第5話 先妻と後妻の「誓いのキス」

 正直、呉碧くれあおいのことは苦手だった。

 ただ、しまったと思った。僕が忘れ物をして、放課後、美術室まで坂木さかき君を連れてきてしまった。書道選択だった坂木君は、初めて美術室に訪れた。イーゼルに、呉碧の油絵。

「坂木君?」

 目の色が変わった。何事か、呟いている。間もなく、リュックサックからノートを取り出す。一心不乱に、何かを書き付ける。

 やがて、呉碧が現れる。夢中になっている坂木君の手元を覗き込む。俄かに、呉碧の口角が上がる。肩に手を置き、坂木君に口付けした。

 頭がいっぱいだった。あまりに、僕の中の女子中高生像と重ならなかった。後で、冷静になって考えてみると、それは僕の特殊な家庭環境のせいだと理解できた。当時は、ただ汚らわしいと嫌悪した。それが、あんなことになるなんて。


 *


「坂木が、猫を殺したの」

 一体、どこの世界の話だろう。それは、絵の中、お話の中。呆けているうちに、呉碧は、両手でバランスを取りながら、花壇の縁を歩いていく。

「それで、お墓でも作ったのかな」

「当たり前。え、もしかして、石矢いしや君、お墓作ったことない人なの。信じられない。小学校で一度も生き物係に任じられたことがないのね。まあ、薄情な人なのね。少なくとも、まわりの人はそう思っていたのよ」

 舌打ちする。

「それで、何の話だよ。脱線しすぎだし」

 呉碧は、花壇の縁の終わりまで到達した。飛び降り、回れ右する。

「だから、坂木が、仔猫を殺したのよ」

 お解りかしら、とでも言わんばかりに、小首を傾げてみせる。

「次は、自分の番だとでも言いたい訳?」

「ご明察」

 笑顔で、人差し指を突き出す。可憐だ。少なくとも、坂木君はそう感じるだろう。呉碧は、美しい。どこか、日本人の想う桜を連想させる。

「本読みの才能しかない、平凡な石矢君は医学部にでも進むといいよ」

 にっと笑う。僕も、唇を引き伸ばす。

「あいつが、今度、人を殺した時には、死亡診断書を偽装しろという訳だね」

「そうだよ。あの困ったさんは、きっと何度でも繰り返すだろうからね」

 自分で言っていて、おかしくなったのだろう。しばらく、呉碧は、笑い転げていた。

「だって、ねえ。たとえば、坂木君が、警察に捕まったとするでしょう。そしたら、石矢君は、恐くってとても刑務所には行かれないでしょう。それくらいなら、自分が刑務所に入ってやったほうがましだと考えるはず」

 そんな訳あるか。自分の革靴を見つめて、想像する。その通りだった。

「坂木君が死刑になるくらいなら、僕が身代わりになったほうがはるかにましだ」

「残念だねえ。そこまで尽くしても、坂木の一番は、私だから」

 顔を上げると、いつになく慎ましい表情の呉碧が距離を詰めていた。背伸びをした呉碧は、僕の胸倉を掴んだ。そして、いつかのように唇を重ねた。

 何のキスだ。

 困惑していると、呉碧はバランスを崩した。恋人のピンチを察した坂木君は走り寄り、呉碧の身体を支えた。

「大丈夫。呉さん」

「ううん。やっぱり、ヒールのある靴を履いてこないと駄目みたい」

 至極、どうでもいい。呉碧は、坂木君の腕の中から僕を見上げる。

「これは、誓いのキスだよ」

「相手、間違ってないか」

 ふう。呉碧は、溜息を吐く。いやいや。

「だから、坂木君の先妻と後妻の誓いのキスだよ」

「意味不明」

 頭を抱えて、溜息を吐く。そんな僕を見て、呉碧は、笑った。

「坂木君を幸せに出来る子同盟」

 涙がこみ上げてくる。呉碧と、坂木君を交互に見る。

「ふふっ」

 僕は、笑った。

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