくる。

「一番信用していたはずの彼が、他の女性と浮気した」

 この事実を、美奈は最初、受け入れることができなかった。

「どうして私を裏切るようなことをしたの?」

 完全な罵声を彼に浴びせた。

「裏切る? 何言ってるんだ。それはこっちのセリフだ」

 最初から喧嘩腰だったが、「裏切る」などという言葉を口にするつもりはなかったのに、なぜいきなりそんな言葉を口にしたのか、美奈は自分が信じられなかった。自分が信じられないと思うと、頭に血が昇ってしまう。相手に対して売り言葉に買い言葉、今度は相手からの罵声が飛んでくる。

 すると、罵声に対して、今度は自分が萎縮してしまう。萎縮してしまうと、今度は自分が可愛そうになってくる。

 ここまで来ると、なぜ自分が可愛そうになるのかということを、考え始める。それまで頭に昇りっぱなしだった血の気が、次第に引いてくるのを感じる。

 冷静になってくると、襲ってくるのは後悔だった。

「自分に対しての後悔」

 それは、今の状態から遡って考えることだ。遡って考えると行きつくのが、最初に発した言葉だった。

「裏切るなんて言葉を言ってしまったから、自分が後悔することになるんだわ」

 美奈は、純情なところがあるからか、どうしても融通が利かないところがあった。頭に血が昇ってしまうと、一度振り上げた鉈の仕舞いどころがなくなってしまう。それが美奈の欠点であった。

 しかし、一旦頭に血が昇りつめてしまうと、今度はすぐに冷静になれる。すぐに冷静になれることで、その時になってやっと、的確な判断が分かってくる。

「皆も同じなんだろうな」

 と、思っていたが、実際には美奈ほど、一度頭に血が昇って後悔から逃れられないことが分かると、なかなか冷静になることはできない人はいない。頭を冷やすことができるところは美奈の長所であった。

 だが、一度冷静になってしまうと、自分のどこが悪かったのかが見えてくる。そうなると、後悔は確かに残っていても、もし相手との関係が修復できなくても、自分の後悔ではなくなってしまう、

「美奈は、潔い」

 と言われることがあるが、それは後悔をしても冷静になれることで、後悔を最悪な状態にしなくてもよくなってくる。

 最悪な状態というのは、人それぞれによって違っているのだろうが、少なくとも、自分の中で納得できるのであれば、それは本人の真実であり、最悪な状態ではなくなってしまうだろう。

 美奈が冷静になって考えると、

「何てバカなことを言ってしまったんだろう?」

 という後悔をしてしまった。

 それは勘違いから始まったことだった。

 事の発端は、美奈の兄が、美奈の様子を見ていて、彼氏はいないと勝手に思いこんだのだ。

 美奈の兄は、高校時代から親交があり、彼女がいないことを気にしている友達がいたのだが、彼が美奈のような純情な女の子にお似合いだと思い、二人を結びつけようと画策したのだ。

 お互いに、本当は有難迷惑だった。

 美奈の方には付き合っている彼氏がいる。彼は彼で、大学で研究を最優先にしたかった。

 かと言って、せっかく気を遣ってくれた兄に対して邪険にはできない。それが美奈の性格だったが、

「彼なら、分かってくれているはず」

 と、彼のことを過剰評価してしまっている自分に気付かなかった。

 彼は、するどいところもあるので、何かぎこちない美奈を見ていて。不信感があったのか、美奈の様子を伺っていると、運悪く、兄の手前、一度だけのデートを目撃された。

 彼も美奈に対して直接問い詰めるだけの勇気を持ちあわせていなかった。そのせいで、その時から二人はすれ違い始めたのだ。

 彼に対して、恋心を抱いている女性がいて、二人の付き合いを知らなかったが、どこか彼がぎこちなくなっていて、普段は表に出さない「寂しさ」を曝け出したことで、二人は浮気に走ってしまった。

 最初こそ、後ろめたさを感じていた彼だったが、

「最初に裏切ったのは、美奈じゃないか」

 と思い、自分を正当化した。

 しかし、お互いに売り言葉に買い言葉になった時、美奈が自分の考えていた「裏切り」という言葉を口にしたことで、彼としては、引くに引けなくなってしまったのだ。美奈の一言がすべてだとは言わないが、

「言ってはいけないこと」

 を口にしてしまうのが、美奈の性格なのかも知れない。

「言葉は、最初から考えて口にしなくてはいけない」

 とは思っていても、頭に血が昇ると、どうしても感情的になってしまう。感情的になってしまうと、自分の殻に閉じこもってしまうことが多くなる。自分の殻に閉じこもると、意地になって、相手に向かっていこうとしてしまう。

 人によっては、順番が逆だと思っているだろう。

 頭に血が昇ると感情的になるのは同じだが、感情的になると、まず意地を張ってしまう。意地を張ることで、自分の殻に閉じこもってしまうという考えだ。その場合、相手に向かっていく感情は、意地を張っている時に起こるものだ。ということは、まだ自分の殻に閉じ籠る前なので、美奈の場合よりも、まだ救いようがある。

 美奈はすれ違った彼と、元に戻ることができなかったのは、意地を張った時には、すでに自分の殻に閉じこもってしまっていたからだ。

 彼の場合は、先に意地になってしまう方なので、まだ殻に閉じこもる前だった。それだけ冷静になれたわけだが、そのせいもあってか、美奈の性格がハッキリと分かっていた。

――やっぱり美奈と俺では、付き合っていくわけにはいかない――

 という結論に落ち着いたのも、当然の結果だった。

 美奈は、完全に彼と別れてから、自分のことに気が付いた。

「時すでに遅し」

 ではあったが、気付かないよりはいいのかも知れない。

 ただ、知ってしまったことは、美奈に少なからずのショックを与えた。しばらく男性と付き合うのが怖くなったのも、分からなくはない。


 美奈は、記憶を失っていると言っても、部分的な記憶喪失であって、昨年の失恋に関しての記憶はハッキリしていた。

「忘れてしまったつもりの記憶だけが残っているなんて」

 肝心な最近の記憶が欠落していた。

「交通事故にはありがちのことで、そのうちに思い出すこともあるはずなので、焦らず、ゆっくり思い出すことを勧めます」

 というのが、医者の話だったが、いかにも当たり前の話でしかないことに、半信半疑の美奈だったが、それも、相手が医者であっても、簡単に相手を信じられなくなっている自分を顧みらずにはいられなかった。

 美奈の記憶は、最初の頃とは打って変わって、途中から急速に戻りつつあった。何があったというわけではないが、一つを思い出すと、連鎖的にいくつかの記憶が繋がった形で思い出していくのだろう。しかし、肝心なことを思い出すことはできない。思い出すのは一年以上前の記憶ばかりであり、最近の記憶は、思い出そうとすると、頭痛がしてくる。

 ただ、その頭痛は、いきなり来るわけではない。最初は指先に痺れのようなものを感じてくると、今度は、目の前の焦点が合っていないことに気付く。ちょうど、目の前に黒いクモの巣が張っているかのようで、それが毛細血管ではないかと感じると、しばらくその状態が続く。

 目がその状態に慣れてくると、目が見えるようになってくる。最初は、よかったと思ったが、その後に襲ってくる頭痛は、喉の渇きを伴っていて、それまでに感じたことのない嘔吐を感じてくる。嘔吐にともなって、一番最初に感じた指先の痺れがまた戻ってきて、薬を飲んで、頭痛をやり過ごすまで、じっと耐えるしかなかった。

 そんなことが続くと、医者の話ではないが、無理に思い出すことができなくなってしまう。無理に思い出すつもりもないと思うようになると、

「よほど、思い出したくない記憶を、意識の中に封印しているのかも知れないわ」

 と思うようになった。

 知りたいという気持ちよりも、

「思い出すことの方が怖い」

 と思う方が強くなってきた。

「思い出す必要がないのなら、思い出したくない」

 と、美奈は思っていたが、美奈の思惑とは別に、まったく別のところで、美奈の運命を翻弄している動きがあることを誰がその時知っていたことだろう。

 そもそも交通事故自体が不可思議なのだ。美奈は、そのことから目を伏せていたが、それは無意識のことであり、しいて言えば無意識というよりも、本能的にというべきであろうか。

 美奈は大学一年生の時に兄の紹介で付き合った男性のことを思い出していた。その人ともすれ違い。一年前に付き合っていた男性ともすれ違い、それは自分が男性運に恵まれていないからなのか、それとも、運がないと思いこんでいることが、自分をネガティブにしてしまうからなのか、分からない。ただ、いつも兄が絡んでいることも事実で、兄の「おせっかい」のせいで、いつもすれ違った形になってしまう。

 しかし、それも紙一重のことではないだろうか。やり方さえ間違えなければ、兄の気持ちを、好意として受け止めることもできたはずだ。だが、兄に対して、どうしても許せない気持ちが残ってしまう。それが美奈の、

「兄に対してのコンプレックス」

 となってしまっていたのだ。

 兄は、入院している期間、しばらくは毎日のようにお見舞いに来てくれたのだが、ある日をきっかけに急に来なくなった。

 記憶を失っている美奈に対して気を遣っているのか、あまり自分のことを話そうとしなかった。

 それなのに、兄の記憶だけが美奈の中で戻ってくるのを感じた。

 しかし、それは兄が来なくなってからだというのも皮肉なことで、思い出してきたせいもあってか、入院中に見舞いに来てくれた兄の顔が、急に思い出せなくなっていたのは不思議な現象だった。

「ついこの間のことなのに」

 記憶を失ってから、新しい記憶として刻み込まれているはずの兄の記憶が、過去の兄を思い出していくにつれて、反対に薄れていくというのは、美奈の中にある兄の記憶と、見舞いに来てくれた兄は、同じ意識の中で共存できないものなのだろうか。

「まるで記憶が交錯してしまっているようだわ」

 それは元々の記憶の中の兄と、実際に見舞いに来てくれた兄とが、本当に同一人物なのだろうかという疑問を抱かせていることに他ならない。


 記憶を失った美奈だったが、身体の傷の方はすっかりよくなっていた。最初の頃は、交通事故のショックと、記憶を失ったことへのショックからなのか、それとも不安からか、食事もまともに摂ることができなかった。せっかく食べても、ほとんど嘔吐してしまう。そのうちに食事を喉に通すことが気持ち悪くなってしまい、食べることができなかった。栄養を摂るために、二十四時間二の腕に点滴の針が刺さっていて、腕がだるくてたまらない上に、身体を動かすこともできず、肉体的なことよりも精神的な回復にはかなり時間が掛かると思われた。

 最初は、記憶をまったく失っていたようだ。

 看護婦が医者を呼び、兄と名乗る男性がソファーで寝ていた時に回復した記憶は、実際には半分にも満たなかったが、完全な記憶喪失ではなかったと分かっただけでも、十分に嬉しかった。

 だが、本当にそうであろうか?

 記憶を失ったということは、思い出したくないことがあって、意識的に忘れてしまうということもあるという。

 要するに、自分の殻の中に閉じ籠ってしまうということだ。

 自分の殻の中に閉じ籠るのは、美奈の得意とするところではないだろうか。無意識のうちに、本能的に忘れてしまいたいことを封印したのであれば、それはまるで

「藪を突いてヘビを出す」

 というようなことをするのと同じではないか。

 医者は、簡単に記憶を取り戻させようとするが、本当にそれが一番本人にとって幸せだと思ってやっていることなのだろうか。そう思うと次第に医者も信用できなくなってくる。

「そういえば、お兄さん、あれから来なくなったわね」

 という、看護師さんの一言、この一言が、美奈に一つの疑念を感じさせた。

 元々、自分に兄がいることは記憶を失っていても意識として残っていた。そして、記憶が徐々に戻ってくるにしたがって、

「あれは、誰だったのだろう?」

 と、感じるようになっていた。

 もちろん、医者も看護師も彼のことを本当に美奈の兄だと思って疑わない。疑う理由もない。何しろ妹である美奈が、いくら記憶を失っているからといって、兄に対して、何の疑念も抱いていないように振る舞っているのだから。

 美奈が、交通事故のことを思い出したのは、最初の記憶が戻って、三日目のことだった。最初に記憶が戻ったと言って、興奮気味に医者を呼びに行った看護師だが、記憶喪失の人が、少しだけ記憶が戻ったというだけで、少し大げさなような気がする。

 だが、そこには理由があった。

 交通事故に遭い、ケガのほどは、さほど重体というわけではなかったのだが、ショックの方が大きかったようだ。

 個室に入院しているのも、記憶喪失だという理由とともに、完全に殻に閉じこもってしまった自分をコントロールできそうにもないという理由だった。

 病院に運び込まれてから意識はあるのに、一言も喋ろうとしない。夜も目が冴えて、なかなか寝付けない。時々、思い出したように呼吸困難に陥り、ナースコールを鳴らす。ナースコールを鳴らす時が、コミュニケーションを取ることのできる唯一の機会であるにも関わらず、やはり一言も話そうとしない。

「どうしたものか」

 と、医者もほとほと困り果てていたが、もっと大変なのは、日ごろから顔を突き合わせている看護師だった。

 いつも身の回りの面倒を見ている看護師は決まっていて、最初こそ、

「逃げ出したい」

 と思わせたほどだったが、次第にその状況にも慣れてくると、淡々と世話をするようになった。

「慣れてくるのも、問題だわ」

 と、思いもしたが、こればかりは仕方のないことだった。そのうちに口を利いてくれる時が来るのを信じて待っているしかないのだった。

 そんな時だった。

「看護婦さん。喉が渇いたんだけど」

 と、消え入りそうな声ではあったが、しっかりとした口調で話しかけてくれた。まだまだ表情を出すというところまでは行っていなかったが、顔色はさっきまでと違い、生気が戻ってきたかのようだった。さっきまでは完全に血の気が引いていて、どんな光を当てても、表情というには程遠いとしか言いようのないものだった。

 元々、美奈は小柄でスリムだった。食事もまともに摂れておらず、睡眠も十分ではない状態であれば、血の気が引いたような顔色は、精神的なものから来たものなのか、それとも、体力的なもの来たものなのか、すぐには判断できない。言葉を喋れるようになり、少しずつ気持ちが解放されていくと、食欲も睡眠も十分に摂れるようになるのではないかと看護師は思っていた。そういう意味で、たった一言だとは言え、言葉にすることができたのは、大きな進歩だった。

 しかも、喉が渇いたということは、それまで食事もまともに摂ることのできなかった身体が、水分を欲したということになる。身体の面でも、進歩の表れだと思った。

「とりあえずは、記憶が一歩一歩戻るのを待つばかりだね」

 と、医者はニッコリと笑った。その中に、

「ちゃんとお見通しだよ」

 と、言わんとしているかのようで、少しビックリした。

 実際に美奈は言葉を発した時に、記憶が一部戻ったわけではない。その三日ほど前に、最初の記憶は戻りつつあった。

 だが、その一部の記憶も完全に戻っていたわけではない。交通事故に遭ったという記憶と、その日、自分が何かにイライラしていたという記憶。そして、自分の知らないところを歩いているのに気付いた瞬間から、記憶が飛んでしまっているということを思い出していた。

 それがどう一つにまとまるのか、自分でも分からない。もしかすると、一つにまとまらないかも知れない。それとも一つにまとまることを自分で拒否しているのか、とりあえず、その時はまだ記憶が戻りつつあることを、まわりの人に悟られたくはなかった。

 記憶が戻ったのは、その日、久しぶりにぐっすり眠ることができたからだった。毎日、張り切っているわけでもないのに、気を張らなければならない状況は、好きでもない相手のために、好きなふりをして、本当に好きな相手に見られていても、言い訳すらしてはいけないようなやり切れない気分を、毎日味わっているかのようだった。

 それでも気を張っていると、眠たいはずの時間に眠気が襲ってくるわけもなく、逆に昼間襲ってくる睡魔に勝てない状況が続くことになる。昼間寝てしまうと、今度は当然夜が眠れない。悪循環を繰り返してしまうのだった。

「最後にぐっすりと眠ったのって、いつ以来だったのかしら?」

 美奈は、思い返してみた。

 記憶を失ってしまったと思っている間は、思い出せるわけもないと思い、そんなことを考えたりはしなかった。だが、ふいに思ったことに対して、素直に思い出そうとしているからなのか、記憶を失う前も、しばらくの間、ぐっすりと眠ることはできなかった。

 眠っているつもりでも、気が付けば目を覚まそうとしている自分を感じる。眠ってしまうのが怖いのだ。

「このまま目が覚めなかったら、どうなるんだろう?」

 と、恐怖に駆られてしまうのだ。

 眠りに就いて、目が覚めなかった時のことを考えるなど、学生時代にはなかったことだ。むしろ、目を覚ます方が嫌だったくらいだった。

 それは、いつも楽しい夢を見ていたから、目を覚ますのがもったいないなどという思いではなかった。むしろ逆である。

 学生時代の美奈は、いつも何かに怯えていた。逆に、何をしていても楽しい時期というのもあったのだが、その二つが極端なのだ。

 どちらがどちらの反動なのか分からないが、言えることとしては、

「楽しいことや、何をやってもうまく行くなどという時期は長く続くはずはないということだ。必ずどこかで反動がやってきて、反動に耐えられるようにするには、絶えず不安を心の奥に置いておく必要がある」

 ということだった。

 いつも不安を心の奥に秘めていれば、何かあっても、それが免疫となって、冷静に考えられるようになるのではないかという思いがあったからだ。まわりの人を見ていて、いつも不安を感じていて、何かに怯えているような人ばかりだと思うようになったのは、自分の中に免疫を持とうと思うようになったからのことだった。

「悪い方に悪い方に考えるようになってしまった」

 というのは悪いことだという意識があり、その原因が、不安を払拭できない自分にあるということも分かっているのに、矛盾と言える考えが、自分の中で堂々巡りを繰り返してしまうことは、どうしようもないことなのだと思えてならなかった。

「目が覚めなかったら、どうなるんだろう?」

 という考え方もその一つで、本当に目が覚めなければ、どう後悔しても仕方がない。だが、それでも予期しておかないと、いきなり目が覚めないという事実を突きつけられることが何をおいても辛いことだということをその時になって気付いても、すでに遅すぎるのだ。

 病院のベッドに横になっていると、見えるのは天井だけだ。首を動かせば、他を見ることもできるのだが、

「もし、よそ見している間に天井が落ちてきたら、どうしよう」

 という考えが頭を擡げる。

「また、悪い方に悪い方に考えてしまった」

 と思う。

 身体の傷は大したことがないのだから、動かそうと思えば身体を動かすことは容易なことだった。

「それなのに、天井が落ちてくる発想をするなど、どうしたことなんだろう?」

 と、思うと、今度は本当に身体を動かせなくなってしまった。金縛りに遭ってしまったのだ。

 金縛りというのは、

「身体を動かせるはずなのに、どうやっても動かすことができない」

 と思うもので、身体が痺れていて力が入らないのか、見えない誰かが身体を抑えていて、そのせいで動かせなくなっているのか。その時に自分の身体を抑えている人は一人ではなく、数人いるような感覚に陥っている。

「一人であれば、何とかなる」

 という思いがあるからで、

「金縛りに遭えば、何をどうしても身体を動かすことはできないのだ」

 という発想から、是が非でも身体を動かせない環境に持っていかないといけなかった。

 これも何とおかしな矛盾した考えなのだろう。自分の発想を正当化するために、自分の身体を犠牲にするという考え方である。

 美奈は、その日、完全に眠りに落ちていた。夢を見ていたのだろうが、どんな夢だったのか意識がない。

 夢というのは、普段の発想を集約したもので、普段の発想の中でも叶えられないと思っていることを実現しようとしているものではないかと美奈は考えたことがあった。しかし、夢だからと言っても、できないものはできないという発想を抱いていた。

 いくら夢の中とは言っても、人間には絶対にできないという思いがあるものを見ることはできない。

 たとえば空を飛ぼうと思っても、夢の中では、絶対に空を飛ぶことはできない。せいぜい宙に浮くのが関の山だ。

 それは、

――人間は空を飛ぶことは絶対にできないんだ――

 という発想が根底にあり、いくら夢であっても、その考えを覆すだけの理屈を説明することができないからだ。それは、

「普段自分が悪い方に悪い方に考えてしまう」

 という発想が矛盾を孕んだものであればあるほど、夢の中では、矛盾を発生させないという思いを自分の中で納得させようとしているからに違いない。

「覚めない夢などありえない」

 という思いを自分に納得させることができるのかどうかが、美奈の中で大きな問題になっていた。

 美奈は、夢の中で、交通事故に遭った瞬間を思い出していた。起きている時は思い出せないのに、夢の中で思い出せるなんて皮肉なものだが、

「思い出せないのなら、思い出せないでいい」

 と、交通事故の忌わしい記憶を、わざわざ思い出す必要もないと思うようになっていた。

最初こそ、交通事故に遭った時のことを思い出せれば、失った記憶も取り戻すことができると思っていたのだが、精神的に落ち着いてくると、失った記憶を思い出さなければいけない必然性と、交通事故に遭った時の記憶を思い出すことの忌わしさを考えると、嫌なことは思い出せなくてもいいような気がしていたのだった。

 それなのに、夢というのは自分の意志に逆らっているのか、それとも、正直だというべきなのか、自分の意志を無視してしまうもののようだ。

 夢に出てきたシーンは、まずヘッドライトの眩しさが目の前に飛び込んできたところからだった。ヘッドライトの眩しさで、美奈は何かが起こるということを予感した。

 次の瞬間に、それまであまりよくなかったはずの鼻の通りが急によくなったかと思うと、まるで石のような臭いがしてくるのを感じた。

 今まで、石のような臭いを感じた時は、ロクなことがなかった。背中が焼けるように熱く、感覚がマヒしてくる。そのせいで、心臓の鼓動が激しくなるのを感じるが、それと同時に、

――息ができない――

 と心の中で叫び、カッと見開いた目には、毛細血管が張り巡らされたようになり、次第に目の前が真っ暗になっていくのを感じた。まるで夜のとばりが下りたような感覚に、今度は背中から、大きな穴の中に落ち込んでいくのを感じるのだった。

 小学生の時、鉄棒で逆上がりをしていた時、うっかり手を滑らせて、そのまま落ちてしまったことがあったが、ちょうどその時、背中から落ちた場所に小石があり、落ちた瞬間呼吸ができなくなったことがあった。

 その時に感じたことを今でも覚えていて、その感覚が交通事故の時によみがえってきたのだろう。起きている時は感じないが、無意識な状態になっている時、潜在的に覚えている意識が、夢となって現れたに違いない。

 夢の中での意識としては、ヘッドライトの明かりを感じてから、気が付けばいつの間にか背中の感覚がなくなり、痛くても声を出せない状態に陥り、声を出せないことが恐怖であるかのような錯覚を覚えていたのである。

「どこかで、同じ思いをしたような気がする」

 と感じた。

 もちろん、小学生の頃の鉄棒でケガをした時の思いを忘れていたわけではないが、夢の中で感じた

「同じ思い」

 というのは、そんなに昔のことではなく、最近のことだったように思う。

「やっぱり、交通事故に遭った時の感覚を、意識の中では覚えているんだわ」

 と感じたことで、交通事故に遭った時の意識は、記憶喪失と関係がないわけではないだろうが、喪失したわけではなく、記憶の中に封印されたのだという考えに間違いはなかったように思えてならなかった。

 一つ気になったのは、背中に激痛が走り、熱さから感覚がマヒしてくる前に、背中にそれとは違う違和感を感じていたような気がしていたことだった。激痛が走ってしまったことで、本当なら忘れてしまいそうなことなのに、なぜか意識としては残っている。同じ背中に同じ時間帯に感じたことのはずなのに、まるで違う感覚を覚えているのだ。

 それが、同じ時間に間違いないというのであれば、次元が違っているのかも知れない。夢の中でしか思い出せないことだとすれば、混乱した意識が見せた「錯覚」なのかも知れない。

 入院してから夢を初めて見たような気がしていたが、実は頻繁に見ていたのではないかと思った。初めて見たような気がしたのは、前に見た夢が、今回とまったく同じ夢だったのだとすれば、デジャブのような感覚があったとしても、まさか、同じ入院中のものだとは思わないのかも知れない。

 まったく同じ夢を見るというのは、不可能に違いないと思っているだけに、他に前の夢を意識させない何かがあるのではないかと考えた。

 そして思いついたのが、

「夢というのは、目が覚めると忘れてしまう」

 ということだった。

 夢の内容を思い出せるとすれば、次に夢を見た時に、類似した夢であれば、思い出すことができるのではないかと思ったことだ。しかし、類似していると言っても、酷似にまで至ってしまっては、夢を見ていると普段は意識させないことでも、ほとんど同じ内容だということが、夢である証拠だと思ってしまうと、後から見た夢が最初に見た夢を呑みこんでしまうような感覚に陥ってしまうのかも知れない。

 夢の中ではなく、実際に見たことなのかどうか、証明できるものは何もないにも関わらず、その時に見た車の中の顔を、美奈はハッキリと覚えていた。

 まるでストロボが焚かれて、それで見えたかのように思えたが、それよりも、一瞬の雷光が、その男の顔を照らし出したように思えてならない。その表情は凶悪というよりも、顔の下の方に真っ白に見えた歯並びで、男が異様に笑っていたのが見て取れた。

 普通なら、そんな表情を捉えることはできないだろう。車はヘッドライトで、目を潰しに掛かっているのに、きっと美奈は、ほとんど目を瞑りながら、一点だけを見つめていたのだろう。そうでもしなければ、運転席の男の顔を確認するなど、不可能に近い。そう思うと、男の顔が見えたのは、ただの偶然ではないのだと感じたのだ。

 下品に歪んだ唇と、そこからはみ出したような歯からは、運転していた男が狂気の沙汰ではないことを思わせた。

「明らかに狂っている」

 そう感じた美奈は、金縛りに遭ってしまい、そこから逃げることはできなくなってしまった。

 交通事故に遭うのは初めての美奈だったが、まわりには小さい頃に交通事故に遭ったという人は少なくなかった。

 今から思えば、交通事故の話をする時の友達は、皆それぞれに何かを隠しているように思えていた。美奈と同じような意識を皆が皆持っているとは限らないが、今、自分の中に感じている気持ち悪さは、人に話せる内容ではないと思える。交通事故に関しての話はできたとしても、話している間に、男の顔を思い出しそうな気がする。そんな時、

「これは話せない」

 と思ったところで、まわりから、不審な目で見られてしまいそうだ。

「何かを隠している」

 と感じた美奈が、その人に対してどんな顔をしたのか分からないが、立場が逆転すれば、想像していた以上に、相手に大きな印象を与えるに違いない。

 記憶を失う前の自分がどんな人間で、どんな性格だったのかがハッキリとしないこともあってか、なかなか自分から話しをしようという気分にはなれなかった。しかも、ここに入院してから来てくれた人は、兄と名乗る男性だけで、他には友達は誰一人として来てくれていなかった。

「退院したら、とっちめてやろう」

 と、最初は思っていたが、身体の方が回復し、十分に動けるようになると、そんな気も失せてしまった。身体が回復するまでにそんなに時間が掛かっていないことを考えれば、元々の美奈の性格というのも、アッサリとしたものだったに違いない。

 アッサリとした性格というのは、いい面、悪い面、それぞれを映し出しているのかも知れない。アッサリとしていることから、あまり人から恨みを買うこともなさそうに思うが、逆に気を遣うこともないので、相手が傷つきそうなことを平気で口にしているのかも知れない。そこに悪気はないのだろうが、悪気がないだけに、敵を作りやすくなっていることもあるだろう。

 記憶が少しでも戻ってくるのを待っていたかのように、数人が見舞いに来てくれた。どこかよそよそしく、まるで義務で来たかのような雰囲気だった。交通事故の話も出ないのを考えると、やはり全体的に見て、何かを隠しているように思えてならないのだ。


 美奈が退院したのは、記憶が少しだけ戻ってきてから、一週間ほど経ってからのことだった。普通の病院なら、すぐに退院させられそうなのに、ここではすぐに退院させることもなく、一週間も個室を占領することができた。

「とりあえず退院、おめでとうございます。でも、週に二回は、通院していただくことになりますので、宜しくお願いいたします」

「それは記憶を取り戻すためということでですか?」

「いえ、身体の方の定期的な確認ですね。本人は気付いていないと思いますが、事故のショックで、身体の中で動かすことのできない場所があるようなんです。日常生活には問題ありませんが、念のために通院してください」

「分かりました。ありがとうございます」

 美奈は、医者との話を終えると退院することになった。荷物を纏めてそのまま自分の部屋に帰ってきたが、さすがに半月以上も部屋を開けていると、自分の住んでいた部屋ではないような気がしてきた。

 会社には退院したことを話すと、

「二、三日はゆっくりと家で静養している方がいい。有給は十分にあるので、少しゆっくりしているといい」

 という課長の言葉に甘えて、月曜日からの出勤でいいということで、その週はゆっくりと家にいることができる。

 たった半月なのか、長すぎる半月だったのか、美奈にはすぐに判断ができなかった。家に帰ってきて、最初に感じたのが、

「懐かしい」

 という思いだった。完全にカルチャーショックに陥ったかのようで、本当に自分がその部屋に住んでいたのかということすら、疑問に思うほどだった。

 扉を開けた時に、足元から流れ出てきた冷気は、真っ暗な部屋の奥に何があるのか分かっているはずなのに、想像ができない自分をビックリさせた。冷気によって感じさせられた寂しさは、失った記憶の扉を開くカギになりそうな予感があったからだ。

「今までにも、扉を開いて足元から湧いて出る冷気に、寂しさを感じたことが、しょっちゅうだったんだろうか?」

 部屋の扉を開くと、それがそのまま自分の記憶の扉を開くことになるのではないかという淡い期待があったが、少しイメージが違った。

 それは、美奈自身が、本当に自分の記憶を取り戻したいという気持ちがあるのかどうかということが基準になっていることであって、半信半疑になっている美奈にとって、部屋の扉が記憶の扉であってほしいという思いに直接つながるのかどうか、本人にも疑問であった。

 足元からの冷気を感じながら、靴を脱ぐのをしばらく戸惑っていた。

 真っ暗な中にいるのは気持ち悪いと思っている美奈は、玄関先の明かりをつけたが、奥の部屋は真っ暗なため、却って不気味な感じがする。それでもすぐに足元からの冷気を感じなくなると、靴を脱いで、玄関に上がった。

「ただいま」

 誰もいない部屋に声だけが響く、それが以前からのくせであったことを、美奈は思い出していた。

 玄関先で響いた声は、間違いなく、奥の暗闇になっている部屋まで届いているはずだ。そして暗闇に声は呑まれてしまう。

「誰もいない部屋に声を掛けるのは、奥に誰もいないことで虚しさを感じているのかと思っていたけど、本当は暗闇に吸い込まれてしまう声は、いくら大きな声で自分を主張しても、それがどこにも届くことがないという事実を暗示しているのだと、最初から分かっていたからなのかも知れないわ」

 と感じていた。

 大きな声を出すことなど記憶にない美奈は、自分があまり人付き合いが得意ではないことを意識させられた。記憶が欠落した部分の中に違和感がないのは、誰か気にしなければいけない人がいなかったことを示しているのではないだろうか。

 玄関から、短い廊下を通り、奥のリビングまでやってくると、やっと自分の部屋に帰ってきたという意識になれた。見覚えのあるものがたくさん並んでいる。特に学生時代から続けてきたポエムの載った同人誌が、綺麗に本棚に並べれているのを見ると、懐かしくて、思わず手に取って見たくなるくらいだった。

 ポエムの載った同人誌を中心に、本棚は綺麗に並んでいる。普通の小説を読むのも好きなので、本屋で本を選ぶ時、本の背を眺めていると落ち着いた気分になれたことを思い出した。

 美奈は自分がどこからどこまでの記憶があるのかということばかりを考えていたが、記憶という意識は、そんな単純なものではないのかも知れない。

 同じ記憶であっても、最初が抜けているのと、途中が抜けているのと、さらには最後が抜けているのとでは、意識がまったく違う。最後が抜けている場合は、何となく途中の展開で最後を想像することもできるが、途中が抜けていると、自分の考えの展開を読むのが困難になる。最初が抜けている場合も、結果から原因を突き詰めるのというのは、逆よりも難しいかも知れないという意識があることで、それぞれに困難の度合いが違ってくる。美奈は、記憶が意識に与える影響を考えながら、欠落している記憶がどのあたりなのかを、冷静に考えるようになっていたのだ。

「いっそのこと、思い出せないのなら、思い出す必要もないのかも知れないわ」

 と思うのも、無理のないことだろう。

 部屋の電気を付けた時、最初に感じたのが、

「私の部屋って、こんなに狭かったのかしら?」

 普段よりも天井が低いような気がしていて、さらに狭く感じるのだから、まるで背が一気に伸びたのかと思うほどだった。そんなバカなことがあるはずもないので、考えられることとしては、よほど普段から、背を曲げて下を見ながら歩いているのではないかということを感じさせる。

 それは、この部屋に限ったことではない。四角四面の限られた部屋の中だから気が付いたのだが、本当はここに帰ってくる途中にでも、同じように狭さを感じる場所があったり、異様な雰囲気を感じた場所があったはずだ。それを意識させないのは、部屋に帰ってきて感じた狭さに、それまでのことを忘れてしまったからなのかも知れない。今までにもそうだったのだろうが、一つのことを考えると、同じようなことが前にあったとすれば、それを忘れてしまう習性があるに違いない。そう思えば、記憶が欠落したというのも分からないではない。

「ということは、何か新しい記憶が意識されたために、前の記憶は必然的に欠落して行ったということなのかしら?」

 と考えるようになった。

 一つのことを考えていると、他のことが頭に入らないという性格は、あまりいい性格だという認識を持たれていないように思うが、美奈はそれほど悪い性格ではないと思っている。

「平均的に何でもこなすタイプの人間よりも、他のことは人よりも劣っていておいいから、何か一つでも秀でたものを持っているタイプの人間の方が好きなのよ」

 と、人に話しているが、その考えが、一つのことに集中していると、他のことが頭に入らない性格に似ているという考えに共鳴しているのかも知れない。

「あんたは、本当に天邪鬼ね」

 と言われるが、それも悪いことだとは思わない。平気な顔をして話をやり過ごせればいいのだが、まだ、そこまで天邪鬼が徹底していないことも、記憶を簡単に失うことへの引き金になっているのかも知れない。

 美奈は、どちらかというと、女性に嫌われるタイプのようだった。本人としては裏表がないように振る舞っているつもりのようで、男性が見れば、裏表を感じることはないようだが、女性が見ると、明らかに裏表を感じさせるらしい。子供の頃から女の子と一緒にいるよりも男のこと一緒にいる方が多かった。

「私って、男っぽい性格なのかしら?」

 と思うようになっていたが、その性格の根幹を、

「潔いところだ」

 と思っていたようだ。

 しかし、実際にはまったくのお門違いで、女性にあまり好かれない性格を、男性の方が勝手に、

「この人は、男性的な人なんだ」

 と、思うのだろう。

 しかし、それも一部の男の子にだけで、大部分の男の子からはあまり好かれてはいない。嫌われているというところまでは行っていないようだが、女の子から嫌われてもさほど気になっていないにも関わらず、相手が男の子であれば、あまり自分が好まない男の子が相手でも少しショックな感じがしていた。

「男っぽいことろがあるからなのかしら?」

 好かれたい男性から好かれるわけではないのが、まだ救いだった。

 好きな男の子から、潔さを好かれたとしても嬉しいわけではない。美奈は自分では甘えん坊だと思っている。特に中学生くらいまでよりも、今の方が甘えん坊だと思っている。それだけ女の子らしさをアピールしたいのだが、余計に潔さが目立ってしまうのは、これも自分の天邪鬼に見られているような性格が影響しているのではないかと思うと、皮肉なものだ。

 中学時代に一番最初、意識した男の子がいた。

 彼は引っ込み思案で、まわりの男の子からは嫌われていた。それだけならまだしも、女の子からは、苛めの対象になっていたのだ。普通なら、

「なんて情けない男なのかしら」

 と、思うべきなのだろうが、美奈の中にある正義感が、そう思うことを許さない。

「彼には彼で、どこかに必ずいいところがあるはずなんだ」

 という思いを抱いて、いつも彼と対峙していた。

 正面から見ることのできない彼は、いつもモジモジしていて、男らしさの欠片もない。なぜそんな男の子を好きになどなるのかというと、彼が女の子から苛めの対象になっていたからだ。

 最初は、さすがの美奈も、情けない男としてのレッテルを貼って見ていた。だが、彼を情けないと思えば思うほど、そう感じている自分が情けなくなってくる。どこかに彼のいいところはないものかと探していると、意外と身近なところに見つかるもので、いつも学校の校庭の隅に咲いている花に水をやっているのを見かけた。

 他の男から見ると、

「女の腐ったようなやつだ」

 と思われていて、逆に女の子から見れば、

「男の風上にも置けない」

 と思っている。

 お互いに異性の厭らしい部分を見せられたことで、自分たちには関係のないところで、いがみ合いになるような一触即発状態を孕んでいる。

 そんな彼のどこが好きになったのかと言われると、ハッキリと答えられない自分がいた。あったとすれば、

「校庭の花に水をやっていた姿を見た時」

 と答えるだろう。

 自分の意識もそう言っている。否定する理由は見当たらない。

 それなのに、

「さあ、いつなのかしら?」

 としか言えない自分が歯がゆい。ハッキリと口にすることを恥かしがっているのだ。

 ただ、本当は彼が花に水をやっているところが好きだというのが恥かしいというよりも、何かに対して恥かしいと感じ、それを人に悟られたくないという気持ちが自分の中にあることを隠そうとする自分が嫌だった。

「人と同じでは嫌だと思っているくせに」

 彼のことが気になったのも、他の人なら誰も好きになることはないだろうという思いからでもあった。それなのに、今さら何をモジモジした考えを持っているのか、自分に対しての矛盾が、次第に美奈の中で、彼の存在を大きくしていく皮肉な結果になっていった。

 自分の部屋の中で一人になると、

「一人が気楽でいい」

 と思っているくせに、どこか寂しい思いを感じさせる。

「会えないと、余計に会いたくなる」

 という思いを感じるのも、一人の部屋にいる時だった。

 部屋にいる時は、ほとんどテレビを見ているか、本を読んでいることが多い。本を読む時も静かにしているよりも、音楽を掛けながら読むことが多い。本の内容が音楽にマッチしてくるのか、音楽が本の内容に合わせてくれているのか、どんな本を読んでも、音楽にピッタリ合っているような気がする。

 ハードな音楽や、バラードはあまり聴くことはない。ポップス調の音楽が多く、何もしていない時に、音楽を聴いているだけでも、いろいろなことをイメージできる。過去の出来事を気が付けばイメージしていて、ポップス調の音楽が何かをイメージするには一番似合っていることを感じさせた。

 何もせずに聴いている時よりも、本を読みながら聴いている時の方が、時間が経つのが早い。本にはリズムが存在する。音楽のリズムとマッチすれば、時間が早いという感覚は倍増してくる。

「もう、こんなに読んだんだわ」

 と、感心して時計を見ると、自分が思っていたよりも、何倍も時間が経っていたりすることがしょっちゅうだった。

 ポエムを考えている時は、逆に音楽を聴くことはない。軽い音楽に自分のポエムを重ねたくはないのだ。

 かといって、ポエムが重たいものだというわけではない。むしろ淡い恋心のようなロマンチックなものだったりすることが多いのだが、ポエムを考えている時間だけは、他の時間とは違っている。

「ポエムを考えている時間というのは、本当に時間を刻んでいるっていう感じがするのよね」

 時間が等間隔であるということは、誰もが分かっていることだが、それを意識することがあるだろうか。心臓や呼吸が無意識に等間隔であるのに対し、その思いを感じることはほとんどない。

 美奈は、時々時間が等間隔であるということを感じることがある。何がきっかけなのかというのは自分でも分からないが、無意識に考えているのだ。ハッと思って我に返ると、そんな時に何かいいポエムが思い浮かぶような気がしてくるのだった。

 実際に、ポエムを書こうと思うのはそんな時だった。

「さあ、今から書こう」

 と身構えてしまうと、なかなか発想も浮かんでこないものだ。

 芸術作品は、最初の閃きが重要である。それを美奈は感性だと思っている。そして、美奈にとっての感性は、

「規則的に、刻む時を感じた瞬間」

 なのだと思っていた。

 最近は、なかなかそんな気分になることも少なくなった。その分、本を読むことが多くなってきたのだ。寂しいという思いも若干あるが、今はそれでもいいと思っている。

 寂しくてもいいと思っていたからだろうか、

「記憶が欠落しているのも、無理もないことだわ」

 と思うようになっていた。

 厳密に言えば、寂しさと孤独というのは違うものであるが、記憶が欠落している部分に自分の孤独が含まれていたのではないだろうか。孤独は孤立とも違う。どちらかというと、美奈の場合は、孤独よりも孤立なのかも知れないと感じたことがあった。孤独は自分から、まわりを遮断するものだが、そこに自分の意志はさほどない。しかし、孤立は自分の行動がまわりから敬遠される形になるからだ。実際に自分の意志が働いていることで、起こることに違いない。

「孤立無援という言葉もあるではないか」

 まるで四面楚歌をイメージさせる。まわりはすべて敵だらけ、そう感じると、孤立も自分らしさの一つではないだろうか。

「人と同じでは嫌だ」

 と思っている美奈らしい考えだ。

「孤立よりも、孤独を感じている間の方が気が楽だ」

 と思うこともある。そんな時は気が弱くなっている時であって、孤独を感じている時の方が、

「悪いのは自分じゃないだ」

 と、孤立にしても、孤独にしても、どちらも悪いことだと決めつけてしまっているようだ。病院のベッドの中にいると、どうしても気弱になってしまい、孤独を感じるようにしていたような気がする。病院のベッドほど、孤独が似合う場所はないのではないかと思ったりもした。

 病院のベッドでは自由はない。余計なことを気にする必要はないのだが、その分、自分に自由がないことと、縛られていることを意識させられる。縛られていることと自由がないことは直接的に関係はないが、自由がない感覚は、遠い昔を思い出させた。

 美奈が欠落した記憶は現在のもので、昔の記憶は残ったままだ。現在の記憶が欠落してる分、昔の記憶を鮮明に意識できるくらいだった。

 自由がなかったのは、小学生の頃、これは美奈に限らず、誰もが持っているものなのかも知れない。しかし、それも程度に度合いがあるのと、本人が今まで意識してきたかどうかで、思い出した意識が遠くに感じられるのか、ごく最近に思えてくるものなのかが決まってくるようだ。

 美奈の場合は、記憶は鮮明なのに、意識はかなり昔のものだ。遠くに見えているものであっても、そこだけをターゲットに見つめていれば、次第に普段なら見えないことでも見えてくるような気がすることに似ていて、実際に見えていないことであっても、想像で見えたような気がする。遠い昔の記憶だからといって、本当に小さくしか見えないのか、美奈には疑問だった。しかし、距離が見える大きさで分かるのであれば、記憶の距離も大きさで分かるものなのかも知れない。そう思えば、やはり、視界に広がる大きさが、そのまま過去への距離に繋がっていると思えてくる。大きく見えるのは、距離とは関係なく、どれだけ意識をしているかということではないだろうか。

 小学生の頃というと、どうしても親という保護者が自分に付きまとってくる。親に縛られて、自由がない。学校では、先生に縛られて自由がない。逆らえば怒られたり、バツを与えられたりする。

 それを大人は、

「子供を守る」

 という表現をしていた。

「自由もなく、縛られている身で、守られているなんて理不尽だ」

 と思う子供はたくさんいたに違いない。それでも逆らうことができないことに、苛立ちや憤りを感じ、

「情けない」

 と感じる。

 その思いは自分に対してのもので、そう思っている自分にも情けなさを感じる。堂々巡りを繰り返しているようで、

「箱を開ければ中には箱があり、さらに中を開ければ、また、小さな箱が出てきた……」

 そんな感覚を思い浮かべてしまう。

 いかにも子供らしい発想だが、箱を思い浮かべると、次に考えるのは、箱庭のような世界にいる自分を、表から覗き込んでいるのも自分だというイメージであった。子供の頃に時々、

「空って造りものじゃないのかしら?」

 と、急に青い空が割れて、その向こうに真っ赤な夕闇のような世界が顔を出している場面をイメージしたことがあった。

 空が割れるイメージは、雲一つない真っ青な空ではない。少しでも白い雲が存在していないと、空が割れる気がしないのだ。

 雲一つない空というのは、明るいようで、実際には青さに引き込まれるような暗さを感じる。そして、何よりウソ臭さを感じるのだった。

 今まで実際に雲が一つもない空を見たことがあるから、暗さを感じるのだと分かっているくせにウソっぽく感じるのは、いかにも天邪鬼な美奈らしい考えではないか、そんな考えを隠し持っていることで、記憶の欠落も、簡単なのではないかと思えてくるほどであった。

 空が割れてから見える世界には、煙が湧き立っている。それも真っ赤な煙で、その奥が燃えているようだ。

「地底のトンネルを思わせるみたいだわ。さしずめ真っ赤な色は、マグマかしら?」

 どうしてそんなイメージなのかは分からない。空はまるでタマゴの殻のようで、薄い空の幕にヒビが入ったかと思うと、ボロボロと毀れてくる。

 かといって、落ちてきたものが、どうなってしまったのか後になって気にはなっても、その時は意識していないのが不思議だった。

「いや、ひょっとすると意識だけはしていて、なるべく考えないようにしていたのかも知れない」

 そんな風に考えると、雲一つない空だけをウソ臭く感じているだけではないように思えてきた。

 なるべく考えないようにしていたのには、もう一つ理由があるように思えた。

 その理由とは、

「限られた空間だという意識をなるべく持ちたくない」

という思いだった。

 空が造りものだということになると、今まで果てしないと思っていたものを錯覚だと感じることになる。だが、果たして錯覚なのだろうか?

 以前、日本三景の天橋立に行ったことがあったが、

「ここでは、股の間から覗くのがいいと言われています」

 と、展望台の上のところで、バスガイドさんが、老人会と思しき団体に説明をしていた。腰が悪い人もいるだろうに、それでも各自無理をしない程度に股の間から覗いていた光景が、実に滑稽だった。

 その時、美奈もやってみた。友達数人とだったので、別に恥かしいこともない。観光地での名物であれば、やってみたいと思うのが美奈の性格だった。

「今まで、普通に見ている海と空の境目が、股の間から見ると、まったく違って感じるわね」

 と美奈が言うと、

「そうね。空がこんなに広かったなんて、想像もしていなかったわ」

「上下逆さまから見ると、まったく違った光景に見えることがあるって聞いたことがあるんだけど、それに似ているのかも知れないわね」

「心理学の世界に通じるものがあるのかも知れないわ。」

 その時に話した心理学の話を思い出していた。

「人の顔という意味で、サッチャー錯視って聞いたことがあるんだけど、それに近いものがあるんでしょうね」

 心理学という意味で、箱庭というイメージも浮かんできた。そういう意味では、外の世界から、限られた自分たちの世界を見ている自分がいるような気がして仕方がない。箱庭と、架空の空というイメージを重ね合わせてみる時、天橋立で感じた、上下が逆さまになった時、まったく違った比率の光景が錯覚として頭の中に残っていたことを思い出させたのだ。

「私が自分の部屋を広く感じたり、狭く感じたりするというのも、逆さから見ているのと近い感覚の精神的な開きがあるに違いないわ」

 と感じる美奈だった。

 こんな想像をするようになったのは、部屋で音楽を聴きながら、本を読むようになったからだった。別に難しい本を読むわけでもないし、SFなどの空想物語を読むわけでもない。それなのに部屋を狭く感じるのは、音楽を聴いていると、本の内容に関わらず、共通の思いが頭の中に浮かんでくるからなのかも知れない。それがどんなものなのか美奈にはハッキリとしていないが、時々何の前触れもなく浮かんでくる。今回頭に浮かんできた、空が架空のもので、割れてしまう光景を想像するようなものであろう。

「想像するということは、何か共通のきっかけのようなものが存在しているような気がするわ」

 と思っていると、さらに発展した考えで、その共有は、自分に対してだけではなく、ごく身近な人との共有が考えられそうな気がした。

「夢の共有って発想を考えたことがあったんだけど、それって、ただの夢じゃないのかも知れないわ」

 と感じた。

 今回、交通事故に遭って、病院のベッドで自由もなく縛られた感覚になっていると、いろいろなことを考えた。しかし、普段の場所との違い、精神的に自由がないという束縛イメージから、どこまで発想が生まれたかは分からない。だが、自由のない限られたスペースだからこそ、浮かんでくる発想もあるだろう。退院して自分の部屋に戻ってきてしまうと、すでに忘れてしまっていたが、その時に感じたことを、本当に大したことではないと思っていたのだろうか?

 夢を共有している人がいるとすれば、それを探すのは実に困難だ。近くにいるとは限らない。果てしなく範囲は広がってしまう。

「だから、余計に限られた世界をイメージするのかしら?」

 とも、考えられた。

 広い世界を、どれだけ自分の範疇に収めることのできる世界にしてしまうかがカギになるだろう。

 美奈は自分の部屋で音楽を聴きながら本を読んでいる自分を想像してみた。どんな本をどんな音楽で聴いていても、まったく表情に変わりはないだろう。

 それを無表情だというのであれば、美奈にとっての無表情の基準は、音楽を聴きながら、本を読んでいる時にある。精神的には何かを自分で発想しているわけではなく、まわりから与えられた環境に、イメージを合わせている。そういった感じに違いない。

 美奈は、最後にこの部屋にいた時のことを思い出そうとしていた。交通事故に遭った日の朝だったに違いないと思ったからだ。

 その日の朝の記憶は、その前の日、帰宅してからのものになるのではないかと、美奈は感じていた。

 今思い出そうとしている一番最近の記憶は、ウキウキした意識だった。

「次の日に誰かとデートでもするつもりだったのかしら?」

 と、思いながら、

「デートするなら、誰なのだろう?」

 といろいろ思い浮かべてみた。

 ハッキリと好きだと言える人がいないわけではない。だが、その人とのデートは無理だった。相手は既婚で、子供すらいる。しかも彼から見れば、美奈はまだまだ子供に見えているだろう。その人は会社の上司で、上司と部下という以外に、彼には見えていないに違いない。

 美奈は、ファザコンのところがあった。年上に憧れてしまうところが昔からあり、一度年上に憧れてしまうと、同年代の男の子は、子供にしか見えてこない。言い寄ってきたとしても、鼻であしらうくらいの感覚で、付き合う相手として、どうしても見ることができなくなる。

 そんな状況でも、美奈のことを好きな男性はいた。同年代だが、彼には落ち着きがあった。上司に憧れさえなければ、彼とは相思相愛のベストカップルになれるに違いないとも思う。世の中、なかなかうまくいかないものだ。

 美奈も彼のことを気にしているということは、自分が考えているよりも、まわりの方が敏感に読み取ることができるようだ。中にはおせっかいな人もいて、

「あんたと、彼を結びつけてあげようか?」

 と、友達に言われて、おせっかいだとは思いながらも、まんざらでもないという表情しかできない自分が情けなかった。

「私には、本当は憧れている人がいるの」

 とは、口が裂けても言うことができない。

 ひょっとしたら、そう思っていることが身体を硬くして、人に違和感を与えるのだとすれば、

「あんたと、彼を結びつけてあげようか?」

 というおせっかいな言葉も、美奈にカマを掛けてきているのかも知れない。

 まわりの人が自分をどこまで知っていて、それ以上のことをどれほど知りたいと思っているかということを考えると、下手に自分を曝け出すことが怖くなってくる。

 元々、美奈はオープンな性格で、人に隠し事をしたりできないタイプで、ついつい正直に自分を曝け出してしまう。それが、美奈という女性の奥に潜在している性格なのかも知れない。

「あんたは、空気が読めないところがあるからな」

 と、カマを掛けてきた同僚から言われたことがあった。その人は思ったことをすぐに口にするタイプで、人には厳しいくせに自分には甘い。本当なら、嫌われるタイプなのだろうが、なぜか彼女のまわりには人が集まってくる。

 特に男性が多い。ちやほやされて、喜んでいる。美奈から見れば、何とも羨ましい限りである。

 しかし、あんな風になりたいとは思わない。今はいいかも知れないが、いずれどこかで大きな挫折を味わいそうな気がする。

 あまりついていない人に、

「人生、そんなに悪いことばかりじゃないさ」

 と言って元気づけている光景をよくドラマなどで見かけるが、逆も真なりで、

「人生、いいことばかりじゃないさ。そのうちに大きなしっぺ返しを食らうさ」

 と、言われても仕方がない。

 美奈は自分の記憶の欠落している部分はどっちなのだろうかと考える。もし、悪い方であれば、やはり思い出したくないと思うだろう。それはたとえ本人の意識しないところであっても、潜在的に存在する意識が、そうさせるに違いない。それが本能というものなのだろう。

 その日、意識の中では休みの日だったような気がする。

「今日は平日だから、人が少なくていいわ」

 と、思ったことも思い出した。

 美奈の仕事はシフト制になっているので、休みは土日とは限らない。むしろ平日の方が多い。それは美奈の望むところでもあった。人ごみを極端に嫌う美奈は、自分が匂いに敏感だったことを思い出した。

「百貨店の化粧品売り場など、近づいただけでくしゃみが止まらなくなる」

 と思っているくらいだ。だから、あまり匂いのきつい香水はつけない。つけるとすれば、柑橘系の当り障りのない香水を選んでいた。

「柑橘系の香水だね。僕の好きな匂いだ」

 と言ってくれた人を思い出していた。確かその人と約束をしていたような気がする。会社の人ではなく、人数合わせで連れて行かれた合コンで知り合った男性だった。

 最初は軽い人のように見えたが、二人きりになると、会話もぎこちなければ、女性の扱い方も不器用だった。空気が読めないところもあり、

「私と同じだ」

 と、思わずクスクスと笑ってしまった。

 それに気付いた彼が、

「どうしたんですか?」

 と、さっきまでのぎこちない雰囲気とは打って変わって、馴れ馴れしさが戻ってきたように、ニコニコしている。その笑顔が見たかったということに気が付いた美奈は、

「あ、いえ、あなたも、結構空気が読めないところがあるんですね」

 と、わざと十分に皮肉を込めて言うと、

「あ、そうですね。これは参ったな」

 と、頭を掻きながら、照れている。ファザコンのはずだと思っていた美奈は、自分にビックリする。

「なんか、胸がドキドキするわ」

 それから二人の距離は急接近していった。知り合って三か月で美奈は彼に抱かれた。まるで図ったかのように、美奈の予想通りの展開に、

「これは運命なのかも知れないわ」

 と感じたほどだった。

 純愛を思い出していたが、そこまで来ると、それ以降の記憶が意識の中から消えているのを感じた。

「進行形の恋愛で、今がちょうど一番いい時なのかも知れない」

 と、感じたが、どうも違うように思えてならない。何か大切なことを忘れているように思えてならない。別れたという意識はない。ずっと会っていないという意識もない。それなのに、何か大きな穴がポッカリと空いてしまったような気がして仕方がなかった。

 それがどれほどの長さなのか分からない。その間がどれほどの長さなのかが分かれば、自分の記憶がどれほど欠落しているのかが分かるのではないかと思った。

 美奈はまた別のことを考えている。

 家で感じた最後の意識が、本当に事故に遭ったその日だったのだろうかという疑問である。その間に、意識できない空白の数日が存在するのではないかと思うと、美奈は、ゾクゾクするものを感じた。さっきまで甘い関係を思い出していたのに、急に叩き落とされたような感覚になるのだから、それだけ厚い壁があり、日数も重なっているのかも知れないと感じるのだった。

 約束をしていた人は坂田宏和と言った。

 恋愛には、何ら支障がないような気がしていたが、美奈の中で唯一引っかかっていたのが、知り合ったきっかけが合コンだったということである。

 別に合コンで知り合ったから、軽い付き合いだという風に、単純に結びつけたくはない。その考えは、美奈が一番嫌いな考えだった。

 それなのに、結びつけて考えようとするのは、美奈の気持ちが、まだ宏和を全面的に受け入れようとしていない証拠だった。

 相手を受け入れるには、段階を必要とする。そこが、恋愛の過程として、男と女で一番の違いなのかも知れないと感じた。男の場合には、段階を踏むような人は少ないような気がする。かといって、何も考えていないわけではない。段階を踏まなくても、最初から自分の気持ちが決まっていると思うからだろう。それを「潔さ」と呼んでいいものなのかどうか分からないが、美奈には男性の本心が分かるほど、自分が大人になりきれていないような気がした。

「でも、男性の気持ちを分かるようになることが、大人になるということなのかしら?」

 美奈は、不思議に感じた。

 美奈が男女の関係で疑問に思っていることは山ほどある。考えているその時々で、立ち止まって考えないと、すぐにスルーしてしまって、分からなくなってしまう。

 もちろん、いちいち立ち止まって考えていては、キリがないことくらい分かっているが、立ち止まることも必要なのは事実だ。立ち止まらないと、消化不良が欲求不満となって残ってしまうことになるからだ。

「相手との溝が埋まらない」

 と感じたり、相手が時々見えなくなるように感じるのも、そのせいではないかと思っている。

 宏和との恋愛の過程がどの程度のところまで来ているのか、美奈には分からなかった。「すぐそばにいるはずの彼が見当たらない」

 その思いが、美奈を覆い尽くす。

「何か大切なものを忘れてきたのかも知れない」

 と、感じたのも、そばにいるはずの彼が見えないからだった。

 今が一番幸せな時期だと思っている自分を思い出すことができる。それなのに、裏腹な気持ちが絶えず美奈の中を支配していた。

 恋愛対象の人の姿が、絶えず見えていないと気が済まないという気持ちは、相手に対してのプレッシャーに繋がらないだろうか? 美奈は、いつも相手に対して気を遣っているようだ。

「本当の恋愛は、気を遣っているという思いを一切持たなくても、相手にプレッシャーを与えないようなものなんじゃないのかしら? それがさりげない優しさというものなのかも知れない」

 と、美奈は思うようになっていた。

「記憶が欠落しているのに、ここの意識は残っているんだわ」

 美奈は思った。

 欠落している記憶と、覚えている記憶の違いというのは、

「欠落している記憶は、あくまでも記憶であって、意識として残すものではないこと、そして、残っている記憶は、引き出した時、それが意識に変わることができるものなんじゃないかしら」

 記憶としてだけしか残らないものと、意識として引き出せるものを、普段は意識することもなく、同じものとして認識しているのではないだろうか。だから、意識と、潜在意識という同じ「意識」であっても、明確に違うものの存在を意識しなくても、潜在意識は表に出てくれる。それを本能だというのであれば、今の美奈に、

「本能って存在するのかしら?」

 と、思えてきた。

 意識しなければ、本能は表に出てこないのだとすれば、少し怖い気がしてきた。出てきたとしても、それが本能だとは思わない。記憶が欠落する前なら、こんな理屈を、信じられないと思ったに違いない。

 気を遣う相手が、目の前に存在しないと思った時、美奈は宏和との仲に限界を感じてしまった。宏和が美奈のことをどのように感じているかというのは、その時の美奈には、問題ではなかった。要するに、自分がどう感じるかということである。

 美奈は、そこまで考えてくると、もう一つの考えが頭を擡げた。

「今の自分に本能や潜在意識が存在しないのであれば、それを持っているもう一人の自分がどこかに存在しているのではないか?」

 という考えである。

 それは、意外とそばにいる自分で、まるで次元の違う世界にいたりするのかも知れない。一番考えられるのは、夢の中にもう一人の自分が存在しているのではないかと思うこと。それは突飛ではあるが、子供の頃から、実は夢の中に、もう一人の自分の存在を意識している美奈だったので、今さら新しい考えというわけでもなかった。

 美奈は、もう一人の自分の存在に、以前から気付いていたような気がした。そして、それは自分に対してというだけではなく、他の人皆にも、同じように「もう一人の自分」というものがあると思っていた。

 そのことに気付いている人は、本当に稀だが、少なくとも、誰か一人は気が付いているのではないかと思うようになっていた。

 もし、そうでなければ、美奈がもう一人の自分に、こんな簡単に気付くはずはないと思った。きっと誰かの様子や雰囲気から、その人を無意識になのかも知れないが見ているうちに、気が付いたに違いない。

 その日、一日が特別な日だったことは記憶にはあった。宏和と会うことになっていたその日のことである。

 だが、その日は幸せだという意識は残っていない。むしろ、その頃から美奈の記憶が曖昧になってきているような気がしてきた。

「交通事故に遭ったことが、記憶が欠落していることの直接の原因だと思っていたが、違うのかも知れない」

 確かに交通事故という外的要因が一番記憶の欠落という事実に対して、既成事実としては一番説明が尽きそうだったからだ。

 交通事故が原因ではないとすれば、何が原因だというのだろう?

 宏和が何かを知っているのは事実だろう。しかし、その宏和は、美奈が入院している時に来てくれたわけではない。

 知り合ってから、最後に意識した日までの、宏和との交際期間については、何となく記憶がある。それは、自分が意識しているよりも、かなり遠い過去の記憶のようだ。つい最近まで付き合っていた人という意識はない。

 記憶が欠落してから今までの期間が、美奈にとって思っているよりも長いのではないかという思いがあった。

 その間が、最後に宏和を意識した日から、交通事故に遭うまでの間だとすれば、果たして宏和を最後に意識したのはいつのことだったのだろう?

 しかも宏和を意識したその日から、交通事故に遭うまでの記憶が欠落している。その間の欠落が本当に交通事故に遭ったことが記憶の欠落ではないという思いに繋がっているのだが、記憶の欠落にも二段階があるのかも知れない。

 そう思った時、ふいにおかしな発想が美奈の中に浮かんだ。

「交通事故って、あれは本当に事故だったんだろうか?」

 という思いである。

 偶然だったのかどうかということへの疑念であるが、そこに記憶の欠落が二段階ではなかったかという疑念と結びついてくる。

 しかもさらに思うのは、

「記憶の欠落すら偶然ではなく、何か作為が働いているのではないのかしら?」

 とも、考える。

 作為があるとすれば、それが誰によってもたらされたものなのかを考えてみる。

 考えれば考えるほど、作為があるのなら、それは自分以外には考えられない。つまりは、作為をもたらすために、第一段階の記憶の欠落が、必然だったのではないかという考えだった。

「私って、何て複雑な方にばかり考えるのかしら?」

 と、思えてならない。

 美奈の記憶が戻らないのは、本当は戻したくないというのが根底にあるからなのかも知れない。

 記憶を失くすパターンとして、今まで感じたこともないショックなことを見てしまったことで、まるで自分が何か悪いことをしてしまったのではないかという罪悪感から、記憶が欠落するという話を聞いたことがある。

 それは、しかも帳尻合わせだというのだ。

 ショックなことを見てしまったことで、それを認めたくないという自分の気持ちの葛藤が、罪悪感を産むことになる。その葛藤と罪悪感が、帳尻合わせに繋がるのだ。

 帳尻合わせということについては、デジャブも一種の帳尻合わせだという話を聞いたことがある。

――一度も来たこともなく、会ったこともない人なのに、なぜか初めてではないような気がする――

 というのが、デジャブ現象である。

 それは、自分の中に記憶しているものを意識として出す時に、絵や写真で見ただけのものを、本当に経験したことのように感じるというギャップが、帳尻合わせに走ってしまい、それがデジャブ現象として、意識させられるからだという。

「ひょっとして、私の記憶の欠落は。デジャブ現象と反対の意識が働いているのかも知れないわ」

 と感じた。

「逆も真なり」

 というではないか、まったくの正反対であれば、それは同じ発想だと考えてもいい。まったくの正反対なのかどうか分からないが、少なくとも、帳尻合わせという発想と、記憶と意識の関係が同じ発想に思えただけでも、美奈はデジャブというものを、自分の記憶の欠落と似たものだと思うようになった。

 先生にも話をしてみた。

「それも一つの考え方ですね。それにしても美奈さんは、よくそこまでの発想に至りましたね。私の研究も似たところにあるんですが、今まで記憶喪失の患者さんをたくさん診てきましたが、ここまでの発想の人はいませんでした」

 と言われたのを思い出した。

 退院する前の日にこんな話をしたのだが、教授はそれがよほど気になったのだろう。ノートにメモしているようだった。

 教授の名前は中西教授。担当医の上司でもあった。最初はなかなか話ができるような相手ではなかったが、退院が近づいてくると、教授の方から話しかけてくれた。どうやら、看護師の人が、美奈の雰囲気や言動から、教授が興味を持ちそうだということを話していたらしい。

「私は、医者という立場でありながら、研究を主にしているので、なかなか患者を診るということがない。人からは堅物のように思われているが、本当にそうなんだと私自身も思っている。だから、君に対しても患者というよりも、研究材料として話をしているかも知れないけど、それでもいいのなら、お話をしていたい」

 かなり自分勝手な言い分だが、記憶が欠落している美奈にとっては、それでもいいと思っている。

 いや、却って記憶が欠落している美奈にとっては、そっちの方がアッサリとしていていいと思っている。

 中西教授は、身体も小さく丸顔で、頭も髭も手入れをしているという感じは見受けられない。もし、教授として白衣を着ていなければ、絶対に相手することはないと、美奈は思った。

「中西教授は、今までいろいろな患者さんと正対してきたと思いますが、私のような患者は珍しいんですか?」

 怪しげな風貌の男性に興味を持たれるのはあまり気持ちいいことではない。それなら本当に研究材料としてだけ興味を持たれる方がマシだと思ったのだ。

「そうですね、珍しいと思います。記憶喪失の患者さんは、大体何かに怯えていたり、下手なことを言うと、いきなり凶暴になる人もいるので、本当にデリケートな人が多いんですよ」

「私は、そうではないと?」

 どうしてなのか、交通事故に遭って、記憶が欠落していることが分かってからというもの、どこか相手に対して挑戦的な態度を取るようになっていった。だから、教授の話を聞いていくうちに、自分が教授のいうようなデリケートな存在ではないことは分かっていた。逆に最初から、挑発的な態度を取っている。それは、記憶を失ったことへの恐怖というより、他の人とは違うという意識が、記憶が欠落した自分であっても強いということだ。

「そうだね。君には感じない」

 挑発的な意志は、

「私の場合、他の人のように記憶を失ったとは思っていないんですよ。記憶が欠落したって思っているんですけど、変ですかね?」

 というどこか、相手に答えを迫る形で表された。

 すると教授は、

「君は面白い人だ。私に挑戦してきたわけだね。まあいい、確かに記憶を失ったというよりも欠落したと言った方が、軽く感じるからね。そして、考えようによっては、欠落しているという方が、すぐに思い出せそうな気がする相手に対して、何か挑戦しているように見える。そこに潔さを感じるのは、私だけかな?」

 中西教授の話を聞いていると、まるで自分の心を見透かされているように思えてならなかった。

「私は、心理学はよく分かりませんが、教授とお話していると、発想が膨らんでくる気がします」

「それは私も同じだね。君の中から発せられるオーラが、何かを訴えているようで、だから、挑戦的に思えてくるのかも知れない。でも、だからと言って、相手に自分の気持ちを隠そうという挑戦的な態度ではないんだよね」

 中西教授と、長い時間話をしたわけではないが、考えがどこかで共有できたような気がした。

「自分の夢を誰かと共有しているような気がする」

 という話もしてみた。

 しかし、そのことに対して教授は興味を持ってくれたようだったが、あまり会話をしようという意識はなかったようだ。どちらかというと、すぐに会話を打ち切りたいという意志がありありで、挑戦的な気持ちがなければ、お互いに話が続かない証拠だと美奈は感じた。

――教授は、意見が合わなかったのかしら?

 と美奈は思ったが、実際には逆だった。

 実は教授がゾッとしてしまうほど、意見が一致していた。会話が続かないのは、同じ発想なので、それ以上の会話が成立するはずもない。少しでも考えが違えば、発展先も違ってくるので会話になるのだろうが、同じ発想なので、行きつく先は同じである。

 教授は、発想や考え方がまったく同じ人間が、世の中にはあってもいいと思っていた、しかし、まさか自分と同じ発想の人間がいるなどという発想はありえないものとして、予期すらしていない。

 だが、会話も終わりかけようとした時、異変が起こった。教授の興味を持つような話が急に出てきたのだ。それは美奈の発想にも合致するところがあり、今までとは違った意味での会話に花が咲いてきたのだ。

「美奈さんは、夢を見ますか?」

 と聞いてきたのも、そのためである。

「それほど見る方ではないと思います」

「ひょっとすると、自分では見ていないという思いが強くて、見た夢を忘れようとしているのかも知れないね。そうだ、だから記憶が欠落しているのかも知れない。何かを忘れようと無意識に考えているからなんじゃないかな?」

「それはどういうことですか?」

「嫌な夢とは限らないと思うんだが、ひょっとすると、同じ夢を毎回見るようなしつこさがあって、二度と見たくないと思うようなシチュエーションがあるのかも知れないね。それはきっと嫌だったり、怖い夢だったりするわけではないと思うんだ。怖い夢だったら、忘れようとする意識はなく、意地でも起きるまで忘れないようにしようとする意識が働くと思うんだ。夢を覚えていないのは、怖い夢だからというよりもむしろ、忘れたくないと思うような夢なのかも知れないね」

「よく分かりません」

 正直な気持ちだった。中西教授が何を言いたいのか、美奈にはよく分からなかったが、次に出てきた教授の言葉には驚かされた。

「夢の共有」

「あっ」

 最近、よく感じることではないか。誰かが自分の夢の中に入りこんでいるんじゃないかと思うことが、デジャブ現象を証明していると感じたばかりだった。

 夢とデジャブ現象、そして記憶の欠落、これらはどこかで結びついているような気がする。それも微妙なところでである。

 美奈は、そのことを考えていると、この部屋での最後の記憶と、交通事故に遭った日との間で大きな溝があるのを感じたのも無理のないことだと思っている。誰かが「夢の共有」を使って、そこに他意があるのかどうかは別にして、美奈の意識を歪める何かが存在したことは確かである。

「私の記憶が欠落したことによって、得をする人が、この世界のどこかにいるんだ」

 それが、目と鼻の先ではないといけないわけではない。どこの誰かも分からない相手が他意もなく無意識に影響を与えているのだとすれば、防ぎようもないし、対応のしようもない、

 もし、そうだとするのであれば、慌てても仕方がない。欠落した記憶が戻ってくるのを気長に待つしかない。だが、

「知らぬが仏」

 という言葉もあるではないか。

 美奈は記憶が欠落した部分そのものよりも、欠落した部分が自分の中で想像しているよりも大きいのではないかと思い始めた。それがどれほどの大きなものなのか想像もつかないため、果てしなさすら感じてしまうのだった……。

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