☆第54話 真実

 小夜子の病室へと向かう若菜の横を、小夜子はとぼとぼと力無く歩く。


 病室へと続く病院の廊下は、人気が無くシンとしていた。殺風景な白い廊下に、二人の足音だけが響き渡る。

 前に河川敷で並んで歩いていた時よりもずっと遅いスピードで、若菜と小夜子は無言で長い廊下を歩いていた。


 先程涙を拭って、ぐしゃぐしゃに丸まったハンカチを力一杯握りしめると、小夜子は意を決し、若菜の方を見上げた。

 すると、掠れた声で小夜子は若菜にこう尋ねた。


「……若菜先生」

「……なんだ、立花」

「……とーさん、どこか身体の具合が悪いんですか?」


 震える声でそう呟いた小夜子の顔を若菜は見つめる。


 目は真っ赤に腫れ、顔は真っ青になり、唇から血の気が引いた小夜子の身体は小刻みに震えていた。


 その様子からこの小さな少女が、自分の父を心底心配していることを、若菜は感じ取った。


 そんな小夜子の自分の父に向ける真摯な姿に対して、若菜はこの少女には、嘘偽りなく真実を告げようと、そう心に決めた。


 少し時間をかけて、言葉を選んでから、若菜は重たい口をゆっくりと開いた。


「……立花と父は、本当に仲が良いんだな」


 そう言うと若菜は腰を屈めて、小夜子の背の高さに自分の背の高さを合わせた。そして若菜は長身の身体を小さく折り曲げると、小夜子の真っ赤に腫れあがった瞼の下の、大きな黒い瞳を覗き込んだ。


「……いずれ立花の耳にも入るだろうから、今、伝えておこう。……父は癌なんだ。それも末期のな。もう全身に癌が転移している」


 若菜のその言葉に小夜子は言葉を失う。しっかりと目を開いているはずなのに、目の前が真っ暗になる。これは悪い夢なのではないかと、小夜子は思った。


「……父は昔から仕事一筋で滅多に病院に行かない人でな。去年の暮れに倒れた時に、病院で検査を受けて、初めて癌だと分かったんだ」


「……かなりしんどかったはずなのに、全然そんな素振りを見せない人でな。周囲の皆が気付いた時にはもうすでに手遅れだった」と語る若菜に、小夜子が縋るような目をする。


「で、でも、さっき、あんなに元気に話して……」


 そう言って小夜子が下を向く。

 すると小夜子の言いたいことを察した若菜が、無情にもこう言った。


「主治医が言うには、もういつ父に、終わりが来てもおかしくはないらしい。……今、父が存在しているのは、彼が強い精神力で身体を保っているからなのだと。以前主治医から、そう説明を受けた」


 その若菜の言葉に小夜子は思わず泣き叫びそうになるのを、ぐっと堪えた。


 ぐしょぐしょに濡れたハンカチを握る手により一層力を込めると、小夜子は若菜に向き合ってこう言った。


「……とーさんを助ける手立ては、もう無いんですか?」


 祈りにも似た小夜子の言葉に、若菜はどう答えようかと思案する。だが都合の良い大人の嘘に惑わされるほど、小夜子が子供でないことを若菜は知っていた。

 だから若菜は言葉を飾ることはせずに、本当のことを小夜子に告げた。


「……今の医学では無理だ。父はもう助からないだろう。きっと近いうちにその日が訪れるだろう。……そのことを本人が一番よく自覚しているはずだ」


 そう若菜が告げると、小夜子はまたきびすを切ったかの様に泣き出した。我慢すればしようとする程、涙が溢れてくる。

 そんな小夜子に若菜は黙って隣に寄り添った。


「わ、私、何も知らなくて。私が無理をさせたから、き、きっと、とーさんが倒れてっ!」

「立花、それは違う」


 午後の冬四郎とのやり取りを振り返って、後悔の念に駆られた小夜子を若菜が諭す。

 そして下を向く小夜子の顔を、若菜は自身の両の手で包み込んで、自分の方に向ける。そして小夜子の瞳をしっかりと見つめて、若菜はこう言った。


「父が倒れたのは立花のせいではない。倒れたのは病魔が原因だ。そこを履き違えてはいけない」


「分かるな?」と言うと、若菜は小夜子を包みこんでいた両の手に少し力を込めた。


 そして小夜子の頬から自身の左手を外すと、小夜子の持っていた黄色いハンカチを、ゆっくりと自身の手に握り締めた。


 そして若菜は幾筋も頬を伝う小夜子の温かい涙を、そのハンカチで優しく拭ってやった。


「だからもうそんなに、自分自身のことを責めるな」


 いつも以上に真剣な表情をする若菜に、小夜子は泣くのを止めて、こくりと首を縦に一度振った。


 その小夜子の態度に少し安堵した若菜は、「もう少しで病室だ。立花、今日はゆっくり休むんだぞ」と言って、小夜子と一緒に残りの道のりを歩いて行った。

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