シュンメトリア

@watakasann

第1話 雪を待つ街


 一月の終わり、真昼なのに夕暮れを思わせる暗さと寒さは、灰色の雲が今はじっと耐えて、純白の雪を生む準備をしているようであった。


「やっぱり東京も寒くなっているよね」

「まあ俺たちの住んでいるところよりは北だから」

「良かった、世界中の雪の精のおかげよ」

「お前もしつこいなあ」


 池袋駅から出てすぐにある横断歩道で、マスクをした熟年のカップルの、明るく大きめの声が聞こえた。人混みに慣れた都会の人々はその会話を聞くともなしに聞き、勘の良い人は、二人は夫婦で、きっと息子や孫達に会うために久々に上京してきたのだろうと予想した。

そして、それはその通りだった。

だが一瞬横を通り過ぎただけでは分からないだろうが、実は男、つまり夫の方は、妻に対して少し睨み付ける様な表情をしていた。もちろん妻もわかってはいたが、ここが長くカメラとマンガの街であることに、甘えているような、感謝をしているような自分の言動に、綱渡りのような楽しみを得ていた。

つまり、夫の不機嫌は前者が癒やし、通行人が雪の精と耳にしたところで、後者のマンガかアニメの事だろうと聞き流すと思ったのだ。  


「池袋は良い街ね」


妻の言葉に夫は答えず、ただ足を進めた。

 

 令和も三十年を過ぎたが、多くの人はマスク生活を続け、特に冬はほとんどの人がそうしている。コロナウイルスは形を変え、病状を変え、「永遠のおっかけっこ」のような膠着状態となってしまった。だが一方で、懸念されていた地球温暖化は急速に軽減された。各国がこぞって対策を実行したからだ。日本的に言えば、気温は昭和の終わり頃に戻っている。これが「氷河期のまえぶれ」という意見もあるにせよ、たった一種の生き物が起こしてしまったこの地球規模の問題は、改善されればされるほど、動植物に多大な影響を与えていたことを人間は痛感し、反省したのであった。


「おい! こっち!! ぼーっとするなよ、はぐれるぞ」


夫の言葉に妻は笑った。彼女は東京の大学だったため、大都会が苦手なのは彼の方であるからだ。


「先に中古カメラ店を見るんじゃなかったの? 」

「東京だったら新発売のものも展示してあるから、大きな販売店に行きたいんだ」


さっきのちょっぴり険悪なムードはどこへ行ったのか、妻は離れた夫の方に向かった。が、どうも目線が自分ではない、もっと先を見ている。


「ほらほら、罰が当たった・・・罰じゃないか。

とにかくお前の考えは間違っていたって事だ、まあ当たり前だが」

妻に言ってはいるようだが、遠くを見つめて、軽く手まで挙げて微笑んでいる。

「知り合い? 」


東京に知り合いがいない訳ではないが、この人の中だ、それに

夫の言葉は何なのだろうと、彼女も同じ方を向いた。

 

 

 三人組だった。若い男女、その間に小さな二、三歳の男の子。みんなマスクをしているが、男性だけはそれを顎にずらし、満面の笑みで夫婦の方にやってくる。


「ああ、良かった、息子さん可愛いな。お母さん似かな、ハハハ」

「そうね、それこそ本当の妖精みたい」


顔立ちの美しさがすぐにわかる幼子。そしてその子が「あれは誰」と聞き、答えているであろう女性の横顔は、いかにも美しく、マスクでは隠せない瞳は、やさしく慈愛に満ちていた。

 夫婦は男性、つまり若い父親とはとても親しくしていたが、母親である女性とはたった一度しか会ったことはなかった。そしてそれは二人の子の生まれる前の話であるから、その時の彼女は、恋をしている若い女性の一人であった。だが今見ているのはまさに子供に愛情を注ぐ「母」である。その姿に、長年連れそった夫婦は同じ事を呟いた。


「ミケランジェロだ・・・・・」

「ピエタ・・・」


東洋人なのに、大理石を思わせるような彼女の肌の白さは、世界一美しいとまで賞される彫刻そのものだった。


「聖母マリアが若すぎる」「悲しみの姿ではない」


発表当初から言われている、謎を含んだあの大作は、もしかしたら、大なり小なり、世界中の母親が持っている、美しい母性の一面を切り取ったのではと二人は改めて思った。

だが夫は、その「美」とは全く似つかわしくない事をすぐに口にした。


「お前、彼らと会ったこと、探偵一家に絶対に言うなよ! 」

「言わない。あの可愛い坊やをちょっとでも悲しませるようなことをするわけないでしょ。私だって一応母親だったんだから」


 妻の方はそう言いながら、徐々に近づいてくる彼女に緊張を覚えた。

きっと道行く人が振り返り、立ち止まるまでの絶世の美女。知っているのは、この万の人の中で、自分達と夫である彼三人だけということに、体験したことのない不思議な、どこか危険も含んだ感情を抱いていた。


一方、美女のマスクは、口角を上げた事によって、ほんの少し動いたように見えた。

そしてこのわずかな仕草が、男の子の年齢プラス二年弱前におこった一連の出来事を、思い出すには十分なスイッチであった。


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